星々のねむる間に
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夢の中にも死してあり
目が覚めなくなってから、もう二週間になる。
今朝も朝の光を感じながら目を開けると、また夢の中だった。
夢にしては随分はっきりした意識があるのを感じながら、殺風景な自宅のベッドで天井を見ている。現実のそれと比べると、どれも造形があやふやで、部屋にあるものは何一つとしてはっきりした輪郭線を描いてはいない。
何の模様もない天井を見つめていると、人間の顔が現れては消えてゆく。親しい顔も、懐かしい顔も、見たこともない顔も。あんまり面白いものではない。ただ整理されていない記憶が夢として浮かんでいるだけなのだろう。
「おはようございます」
誰もいない灰色の空間でそう呟き、時の止まったような朝を迎える。モノクロの目覚めが少しだけ彩度を取り戻した気がした。
喉の渇きを感じて冷蔵庫を開けると、古くなった牛乳と一緒に紙切れが入っていた。
“201850933”
今日の日付がそっけなく走り書きされている。誰かが置き忘れていったものだろうか。牛乳の残りを飲み干しながら、メモをポケットに突っ込んだ。忘れ物なら、返さなきゃね。
寝間着のままだったが、かまわず玄関の扉を開く。使い古しのパジャマは、いつの間にか何の飾り気もないワンピースに変わっていた。どこを見ても縫い目一つない。
今日の玄関先は、駅前の交差点だった。朝だというのに人の姿はまばらで、その人影も粘土細工みたいに現実味と精彩を欠いていた。
いつだったか、わたしもあんなあやふやな人型になって暮らしていた気がする。あるいは、今でも実はそうなのかもしれない。自分を夢の中の主人公と思っている精神異常者。
夢から抜け出せなくなったことに気づいても、不思議と感慨は沸いてこなかった。現実に戻りたくないわけではなかった。強く望むことができないのだ。あらゆる心的状態が羊膜につつまれ、意識が低いままぼんやりと夢の景色に振り回され、風に揺られる葦のように一足遅れで心が揺れる。
いつの間にか交差点の風景はかき消えていて、あたりは暗くなっていた。遠くに非常灯の緑色がぼんやりと輝いている。天井は低くて鉄骨がむき出しだ。ここが地下駐車場だと気づいたのは、暗闇に目が慣れてからだった。
白。黒。銀色。飾り気のない車ばかりが並んでいる。どうしてどれも似たような色なのだろう。
「理由や意味なんて有りはしませんよ。ただそういう景色が目の前にある。それだけです。夢であろうとなかろうと」
背後で、穏やかな男性の声がした。振り向くと、並んでいる車の一つのボンネットを開き、中を覗き込んでいる初老の紳士が見えた。闇に紛れて顔は見えなかったが、白い髭がかすかに見えた気がした。
「それは、わたしが記憶がそうさせているから。…赤いですね、貴方の車だけは」
「最近はどなたも地味な色の車ばかり乗り回していますな。嘆かわしいことです」
老人は微苦笑を浮かべた。ボンネットが閉まる。ヘッドライトが点灯する。
「失礼ながら、この辺りでは見かけない顔ですな。何かお探しですか。」
「この夢から覚める方法を探しているんです」
「ほう、夢ですか。現に今ここで起きて歩いて私と会話してるじゃありませんか」
「でも、ついさっき夢が云々とおっしゃりませんでした?」
「心を読んだだけです。ともかく見たところ、貴女は大変正常に目覚めていますよ」
目の前の老紳士は、さも当然のようにここが現実だと思っている。闇の中で、ヘッドライトに照らされた笑みだけがくっきりと浮かんでいる。
「お嬢さんはお疲れのようだ。どこかで一休みするといいでしょう。出口はあちらですよ」
運転席に腰を下ろしながら老人の指さした先に、エレベーターがあった。エンジンの駆動する音が、けものの唸り声のように低く小さく響く。
「それでは失礼。」
赤い車が発進した。静かに流れるように加速していき、車は瞬く間に小さくなっていく。走り去った跡にも、あざやかな赤色が焼き付いている。暗闇にはるか遠くまで輝く、一本の赤い光線。
気が付くとわたしは、上昇するエレベーターの中に突っ立っていた。ドアの脇にあるボタンは、屋上階を示すRの文字だけが点灯していた。他にはボタンは無い。
到着を告げるチャイムが鳴った。押し下げるような圧迫感が止まり、ドアがゆっくりと開く。
屋上は、最近見てきた景色と同じくらい殺風景だったが、あやふやではなかった。ここ何日か感じたこともなかったほどリアルな感触があった。ビルの谷間を駆け抜ける風音は強く高く、今にも大気を切り裂いてしまいそうだ。重く垂れこめた鉛色の空は、雨が降っていないのが不思議なほどあたりを暗くしている。
目の前に、橋がかかっていた。橋の先に何があるのかは分からなかった。
「確かめなきゃいけないってことか」
理解したわたしは、橋を渡り始めた。足が重い。一足ごとに重力が力を増す。必死に前進しているのに、橋の先はまだ見えない。それどころか、ますます遠ざかっているみたいだ。気が付けば、緩慢になった足は地面に接してはいなかった。歩いているのではなく、落下している。どうして気づけなかったのだろう。
頭を上の方へ向ける。無機質なアスファルトの地面がみるみる迫って来る。固そうだと思った。ぶつかるときは痛いのかな。それとも、寸前で気を失うのかな。それにしてもだまされた気分だ。せっかく呼ばれた通りに渡ったのに、こうやって落ちていかなきゃいけないなんて。
これから地面のシミになるというのに、走馬灯は現れる素振りもなかった。それとも
、今見ているこれがそれなのだろうか。
頭上の歩道には、少なくない数の人間がひしめいているけれど、だれも上方に注意を払ってはいなかった。せいぜい驚かしてやろう。
ふと、視線が合った。子どもだ。男の子か女の子かも分からないが、その子だけは空を見上げている。
困ったな。私がこなごなになる瞬間を、あの子は見ることになるだろう。数秒後には死ぬというのに、なんだか申し訳ない気持ちになった。何か埋め合わせられないかな。
ぶつかる数秒前に思いついた。さかさのわたしは目を合わせたまま、笑顔を作って手を振った。死ぬ瞬間まで作り笑いするなんて、情けないけれど。少しはあの子の心を傷つけずに済めばいい。それが最期の思考だった。
『…警察が現場に駆け付けたところ、現場に年齢不詳の女性が倒れており、間もなく死亡が確認された。自殺と思われる…女性が飛び降りたと思われる雑居ビルの屋上は施錠されておらず、遺書は見つかっていない…警察は身元を確認中。』
現場の周囲はどこも封鎖されていて、とても近寄れそうにはなかった。自分の死体が見れるチャンスだと期待していたので、少しがっかりだ。
踵を返して通りを曲がると、あの老紳士とばったり出くわした。
「おや、先日お会いしましたな。お変わりありませんか」
「おかげさまで。死んでみたけど、やっぱり夢は覚めませんでした」
「死ぬのは初めてでしょう?死後の体験が夢か現実かなんて、どうして分かりましょう」
「じゃあ、これは現実で、わたしは死んだのかな」
「さあ…私にも分かりませんよ。若い方の死なんて。しかしこうしてまた会ったのも何かの縁ですかな。どうでしょう。旧い友人が喫茶店だかサロンだかよくわからんものを始めましてな。顔を出せというのでこれから行くところです。ご一緒しませんか」
「…甘いものがメニューにあれば」
「作らせますよ。無いとは言わせません。気の利いた店にしてやるとしましょう」
老紳士はステッキを軽く振ってエスコートする素振りをみせた。死んだ人間でも食べられるお菓子は何があるのかな、なんて思いながら、私は導かれるまま彼の背中を眺めていた。
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