明日はもういらない

すっかり下車するタイミングを逃してしまったな。男は列車の三等席に座りながらそうこぼした。


周囲に客は彼一人。他に車両への移動は、いつの間にか禁じられていた。あるいは最初からだったかもしれないが、どのみち男は興味を持てずにいた。


椅子は固く、そこらじゅう埃だらけだ。のどの渇きは強まる一方で、そのくせじめじめとしたカビっぽいよどんだ空気のせいで、嫌な汗ばかりかいている。建付けの悪い窓はろくに動かない上に音漏れが激しく列車が風を切って走る騒音はしっかり奏でてくる。


乗った最初はこうではなかったはずだと、男は思い返していた。外から見た車体はそれなりに磨き上げられていたし、快適な旅を約束するとパンフレットにも書かれていた気がする。


そうこう考えているうちに、また列車の揺れがひどくなってきた。この揺れも男には頭痛の種だった。ひどく疲れているというのに、まるで眠りにつくことが許されないのだ。しばしば不規則なタイミングで大きく揺れ、男の思考をかき乱したりもした。


男の心を唯一喜ばせたのは、窓の外の景色だった。ある時は摩天楼立ち並ぶ市街、またある時は緑あふれる田園風景、細かい傷だらけでところどころ曇った窓ガラス越しでさえ、目に映るあらゆるものが不思議に魅力的に思えた。


食い入るように男が外を眺めていると、突然視界が真っ暗になった。トンネルの中だ。彼は迷わずため息をはいた。自分でもどうかと思うくらい、重く長いため息だった。


「切符、拝見いたします」


ひどく骨ばった手が、視界の外から伸びてきた。


男はめんどくさげに懐から切符を取り出し、目も合わせず車掌に手渡しながら、ふと口を開いた。


「あのう、次の停車駅までどのくらいですか」


「後はもう終点だけですよ。途中停車駅は全部過ぎました」


この返答は男にとってショックだった。


「そんな、全然気づきませんでした。降りたかったのに」


「残念ですねえ」


共感の欠片もない口ぶりでそう言いながら、車掌は切符を突っ返してきた。


「それに、随分静かな列車ですね」


「それはまあ、これは貴方の便ですから。お客さん、誰も誘わなかったし誘われなかったんでしょう?短いようで長ったらしい旅になりますよ、無事に着くかも分かりませんが」


「えっ?」


思わず顔を上げて車掌の顔を覗いた。その手と同じかそれ以上に骨ばった相貌。骸骨の形があまりに浮き出ているために、生きた人間の印象が完全に打ち消されているような、要するに死体じみているのだった。


車掌は無表情のまま滑るように隣の車両へ消えていった。後ろ姿を見て、あれは己自身の亡骸なのだと、男は悟った。


車中の汚れも騒音も空気のよどみも、ますます酷くなってきた。いまにも車両丸ごと走りながら分解してしまいそうだな、とひとりごちながら、彼はしかしまだ席に座り、ただ不快に耐えていた。


弱った身体を抱きしめながら、自分はどうやら決断を迫られているようだった。

あたたかい光が差すのを感じ、窓の外にふと目を向けると、列車は海の上を走っていた。


これ以上ないほど濃いオレンジ色の夕陽が半分、地平線の向こうに佇んでいた。空と海は、夏の夕暮れ色に塗りこめられて一つになっていた。


「ここがいい」


腐りかけた足に鞭を打って立ち上がり、扉の前に立った。最後の力をふり絞り、力づくでこじ開けると、薄汚れて曇った窓から見えるよりずっと綺麗な夕闇が、潮風の匂いとともに五感を刺激した。


男は、列車を降りた。




無限に続くたそがれの水面に、死骸が一つ、ぷかぷかと浮かんでいた。物言わぬそれは誰にも気づかれぬまま、しかし景色と全く一体化したまま、いつまでもゆらめいていた。

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