第2話 Doctor 指輪すもの
1
切ないくらい眠い。CDのせいとも言い切れないところがさらにヤバイ。一周目で眠った可能性が高い。二枚組の一枚目で。
深夜に眼が醒めた。二時か三時。物音。というより人の声。
寮は二人部屋だけど、共同スペースの奥が二つに分かれてるので、プライヴェイトは守られる。
人の声は隣から。鍵はかかってなかった。少しだけ開ける。
うつ伏せ。床に、倒れて。抱き起こそうかと思ったけど動かすとまずいのかもしれないし。
苦しそう。呼吸のインターバルが短い。
ひどい汗。熱? はなさそうだけど、どうしよう。スガちゃんに病気があるのは知ってたけど、実際に見るのは。そうだ。遅い。さっさと思い出せよ莫迦。
僕がおかしくなったら、ここに連絡してくれるとうれしい。
部屋に戻る。どこだどこ。机の上。あった。ケータイ。手が滑る。指が震える。大丈夫。だいじょうぶ。
スガちゃんは俺が助ける。
「あの、夜分遅くすみません。僕は」
自己紹介なんて時間が惜しい。でも信じてもらうには。話聞いてもらうには。
「はあ、そうですか。それはまあ、ご苦労さまで、ええ」
「僕はどうすれば」
「そうですねえ、どうしましょうかね」
「どうしましょうって、そんな」
たぶんスガちゃんの主治医だ。名前も登録されてた。
「意識はありますかね、その」
「返事しないんです」
「それならね、意識が戻るまで、えっと、そばにいてあげてくださいね、はい。それじゃあこの辺で」
「え、ちょっと」
切られた。もう一回掛ける。
「なんなんでしょうかねえまったく、こっちは仮眠中を叩き起こされて」
「仮眠とかそんな暢気なこと言ってる場合じゃないんですよ。スガちゃんが心配じゃないんですか。あんた主治医なんでしょう?」
怒鳴ってしまった。この先生はいい加減すぎる。
あんなに苦しそうなのに意識が戻るまでそばにいろ?仮眠中叩き起こされた? てきとーにもほどが。
「ゆーすけ君とかいいましたかね、あなた。えとり君から聞いてますよ、いろいろとね。心配じゃないわけないでしょう。心配ですよ。でも緊急を要するようには聞こえない。主治医の私の判断に、なにか文句でも」
「本当にそばにいれば治るんですか?」
「治りませんよ。詳しいことを伺ってないようなので私もあまり申し上げられませんが、彼の病気は治りません。薬を飲んでるでしょう。確認してきてくれませんかね。きっと減っていない。まあ、そうゆうことです」
保留にしたら切られそうだったので耳に当てたまま。
俺の部屋とえらく違う。整理整頓。用があってもなかなか入れてもらえないから何がどこにあるのかとか配置も何も全然わからないけど、薬がどこにあるのかは想像つく。俺は高一のときからずっとルームメイトしてる。来年度で三年目。クラスは違うけど生徒会のせいで一緒にいる機会はすごく多い。その俺が、一度もスガちゃんが薬飲んでるところ見たことないんだから。
あった。ゴミ箱。袋ごと捨ててある。未開封じゃない。袋の中に中身をぶちまけて。
「拒薬といいましてね、はあ、困りますよね。治療も何もあったものでは」
「だから放っとけってゆうんですか。あんたの言うこと聞かずに薬飲まない奴は苦しめばいいってことですか」
ひどい。そんなやぶ医者に。
「治らないんじゃなくて、あんたが診てるから治らないんじゃないんですか」
「落ち着いてくださいね。えとり君の発作を見るの初めてでしょう。確かにね、初めて見る人はビックリするんですよ、ええ。ですが、その、大概理由がありましてね。一言でいえばまあ」
さびょー? なにそれ。
「嘘の病気のことです。どこも悪くないのに、その、心配してほしいがために頭が痛いと言ってみる。お腹が痛いと訴える。丑三つ時に奇声を上げて息も絶え絶え汗だくで倒れてみる」
「嘘じゃありません。だってスガちゃんは」
「嘘かどうかどうやって見分けられますか、あなたに」
わかる。スガちゃんは嘘ついたことない。
「ずいぶんとまあ、遅くまで起きてますね。いつもこの時刻まで、ええ」
「たまたまです」
「たまたま。はあ、ならばそれを見越して、なるほど。あなたが起きているのを知った上で、その、倒れられたと」
「どうゆう意味ですか」
「えとり君の病気の特徴ですよ、はい。誰かに助けてもらえる見込みがあるところで倒れる。何故なのか、おわかりになりますかね。助けてもらえることが期待できなければえとり君の発作は起きないのですよ。ゆーすけ君という近しい友人が、その、たまたま、ええ、深夜まで起きていた。そこで」
「なんでそうなるんですか。理由なんかどうでもいいんです。早くスガちゃんを」
はああ、と大きな溜息。やる気があるのかこの医者は。
「実は私ねえ、いま病院にいないんですよ。まったくねえ、なんでこんな丑三つ時に出勤しなきゃあいけないんでしょうかね、ほんとうに」
高い声。近くに誰か。
そうか、自宅。配偶者か彼女か愛人か。
わかった。タイミングが悪かった。
「お察しの通り。はあ、お恥ずかしい。それとですね、失礼ですがあなたが信用に値するかどうか、測らせていただいていたのですよ。長々とすみませんね。お優しいあなたはさぞ怒り心頭もしますよねえ、その、こんなわからずや相手ではね。ははは、病院ならあなたのほうが近い。えとり君の汗でも拭いて、それからでも充分でしょう、はい。何一つ心配ありませんよ、私一応ね、医師免許もありますから」
心許ない証拠。医師免許って取ったら取りっぱなしで更新も何も要らなかったはず。どこまで本気なのかわからない。俺を試してたってのも嘘くさい。単に自分の都合じゃ。
二十分後に。てことになったけど、こんな時刻に外に出してもらえるのだろうか。やったことないけど。てゆうか、やろうとするツワモノがいるかどうかすらびみょーな。副会長権限でなんとかならないもんか。なんとかしよう。門限以降に外出。緊急の場合。生徒会で発行した手引きがこの辺に。
出れるよ。僕は出れる。
前にスガちゃんが言ってたこと。寮から出るのにも学園の敷地から出るのにも生徒証が要る。もちろん開いてる時間内に、てゆう条件付。でもスガちゃんはそんなの通用しない。スガちゃんのお兄さんだったかお父さんだったか、とにかく血のつながった人がここのお偉いさんらしくて。すんごいカードがある。マスタキィみたいな。
門から石畳が延びてて大通りにつながってる。たくさん着せといてよかった。かなり冷える。車が停まる。遅れたのか早かったのかはわからない。両手塞がってて。
白髪混じりの無精ひげでメガネをかけた猫背の人が降りてきて、スガちゃんを後部座席に乗せてくれる。白衣じゃなかった。
「お手数お掛けましたね、その、戻って構いませんよ、はい」
「明日お見舞いに行っても」
「そうですね、受け取りに来ていただけると、はあ、こちらとしましてもね」
スガちゃんのメガネを渡してその場は任せたけど、本当に大丈夫だろうか。なんか人道的にマズそうな実験してるヤバイ医者にまんまと友だちを引渡しちゃったような厭な。
気になって一睡も出来なかった。こんなことなら付き添えばよかった。でもあの医者、結佐先生は付いてくるな、みたいな顔で俺を見てたし。
て、俺もヤバイ。スガちゃんのお見舞いに行くってことはともる様との約束蹴るってことじゃ。胃が痛い。とにかく電話。しなきゃいけないんだけど。
あああ。
「も、しもし」
「なんだ」ともる様が言う。
なんだろう。なんて云えば。
「えっとですね、お、はようご、ざいま」
「だからなんだ」ともる様が言う。
「怒らないでくださいね」
「来れなくなったんだな」
そのとーり。よくぞおわかりで。
「理由を言え」
正直にゆった。嘘吐かなければ王様は許してくれるはず。
「わかった」
「明日は行かれるかと」
「必ずだぞ」
やってしまった。ともる様の声が落ち込んだっぽいのに引きずられて、つい希望的観測を。破らなければいいだけ。なんだけど、スガちゃんの容態によっては或いは。ううう。
病院と学園は眼と鼻の先だったりする。車なんか乗らなくても十分もあれば。先生が来るの待ってなくたって俺が担いでけばいいだけのことだったんだけど。
病院のにおいで気持ち悪くなってくる。予想はしてたけど、やっぱり個室。
スガちゃんは眠ってる。顔が蒼白い。嘘の病気。精神科。スガちゃんが何も言わないから俺も訊かないほうがいい。気になる。のかなあ。
先生が来た。やる気のなさそうな大あくびを見せ付けられる。
「隈。じゃないですかね、それ」
誰のせいで寝付けなかったと。身体中からいい加減てきとーオーラが滲み出て。白衣の着方もふざけてる。それ着てなかったらただの怪しいおっさんにしか。
「今日私ね、ここ来る予定じゃなかったんですよ、はい。本当に手のかかる」
「大丈夫なんですか」
「大事をとって今日明日ってとこですかね、ええ。ですからね、その、お受け取りは」
無駄足だった。とでも?
座れと促される。
「ここ来るのですが、その、大変だったでしょう」
一般病棟じゃない。別の建物。受付で名前とか住所とか書かされて、証明書を見せろとまで。正真正銘スガちゃんの友だちだってことを確認するのにしばらく待たされて、人差し指に変なベルトをつけられた。指輪ってゆうより腕時計に似てる。時計の代わりにこれまた変な機械がついてて、エレベータもドアもそれを翳さないと開かない。受付の人が持ってるさらにわけのわからない機械がないと外せないし、勝手に外そうとすると指が落ちますよ、とか脅されてちょっとビクった。
いま気づく。先生はおんなじのしてない。
「私はね、ここに勤めてますのでね、指紋とか静脈とか声紋とかいろいろ面倒ですよ。そちらのほうが楽みたいでね、いいですね、ほんとうにね」
「内緒ってことですよね」
「お約束していただけるのならば、まあ、指は落ちなくて済みますかね」
「え、ホントに落ち」
「冗談に決まってるでしょう。そんな物騒な仕掛け、犯罪ですよ、はい」
変な顔、と思ったけどたぶんそれが先生の笑った顔。
しばらくは忘れられなさそうな強烈な。夢に出たら逃げられそうにない。
「嘘の病気、といったの憶えていらっしゃいますかね」先生が言う。「あれ、嘘です」
「え」
「ですから忘れていただけるとね、こちらも気が楽になるといいますか、はい」
もう厭だ。この人の言ったことはぜんぶ虚言。
そしてまたあの顔。見ないように見ないように。記憶に残らなければ夢にも出ない。
「実はね、えとり君の発作が起こるのにはなにか、その、トリガのようなものがあるみたいなんですよ、ええ。そこで昨夜同室にいらっしゃった、あなたに、何かお心当たりがないかなと思いましてね。ええっと、どうでしょう。思い当たったことがあれば何でも仰っていただければ」
「トリガって、引き鉄ってことですか」
「ええ、まあ、そのような感じですかね。きっかけとか、スイッチとか、いろいろ言い回しはありますが、そのね、えとり君がご自分でトリガ、と仰られるのでね、私もそれに倣って」
トリガ。言ってたかな。思い出せない。
「昨日に限ってそのね、特別なことをしたとか、ありましたら」
昨日。取り立てて変わったことはしてない。むしろ俺のほうが特別なことしたような気も。
三年ぶりにともる様が日本に帰ってきたり、亜州甫さんてゆう変人と強制デートさせられたり。
スガちゃんは昨日何してたんだろう。生徒会の仕事かな。来年度から三年生だし。二年連続で生徒会長だし。俺も二年連続で副会長だけど。
「特に」思いつかない。
「そうですか、はあ。まあ、そのうちにね、思い出すこともあるでしょう。そのときにはね、遠慮せずに連絡いただけると」
変わったこと。変わったこと。帰り道も寮に戻ってからもずっと考えてた。
再生ボタンを押して気づく。ともる様との約束。最低五回は。だいぶ無理です。BGMにするにも自己主張が強いし、それになにより不審な音が多くて。耳に慣れない。
そういえば、昨日これを聴いてたら音が漏れる、てゆってきたっけ。いつもはそんなこと言わないのに。大音量で聴いてても何も。何の曲?いい曲だね。僕にも貸してよ。とかのほうが。
まさか、亜州甫さんの突飛な曲で具合悪くなった?
いやいやまさかまさか。そんな末恐ろしい。
だって俺明日、それ聴きに行くんだよ。しかも生で。
2
はぐらかし。私の得意技。虚言。それも得意。だからときどき自分の本心がわからなくなる。そんなものが最初からないこともわかってる。余計に始末に負えない。
名前は聞いていた。二方面から厭というほど。向こうから電話を掛けてくるなんて思ってもみない。近々会える予定では会ったが、会ってどうするわけでもない。存在を肉眼で捉えたかった。捉えて、それで。満足はしない。そこから先はこれから思案。
明日の予定が潰れないように。最悪の結果を避けて予防線を張る。身体拘束か薬漬け。どちらかの方法でベッドに縛り付けよう。部屋に窓はない。彼がやりたがっている飛び降りさえ防止できればそれで。
この病棟の責任者が私になっているのが一番の障害。いま眼の前にいるこの厄介な患者が発作さえ起こさなければ。恋人との大切な時間を削られて。憎らしい。わけではない。この患者のお守りこそが、私の最優先かつ唯一の仕事。裏を返せば、この患者さえ死なないでいてくれれば、あとは野となれ山となれ。副作用だろうが再発だろうが知ったこっちゃない。死にたい奴は死ねばいい。
着信があったらしい。建物の外で電源を入れた。
知らない番号。履歴で確認。登録する必要がある。
右柳ゆーすけ。
「ああ、すみませんねえ、お電話いただいていたようで」
一瞬で切り替える。
こいつは大事な患者の友人。それだけ考えろ。
「思い当たったことがあって。CDなんですけど」
昨日に限って特別なこと。右柳ゆーすけが聴いていたCDの音が漏れる、と文句を言ってきたらしい。大音量で聴いていたらしいから、物怖じしない彼のことだ。不満箇所はすぐに訂正改善を求める。それの何に問題が。
「いや、そうなんですけど、いつもならどんなにでかい音で聴いててもそんなこと云ってきたことないし、大概は何の曲とか、いい曲だね、あとで僕にも貸してってゆってくるかのどれかなんですけど。とにかくおかしいんですよ」
話したいことをまとめてから順序立てて説明しろ。
確かに思い出したら遠慮せずに、とは云ったが、これではいくら我慢強い私でも。
「つまるところ、その、CDのせいではないかとそうゆうわけでしょうかね」
先を促さざるを得ない。相手に喋らせないでこちらのペースに持っていくのが私の話術なのに。
「音楽聴いて具合悪くなったりするんでしょうか」
知るか。とは云えないから。
「さあ、どうなんでしょうか。門外漢なものでね、むしろあなたのほうがお詳しいのではないかと、ええ」
「え、知って」
「云ったでしょう、えとり君から聞いていると。そうですねえ、私が聞いても参考にならないかもしれませんし、きっと何もわからないのが落ちでしょうが、念のため、その、お持ちいただければ」
「あの、貸すってことですか」
「なにか不都合な点がございましたなら、コピィでもね、はい、構いませんよ」
右柳ゆーすけは必ず約束に遅れる。患者からの情報。向こうが遅れてくるのなら私も遅れたっていいだろう。
一旦帰宅して昨日の続き。
満面の笑みで渡しに来てくれてから、何遍も何遍も繰り返し繰り返し聴いている。ちっとも厭きない。それどころか聴くたびに新しい発見があって愉しい。
明日はついに念願の晴れ舞台。この日を中心に前後誤差まで考えて休みを取ったというのに邪魔されてばかり。お騒がせヒステリィ患者も、眼障り耳障りな右柳ゆーすけも。
しかしそれらを凌ぐ強烈に邪魔な要因が最近巷を騒がせている。名前を出すのもうんざり。お前がいなくなって世界は平穏に保たれていたというのに。何故このタイミングで事件を起こす。私たちの幸せを妬んでいるに違いない。いまさら。何年経った。忘れた。ぜんぶ忘れている。
いま、リハーサル中だろうか。気紛れなところが玉に瑕だからスタッフを困らせていないといいが。無理か。
待ち合わせの時刻になってから出発。あちらのほうが遅い気がしてならない。私は真面目な医者だから昨夜からずっと病院にいることになっているので、落ち合う場所は勿論。
敷地内。頭の悪そうなオレンジが走ってくる。私より背が高いのが気に食わない。
「す、みません、ダビング時間かかって」
「いいえ、こちらこそね、その、お手間取らせて。どうも、ご苦労様です」
ディスク。わざわざCDに焼いたらしい。メモが入ってる。曲名とアーティスト。これを写していたから時間がかかったのでは。これこそコピィすれば済むまでの話。要領が悪すぎる。手際のいい彼がついつい手伝ってしまいたくなるのも頷ける。頷かないが。
見間違い? もう一度。
「な、なにかまずい感じ、で?」
はらわたが煮えくり返ってるのがよくわかる。やはり、こいつは早めに駆除しておくべきだった。
明日。再びこのオレンジを見て正気でいられる自信がない。
明日。絶対に誘っている。父親の会社の主催だ。只で入れる。楽屋まで顔パス。
社長令息。
どうにかして、来させなくする方法は。
「ええっと、このCDは、ご自分で、ええ」
「あ、いえ、知り合いから」
素直に言えないのか。
「お聴きになった感想、といいますか、はい、あなたがお聴きになった感じ。率直なところですね、その、なんといいますかね、ううむ、体調を崩されたりとかは」
「いえ、特になんとも。でもスガちゃんがこれ聴いて具合悪くなったかどうかは」
「先ほどはすみませんね。少しばかり、その、調べ物をしていまして、ええ。具合の悪くなる曲ですが、はあ、ないこともないようなんですよ、それが」
「え」
よしよし、ビビってる。眼球がひょこひょこ動いて。想像しろ。お前もああなりたくはないだろう。だから悪いことは言わない。
親切な精神科医からの忠告。明日は。
「詳しいところはですね、その手の、なんていいましたか、ええっと、厭ですね、歳をとると名詞が出てこなくていけません、ううむ、ああ、とにかく音を研究、ですか、そちらに回したほうが賢明な措置かと、はい、思われますがね」
「あ、伝とか」
「ありませんよ。ですが、まあ、予防できないこともないのでね、要は耳に入れなければいいわけなんですからね、人伝に感染しないだけでも、はい、たちがいいと」
困っている。眉を寄せて口が半開き。
そう難しく考えずとも答えは決まって。
「わかりました。極力控えてみます」
そうそう。案外物分りのいい。
「私も聴いてみないことにはね、なんとも言えませんが」
聴いて具合が悪くなるだと? 莫迦どもが。聴覚野が壊死してる。
右柳ゆーすけがへこへこと頭を下げて帰っていったあと、その場にディスクとメモを落として踏んづける。何度も何度も。こんなコピィ。何の価値もない。市販されたCDもそこで粉々になってるものと同等、それ以下。その場で演奏してもらったことがないからこんなデジタル信号。携帯できないから、所持できないから。むしゃくしゃする。とっとと消えろ。いなくなれ。あのとき治していればこんなに苦しむことも。自分罰ゲーム。ナガカタだったか、エイヘンだったか。
たかだか指を置いたくらいで、捕まるのかこの国は。
3
ビックリして帰ってきちゃったけど、スガちゃんが心配だ。
でももう一回あの変なSF指輪嵌められるのはもっと厭だし、かといって先生は拒絶的だし。スガちゃんの容態とかその他諸々をもう一度訊きなおそうと思って勇んで出掛けたってのに、亜州甫さんのCDがヤバそうだって聞いた途端このざま。情けない。申し訳ない。
ダイビングも曲名書くのもそんなに時間取られなかった。遅れたのは他の理由。
例によってともる様から電話。いま出ないと間に合わないのに、てタイミングでも電話に出なければあとでどんな恐ろしいことが待ち構えているかわかったもんじゃない。恐ろしいから考えないけど。
「ど、どうですか」
「どうってなんだ」ともる様が言う。「こっちは問題ない。お前の友だちは」
スガちゃんを心配してかけてくれた。とは思えないところが長い付き合いというかんなんというか。
なんだろ。たぶんそっちは挨拶代わり。
本題は別。
「大したことないっていうと語弊がありますけど、ええ、まあ、ほどほどに」
「ならいいが」ともる様が言う。
ほら、突っ込んで訊いてこない。かなり曖昧に返したのに。
「終わったんですか。えっと」
「いや。いまからでも来れないか」ともる様が言う。
それが本題? そんなにリハ見せたい?
「そっちが片付いてるなら、の話だが」
片付く片付かないの問題じゃないような。
スガちゃん。本当に平気なんだろうか。
どうもあの先生は信用できない。十回に十回は嘘吐いてる。嘘だらけ嘘まみれ。
「無理なのか」ともる様が言う。
「すみません。二、三日入院するそうで」
「そうか」
明日。断るならいま。
「来れないってことか」
断る。なんてゆって。ともる様はすごく楽しみにしてて。そのためだけにフランスからわざわざ帰ってきて。
俺を誘ったのだって、きっと。亜州甫さんのピアノを聴けば、俺のやる気とかリハビリとかになるんじゃないかと思って。ちょっと裏が見え見えだけど、見え見えなのが王様らしくて。
「ごめんなさい。せっかく」
チケットまでもらっといて。
「いい。無理矢理誘った俺も悪い」
「でも、あ、あの、寸前まで待ってもらえませんか。これからスガちゃ、えっと友だちのとこ行って様子見てきますから。そんで、よさそうだったら」
無理矢理誘った。のはいつものこと。
謝るなんて。らしくない。
「ダメですか」
「わかった。リミットは」
明日、十六時半。開場が十七時なのでホントぎりぎり。
時間に厳しいともる様がそんなに待ってくれるってことはやっぱり。
どうしてもなんとしても、俺を連れて行きたい。俺に聴かせたい。
あの不審な音を。
「友だち、よくなるといいな」ともる様が言う。
よくなります。よくならなかったら俺が赦さない。
即行戻って先生を捉まえる。外来棟に、ぽわぽわ欠伸しながら入ってくとこが見えた。
どうでもよさそうな気のない返事。
そんなことじゃ俺は屈しない。
「スガちゃんに会わせてください」
「会って、どうするおつもりでしょうかね、ええ。あなたに何が出来ますか」
「何が出来るとかじゃないんです。俺はただ話がしたくて」
「それは、ええっと、眠ってるところを叩き起こしてでも」
入り口で騒ぐな、とそうゆう眼。
場所を移す。しぶしぶ、て顔とか動作に滲み出てる。
エレベータで上へ。関係者以外の方はここから先はご遠慮下さい、と書かれたプレートが廊下の真ん中に立ってる。俺は部外者だけど、関係者と一緒だし。
薄暗い廊下。厭なにおい。病院のにおいよりもっと厭な。
気持ちが悪くなってくる。先生が全然平気なのがさらに厭だ。
「この先にね、あなたの疑問を一挙に解決してくださる、その、有り難いお方が控えていらっしゃる、はあ、お部屋がね」
まさか。俺にそこへ行って直談判してこいと。
「お察しの通りですよ。ははは、わからずやの私なんかよりもね、ずうっと」
院長室。じゃなかった。
突き当たりの脇の部屋。ごくフツーのなんてことないありがちなドアなところがさらに怖い。
なにが、いるんだろう。
「どうぞ。遠慮なさらずにね、はい」
「厭です」
「大切な友人のために振りかざした拳は、然るべきところへ向けるべきでは」
然るべきところ。
それはこっちじゃない。
「どうせ誰もいない」
「さあ、それは私が関与できませんし、ええ、ご自分の眼で」
「俺はあんたに話がある。こんなとこにいるわけのわからない責任者じゃなくて」
「えとり君とお話がしたい。それがあなたのいまの望みでしたね」
最初からそう云った。
「わかりました。電話をね、おつなぎしましょう。それで、怒りは治まりますかね」
「ホントにスガちゃんが出るんなら」
「私が代わりに出るとでも? 面白いことを考えますね、ええ、あなたは」
また、あの笑い。見なかった。俺は見てない。
受付の人にちろちろ睨まれながら、あのSF建物のロビィで待つことになった。電話が信用できないと言い張ったら、条件を出してきた。
もしこれから先生がスガちゃんのところに行って、スガちゃんが起きてたら連れてくる。でももし起きてなかったら、負担をかけない程度に起こして、電話をつなぐ。そうゆう約束。
ロビィに響く。呼び出し音。
受付の人が無表情で受話器を取って、俺に渡す。
無言で。すごく怖かった。この人は本当に宇宙人なんじゃないかと。
「どっちだとお思いになります?」先生が言う。
「どっちですか」
「どちらも果たせなくなった。と、そう申しましょうかね、ええ、残念ながら」
「どうしてですか」
「容態が芳しくないからですよ。あなたが無理矢理話をさせてそれでいまよりも具合が悪くなったら、どうやって責任取れますか。腹切って詫びますか。えとり君の病気は手遅れになったら取り返しのつかない重大な症状がありましてね。なんなのか、親しいあなたならばおわかりになりますね」
僕はね、飛び降りたくて堪らなくなるんだ。ふとした瞬間に窓が見えるとする。君なんかは、窓だ空だ雲だ、そのくらいのことなんだろうね。でも僕はそうは思えない。僕は死にたいわけじゃないんだよ。飛び降りたくてその結果、死んじゃうこともある。そうゆう可能性の話をしてるんだ。ごめんね、変な話して。でもこれだけは君に憶えておいて欲しい。僕がおかしくなったら、ここに連絡してくれると。
うれしい。スガちゃんはそう云った。
「地下に病室があるのは、そんなやむを得ない理由があったわけでしてね」先生が言う。
「直接もダメ。電話もダメ。じゃあ、どうなったんですか」
「言伝を頼まれました。お聞きになりたいですか」
「ホントにそれがスガちゃんのゆったことなら」
聞けばわかる。俺はあんたなんかよりずっと、スガちゃんのこと知ってる。
「はあ、そうですか。ならば云いましょう。一度しか云いませんよ。面倒ですしね、ええ、私だってこんな回りくどいこと」
「御託は結構です。なんてゆってるんですか」
亜州甫かなまのリサイタルに行かないで。
君も、
きっとこうなる。
「とゆうわけなんです、はい。おわかりになりましたね?」
わかるわけない。確かに俺はスガちゃんに、亜州甫さんのリサイタルに行くとは云ったけど、CDジャケットを見せた憶えはない。せっかくともる様から戴いたから見てもらいたかったけど興味がない、と突っぱねられて、仕方ないから自分の部屋で淋しく聴いてたら、音が漏れる、て文句云われて。知るわけない。スガちゃんは、亜州甫さんの下の名前なんか。
結佐先生は、亜州甫さんを俺に会わせたくない。大ホラ吹き。
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