ゆろびと微笑んで She ENDEd sound.

伏潮朱遺

第1話 Carrier 指染む者

     0


 ひさしぶり。

 あれから十年かな。

 君が気づいてくれれば、こんなことしなくて済んだんだよ。

 僕を忘れてのうのうと暮らしてるなんて許せない。思い出してよ。

 君は僕を愛してた。

 僕も君を愛してた。

 両想いだったじゃないか。それなのに。

 まあ、いいや。その点は水に流すよ。

 ここで僕が云いたいのはいくつかあるんだけど、わかる?

 わかるよね。僕のこと、何でもわかるもんね。

 僕を止めてよ。もしくは、

 つかまえて

    みせて

      ひだりての

          まんなか





 第1章 Carrier 指染む者



     1


 私宛の荷物。昨日日本に帰ってきたばかりなのに、おかしい。それに依頼主。

 私はこのニンゲンを知らない。名前しか。

「誰からだ?」ともる様はピアノを弾く手を止めない。見ていない。

 見られるわけにいかない。私に心当たりがなくとも、ともる様はこのニンゲンをよく知っている。

「言いたくないならそう言え」ともる様が言う。

 頭を下げて部屋に行く。どうすべきか。中身。開けずともわかる。がさがさ。処分するにも危険すぎる。

 おそらく人体の一部。指。

 こんなものを私に送りつける人間はひとり。しかしそいつはもう。

 勿論亜州甫アスウラかなまという名でもない。

 何を意味しているのだろう。考えるな。考えてはいけない。深みに嵌れば奴の思う壺。せっかく手に入れた平穏を壊そうとしている。

 忘れるな。思い出せ。これはそうゆうメッセージ。

 ノック。ピアノが已んでいる。ともる様だ。

「どうした?」

 急いで荷物を隠す。心許ない鍵の付いた引き出しの中。何の解決にも至ってない。その場凌ぎですらない。

 深呼吸。落ち着け。

 私は、ともる様を守るためにここに。

「すみません」

「謝るようなことをしたのか」

 した。云えない。癒えない。

「いいえ」

 嘘言。

「なら謝るな。いま完成した。聴け」

 笑わなくてもいい。平常ならば。動ずるな。

 もう十年だ。

 ピアノが鳴っている。ともる様の指はとても速い。ぼーっとしていればそこに指があるかどうかすらわからない。キレイな曲。知らない曲。

 そうか、さっき完成。

「おい」

 音が止まっている。ことすら気づけなかった。

 私は聴いていなかった。ともる様の指を観ていて。

「具合でも悪いのか」ともる様が言う。

「いいえ、すみません。せっかくの」

 荷物の中身。見られたくない。

 依頼主。知られるわけにいかない。

 亜州甫かなまは、ともる様の憧れのピアニスト。

 明後日の夜、彼のリサイタルがある。招待を受けたのだ。そのために、そのためだけにともる様は日本に戻ってきた。しかも明日、リハーサルにも呼ばれている。そのときに聴かせる曲を作っていて、それがついさっき完成した。その第一号聴衆を、私に定めてくれたというのに。

 無音の呼び出し。ともる様のケータイ。

 助かった。と思ってはいけない。わかっている。本当は嘘なんて吐きたくない。すべてを打ち明ければ私の良心は救われるかもしれないが、ともる様と一緒に居られなくなる。

 クビだ。いや、クビになる前に辞表を出す。私のような穢れた過去をもつ人間は、ともる様にとっては有害でしかない。

「本当に具合悪いんじゃないんだろうな」ともる様が言う。

 電話は終わっていた。それすら気づいていない。

 謝るには、謝る理由が必要。

「行くぞ」

 運転は平気だった。ともる様と眼を合わせなくて済む。作業的にも位置的にも。

 後部座席のともる様は目的地を云うと、それきり黙った。頭の中で曲を再生している。移動中はたいていそう。その点も有り難かった。このまま着かなければいいのに。到着しなければ、私は。

 ともる様のお父上の顔がよぎる。十年前、あらゆるものから逃げて路頭に迷っていた私を拾ってくれた上、いまの生活を与えてくれた恩人。私はあの方を裏切りたくない。あの方に見放されたくない。殺人者の私を、何もきかずに迎え入れてくれた。

 喫茶店。当然私も付き添うことを予想してたのだが、断られた。

 まさかさっきの荷物。いや、出掛ける前にしっかり鍵を確認した。

 では、ピアノを聴かなかったことを怒って。そうだ。そうに決まって。

「違う。そんなことどうでもいい」ともる様が言う。「ついてこられたら迷惑だ、と言ってる。心配ない。何かあったら」

 ケータイ。わかっている。

 これが鳴ろうものならコンマ一秒でも早く駆けつける。何を差し置いても。

「まだ時差ぼけか。ここは日本だ。そう危なく」

 それでも何かがあってからでは。

 ともる様が示した先に、見覚えのある姿。近づいてくる。

 ともる様と眼が合った瞬間怯えたようにふっと逸らす。縦に長い体格も、意志の弱さを体現しているかのようなタレ眼もよく憶えているが、髪の色が違う。染めたのか。オレンジに。

「これでもまだついてくるか」ともる様が言う。

 彼なら安全だ。ともる様の親友。右柳ミヤギゆーすけ。不安定な視線がうようよ泳ぐ。

 私を気にしているようだったのでお辞儀して車に戻る。待機。やはり厳つい二メートルの身長が彼を怯えさせているのだろうか。それとも微笑みとは程遠い張り詰めた表情。後者は前者とは違う。努力次第で直せる。しかし、そう簡単に行かないことも確か。直す気がないのだ。ただそれだけの。

 無音の呼び出し。ともる様。と思って反射的に車から降りたが、違った。

 知らないアドレス。迷惑メールの類でもない。意味が入ってくるまでに何度も読んでしまう。消去したいが内容を憶えられない。消せない。

 永片エイヘンえんで。指の送り主。

 ともる様に電話を。いや、なんて云って許可をもらう? 

 用事が。ともる様を差し置いて他に重要なことなど。

 喉が渇いて。その辺の自販機で事足りる。

 駄目だ。ともる様が親友とのお話を終わらせる前までに、帰ってくるしか。

 できるか。やるしか。

 県内で助かった。それでもかなり遠い。山奥の美術館。やけにステアリングが滑るわけだ。両手に巻いた包帯が汗でぐっしょり。ほどきたい。ほどけば。

 こんこんこんこん。

 ウィンドウの外に。ここでキィを回してアクセルを踏んでいればよかった。なぜそうしなかった。したくない。やりたくないことはしない。

 ウィンドウを下ろす。

 職質。しないだろう。無駄なことを極力避ける奴だから。

「免許取れたのか」鬼立キリュウが言う。

 ウィンドウが上がる。指が勝手にスイッチに触っていた。私の意志ではない。

 もう一度下りて、上がって、下りる。指の仕業。

「何年かかった?」鬼立が食い下がる。

 相変わず口の減らない。

 免許を取りたくなかったのは、車輪の付いている乗り物が厭だっただけ。お父上が運転免許を必要とした。だから取った。ともる様の移動手段。

「十年じゃないだろうな」鬼立がしつこい。

 私は手を開いてみせる。十本、すなわち。

 無音の呼び出し。ウィンドウを上げる。今度は私の意志。

 ともる様から。

「どこにいる」

「言えません」

 正直に言った。

「いなくなるなら一言」

「云いたくなかったんです」

 無言。

「言い訳するか」

「ありません」

「わかった。社長に顔出してくる。用が済んだら迎えに来い」

「了解」

 降車する。外気は少し冷える。

 銀縁メガネ。鬼立の格好もこの季節や気候なら奇異に映らない。全身黒尽くめ。一発で職業がバレる。覆面パトも何を隠しているのやら。

「サボるな、ぜーきん泥棒」ついてくるな、という意味で口を利いたつもりだったが、やはり伝わってない。

 コンパスの差でも撒けない。鬼立は足だけは速い。

「指か」鬼立が私の側面に音をぶつける。

 気取られるな。表情は平常。

「もう三日だ。何か知ってるんだろ」

 チケットを買おうと思ったら鬼立がケーサツ手帳を出した。何も変わっていない。進歩がない。というよりは鬼立らしくて好ましい。

 だいぶ管轄外だろうに。しかも単独捜査。それが祟って出世コースから外されたことをもう忘れている。正義感だけ先走り。あとどうなろうが知らない。

 概要。向こうが勝手に喋っただけだが。

 鬼立の統べる管轄内で三日連続して指が発見された。一日一本ずつ。

「手掛かりになるかと思ったんだが」鬼立が言う。

 入り口から最も遠い、敷地内の美術館。

 企画展。巨大な看板に人間の顔と指。

 指による指の創造。それがテーマ。指を創る彫刻家。

「無関係」

「根拠を云え」鬼立が言う。

 別人だ。

「俺が言ってる」

「だからその根拠を」

 フィン・ドゥア・モルなんて知らない。日本国籍とは到底思えない。

「偽名だろ」鬼立が吐き捨てる。

 どうやら碌すっぽ調べもせずに思いついたが吉日的に飛び出して来た。サボりと大差ない。調べればそう労苦なくわかるだろうに。その労苦が惜しいらしい。彫刻家に容疑がかかってるなら、お得意の強制任意同行なりお家芸の圧迫的事情聴取なりしてあることないこと吐かせれば。をしないのが鬼立なのだが。

 暴走されるとあとが面倒なので付き添う。建物内はやけにひんやりして。春先だがまだ冬。頬が攣る。のは気のせいではない。左の。ガーゼが汗で剥がれかけている。両手の包帯も緩い。巻きなおそうと思ってそのままだった。

 壁際にショウケイスがあり、作品は指。粘土やら石膏やら。間接照明。

 鬼立はガラスに張り付いて作品を睨みつけている。視力が進んだのかビタミンAが足りないのかはわからない。

「ぼさっとしてないでお前も探せ」鬼立が言う。

「なに」

「指だ。言い逃れできない証拠だろ」

 妙に自信あり気だが。

「垂れ込み?」

 探偵さん。

 幻聴でないなら誰かが。

 私をそのように呼ぶのはひとり。だったか何人だったか。いちいち憶えてない。私は。

「探偵じゃない」

 思った通りの顔。厭きれたというよりはなんとも無謀な。坊ちゃんから見事に好青年に化けた。髪型のせいかもしれない。ベージュのスーツ。ネクタイの趣味はどこぞの黒尽くめより断然いい。まさかケーサツになってるなんて。

 龍華タチハナ。と、鬼立が遠くで騒ぐ。近くで話せ。他に客が誰もいないとはいえ美術館。

「戻ってきたのか」鬼立が言う。

「戻るも何も、帰り道でスゴいものに出食わして、つい」龍華が私に視線を向ける。

 眼を逸らす。

 龍華が建物の外に誘導する。までもなく、何かが入ってくる。如何にもな二人組。鬼立よりもあからさまな外見の。その脇から凛とした眼つきの女性が。髪はショート。ダークグレイの上下。限りなく同業者だが向こう側ではない。

 緒仁和嵜オニワサキさんです同僚の、サキさんと呼ぶと喜ばれますよ、と龍華が要らん注釈をくれる。

 彼女は私を見てほんの一瞬動きを止める。普通ならまったく違和感がないくらいの僅かな間。すぐに鬼立に向いてはあ、と溜息を。

「あのな、文句があるなら口で」鬼立が言う。

 戦争中の敵国で自分の出身書いたプラカード掲げるようなもんですよ、と龍華が囁く。

 なるほど。ケーサツ手帳なんか持ち出すから美術館のスタッフが気を利かせたのだろう。如何にもな二人の片割れ、胴回りの大きいほうが咳払いする。わざとらしく。

「県警の方ですか」鬼立が言う。

「わかってるなら次の行動は期待していいんだろうね」神奈川県警が言う。

「構いませんが、裏切るかもしれません」

 仲裁に入るべきか。場所柄鬼立を説得するのが筋だろうが私にもやることがある。邪魔されたくない。

 仕方ない。あまり使いたくないのだが。龍華もいるし、なにより鬼立の前でやるのは気が。

「困るんだよねえ。人んとこでそうゆう」神奈川県警が言う。

 若いほうは気づいた。私が保証する。お前は出世できる。そこの中年腹は早々に見捨てても損はない。彼はカエル腹に忠告することなく私に敬礼。そう、それが満点の解答。

「何をしてるんだね」上司のほうが言う。

「そっくりそのままお返しします」部下のほうが言う。

 莫迦だ。上の顔色伺いするときに見るべきは床でも自分の手でもなく。いや、こいつはその機会がない。だから知る由もない。

 時間切れ。

「ここの」

 いい返事。若い方が素早く駆けていく。皆まで云わずともよく理解した。帰ってきたら名前を聞いてやろう。

「おい、どうゆう」

 そうか。鬼立は知らなかったか。

 龍華は予想がついてる。無駄に笑顔を向けるのがその証拠。とも限らないな。何か他意がある。

 気になるのは緒仁和嵜。名前に引っ掛かるところはないが、忘れているだけかもしれない。

「陣内」

 殺人者の私の別の名。探偵。そしてもう一つは、陣内ちひろ。これを聞けば国家権力を笠に着る連中は大概ひれ伏す。そうゆう地位。

 ひれ伏さないのは鬼立だけ。だから出世に遠くなる。


      2


 指の彫刻家フィン・ドゥア・モルの運転免許証上の名は、早志ハヤシひゆめ。

 心当たりなし。やはり別人だ。

 藍の着物。細く長い黒髪。掠りもしない。所作も落ち着いていて品がある。眼差しも声も骨格ですら。

 ここいらの管轄の手足と協力して作品を調べる。私がやっているわけではない。勿論鬼立もやっていない。指示は出すが何もしない。

 作品を元あったショウケイスに戻す確認ついでに龍華が立ち寄る。私と至極個人的な話をしたいのだろう。聞かれてもいいなら、だが。

「困るようなことはなにも」龍華が笑顔を返す。

 この対応がどうも苦手だ。鬼立も同じ感想だろう。扱いにくい部下。従順な笑顔を浮かべながらことごとく命令に背く。

「もし見つからなかったら、誰の責任になるんでしょうか」龍華が言う。

「そんとき」

「我らがボスには吹っ掛けないんでしょう?」

「管轄外」

 早志ひゆめは何も云わない。いろいろ質問されても正面を向いたまま制止。緒仁和嵜の尋問は決して厳しくはない。鬼立に比べればどんなケーサツ官も一般市民の口を割ることに長けている。ことになっている。

 が、拒否黙秘。自分の作品を滅茶苦茶にされれば誰だって快くは。

「僕、行ってきましょうか」龍華が言う。

 空気の読みすぎだ。ちょうど緒仁和嵜も文字通りお手上げ、というジェスチュアでこちらを見る。

 会場は二階建てで、展示部分が吹き抜け構造。手すりから見下ろしたら、現場監督的に立ち尽くしている鬼立と眼が合う。

「弁明はあとできく」鬼立が言う。

「なんの」

「ありすぎて思い当たらないか」

 十年。放置はどっちだ。

「いま何してる」鬼立が聞く。

「どっかのボスと話し」

「違う。職業だ。まだニートじゃないだろうな」

「無回答」

「なんだそれは」

 県警の若い奴(名前聞きそびれ)が鬼立を呼ぶ。一階が俄かに騒がしい。

 やはり。あのメールは。

 空気を呼んだ龍華が早志ひゆめを連れて階段を下りる。私も緒仁和嵜の後をついていく。状況だけならここからでもまったく問題ないのだが、早志ひゆめの表情を見ようと。

 変わらない。自分の作品の中からホンモノの指が出たというのに。

「ご説明願えますか」鬼立が追及する。

 視線が逸れない。鬼立をじっと見たまま、なにも。怒っているわけでも哀しんでいるわけでも況してや笑っているわけでもない。

 まさか。と思ってしまう。あり得ないのもわかっている。

 彼女はもういない。殺されて。二十年以上も前に。永片えんでによって。

 永片えんで?

 これが?

「連れていけ」鬼立が指示を出す。

 抵抗も言い訳もしない。

 なぜ?

 自分がやってないのなら違うと言えばいい。聞き届けられるかは別問題だが。

 状況証拠。見ないようにしていたが、焦点が合ってしまう。白い指。粘土か石膏だとはとても思えない。型を取った? 誰の。自分の?

 作品はすべて押収された。調べたって何もわからないだろうに。美術展も中止。会期はそもそも三週間程度だったが、最初の一週間の途中で。四日目。

 四日?

「同じですよね」龍華が言う。

「なんか」

 聞き出せたか。

 龍華が首を振る。合法的に自白させることに関しては右に出る者がいない龍華でも無理なら、密室も監禁も拘束も通じない。

 さて、どうしたものか。

「これって僕らの手柄になるんでしょうか」龍華が言う。

「任せる」

「え、ちょっと」

 忘れていた。ともる様を待たせてだいぶ経つ。

 夕暮れ。クビ以前に職務態度が問われる。

 帰国してお父上に挨拶に。今日はその予定だったというのに。まずい。

「どこ行く」鬼立が言う。

 黙って手を上げたらその腕をつかまれた。袖の上から。

「まだ話は終わっていない」

「今度」

「それはいつだ」

「未定」

 振り切って駐車場へ。追ってこないのは職務を優先したからなのか龍華が空気を読んだ結果なのかはわからない。とにかく急がなければ。

 社長に顔を出す、ということは本社か。遠い。日が暮れるまでに着けるかどうか。ではない。着かなければいけない。

 メール。ともる様からと、もう一通。


  これから会えない?

 積もる話もあることだし。この十年何してたのか聞かせてよ。

 僕も話したいこといっぱいあるんだ。指のこととかね。


 決定。早志ひゆめ、イコール、永片えんで、は成り立たない。このメールが届いた時間、早志ひゆめは尋問中だった。緒仁和嵜ならいざ知らず龍華による尋問中にそんな小細工は出来ない。

 しかしアリバイがどうとかではなく、早志ひゆめから永片えんでの気配が感じられない。声を聞いていないのでまだ十パーセントくらいは疑えるがそれも消える。

 永片えんでのことで、私が知らないことはない。その逆も真。私が捕まえないことをわかっていてこんな危険な行動に出たのだ。日本のケーサツを莫迦にしていたとしてもお釣りが来る。

 奴の望みは、私。私をそちら側に引きずり込むこと。もしくは、ただ単に逢いたいか。十年ぶりの再会を劇的に盛り上げているだけかもしれない。奴ならそのくらいのことはする。なにせ捕まらないのだから。

 ともる様のメールは場所変更。社長が本社にいなかったのだろう。待っていても会えるような人ではない。ともる様のお父上と一緒で多忙。または右柳ゆーすけが厭がったか。そちらのほうが可能性が高い。彼は父親を嫌っている。なぜなのか。私は興味がない。

 ともる様からは、用が済んだら迎えに来いとのこと。

 鬼立のほうは追々なんとかするとして、永片えんで。呼び出しに応ずるのはやめよう。優先順位でともる様に勝るものはない。

 水族館。移動方法は電車だろうか。本来なら私の仕事なのだが。

 待ち合わせはチケット売り場の脇。見つけやすいように配慮してくれたのだろう。ただっ広い敷地内を走り回るのはつらい。オレンジ頭のおかげでさらに発見が容易かった。

 三人でアイスを食べている。

 三人?知らない顔。のはず。

「遅くなって申し訳ございません。予想外に手間取ってしまい」

「言い訳はしないんじゃなかったか」ともる様が言う。

 右柳ゆーすけがちろちろこちらを見る。そうか。彼が気にしているのは、両手の包帯と左頬のガーゼ。彼に初めて会ったのは七年前。その疑問はわからなくでもない。

 まだ治ってないのか。

「ねえ、それなに? 戦争でもしちゃったの?」

 もうひとり。声にひどく聞き覚えが。長めの前髪の合間からのぞく眼も、異常に華奢な背格好も。白い指が私の手を。躊躇いなく左手の中指。咥えるかと思った。

 永片えんで。

「この下、どうなってんのさ」

 永片えんで。

「ケガです」

「だからね、どんなケガしたのかってこと。知らないの?」

 ケガ、というのは私が最初に吐いた嘘。鸚鵡返しするほかない。知らないことは言えない。ともる様は嘘を好かない。適当に誤魔化すくらいなら何も言わない。

「んじゃあ僕も知れないよねぇ。えっと」

 陣内ちひろ。紹介の必要。初対面だ。

 少なくとも、ともる様は初対面だと思っている。

「はじめまして」

 また虚言。

「悪魔くんの護衛のちーろって君?」

 アクマ?

「あれ、怒っちゃった? あくまのゆーきょーって知らない? そっちの天使くんとセットでゆーめーだったんだけどなあ」

 悪魔の誘響。天使の妙音。社長がつけた売り出し文句だったと記憶しているが。

「ちーろでいい? 僕は」

 永片えんで。とは言えないだろう。そいつは私と同じ。

 殺人者。

「悪魔くんから聞いてるよね。わざわざフランスから連れ戻したのは僕」

 待て。まさか。リサイタルに呼んだ相手はともる様ではなくて。

「ちーろも来てくれる?」

 えんでは、ピアニストになった? 

 ピアノ講師をしていたのは知っていたが、それを辞めてピアニストに? 

 いつの間に。知らなかった。

 十年。永い。

「どうした? やっぱ具合悪いか」ともる様が言う。

「平気です。戻りましょう」

 亜州甫かなま。いまはそうゆう名なのか。

 助手席をともる様に乗ってもらいたかったが、右柳と話をする、と断られた。

 とすると、向こうが現地解散を申し出ないので必然的に。

「迎え来させたみたいでごめんねぇ。実は僕が誘ったんだったりして」

 想像に難くない。ともる様がわざわざ人混みに繰り出すことは万に一つもあり得ない。そもそも社長に顔を出すという用事があった。右柳ゆーすけもともる様とは違う意味で消極的なので、自ら進んで行楽地に出向くわけがない。消去法。

「たーのしかった。ちーろも一緒だったらよかったのにね」

 ちーろ。呼び方もあの頃と変わらない。私は十年分老けたが奴はそのまま。十年前の。それがまた眩暈誘発。

 手を滑らせてはいけない。ともる様を乗せている。時折バックミラで確認しなければ、左にいる強烈な気配に紛れて。

 なにか、冷たいものが。

 手。亜州甫かなま。咄嗟にバックミラを。

「だいじょーぶ。おやすみちゅー」

 本当だ。話をするといった割には静かだと思ったら。

 しかし珍しい。右柳ゆーすけはいざ知らず、ともる様が居眠りするのは。

「市中引き回しちゃったからね。疲れちゃったんだよ」

 指と指の間に指を。包帯越しでもわかる。

「メールは」

 これを見越して。

 なるほど。確かに、これから会えない? 

 逢えた。

「ちゃんと見つけてくれた?」

「濡れた布なら」濡れ衣の、意。

「思わぬ拾い物だね」

 包帯を解きたい。解けばきっと。

「ここじゃ、ちょっとね」

 悔しい。ともる様さえ乗っていなければ。などという思いつくことも憚られる呪いの文句が浮かぶ。優先順位が揺らいでいる。奴は特殊。

 ここでいい、と云うので車を停める。駅もバス停もない。

 知らない土地。

「帰れるのか」

「ふうん、嫉妬してくれてんの?」

 わかった。先生とやらに会いに。

「よく続いてるな」

「まーね」

 指。絡ませて、ほどく。ないはずの中指が疼く。

 永片えんで。じゃなかった。亜州甫かなま。憶えなければ。

 私たちは他人。

「また」会えるかどうか。

「次はふたりっきりがいーな」

 アイスを買ってきたのは亜州甫かなまだろう。相変わらず過激だ。この僅かな時間を作るために、ともる様たちを遥々臨海の水族館に誘導して、市中引き回しの上心身ともに疲労、睡眠薬入りアイスクリームを食べさせた。見事な手際。

 先生とやらに、私はまだ会ったことがない。リサイタルに行く理由がまた増えた。絶対に招待している。自分の晴れ舞台に恋人を呼ばない奴なんかいない。

 明後日。永片えんでは一体何をしてくれるのだろう。月曜から毎日行なっている指置き去りは、明後日つまり土曜日のための前座。楽しみで仕方ない。ともる様が亜州甫かなまに憧れてくれていて本当によかった。おかげで私は心置きなく。

 永片えんでを観ることができる。鬼立には捕まえさせない。彫刻家には悪いが冤罪を被ってもらおう。これだから陣内ちひろは。


      3


 帰ってくるならあらかじめ連絡が欲しかった。といっても呼び出しはいつも直前。これから、なんて心の準備も何もない。

 ああ胃が痛い。帰りたい。喫茶店に入ってからそればかり考えている。入る前からだった。呼び出しが来てからずっと。

「昨日、戻ってきてたんでしたっけね?」

 睨まれた。

 それはさっき説明しただろう。話を戻すな。いい加減一度で。とか返答を予想したけど、どれも返ってこなかった。睨まれた、と感じたのも気のせいだったらしい。鋭い眼つきはいつもだった。三年ぶりだからいろいろ基本情報を忘れている。

 黒のシャツに黒のズボン。髪も真っ黒なのは遺伝だとして、全身黒尽くめ。ともる様は黒が好きなのだ。何年か前の雑誌のインタヴュでも好きな色は、で黒と答えていた。余計なことだけは憶えている。それが特技なんだから。

「えっと、リサイタル?でしたっけ」

「明後日だ。行けるか」ともる様が言う。

「行けるかって、それ、拒否権とか選択肢とか」

「ない」

「ですよね」

 チケットをごり押しで渡された。かなりいい席。

 これ、最前列じゃ。

「迎えにいくからな」ともる様が言う。

「はあ、寝坊しないよう心掛けます」

 話はこれで終わり。な、わけないか。

 ここからが本題だろう。そんな視線。逸らしても突き刺さる。ぶすぶすぐさぐさ。

「なんで辞めた」ともる様が言う。

「辞めたかったから、ですね」

「辞めたかった理由をきいてる」

「辞めたかったから、辞めたくなって、辞めました」

 怒鳴られるのを覚悟で屁理屈を言ったが、場所柄押し留めてくれた。

 ふう、と一安心するまでもなく。

「俺が納得のいく理由を言え」

 無理だ。なにを云っても納得してもらえない自信はある。ともる様は理由をききたいわけじゃない。母親が子どもを叱り付けるときになにやってんのよ、てゆうのに近い。母親は子どもが何をやってるのかききたいわけじゃない。非難して咎めているのだ。

 つまりともる様が求めているのは。

「悪魔のゆーきょーのライバル、天使のみょーおんとしてもう一度弾けと」

「当然だ」

 ほら、正解。伊達に長い付き合いじゃない。

「社長は容認してるのか」

「でしょうね。三年も放っぽいてるんですから」

 父さんは諦めたのだ。見捨てた、と同義。俺にピアノを弾かせることで儲ける計画は頓挫した。ざまあみろ。とは思わないけど、期待をかけなくなった分、楽は楽。失敗しようが結果が芳しくなかろうが、そんなもんだと思ってもらえる。

 そんなもん。

「親子喧嘩じゃないだろうな」ともる様が言う。

「違う、とだけゆっときます」

「じゃあ」

 ともる様のせいじゃない。俺もともる様もそうは思ってないから、そこから先は言わない。

 空気が重い。ジュースも終わってしまった。

「時期が悪いのか」ともる様が言う。

「何も悪くありません。俺以外は」

「お前個人の問題ってことか」

「おそらくは」

 居づらい。帰りたい。

 ともる様が立ち上がったので思いが通じたのかと思ったが、電話をしに行っただけの。

 三分も経たずに戻ってくる。

「ちーろさんですか?」

 ともる様護衛の寡黙な大男。どこへ行くにもぴったり張り付いてくるのに、今日は珍しく門前払いだった。成長したってことかもしれない。

 ちーろさんは相変わらずの痛々しい両手の包帯と左頬のガーゼ。最初に会ったときからずっとそう。治ってないんじゃなくて、常にケガし続けるような危険なことをしてるんじゃないんだろうか。ともる様を守るために命懸けの抗争を。ってぜっったい違うけど何も教えてくれないから妄想せざるを得ない。

「困った。足がない」ともる様が言う。

「歩けばいいんじゃないですか? 駅まで案内しますよ?」

 とは云ったものの、やっぱりおかしい。ちーろさんは片時もともる様から離れちゃいけないんじゃないんだろうか。護衛ってそうゆう仕事のはず。少なくとも三年前まではそうだった。方針が変わったのかも。王様の自立を促すために、とか。

 店を出てから駅に着くまでともる様は不満そうだった。徒歩なんて下々の者が取る手段だから云々。てわけじゃなさそう。考え事? 気を利かせて話しかけても、ああ、だのそうだな、だの一向に会話が広がっていかない。無言で黙々と歩いたって楽しくないのに。

 でも目的地を聞いて、一気に楽しくなくなった。

 本社。なにもそんなご足労を。殴り込みじゃないんだから。

「直接きく」ともる様が言う。

 本当に王道しか進めない。裏からとか遠回りとか王様の辞書にはない。俺がはぐらかすのがいけないんだろうけど、それにしたってなにも父さんに問い質さずとも。

「あ、でもいないかもしれませんよ」

「わかってる」ともる様が言う。

 案の定いなかった。一応俺が社長令息ってことになってるせいで、ただでさえぴりぴりしてる受付の人とか社員の人たちを余分にぴりぴりさせてしまった。全然失礼なんかじゃないのに。むしろ丁寧すぎてこっちが恐縮する。

 父さんがいなかったのだって、アポも取らずに出向いた王様がいけない。別にあなた方に非はないと思うんですけど。ケーキも紅茶も要らない。俺は一秒でも早くここから立ち去りたいのに。いましばらくお待ちを、とかいま連絡を取っておりますからもう少し、とか。俺に媚売ったって何もいいことないですよ。だいたい世襲制じゃないんだし。

「そろそろ帰りません?」

 やっと人が途切れたのを見計らってともる様に耳打ち。

 無言。てことは採用。

 いい加減帰国を労われるのは不服だろう。ともる様は帰ってきたくて帰ってきたのだ。リサイタルに行きたくて。えっと、なんてゆう人だったっけ。こっそりチケットを確認。

「あっれえ、悪魔くん? だよね。うわあ、きぐーだね」

 エレベータを降りたら声がした。きょろきょろしてもそれらしき人はいない。

 ともる様の視線。上。吹き抜け。二階じゃない。

 三階の手すりから身を乗り出して、両手を振っている姿が見えた。ともる様がお辞儀。

 ともる様がお辞儀? え、誰?

 飛び降りんばかりの勢いだったけど、飛び降りなくてよかった。細そうとはいえ、落下したら受け止められない。俺が潰れる。エレベータを待ってられないくらい興奮したらしく、階段を駆け下りてエントランスを走る。しかし、直視しづらい格好の人だ。

「一日早く会えちゃったよ。僕の日頃の行ないがいいからだね」

 ワイシャツは留まっていないボタンのほうが多い。しかも留まっているボタンは胸部だけ。要するに首元とへそが丸見え。ネクタイの結び目が胸部にあるなんて。袖を折っているので二の腕が露出。それだけじゃない。下半身はもっとすごい。スカートですかそれは。ヒール高くないですかそのミュール。

「打ち合わせですか」ともる様が言う。

 王様が敬語なんか使ってる。

「まーそんなとこかな。悪魔くんはどーしたの? CDでも出す感じ?」

 視線。頼むから気づかないで。ピアニストやってたときと髪の色が違うから、それで誤魔化せないものか。

「ね、もしかして天使くん?」

 アウト。染めただけじゃダメだった。

「うわあ、今日の僕は運を使い果たしちゃってるよ。悪魔くんと天使くんが一緒にいるなんて。え、どーしちゃったの? パパに直談判?」

 適当に言ってるんだろうけど当たらずとも遠からずなところがスゴい。この人の正体がやっとわかった。さっき確認した名前。

「亜州甫さんですよね?」

「あれ、なんで知ってるの? 悪魔くんが教えてくれちゃったの? うれしいな。よろしくね」

 手を伸ばしたらフツー握手だと思う。でもこの人の場合、そうじゃなかった。俺の手を握るところまではよかった。そこから先。なぜに口元にもってって、口を開けてその中に俺の指を入れるのだろうか。

 生温かい、厭な感触が。

 振り払う。唾液でべたべたの。

「しょっぱいねぇ」

 味は問うていない。謝罪とか言い訳とかはないのか。

 ふと、ともる様を見たけどまったく動じていない。

 まさか、恒例行事。かつて王様も被害に?

「悪魔くんもやらせてくれる?」

 ともる様は反射的に首を振った。

 なんだ。放心してただけ。

「うーん残念。まーいーや。これから暇? 暇だよね。僕とデートしよう」

 強制連行甚だしい。俺もともる様もイエスともノオとも言っていない。あれよあれよと連れて行かれた先は、水族館。もうどうにでもしてくれ。なんだこのデートスポット。春休みなせいか無駄にカップルが目立つ。何が楽しくて男三人で水族館。

 イルカショウに大興奮な亜州甫さんの隣で、複雑な表情を浮かべるともる様。当然だろう。と思ったけど、ちょっと違う。なんだろう。本社に向かうときもこんな顔してた。尋ねたほうがいいんだろうか。訊いても答えてくれないのが落ちだし、基本強がりな姿勢だから。もうちょっと様子見。

 なわけでともる様が無言無反応なので、ターゲットが俺に。亜州甫さんは終始はしゃいでた。君たち未成年だからなんでも奢ってあげるね、だそうでチケットやらチケット代やら経費はぜんぶ向こう持ちだったが貸しを作ったみたいで怖い。早々に完済したいものだ。いまだって勝手にアイスを買いに。

 ともる様はケータイを気にしてる。ケータイ依存症のはずがないから。

「返事来ませんか」

「用事だと」ともる様が言う。

 ともる様より大事な用事なんてあるんだろうか。

「迎えは来ますよね」

「送っといた」ともる様が言う。

 喫茶店から本社に。そして水族館に変更。ともる様のメールを無視するなんてあり得ないから、単に気づいてないだけ。というのも変だ。電源切った? そっちのほうがおかしい。わからない。上下関係でケンカは成立しない。厭ならクビにすればいい。厭になるなんてこともないんだけど。自立説は却下っぽい。たぶん、ほかの。

 一気に三つ運ぼうなんて無茶だ。安いソフトクリームとわけが違う。冷たくした大理石の上でかき混ぜてその場で作ってくれるってゆう手の込んだ。ワッフルコーン。

 ともる様にそんなチャンネルはないから、俺が手伝うべきだろう。

「ありがと。やさしーね」

 三つとも違う種類。二人が選ばなかったのを食べる。美味しい。

 ともる様がケータイを取り出す。よかった。返信が来たのかも。

「十分で着く」ともる様が言う。

「今日はありがとね。それに迎えも」亜州甫さんが言う。

「明日ですが」ともる様が言う。

「あーえっとねぇ、何時だったかな。ちょいっと待ってね」

 亜州甫さんが取り出したのはケータイでも手帳でもなかった。ボイスレコーダ。

 厭な予感がする。いや、絶対そう。

 再生。亜州甫さんヴォイス。

「てことで十時みたいよ。ゆるゆるやってるから君らもそーきんちょーせずにおいでよ」

 明日? リサイタルは明後日じゃ。

「リハだ。お前も来い」ともる様が言う。

「え」

 すでに王様の予定表に刻まれてるんだろう。しかしリハ。完璧に関係ない。部外者がお邪魔していいものだろうか。

 ちーろさんが来たので詳しい事情が何もきけなかった。車の中で、と思ってたのになんだかすごく眠くて。気づいたら見覚えのあるようなないような。

 高校。校門横付はやめてほしかった。春休みだから誰にも見られてないことを期待して、降車。

「九時に来る」ともる様が言う。

「はあ、さいですか」

 ともる様も寝てたらしい。やっぱり亜州甫さんは強烈だったんだろう。いくら尊敬してるとはいえ、人格と演奏は別物だ。作品イコール作者ではない。そんな当の本人はともる様と俺がすやすや眠ってる間に降ろしたとのこと。

「それとこれ。予習しとけよ」

 有無を言わさず渡されたのはCDケイス。何かに包めばいいのに王様はそんな回りくどいことはしない。おかげでちょっとゾッとした。

 ピアノの鍵盤に、やけに白い指が十本。写真。ジャケット裏に記されたレコード会社は置いといて、演奏者はもちろん。明後日リサイタルの。

「戴けるってことでしょうか」

「最低五回は聴いて来い。寝坊したら承知しない」ともる様が言う。

 五回聴くことと寝坊がどうつながるのだろう、と思ったけどそれはすぐにわかる。二枚組で総演奏時間が二時間超。五回聴けって、いまからひっきりなしに聴いても、何時?

 神経質な寮の同居人に音が漏れる、とか小言をいわれたのでイヤフォンで聴く。妙な曲だった。作曲者が変だと出来る曲もそれなりに影響を受けるんだろう。感想を求められたらどうしよう。適当なこと云っても切り抜けられない。眠い。だるい。ぐったり疲労感。こんなことなら王様にならって。しっかり寝とけばよかった。

 ちーろさんと亜州甫さんは、知り合いっぽい。永くて深い。


      4


 ともる様が眠ったのを確認して無断外出。鬼立が夜を徹して仕事に励んでいるので見物に。

 どうせ何も進展していない。早志ひゆめは口を噤んだまま。出来のいい部下ふたりがいないのでボスを見捨てて帰ったのかと思ったが、別の捜査。早志ひゆめのアトリエにがさ入れの応援に行ってるらしい。これまた管轄外。何か見つかるとでも。そっちもそっちでご苦労な。

「昼間の続きだ」鬼立が言う。

「終わり」

 ここで調査結果をまとめた資料を突きつければ私だって或いは。

 でもやはり鬼立。正々堂々正義を貫く。予想に反したことを絶対にしない。

「あいつか」鬼立が言う。

 ドブみたいなコーヒーをがぶがぶ飲んで。十年飲み続ければ味覚も麻痺するか。あの時はヒトの家にコーヒーメイカを持ち込んでまで。

 いま鬼立が考えていることは十年前に捕まえた少年。ぶち込んだ施設から逃げられてそのまま。

「だから閉鎖処遇が要ると」鬼立が言う。

 私が却下した。逃がすために。殺すために。

「同じ」

「指か。らしい」鬼立が言う。

 あいつじゃない。あいつだったらぜんぶ違うニンゲンにする。

 なぜそれに気づかない。

 永片えんでによるもの。亜州甫かなまが私を興奮させるためにやっている。

 机が揺れた。鬼立が立ち上がる。耳にケータイ。

 私と眼が合う。

「わかった。あとはそっちに。ああ、撤収でいい」

 まさか。とは思うが。車を降りて亜州甫かなまが向かった先は、先生のところではない。

 早志ひゆめのアトリエ。本当に徹底的に盛り上げてくれる。過剰なサービス精神健在。

 鬼立がはあ、と息を吐いて無理矢理眼を閉じる。

「死体でも出た顔だな」

「指なしがな」鬼立が言う。

 何本。

「ぜんぶだ。手だけ」

 足は要らない。キレイじゃない。

「知ってることはそれだけか」鬼立が言う。

「意味」

「早志ひゆめと面識がないかってことだ」

「あったらゆってる」

 動かぬ証拠。自分のアトリエから死体。しかも指なし。

 これで限りなく黒に近い白は真っ黒になった。

 あとはどうやって明後日のメインイベントをやり過ごすか。だが。

「残りの指はどうなるんだろうな」鬼立が言う。

 どこかに隠したか。すでに置いているか。

「本人に聞け」

 それが出来れば苦労しない。鬼立はそういう顔で、部屋に鍵がかかってるのを確認して私の前に座りなおす。

 なんだ、改まって。というよりは私のほかに聞かれるのがまずい。私だけに聞かせたい。全世界で全人類で、私のみに話が。

「お前が陣内ちひろだったのか」鬼立が言う。

「クビ」

「飛ばせるものなら飛ばせ。俺が訊きたいのは」

 十二年前、鬼立の恋人を殺した犯人。

「言ったろ。死んでねえって」

「じゃああれは」鬼立が言う。

「人形」

「嘘を吐くな。仇とか復讐とかはもうどうでもいい。頼むから」

 真実。そんなもん。

「ねえよ」

 私が発案、永片えんでのシナリオ。鬼立の恋人になった永片えんでが、付き合って三ヶ月経ったところで何者かに惨殺される。首から上はなく、切り落とされた両腕はすべての指が切り取られそれぞれ膣と肛門に植えて。人形。目撃した鬼立は二度と女と付き合えなくなる。応援が来る前に死体は消失。私が隠した。

「彼女と知り合いだったんだな」鬼立が言う。

「云った」

「似てないか」

 誰に?

 鬼立が顎でしゃくる。ドア、廊下。取調室。

「どこらへんが」

「雰囲気というか後姿が」鬼立が言う。

「投影」

「だったらいいが」

 十二年前と同じ事件だと思い込んでいるから、そうやって面影を重ねる。むしろその勘違いはしてくれて構わない。芝居がいまも効いている。充二分に。

 ノック。鬼立が呼ばれる。私の口添えで捜査の指揮を執らせたから、奴がいなければ始まらないし終わらない。

 私もそろそろお暇。いろいろと厄介な龍華と鉢合わせする前に。面倒なことはぜんぶ鬼立に押し付ける。

「何しに来たんだか」鬼立が言う。

「激励」

「邪魔の間違いだろ」

 口の利き方に遠慮がない。私が陣内ちひろとわかっても尚この口調。権力に屈しないところが好ましい。やはり鬼立はこうでなくては。

 鬼立がまだ駆け出しだった頃。私を超能力的探偵と勘違いし、見張り役に立候補。事件を察知するだけでなく解決までしてしまう便利な私を利用して手柄を立てようとした。莫迦正直。私は探偵なんかじゃない。私の赴く場所で殺人が起こる。なんてあり得ない。私が犯人だということ以外に説明が。

 手元に置いておくための餌だったとも知らずに。最初の事件。夏。私と再会した日に起こった。起こさせた。順序が逆。事件を起こす予定なので鬼立に会いに行った。それが正しい。死んだ恋人の仇討ちをしたい一身で、その後鬼立は私の監視係に就く。私と一緒にいれば何らかの手掛かりが得られると思った。ところまでは鋭い。そう匂わせる素振りをしたのは私なのだが。

 二番目の事件。秋。龍華を助けてしまったことで巻き込まれる。限りなく治外法権区域においての。同じく春先、それの延長線上に首を突っ込んだ鬼立は畑を追放される。島流しで済んだのは私がいたから。恩を売るつもりはない。むしろ龍華に感謝する。傍系から直系へ。鬼立との距離が近くなった。

 怨むべきごたごたの渦中にいた少年がまさか龍華だとは思うまい。知ってたら部下にしない。龍華はケーサツになるべきでなかった。忠告もしたというのに。家の事情だって生半可ではない。絶縁覚悟で飛び込んで。いや、最初から絶縁希望だった。鬼立の首根っこを捕まえつつ、行方不明扱いになった私を合法的に捜すために。助けなければよかったのだ。なんで助けたんだろう。気紛れにしたって正義が溢れすぎ。龍華は私に気がある。もちろんフった。お前に興味はない。私が興味があるのは鬼立。ほど面白いニンゲンはいない。

 翌朝、ともる様は私より先に起きていた。そう珍しいことではない。恥じるべきは私のほう。護衛は主より早く活動を始めなければ。謝る。

「たかだか三十分の差だ。そんなことどうだっていい。腹が減った」

 おそらく気づいている。私が朝帰りしたことを。朝帰り禁止という法律を制定された憶えはないので、そのことで機嫌が悪いわけでは。

 機嫌が悪い? 

 顔に書いてある。嘘の吐けない人だ。

「昨日、どこ行った」ともる様が言う。

「日中のほうでしょうか。それとも」

「夜だ。そっちは云いたくないんだろう」

「言えません」

 正直に言えばそれ以上問わない。そこが素晴らしい。

「用があるのはわかるが、勝手に出かけるのはやめろ」ともる様が言う。

「お休み中のようでしたので」

「メールもあるし、書置きもできる。万一俺が夜中に起きたときにお前がいなかったら心配になると思わないか」

「申し訳ございません。以後気をつけます」

 その割に、着信も座標知らせろメールもなかった。夜中に起きる確率が万一だからだろう。もしくは大人の事情だと曲解しているか。まあ、間違いではない。

 朝食が終わったところで電話があった。ともる様のケータイ。右柳ゆーすけが付き添えなくなったらしい。ドタキャンでも異を唱えなかった理由は想像に難くない。のっぴきならない事情。右柳ゆーすけの周りで不幸があったか。それに準ずる。例えば父親に呼び出されたか。ともる様が何も言わないので質問はやめた。

 鬼立に電話を入れる。半分嫌がらせ。

「なんだ、朝から」鬼立が言う。

 眠ってた。そんな声。

「吐いたか?」

「俺は吐いてない」鬼立が言う。

 完全に寝ぼけている。主語なんか早志ひゆめに決まってる。

 回答のわかってる質問をしても面白くも何ともないのだが、挨拶代わりに。

「強情でな」鬼立が言う。

「拷問」

「たちの悪い冗談はやめろ」

「やってやってもいい。許可でも」

「断る」

 強情なのはどっちだ。そろそろ限界だろうに。鬼立の思考なんかお見通し。

 月曜から一日一本。土曜にどでかい花火が上がる。せっかくここまで積み上げたつみきをわざわざ前日に崩す理由が浮かばない。金曜。置いた場所を知りたいに決まっている。

 龍華の声がする。堂々と立ち聞き。

「用はそれだけか」鬼立が言う。

「困ったことあったら云えよ」

「吐かせろ」

 と云って切られた。最高に面白い捨てゼリフ。はらわたが捩れそう。

 早志ひゆめが黙秘を保っている理由がわからない。アトリエから指なし死体。もはや言い逃れはできないと思って諦めた。とも思えない。

 ともる様を乗せて会場へ向かう。明日ここで。と思うとそわそわする。怪しいものではありませんという証を首からかけて、一番収容数の大きなホールへ。ステージにピアノはない。それどころか肝心の亜州甫かなまがまだ来ていない。とのことでスタッフが大慌てだった。せっかくともる様が顔を見せたというのに、誰も気を遣わないのはそのせいもあったらしい。

「付き合わせて悪かった」ともる様が言う。

 文字通りにとってはいけない。送迎も付き添いも私の仕事。拒否権はない。

 ここでともる様が云いたいのは、時間通りに始まらないから時間通りに終わらないかもしれない。ということ。ともる様は時間に厳しい。

 十時から。のはずが十二時から。になりそうになったとき、亜州甫かなまが姿を見せる。二時間遅れ。スタッフはすでに疲労困憊。いくら尊敬しているとはいえ、ここまで待たされたら不快になるだろう。

 ともる様が多少お冠。

「ごーめんねえ。すぐ始めよっか」

 遅れた理由。私にはわかる。私にしかわからない。

 永片えんでは、金曜分の指をどこぞに放置してきた。鬼立の管轄に。

 さて、いつ見つけるか。今日中に見つかるか。

「悪魔くんもごめんねぇ。絶対怒って帰っちゃったんじゃないかって思ってたんだけど」

 私もそう予想していた。

 ハズレ。外れてくれて大いに結構。

「あんれ、天使くんは? 怒って帰っちゃった?」

「いえ、用事が出来たらしく」ともる様が言う。

「えー、残念だなあ。それってヤバイ感じ? 風邪とか。明日来れるよね?」

「わかりませんが、引っ張ってきます」

「そう? ならいーや。やる気出てきたっぽいよ」

 亜州甫かなまは、用意されたピアノが一向に気に入らないようで幾度となく取り替えさせる。もういい加減に、とスタッフもぐったりした頃に、ようやく気に入ったものに。

 しかし自分が弾く気配は微塵もなく、ともる様を椅子に座らせる。昨日完成したばかりのあれを所望。

 水族館から帰ったあともひたすら弾き続けて、より完璧なものになるよう高めていた。十年。ともる様のピアノを間近で聞かせてもらってはいるが、私はまるでわからない。好ましいのか好ましくないのかすら。興味がないだけ。面と向かっては云えないが。

 ポケットで振動。鬼立から。演奏中だったのが悔やまれる。曲を聴けない云々ではない。ともる様の音を聴いている亜州甫かなまの表情。それを観ていられないのが悔しい。

「見つかった?」

「なんでわかる?」鬼立が言う。

 案外早かった。からかいのつもりで言ったのだが。

「場所」

 お前の管轄。聞かずとも。

「さっき着替えを取りに行ったら」鬼立が言う。

 まさか。

「朝から気持ちの悪い」

 やってくれた。ケーサツ宛にするよりたちが悪い。

「問題は切手がなかったことだ」鬼立が言う。

「ほお、犯人はお前の家にわざわざ」

「切手どころか封筒もない」

 そのまま生でポストに。

 過激すぎる。ぐうの音も出ない。

「代わりに名前があった。嵌ってた指輪にな」鬼立が言う。

 名前? 指輪?

「聞きたいか」

「もったいつけんなよ」

 鬼立の、彼女の名前。しかも指輪は。

「俺が贈った」鬼立が言う。

「見間違いだろ。似たもんなんかそれこそ」

「名前を彫ってもらったんだ。知らないか? 買わないからな」

 さりげなく嫌味。確かに指輪なんかに興味はない。

 ケータイを持つ手を変える。左に。

 通路が喧しいので移動。ホワイエから外へ。できるだけ誰もいないところがいいが。

「俺の名前だった」鬼立が言う。

「送った奴が勝手に彫ったってのは?」

「あり得ない。日付も完璧だ。偽装なんか出来ない」

「なんでお前の名前」

 フツー自分の名前のほうを。

「やっぱり知らないか。相手の名前を彫るんだぞ。記念日と一緒に」

「つーことは、お前があんとき、死んでねえ彼女に贈った指輪に間違いねえと」

「俺の指紋が出た」

 決定打。事情がうまく呑み込めない。あまりに突飛すぎて。

 永片えんで。私の予想など遥かに凌駕。

 切り取ったコレクションの一つに鬼立から贈られた指輪を嵌めて十二年後に鬼立に送り返す。

 思い付かない。浮かばない。

 もう、最高の前夜祭。寒気がしてくる。

 春。

 雪が降ればいいのに。ハリは雪が好きだった。ツララと指はよく似て。

「どうせ暇だろ」鬼立が言う。

「どーだか」

 仕方ない。陣内ちひろの出番。リサイタルまでには終わらせる。祭も後夜祭も。必ず通しで出席する。永片えんでの晴れ舞台。念願のピアニストになれたのだから。私が観ずに誰が。

「彼女がやったのか」鬼立が言う。

 その話は、お前の顔色次第。

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