第3話 Emperor 指揮う者

      1


「弾けなくなったことくらい、俺だってあった」ともる様が言う。

 嘘だろう。そうやって俺を無理矢理引き戻そうと。

 ピアニスト。望んでなったわけじゃない。

 父さんの陰謀。そうじゃなきゃ説明つかない。

 黙ってたらドアが開いて、閉まった。ちーろさんが気を利かせて外に出てくれたのだ。

 それに引き換え、ともる様はずかずかと。やめて欲しい。辞めたいってゆってるんだから、それでいいじゃないか。困るのはカネ儲けできる手段が減った父さんだけ。ともる様のライバルとかてきとーなこといわれてるけど、絶対にそんなんじゃ。足元にも及ばない。同じステージに立つなんておこがましい。

「昔の話だから、違ってるかもしれない」ともる様が言う。

 急に、なんだろう。昔の話って、俺と出会ったのは小四のときだからそれよりもっと前かな。

 ダメだダメだ。気になっちゃそっちの思う壺。

 でも、俺と会う前ってことなら、ちーろさんと会った頃かもしれない。

 気になる。ああ、でも。

「聞いたら、弾けってことですか」

「そうじゃない」ともる様が言う。「実はよく思い出せないんだ。だからあんまり話したくない」

 わかった。嘘ついてるみたいで気が引けるのだ。

 なんて正直者な。

「俺の家。いま住んでるとこ、引っ越したの知ってるか」

 知らない。

 え、引越し?

「引っ越したんだよ」ともる様が言う。「それもよく思い出せない。でも引っ越したってのは憶えてる。いまの家、ピアノ専用の部屋がないだろ。前のとこはあったんだ。離れにな。ピアノ弾くためだけの部屋が。だからいまのとこは違う。そんな程度の記憶だ」

 ピアノ専用の部屋。俺の実家にはある。

 厭な部屋。

「お父さんの店、埼玉にあるだろ。おかしいと思わないか」

 なんで。

「俺の家、昔そこにあった。らしい」

 そんなの、初耳。

 らしい。てのがともる様らしい。

「火事で燃えたんだと。その、離れが」ともる様が言う。「ピアノも一緒に。放火かもしれないし、違うかもしれない。わからないんだ。わからなかった」

 主語は誰だろう。

 ともる様? ケーサツ?

「ピアノから出火、だったかもしれない。そうだ、そう。やけにピアノが燃えてて。ピアノに火をつけたとかなんとか」

 ともる様にしては曖昧。ホントに憶えてないんだ。

 珍しい。俺が忘れたこともともる様はちゃんと憶えてる。俺が知らないことまできっちり。

 それなのに、変。

「俺の最初のピアノの先生、知らないだろ。お前と会ったときにお世話になってた先生は二人目。最初の先生はすごく厳しい人で。一音しくじっただけでも指を叩かれた。間違えるたびに指が腫れる。レッスンが終わる時刻にはいつも真っ赤になってた。先生は火事のあった日から来なくなった。来る必要がなくなったから来なくなっただけだが」

 来る必要がなくなった? 

 え、あ、そっか。

「ピアノがなくなったから」

「違う」ともる様が言う。「俺が弾かなくなったからだ。まったく、不必要なことだけ喋る」

 しまった。両手で口を隠す。もう遅い。

 怒られる。

「まあいい。そんな話をしてるんじゃないんだ。俺が弾けなくなったのは、ピアノが燃えてなくなったからじゃない、と思ってる。あのときはショックで何も考えられなかったが、いまんなって急に。完全に思い出したってわけじゃない。おぼろげに、なんとなく」

 聞くべきでない単語が。

 おぼろげ?なんとなく? 

 やっぱ嘘を気にしてる。嘘かどうかなんて俺にわかるわけないのに。

「ピアノが燃えた日、俺は見てたらしい。燃えてるとこを」ともる様が言う。「言っとくが俺が燃やしたわけじゃない。それは確かだ。俺にはピアノを燃やす理由はないし、むしろ燃えたら困る。弾けないからな。だから、それだけは信じてほしい。俺じゃない。勝手に燃えたか、誰かがつけたか。そのどっちかだと思う」

 わかってる。そんなの当たり前。

 俺だったら燃やしちゃうかもしれないけど。そんな度胸も勇気もないからこうやってささやかな抵抗をしてるんだと思うけど。

「先生がいたんだよ。レッスンの日だからなにもおかしくない。そこからがぐちゃぐちゃしててすっきりしないんだが、とにかく先生が来てて、俺もそこにいた。ピアノのある離れに。で、先生が」

 手招きの逆。

 あっち行け、てこと?

「でもレッスンの時間だからおかしい。俺はそう言ったんだと思う。いまの俺じゃなくてもそうしてる。したら先生は、ピアノになんか撒いて、ライタを出した。で、気づいたら俺は離れが燃えてくのを見てた」

 え、それって。

「先生が」

「わからないって言ってるだろ」ともる様が言う。「憶えてないんだ。ちーろにも話したが、もし万一先生がやったとするなら捕まってるはずだ。それに、なんで先生が俺のピアノ燃やす必要があるのかわからない。俺に怨みがあったら俺を殺せばいい。俺の先生を辞めたかったら雇い主に言えばいい。所詮契約関係だ。どちらかが厭になれば方向性を変えなきゃいけなくなくなる」

「あ、あの、お父さんは」

「何も聞いてなかったそうだ。まあ、そもそも放任だから。俺の好きなようにやらせてくれてたし、俺がピアノをやりたいと言ったから先生を探してきてくれた。ピアノが燃えたあとも、どうするのか先生と相談しようと思ったが連絡がつかない。それも含めて警察に話したらしいが、結局先生は見つからなかった」

 フツー、いなくなった人が一番怪しいんじゃ。

 火をつけたから捕まりたくなくて逃げたってのが。行方不明。

「ともる様はどう思うんですか」

 視線が逸れる。

 ともる様がそれをするってことは、なにか都合の悪いとき。

「俺、嘘とかぜんぜん気にしてませんから。あ、でも言いたくないんだったら」

 無理に。俺だって言いたくないことはたくさんある。ピアノ弾きたくない理由だって。そんなものあれば、の話だけど。自分でもよくわかってない。

 あるのかな。

「そうじゃない。お前に聞いてもらおうと思って話してる。だから余計な心配はするな。厭になったら帰ればいい。引き止めて悪かった。もう着いてるのに」

 実家の門の前。出迎えのトルコさんがお茶でも飲んで休んでいかないか、と勧めてるけど、ちーろさんは小さく首を振る。トルコさんが強引すぎるからいけないんだろうに。

 それにその格好。ちーろさん、眼の遣り場に困ってる。俺も困る。

「中で話しませんか? 長くなるんなら」

「いや、もう行く」ともる様が言う。「最後に一個だけ。これを言いたかったんだ。右柳の意見を聞いてみたかった。先生は俺にあっちに行ってろと追い払うときに、なんか言った気がするんだ。それを、つい昨日思い出した。弾きたいなら黙ってろ」

 弾きたいなら黙ってろ? 

 え、いまの俺に言ったんじゃないよね。

 先生がともる様を追い払うために言ったセリフ?にしては。

「どうゆう」

「わからない」ともる様が首を振る。「ピアノを弾きたいのなら黙っていろってことなんだろうが、何を黙ってればいいのかわからない。何だと思う?」

「そんなの」

 わかるわけない。俺はともる様じゃないし、その頃ともる様と俺は出会ってない。ちーろさんとは。

 そうだ。ちーろさんと出会ったのは。

「俺がピアノ弾けないで押し黙ってたもんだから、お父さんが店に連れてってくれてな。実はそのときが初めてだった。俺は一度もお父さんの店に行ったことなかったんだよ。単に俺が興味がなかっただけなんだが」

 ピアノ。ともる様の唯一絶対の関心事。それ以外はどうだっていいんだろう。

「で、ちーろがいた」


      2


 早志ハヤシひゆめがいた。

 そうセッティングさせたので当たり前。防音設備。カメラも盗聴器の類も一切ない。意味のあるようなないような電話が壁に。ケータイが圏外なのでもしものときのため。或いは鬼立とのつながり。受話器外しておくか。

 国家の犬に執拗になじられてさぞ衰弱してるかと思ったがまったくそんなことはない。表情も眼つきも異常なくらい落ち着いている。長い髪や身体から有機物特有のにおいがしないのが逆に気味が悪い。

 藍の和服。両手を後ろで、両脚を椅子に固定されている。

 なんて、話しかけたら。

「お待ちしておりました」

 ろなしあ? 近いのはそいつだが、愛想がない。

 ろなしあは高いころころとした声で丁寧に話す。笑顔付で。ちがう。

 ろなしあは死んだ。

「ろなしあさまから伝言です。一緒にお食事できす残念です」

 どうせ毒入り。

「ふつちさまから伝言です。もっとたくさん野球したかった」

 どうせ球拾い。

「そあんさまから伝言です。もっと遊んであげたかった」

 どうせいじめ。

「いくるさまから伝言です。もっといっぱい食べたかった」

 どうせ血みどろ。

「なぼのさまから伝言です。もっと愛し合いたかった」

 どうせ性行為。

「最後にしはさまから伝言です。私の大事なあひるを殺しやがって」

「勝手に飛び降りたんだ」

「ならば、伝えておきます」

 忘れてた。早志ひゆめ。こいつの名前は。

「ハリさまにすべて伺いました」

「ハリが」

 いるのか。そこに。

「いません。わたしがこうして捕まったのはあなたに会うため。えんでさまは先生に忘れられたショックでわたしから抜け落ちてしまいました。そして別の方に乗り移り、名前を変えて存在しています」

 亜州甫アスウラかなま。

「で、俺に何をしろと」

「えんでさまがショックを受けたのはあなたに忘れられたからでもあるのです。思い出してあげてください。えんでさまがあなたをどれほど頼りにしていたか」

「そいつを思い出すと俺にどんな利点がある?」

「えんでさまが幸せになれます」

 亜州甫かなまがやけに若いとは思ったが、永片エイヘンえんでがショック受けたってのは想像もしなかった。打たれ強い奴だからちょっとやそっとじゃ揺らがないと。

「ハリはいないんだな」

「えんでさまがいなくなってから、わたしがその穴を埋めるために試行錯誤していた時期にわたしを助けてくれました。いままで何があったのか、それを踏まえ早志ひゆめがどうするべきか」

「でもいまはいない、と」

 早志ひゆめと一対一で会おうと思ったのは、ハリに逢えるかも、と期待したから。

 それが叶わないのならもう用はない。

「で、ハリはなんて」

「ちーろが助けてくれる」

 なるほど。それでむざむざ捕まったと。

「明日、あいつはなにすんだ」

「それは起こってからでないとわたしにも」

「お前の予想は」

「ハリさまは、破滅、と」

「もっとわかりやすく」

「えんでさまに関わったすべてのニンゲンが不幸になります」

「よけいわかりにくくなってねえか」

 不可能だ。早志ひゆめには想像が及ばない。

 ハリなら。ハリと話が出来れば。

 ハリがいれば。

「アトリエから出たってゆう死体は」

「えんでさまと先生のお子さんです」

「へえ、ホムンクルスじゃねえだろうな」

「先生も仰っておられました」

 同じ。あまりうれしくない。

 先生。そいつが諸悪の根源のような。

「いまいちよくわかんねえんだけど、鬼立の管轄に指置いてた奴は」

「えんでさまです」

 亜州甫かなま。予想どおり。

「俺に指送ってきた奴は」

「えんでさまです」

 亜州甫かなま。宛名どおり。

鬼立キリュウのとこに指送った奴は」

「えんでさまです」

 鬼立の彼女。指輪の名前どおり。

「お前は?」

「これ以上えんでを哀しませたくない。それがハリさまの最後の願い」

 答えになってない。

 早志ひゆめは何をしたのか。それを訊きたかったのだが。

「お願いできますか」

「具体的に言ってくれねえと」

「明日のリサイタルをやめさせてください」

「んなこと言われたって」

 ともる様が楽しみにしてたんだから。それに私も亜州甫かなまの演奏には興味が。

「えんでさまが幸せになれるのであれば、わたしはこのまま然るべき処罰を受けます」

「んなことどうにだってなんだよ。そうだった。すぐに出してやっから」

 首を振られる。

「お前がここにいるとよけいややこしくなんだよ。そろそろ手打たねえと庇えなくなる。罪被ったってお前やってねんだから調べりゃすぐ」

 駄目だ。いま気づく。

 早志ひゆめを釈放するということは、冤罪を晴らすということ。

 本当の犯人を。

 だから、お前。

「せめてリサイタルが中止されたのを見届けてからでも」

「いんや、ちょい待て」

 早志ひゆめを逃がすと亜州甫かなまに眼が向く。亜州甫かなまから注意を逸らすには。ここで早志ひゆめに。

 駄目だ駄目。両方を助けないと。

「悪いがもうしばらくいいか」

「そのつもりです」

 私は左手を差し出す。中指。

 早志ひゆめは見つめるだけ。知らないか。ハリじゃないし。

 ハリならやってくれるのに。口に。

 亜州甫かなまのリサイタル。

 右柳ゆーすけの父親の会社にケンカ売りたくはないのだが。ともる様を哀しませるのはもっとつらい。

 じゃあリサイタルは続行? 

 どうしよう。どうすれば。わからない。

 鬼立のしつこい追及を一切無視してメールを確認。あれを送ったのが本当に亜州甫かなまなら、意味がない。

 永片えんで。いまはその名じゃない。

 亜州甫かなま。では亜州甫かなまの以前の名は。

 先生。そいつがぜんぶ知ってる気がする。おぼろげな記憶を頼りに車を走らせる。

 あの日、鬼立の恋人が死んだ次の日。永片えんでに連れて行かれた住居。先生と僕の愛の巣。ぐるぐる狭い住宅地をあっちこっち回ってようやく。

 二階建ての一軒家。車がない。だろうな。金曜の午後じゃ世間一般は。

 もう一つ、思い出す。永片えんでが入院していた病院。先生はそこに勤めている。先生がいたから入院した。そうだった。それを先に思い出せばよかったものを。

 大学のすぐそばにあるのに大学と同じ名前が付いてない。あのときは特に気にしなかった。永片えんでに久しぶりに会えたのがうれしくて。

 だんだん思い出してきた。精神科だ。先生は精神科医。名前は。

 わからない。

 外来棟エントランス。ここに勤めるすべてのスタッフの名前が記されている。精神科医。わかるわけない。そもそも永片えんでは先生、としか呼んでいない。だいたいいまもここに勤めているかどうか。

 十二年前。いないだろう。独立していてもおかしくない。

 調べようにも、永片えんで自体を調べられないのだから。

「あれ? ちーろ、さん?」

 ビックリした。オレンジ色。

 なぜ右柳ミヤギゆーすけがここに。

 ともる様の付き添いを蹴って病院に? 風邪でも引いたのか。

 いや、それは亜州甫かなまの説。

 それにしてもいちいち視線の泳ぐ。

「ともる様、は?」

 ああそうか。単にともる様を探していただけ。

 私がいるならともる様も。ではなく、ともる様がいれば私も。が正しい。私は護衛。

「会場に」

「そ、そう」

 本当はもっと深いところまで訊きたいんだろうに。顔に出てる。必要も義務もない。

 でも私はもっと深いところまで訊いてやる。

「ゆーすけさまは、どうしてこちらに」

「あ、えっとね、友だちが急に体調崩しちゃって、そんで」

 付き添い。

 ともる様がドタキャンを許したわけだ。それも予想の範囲内。

「ゆーすけさまの高校はこの近くでしたね。よく利用されるんですか」

「え、ううん。友だちの主治医がね、ここにいて。だから俺は全然」

 主治医。内科、小児科。どこだろう。

 この病院は外科に、日本一と名高い名医がいると聞く。

 近隣の大学の学部構成は、医学部、薬学部、心理学部。

 やはりここは、名実ともに大学病院だろう。

「そのお友だちは大丈夫ですか」

「あ、はい。二、三日入院がいるそうで」

 それは大丈夫の領域なのか。

 曖昧だ。もう直接尋ねるか。

「ちーろさんは。あ、まさか、どこか具合でも」

「ともる様には黙っていてもらえますか」

 いい手を思いついた。これでかかってこなかったら別の方法。右柳ゆーすけ以外の。

「実は最近」

 右柳ゆーすけの視線が逸れる。私を見たくなくて逸らしたわけではなく、私以外に見るべきものができた結果、逸らした。

 視線を辿る。ソファ。患者。白衣。

 厭な、感覚。

「まだいらっしゃったんですか、はあ、いい加減お帰りになられては」

 わかった。というより気づかされた。向こうも感づいてる。

 永片えんでに関わったことのあるニンゲンとして共通するなにか。

 年齢の割に白髪が多い。精気でも吸い取られたか。

 先生とやら。

「私は帰るところです、もうすることもないのでね、ええ。お望みならね、その、送っていっても」

「結構です。歩いたほうが近いんで」

 あの優柔不断な右柳ゆーすけが突っぱねた。

「それはまあ、あなたがそう仰るのならね、無理にとは言いませんよ」

 知り合いなのか。仲が悪いというよりは、右柳ゆーすけのほうが一方的に嫌っている。

 先生は、私に軽くお辞儀して去っていく。

 のちほど。そうゆうメッセージ。

「どちらですか」知らないふり。

「いいんです。あんな人」

 これは相当。なんでも正直にべらべら喋ってくれる防衛の低い右柳ゆーすけにしては珍しい。

 おかげで確率が高くなる。

 あいつは、永片えんでの先生。決定。

 そうと決まれば。

「私はそろそろ」

「あ、さっきのは」

「やはりともる様に黙っているのは気が引けますので」

 関係のないお前に話すのはやめる。話すべきは先生。

 明日是非、と付け加えて別れる。

 ともる様のために。尾ける。までもない。

 先生とやらは、駐車場で待っていた。

 乗れ、ということらしいが。

「こっちも車だ」

「あとで取りに来られてはね、ええ、如何でしょうか」

「どこに行く?」

「私はただ家に帰るだけのことですよ、はい」

 なんという底意地の悪い。

 永片えんではこんなののどこに惚れたんだ。若い頃はカッコよかったのかもしれない。

「あなたのような人種とね、話すことは何もありませんけどね。一言だけ、ええ、云わせていただけるのなら」

 両手の包帯。左頬のガーゼ。

「お気の毒にね」先生が言う。

「あんたが治しとけばよかったんだ」

「ううむ、心外ですね。私はあんなのの主治医になった覚えは微塵も」

「結婚したのか」

「できますか?」

 無駄な質問だった。永片えんではそんなもの超越している。

 先生のほうはあんなのと結婚?冗談じゃない、みたいな口調だったが。

「子どもが見つかった。死体で」

「それはそれは。ええ、遣りきれませんね。痛ましい」

 助手席に乗る。ほかに聞かれるとややまずい。

 先生がキィを回そうとするから発進するな、と睨んだ。

「おお怖い。あなたまさか、ケーサツの方でしょうかね。私に尋問でも? 何も喋りませんよ。喋ることなんか、その、これっぽっちもね、ありませんし」

「フツーに喋れ。鬱陶しい」

「すみませんね、気を遣っていただいて」

 エンジン音。急発進。

 まずった。乗るんじゃなかった。駐車場なんか誰もいない。

 つい陣内ちひろが。私はケーサツでも探偵でもないというのに。

「あなた、エイヘンだかナガカタだかの一派か何かで」

「古い知り合い」

「お付き合いは」

「あんたこそ」

「離婚させられましてね」先生が言う。「怨んでいるんですよ。私の人生滅茶苦茶にしてった挙句、私の大事な恋人にまで」

「亜州甫かなま」

「よくおわかりで。お聞きになりましたか。亜州甫くんは私のものです」

 牽制か。別にとって食ったりしない。

「いや、風の噂でね、あなたが亜州甫くんといちゃいちゃしてたって聞いたものですから。将来を約束した者としては心配で心配で」

「結婚」

「しませんよ。私にはあの制度は馴染まない。一度やって懲りました」

 ルートが違う。自宅に向かってない。私が先生の家を知らないと思って好き勝手。これは疑いが晴れないと降ろしてもらえない。

 そんな噂誰が流したんだろう。本人か。

「えんでに子どもがいたんだと」

「想像妊娠でしょう」先生が言う。「少なくとも私の子じゃありません」

「証拠は」

「下世話な話で済みませんがちゃんと避妊してましたから」

「あんま当てになんねえな」

「そうでしょうか。しなくていい方はいいですね」

「どうゆう意味だ」

「おや、失言でしたね」

 どこまで知ってる。永片えんでが喋った? 

 先生が浮気してて構ってくれない。子どもができた、と腹を触らせてくれたときの哀しそうな顔。そのときから関係が。

 て、何年前だ。

 十二年。

 アトリエで発見された死体は、推定年齢十歳前後。おいおいおいおい。

「趣味悪ィ」

「あなたもそうは変わりませんよ。エイヘンだかナガカタだかと古く親交があるのなら想像に難くありませんが」

「明日」

「私が行かなくて誰が行きますか」先生が言う。「むしろ私だけが行けばいいと思っているくらいです。あなたも、いらっしゃるんでしょう」

「中止させろと云われてる」

「ケーサツのご意向? 迷惑な話ですね」

 駄目だ。防衛が高すぎて簡単に蹴破れない。絶対何か重要なことを知ってるはず。リサイタルを中止にしなくても済むような手掛かりが。

「なんだか拍子抜けですね。お話はそれだけですか」

「えんでが憎いんじゃねえのか」

「憎いですよ。ですから一切関わらない道を採っただけのことです。この方法が最も効果がある、と踏んだ上でですが」

 停車。無事に降ろさせてもらえるらしい。

 ここがどこなのわからないところが難点だが事故られなかっただけでもよしとする。

「どうか中止にしないでくださいね」先生が言う。「ケーサツは市民の味方だと信じてますのでね」

「えんでが消えたらあいつ死ぬぞ」

「私がいます」

「あんたじゃ」

 無理だ。亜州甫かなまはこいつをなんとも思ってない。


      3


 なんでちーろさんがいたんだろう。

 本格的にともる様置いてけぼり?

 それともリハの間だけ、てことで自由行動? 

 ならいいけど、壊れかけてるとかそんなんじゃなければ。

 先生が帰ったんじゃ、もう俺にできる事はなにも。むしろ先生がそばにいないほうが無事かも。とか、楽天的なこと。スガちゃん。せめてケータイをもたせとけばよかった。あの人不ケータイだから。


 悪魔くんは預かった。返してほしくば。


 メールをチェックして意識が飛びそうになる。

 亜州甫さん? アドレス教えた憶えはないから、きっとともる様経由。たまには平民の個人情報とか考慮してくれないもんか。とかなんとかやってる場合じゃない。

 預かった? しかも場所指定。ホテル。

 ホテルに連れてったってこと? 護衛がいないのとイイコトに、たぶらかして。

 まずい。俺が取り返さないと。

 案外近くのホテルだった。絶対に経費で落ちてるんだろうけど、使うべきところを間違ってる。

 ここ、一泊いくら? 

 フロントに名前を言ったら深々とお辞儀された。そんなこといいから、部屋番号。

 最上階のインペリアルスイート。

 いったい何をして。何もしてませんように。

 エレベータ降りたら、そのフロア丸々インペリアルスイート。笑えない。

 恐る恐る移動。亜州甫さーん、とか呼びつつ。

 オレンジの灯りが暗い。父さんはそうでもないんだろうけど。

 部屋数が多すぎる。

 水の音。まさか、いや、やめてそれだけは。

「いらっしゃい」

 手を洗ってる亜州甫さんと遭遇。

 手? 

 あ、よかった。

 でもともる様は? 

 まさかベッドのほうじゃ。でもベッドどこ?

「ホントに来てくれるなんてね。うーれしいな」亜州甫さんが言う。

「へ、あの、とも、る様は」

「いないよ。う、そ」

「ホントに? ほんとうのほんとうに、いない?」

「いないったら」亜州甫さんが言う。「悪魔くんはちーろに連れてかれておうちに帰っちゃったよ。つまんないー。から、天使くんを呼んだってわけ」

 騙された? 

 まんまと。やられた。

「帰ります」

「なんでー。せっかく来たんだからさあー」

 ともる様のことで頭がいっぱいで気にしてなかったけど、今日の格好も凄まじい。

 部屋着にしては過激。この格好でリハしたんじゃないよね。長袖なんだろうけど二の腕部分に布がない。下、履いてないかと思ってどきりと。隠れてただけ。ワイシャツの裾がサイドから後ろにかけて長くて。スカートが短すぎる。生足。直立以外の姿勢をとったら大変なことに。なる。

「あのですね、門限が」

「まだ夕方じゃーん。へーきへーき。なんならご飯食べてく? そーしよっか」

 そうしない。したくない。でも亜州甫さんの強引さには。

 仕方ない。食事だけでも、と思ったのが運の尽き。そのままずるずると。コース料理なんか食べるから無駄に時間がとられる。門限過ぎると本当の本当に入れないからまずいんだけど。

「えっと、そろそろお暇を」

「ついでだからさ、泊まってこうよ。ね」

 なんのついで? 

 ワイン。勧められたけど断った。当然。俺、未成年だよ。

 亜州甫さんの眼がとろんとしてる。酔ってるんじゃ。

 まずい。手遅れになる前に。

 肩に。にゅうと腕が伸びて。

 後ろ。抱きつかれてる。

 離そうにもぐいぐい重心を。華奢な身体のどこにそんな力が。

「あの、ホントヤバいんで」

「なあにが? こーふんする?」

 しない。

 してない。断じてそれは。

「あのね、僕ね、天使くんに逢いたくってピアニストになったんだよ」

「はあ」

「やっと願いが叶った」

 指。さわられてる。

「これで弾くんだよね。聴きたいなあ。だめ?」

「知ってますよね」

「うん。でも僕にだけ聴かせてくれるならそれでいーよ。みんなの前で弾かなくたって。それが厭で辞めちゃったんでしょ。天使くんのパパはそーいってたよ」

 そうなんだろうか。父さんはそう思ってるんだ。

「ねえ、だめ? そっちにピアノあるんだ。ちょっとだけでいーから」

「それが目当てで呼んだんですか」

「あったりー。バレちゃった」

 弾けるだろうか。ブランク。じゃなくて、ピアノを弾けるだけの勇気が。

 勇気? 

 生温かい。ああ、まただ。

 今度は中指だけじゃないことがもうどうしようも。

「あした、来てくれるよね?」亜州甫さんが言う。

「たぶん」

「新曲聴いてくれた?」

「はあ、まあ」

 聞くと具合悪くなる曲。

「あれね、さいこー傑作なんだあ。天使くんと悪魔くんに聴いてもらえたらすっごくうれしい。だからね、あしたぜーったいに来てほしいんだ」

 頷けない。十本が唾液まみれなのもあるけど。現時点で確約は。

「僕、いますっごくしあわせ」

 んな、人の指しゃぶりながら云われても。こうゆうことはちーろさんとか結佐先生とかとやればいい。想像するのはおぞましいけど。しなきゃいいだけだけど。

 俺に会いたくてピアニストになった。

 てどうゆうことだろう。

「ねえ、彼女いるの?」

 そっちか。いやいや、まだ決まったわけでは。

「心配しないでね。僕はフリーだよ」亜州甫さんが言う。

「え」

「あー疑ってるなあ? ホントだって。仲いい人はいるけど仲良しなだけ」

 仲良し。これまた定義が曖昧なところを。それとも本気じゃないのか。

 ちーろさんとは遊びで、結佐先生は単なる片想いとか。

 うわあ、なんて魔性な。

「と、もる様には、その」

「だいじょーぶ。悪魔くんうぶだから、ゆっくり時間かけて仲良くなるよ」

「やめてください」

「ね、君は?」

「いませんよ」

「うっそだあ。モテそうじゃん」

「ぜんぜんないですから」

 帰りたい。でもまだれろれろ舐められてて。吸ってる。

「えっと、もうよろしいでしょうか」

「だーめ。泊まってって。約束してくれないとこのまま寝ちゃう」

 究極すぎる。朝までしゃぶりつくされるか、夜中べたべたするか。

 でももう門限には間に合わない。

 後者か。消去したら一個しか残らないなんて。

「わかりました」

「やったー。うっれしいな」

 ようやく解放。指が惨憺たる感じ。風呂にも入ってないのいふやけてる。

 手を洗ってたら、亜州甫さんがバスルームに。

 ちょ、まっ。

「なにしてんですか!?」

「なにって、おふろ。君も入る?」

 手も拭かずに逃げてきた。

 なんという恐ろしい。トラウマになったらどうするんだ。結佐先生のお世話になるんだろうか。

 いや、あの病院だけは。

 スガちゃん。なんとか主治医から外せないものか。

 疲れた。亜州甫さんの相手をするとどっと疲れる。眠い。でも寝たらもっとまずい。でも眠いし。

 うとうと。してたらホントに寝てた。眼がしばしばする。コンタクト出さずに眠っちゃった。どうしよう。洗浄液とかないし。ドライアイだし。

 て、なんだこれは。亜州甫さんが俺の上で寝てた。寝相が悪すぎる。

 じゃないか。何か意図があって俺の上を選んだんだろう。起きないようにそうっと退かす。

 バスローブ。見ないように見ないように。ほとんど着てる意味もないくらい肌蹴てる。直すよりも布団をかけたほうが早いし的確。

 よし、この隙に逃げてしま。

「どこいくの?」亜州甫さんが言う。

 起きてた。寝息立ててたのに。

 それすら嘘?

「約束破るの?」

「いや、その、コンタクトが」

「洗浄液? 僕の貸してあげる。ケースも予備があるよ」

「えっと、ソフトなんですけど」

「僕もそう。水道んとこね」

 はい解決。哀しすぎて涙も出ない。ケースは新品。

 間違えられるとまずいので、俺のをどこかほかに。

「隠さなくても盗らないよ」

「え、でもケース同じですし」

 亜州甫さんはどこからともなくマジックを出してきて、俺のにてんし、とひらがなで書いた。

「これでよし」

 いいのかなあ。根本的な解決にはなってないような。てゆう心配がそのまま実行される。

 次の日起きると亜州甫さんの姿はどこにもなく、てんしと書かれたケースだけからっぽだった。

 俺のつけてったの?


      4


 ともる様を迎えにホールに戻ったがスタッフに。

 亜州甫さんと帰りました。と言われる。

 亜州甫かなまと? そんな連絡。どこに行ったかは。

 さあ、私たちもそこまでは。

 電話をしてみるがつながらない。バッテリィが切れてる。可能性はともる様の性格上限りなく低い。リハの前に電源を切ってそのまま。とも考えづらい。

 とすると、最悪の。

 亜州甫かなまに攫われた。

 メール。あのアドレスに送ると届くだろうか。永片えんでには届いても亜州甫かなまには届かないかもしれない。意味がない。

 捜索願。いや、あんな国家権力の出先。当てにならないことくらい。ともる様のピアノを燃やした放火犯すら見つけられなかったではないか。永片えんで。これは相手が悪かっただろうが。

 右柳ゆーすけ。一日中病院でうろうろしていたらしいので、ともる様と会っていない。それでも何か手掛かりが。出ない。なんという役に立たない機器。もしまだ病院内にいるのなら電源を切っていてもおかしくないか。でも右柳ゆーすけだ。ともる様と違い、バッテリィ切れの可能性が異常に高い。使えない。

 もっと使えないのは私だ。

 ともる様を置き去りにして。手に入れられた情報は本当に僅か。永片えんでは要らない。亜州甫かなまが欲しい。充分気づけた範囲内。防衛の高い精神科医にしてやられた。落ち度が多すぎる。

 早志ひゆめ。あんたが一番私を揺らがせてる。昔のことを思い出させないでくれ。

 手ぶらでなんて帰れない。ともる様とともに帰宅するのが。

 鬼立からの着信がうるさい。こっちだって手一杯。

 龍華からも。お前の用事は事件と関係ないだろ。朝帰りなんかしてる場合じゃない。

 ともる様が居場所の連絡を出来ない理由。私に愛想を尽かして勝手に帰った。それが一番救いようがある。私がクビになろうが、ともる様の身の安全が守れるなら。お父上にその相談を持ちかけている。あり得ない話ではない。それで自分でお帰りに。

 一番救いようのない理由。亜州甫かなまによってすでに殺されている。殺害動機は前夜祭の締めくくり。もしくはその死体を祭り当日に使用。

 なにに。

 指。悪魔くん。指を欲する動機としては申し分ない。

 駄目だ。やめろ。想像力に殺される。

 他の理由。亜州甫かなまによって拘束状態にある。眠らされている。手が使えない状況。身体的な拘束。精神的な拘束。どちらもつらい。どちらも破滅。

 破滅。

 これが破滅? 

 ハリ。俺にどうしろと。ともる様を失ったら私は今度こそ。

 一番救いようのある理由に望みをかけて帰宅。日も暮れた。

 駐車場にもう一台車が。お父上の。

 なぜこのタイミングで。運が悪い。では済まされない。クビ。でも足りない。

 車から降りられない。叱責は怖くない。ともる様を見殺しにしてしまったかもしれない。思考が憑りつく。このまま死んでしまいたい。

 こんこんこん。ウィンドウを叩く姿。

「ちっとも玄関が開かないからどうしたのかと思ったよ。ともるはいるかい?」

 首を振る。

「一緒じゃないのか。弱ったな。これが思春期という」

「違います。申し訳ございません。私が、眼を離したばかりに」

 まともに顔が見れない。土下座をしても許されない。

「ともるの居場所がわからない。とそうゆうことかな」

 亜州甫かなまのところにいる。私が見つけられないだけで。

 お父上がケータイを耳に当てる。不可能だ。音声のみでは不確か。ともる様じゃない奴が応答したって聞き分けられるかどうか。

「困った。出ないみたいだ。まあとにかく中で話そうじゃないか。な」

 入れない。私にその資格は。

「若いからいいよ。私が困るんだ。夜は冷えるしね。店を休むわけに行かないんだ。わかってくれるかな」

 つくづく使えない。お父上のことをまったく考えていなかった。私より数億倍は心配のはず。大事な息子が行方不明。役立たずな護衛のおかげで。

「座れ。といってもちーろは座らないだろうから、そこでいいよ。疲れたら座ればいい」

 なんとお優しい。すべて私の過失なのに。

 あのときを思い出す。私を拾ってくださったときの。

 泣きそう。

「君の判断でいい。聞かせてくれ。私も一度懲りてるからね。ともるの大事なピアノを燃やした放火犯を捕まえられないどころか、その後の不手際や対応の劣悪さでピアノを弾けなくなるまでにともるを苦しめたあの無能な組織、ケーサツに依頼したほうがいいか。ともるの支えになってくれた、有能で心の優しいちーろに任せたほうがいいか」

 そんな言い方をされたら。もう。

「急かしてるようで悪いが、ともるの命に関わるかもしれない。どうなんだ」

「自信が」

 もしともる様が見つからなかったら。ともる様を見つけたときにもう手遅れだったら。そればかり浮かぶ。

 消えろ。ちがう。ともる様は生きてる。

 自信を持って言えない。

 壁のカレンダ。お父上が見遣る。

「明日はともるの楽しみにしていたコンサートだったかな、あるね。会場への送迎も君の仕事だ。大方ゆーすけ君も誘ったんだろう。強引なのは私に似たのかな。君をともるの護衛として雇ったのは、その、なんだ、ともるの話し相手が欲しかったんだよ。知ってのとおり私は店を経営している。母さんには母さんのやりたいことがある。幼い頃は姉たちが世話を焼いてくれたが、君に会わせたことがあったかな、わからないな、まあとにかくあの子らももう自分の道がある。子育ては丸投げだった。こんな私が言える義理じゃない。でもね、君しかいないんだ。頼めないかな」

 頷けない。どうすれば首を動かせるのかが思いつかない。

 お父上が私の手を取る。お父上には話した。知ってもらいたかった。

 私には、左手の中指がない。それを隠すために両手に包帯をしている。左頬のガーゼも同じ。火傷の痕を曝したくなくて。厭なら見なければいい。と包帯とガーゼを持ってきてくれたのは。

「ともるは君を頼りにしてる。道に迷ってるだけだよ。捜しに行ってあげてくれ」

 頭を下げる。やっとお父上の顔が見れた。

 怒っていない。哀しんでもいない。

 その信用を裏切りたくない。

 私は、こんなところで落胆している場合じゃない。

「お任せ下さい。必ず、ともる様をリサイタル会場にお送りいたします」

「ありがとう、ちーろ」

 破滅につながる想像は捨てろ。頭はもっと有益なことに使うべきだ。

 亜州甫かなまの住居。その次に先生の住居。でもなければホテル。リサイタルホールの近辺のすべて。宿泊料の高い部屋。所属が右柳ゆーすけの父親の会社。資金は潤沢。経費も然り。社長の変わり者好きは有名な話だ。亜州甫かなまなら社長のお気に入り三本指に軽く入るはず。

 鬼立に連絡。

 やっと、話せる。

「お前、いままで無視」鬼立が言う。

「緊急だ」

 会場。警備がてらそこで張れ。

「関係あるんだな」鬼立が言う。

 指置き去り。

「明日の十八時からそこでリサイタルがある。スタッフ、客等々それ以外の無関係の奴は入れるな。あと」

 亜州甫かなま。

「見張りを付けたほうがいい」

「付けろ、じゃないのか」鬼立が言う。

「なんもしてねえ奴捕まえんのかケーサツってのは」

「恐れがあるなら別だ」

 任意同行。事情聴取。

 駄目だ。そんなことをしたら奴の思う壺。

 永片えんで。鬼立はそいつの怖さを知らない。追い詰められれば追い詰められるほど奴は実力を発揮する。比較級数的に強烈過激に。

「限りなく真っ白の奴どーやって吐かせる気だ」

「じゃあどいつが。早志ひゆめは」鬼立が言う。

「そいつも白だ。残念だったな」

「おい、わかるように」

「十二年前」

 沈黙。肯定の合図。

「彼女が黒だよ」

「根拠は」鬼立が言う。

「俺が言ってる」

 鬼立を苦しめる気はない。

 むしろ解放したい。そろそろ気づかせる。

「狙いは」鬼立が言う。

「お前じゃねえから安心しろ。俺だ」

 と、もうひとり。

 先生。

 そいつをどう説得するかのほうが問題だが。

「終わらせてえんだろ」

「説明はあるんだろうな」鬼立が言う。「なかったらこっちで勝手にもっともらしい理由付けて」

「記録やら報道やらはそっちのほうがいい。俺のゆうとおりにしてくれたら、お前にだけ話してもいい」

「信用できないな。肝心なときに毎度トンズラされてたこっちとしては」

「んじゃ龍華にすっぞ」

「そうだ。お前ら知り合いなのか。昨日だって」

「そいつも含めて。どうだ? 面白そうじゃねえ? 人事考え直すきっかけになるかもしんねえし」

 鬼立は悩んでいる。

 正直に言えばいい。正義に反する、と。

「頼んだぞ」

「ったく、命令の間違いだろ」鬼立が言う。

「命令じゃ逆らう奴がいんだよ。どっかの銀縁メガネとかな」

 鬼立のイライラ音が聞こえる前に切る。

 本当に面白い。さて、次は。

「僕には命令でいいですからね」龍華タチハナが言う。

 やっぱり聞いてやがった。

 鬼立のケータイはこいつには筒抜け。可哀相に。

「調べてほしいもんが」

「ご心配なく。もうやってますよ。僕の予想というか推理。探偵さんに聞いてもらおうと思って」

「探偵じゃない。いい加減」

「はいはい。そのうちにね。で、場所ですがおそらくホテルでしょう。僕ならリサイタル会場から近くもなく遠くもなくってとこにしますね。その上で我らがボスの管轄からは外れる。と、いまのを踏まえると」

 キーボードを叩く音。なんとも手際のいい。

「神奈川」龍華が言う。

「合ってる気がして厭なんだが」

「まだまだこれからですよ。神奈川たって広い。僕だったら、て考えちゃうところが自分でもまずいとも思うんですけど、血筋ですからね。ある程度は共通するかと。で、そんな犯罪体質の僕からすれば」

 地名。右柳ゆーすけの高校近辺。

「心に当たります?」龍華が言う。

「任せる」

「仰せの通りに。借りの分、しっかりやらせていただきますよ」

 作っといてよかった。部下の視点で鬼立の無能っぷりを観察したその報告を聞くのが主だったのだが。

 まあ、流れ。

 先生。は明日でも間に合うとして。

 溜息。

 これは私にしかできない。なまじ権力があったりカネがあったりすると厄介なことになる。なにもない。俺に向いてる。亜州甫かなまの所属。ともる様もお世話になってる。

 右柳ゆーすけの父親。社長に。

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