6scene:その末の彼岸
*
ヴァスクが起き上ったころには、すでに夜が明けていた。
陽の光が入るのを案じて、アンドレが閉めてくれたのか、部屋には陽光の一筋も差さない。
「いい奴なんだから」
ヴァスクは起き上がると、足音を殺しながら床に足をついた。
床に放り捨てたアンドレのベルトを拾い上げるや、そのベルトに装着された短刀を抜き放つ。
「―――吸血鬼の、最後の秘密。俺たちは、人間に強い固執を抱くと、その人間の血を飲み干したくなる」
かすかな声でつぶやきながら、短刀の柄を強く握りしめた。
「あんたに会ってるうちに、他の人間の血を、体が受け付けなくなった」
吟の刃を、その首筋に這わせた。
市街地で人を殺した吸血鬼の多くが、犠牲者の恋人や、友人である。自分もそうなるまいと、できるだけ人とのかかわりを断ち、その場限りの関係を保ち続けてきたというのに、とうとう、我が身も非業の道へと歩み出してしまった。
(だって、良い人だと思ったもの)
ヴァスクの想うそれは、直観であった。
アンドレをからかうのは面白い。抱きしめれば、よく肥えた土の匂いが、心を癒してくれる。
楽しかったのだ。
(友達になりたかったのか、恋人になりたかったのか)
感じたこともない情だけに、ヴァスクにはどちらともつかぬ。
ただ、自分が生きたいのなら、殺さねばならぬ。
しかし殺すだけというのも、呆気ない。せめてこの男を思った証を、体と記憶に残しておきたかったのだった。
首の動脈を伝う、青い筋。美しい色だった。
瑞々しい血の塩気が恋しくなる。
鍛え上げられた血は、きっと美味い。一瞬で、その寝首を掻き切ってやるつもりだった。
が、その刃を振り下ろすことはなく、ヴァスクはその場にへたり込んだ。
呼吸が妙に、整いすぎている。均一で、乱れがない。
―――起きている。
気づくや、ヴァスクは嘲笑した。
「馬鹿だな……一回ヤッたくらいで、調子乗りすぎだ。俺のために死ぬ気になったの?」
問いかけると、アンドレがおもむろに目を開け、
「私にそう思わせるのが、お前の目的なら、お前は役者だ」
と、安らかな声色で告げた。
「興覚めだ。そんなわけないでしょ」
ヴァスクは強がって見せる。
「あんたのことは、最初からちょっと好きだったし、また会いたいのも本当。そんな余裕ぶった顔は嫌いだけどね」
アンドレのシャツから垣間見えた首筋に、邪な手が伸びかける。そんな、己の手を短刀で刺し止めると、その唇に今一度、唇を重ねた。
「あんたが抱いてくれたから、もういいよ。満足だ」
どくどくと、大きくなってゆく動脈の音を遮るように、ヴァスクは閉じられたカーテンに手をかけた。
「ヴァスク」
下から、アンドレの慌てた声がする。
(ほら、その声)
ヴァスクは破顔した。
落ち着いた男が困ったさまは、愉快だ。
「アンドレ」
たまらず起き上がったアンドレに、ヴァスクは呼びかける。
「調子乗ったあんたを殺して生きるより、こっちのほうがましだ。生まれ変わってやるから、一生面倒見てよね」
言うなり、カーテンを開け放った。
眩しい。
しかし、伝承に聞くような、焼け付く痛みはまるでなかった。
心地の良い太陽の温度。
腐った土地に生まれていなければ、本来、この光を浴びて、すくすくと育つことができたのだ。
自分の体を、コートやシャツが透けた。力が抜け、アンドレの上へと崩れ落ちる。意識の朧げになる中で、アンドレが自分を悲しげに見つめる顔が見られた。
*
終戦を迎えて二年と半年。そろそろ深い秋がやってくる。
作物がよく肥えてきた時期に、ボリスがアンドレのもとを訪れた。
実に十か月ぶりのことである。
「なかなかこれなくて、すまんな」
「いいえ、こちらこそ」
アンドレはやはり、慇懃に頭を下げた。
ヴァスクが消えてから間もなく、アンドレは吸血鬼の成り立ちをしたためた手紙をボリスの許へ送り、吸血鬼の討伐から身を引いた。
内容は、戦によって腐り果てた土壌の改善だった。
汚れた泥土によって吸血鬼が生まれ、人を襲う。吸血鬼の根絶を望むなら、殺して根絶やしにするのでなく、土を蘇らせるのが先決だと訴えた。
「お前の提案はちょうどよかった。どこの国も再建に忙しくて、人が増えた。人を養うには食料がいる。商売繁盛をさせるには、農耕地を増やさねばならない、と、上の連中も考えたらしいな」
「うまくいっていますか」
「まだ、うまく草木が育たないところが多い。けど」
ボリスはアンドレの小さな畑に手を伸ばし、柔らかな土をひとつまみ、手に取って見せる。
「この間程、犠牲者が出なくなった。吸血鬼が賢くなったのか、減ったのかは知らんがな」
「それはよかった」
「そのうち、吸血鬼も消えてくれるといいな」
ボリスは立ち上がると、背を伸ばす。
事務仕事で体が鈍っているのか、軍人の面影が心なしか薄れ薄れている。
「そういえば、アンドレ」
「はい」
「園芸でも始めたのか?ヴァスクレシャヤ・リーリヤとは、ずいぶんとマニアックなの入れたな」
ボリスの指さす先、畑の中でも一番家に近い場所に、花が二輪、佇んでいる。閃光が空に向かって弾け、延びたような、細い花弁に紅色の花。それはまさしく、ヴァスクの瞳の色を溶かしたようであった。
ヴァスクが消えた後、アンドレの上に落ちてきた球根。あれを畑に植えて、今に至る。彼が生まれ変わると言ったのは、あの花のことらしい。
「ヴァス……」
いつぞや、同じ名を口にして、しかし長いからと、名を略してくれた。
聞き覚えのある名前だとは思っていたが、どうやら、この花の名前だったのだ。
「東洋では有名な秋の花だ。ヒガンバナとも言うらしい。枯れてもまた翌年には土から顔を出すから、需要も出てきてるそうで」
ボリスの言葉で、ようやく、アンドレは我に返った。
「翌年も……」
「なんだ、厭か?」
問いかけるボリスの声が、遠のいた。
“一生面倒見てよね”
ヴァスクが最後に告げた言葉の合点がいく。
一年後も、二年後も、その先も、彼は秋になるたびに現れる。一生面倒を見ろとは、そう言うことだったのだ。
「いいえ、嬉しいです……彼はこの土を、ずいぶんと気に入っていましたから」
土が気に入ったから自分を選んだのか、自分のどこかを気に入ったのか、ヴァスクの胸中など読めもしない。
しかしアンドレの耳が、あの男を忘れていないのだろう。
“まあ、悪くないんじゃない?”
小ばかにしたような、意地の悪い声が、耳の奥をくすぐった。
*
リーリヤの根 八重洲屋 栞 @napori678
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