抱擁の夜
気が付くと、自分は学生の頃に戻っていた。教室の窓際の席に座り、授業はもう始まっている。国語だった。
(懐かしいな。こんなのだったっけな)
記憶にある校舎はもっと古びて狭苦しいはずだったが、そうではなかった。どこかの創作物で印象に残った学校のイメージが理想化され、混ざり合っている、そんな気がした。
黒板に向かっていた先生がこちらを向き、私の方を指さした。
「ではそこの席から順番に。208ページの第一段落三行目からどうぞ」
「あっはい」
急いでテキストのページをめくり、声に出して読み上げる。
「…司書は言いました。『神はこの図書館の四十五万冊のうちの一冊、その一ページの中の一文字に内在しているのです。先祖代々、わたしたちはそれを探してきました。そのうちに私も
朗読は苦手だ。黙読とは正反対の技能を求められている気がする。割り振られた箇所を読み上げている間、さっぱり内容は頭の中に入ってこなかった。
一仕事終えてテキストから眼を離すことのできた私は、ちらりと教室を見渡した。見覚えのある顔もあれば、確信を持って会ったことがないと言える顔もあった。直感的に分かったのだが、これから会うことになるであろう顔もあった。
窓際の席だったので、外に視線をやることもできた。窓の向こうは、月のない真暗闇だった。教室は煌々と明かりがついていたので、窓には自分の顔も良く映っていた。
(あ、寝ぐせ)
後頭部にみょいんと生えたそれは、他人が見ても気に留めれれない程度だったが、一度意識してしまうと途端に気になる類のものだった。にくたらしいやつめ。
窓に気を取られているうちに、折り目をつけていた開いたテキストが、重力に負けて閉じてしまった。表紙裏に挟まれていた紙片に気が付いたのは、その時だった。
紙片の裏に、草書体じみて繊細な筆跡で走り書きがあった。
『補講の国語の時間に、保健室にいます。先に待ってます』
時計の針は、午前一時を指していた。授業の終わりまではまだ時間があったが、教室を出ることにした。あるいは、後頭部の寝ぐせがそうさせた。
体調不良を装い廊下に出た。ひと気は無く、非常灯だけが心細く床を等間隔に照らしていた。熱心な節電だなと感じつつ、保健室に向かって階段を下りてゆく。
夜の校舎はやっぱり怖い。そこらの夜道よりも怖いのは、長い年月を経てそこら中で悲喜こもごもが起こり、堆積しているせいなのだろう。大して何もなかった自分の学生時代の記憶でさえ、心を揺さぶられていたことは鮮明なのだ。私が今歩いている廊下の記憶している感情は、どのくらいなのだろう。
途中で寝ぐせ直しのためにトイレに入ろうとしたところ、近くにいた用務員のひとに呼び止められた。
「危ないですよ。電気をつけてからでないと。」
「えっ?」
「ほら、ここの鏡」
スイッチを押し、手洗い場が明るくなった後、用務員さんが鏡を指さした。鏡の向こうは、真っ暗のままだった。
「向こうに呼ばれたりしたら大変ですからね。出るときも電気は消さなくて結構ですよ」
「わかりました、気を付けます」
トイレから出るとき、再び鏡に目をやったが、相変わらず鏡の世界は暗いままで、寝ぐせを治すのに見づらく苦労した。鏡面に触れようとして手を近付けると、感触の無いまま鏡の向こうまで指先が入ってしまったので、あわてて引っ込める。なるほど確かに呼ばれてしまいそうだ。
やっと見えた保健室は、遠目にも明るく照らされていた。深夜のコンビニみたいに安心できる気がした。
「…失礼します」
備え付けの悪い扉をがらがらとスライドさせながら(そういえば母校の保健室もこうだった。体調が悪すぎると開けることもできないのだ)中へお邪魔すると、保険医らしきひとがシーツをたたんでいた。
「あっどうぞ。今診ますから」
見た目も声も性別のはっきりしないその人は、すぐにシーツを放り出してこちらを向いた。ちょっとした動きでも髪がさらさらしていて、寝ぐせとも無縁そうなのがわかった。。
「あの、人を待ってるんです。他にどなたか来ませんでしたか」
「少し遅れて来ると聞きましたよ。あ、椅子はこちらに」
うながされるまま座ると、先生はお茶を淹れながら問診を始めた。
「それで、どうなされたんですか」
「夢から出られないんです。もうずっと。何日も」
「夢の中であれば、期間は心配しなくていいのですよ。一晩か、あるいは一瞬かもしれませんから。その夢はどんなものですか?内容とか、印象でも」
「…いえ、意味のあるものは何も。でも、夢ってそういうものでしょう」
先生の差し出してくれた紅茶はまだ湯気が立ち上っている。窓の暗闇の向こうから、判然としないクロウタドリの鳴き声がした。
「夢にも色々あります。記憶のかけら同士の再結晶、無意識の声なき声、言い換えられた五感と代謝。あるいは」
彼彼女はそこまで言いかけてから、下を向いた。足元には黒猫が一匹、音もなくすり寄っていた。
「この子、貴方の待ち合わせてる人のじゃないかな。ほら、ここの首輪のところに」
首輪には鈴と、紙片がくくりつけられていた。
「…前と同じだ。ええと…『都合が悪いのでうちまで来てくれませんか』?」
「やっぱり。遅くならないうちに行ってあげたら」
「でも、住所知らなくて」
「この子は乗り気みたいだけど」
再び先生の足元を見ると、黒猫は裏口の方に身体を向け、こちらをじっと見つめ返しているのだった。
「ええと、じゃあお暇します。お茶、おいしかったです」
「ええ、お気をつけて」
「あの…さっき診てくれた時、なんて言いかけたんですか」
先生は困ったような笑みを浮かべた。
「あれなら、いえ、大したことではないんです。ただ…その夢は貴方が見ているものではないかもしれないので」
「私のものではない夢、ですか?」
「他の誰かが見ている夢で、貴方もその一部だったら…どちらにせよ、私からはなにもできなくてごめんなさい。…とにかく、お大事になさってくださいね」
「いえ、話せて少し楽になりました。それでは」
戸口が開くと同時に飛び出した黒猫を追って、少し急ぎながら外の空気を吸う。静かで、暗かった。等間隔に並んだ街灯が一応、道を照らしてはいた。それも明滅したり途切れがちだったので、目の前をゆく猫の鈴の音だけが頼りだった。
やがて、いつしか街灯もない道に出た。時間もまた、溶けるように流れていった。一匹と一人の夜行は、このまま百年も続きそうだった。
鈴の音だけが、広がる暗黒に鳴り響いている。いつまでも。どこまでも。
星々のねむる間に go_home_journey @mukaihikisara
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