第7話
「お話し合いの首尾は、いかがでしたでしょうか」
いつも微笑んでいるような顔で、白衣の女はイェズラムに訊いた。イェズラムはそれにも頷いて、静かに答えた。
「変わりありません。二人だけだ。ひとりは処分しなければなりません」
「まあ」
困った顔でつぶやく、乳母の眉間に現れた皺は、ずいぶん深かった。
「もうしばらく、お待ちいただくわけにいは参りませんでしょうか」
「待っても構いませんが、ここで英雄として育てられるのであれば、名を与えねばなりません。名を与えれば、俸禄を与えねばならず、その食い扶持は二人ぶんしかない。可哀想だが、今年はもう、満員だ。育ったのを始末するのは、哀れなので、今のうちがよい。丈夫で、よく乳を飲むのを残します」
「皆様、お健やかです」
頑とした、母のような声で、乳母はイェズラムに答えた。
「今一度だけ、お話し合いください。今一度だけ」
「そうですね。だが、話しても無駄だろう。それとも俺が今夜、自決して、その扶持を三人目に譲ろうか」
イェズラムが困った顔でそう言うと、乳母はまた、うっすらと微笑んで、イェズラムを見た。
「皆様で、お話し合いください。今夜。族長閣下にも、ご機嫌の良い時を見計らって、今一度。どうぞよろしく、お願いいたします。エル・イェズラム」
袖の中に手を隠し、年かさの乳母は、再び深々と、イェズラムに腰を折ってみせた。
苦笑とも、苦渋の顔ともつかない表情で、イェズラムは壁際の、一心に乳を飲んでいる赤ん坊のほうを見ていた。静まりかえった部屋に、赤子をあやす女たちの穏やかな歌声が、ゆったりと流れていた。
「ギリス、憶えていまいが、お前もここの出身だ」
イェズラムはそう言って、ぼけっと飴を食っていたギリスを、微笑む
「まあ」
面白そうに言ってから、乳母はギリスにも、深々とお辞儀をしてくれた。それはギリスが、英雄だからだった。赤ん坊のときでも、頭に石のある子は、王族たちと同じく、いち官僚である乳母や女官より、高い身分にある。だから、向こうにはギリスに頭をさげる必要があるが、こちらにはなかった。しかしギリスはなんとなく、そうしないといけない気がして、かすかな答礼を、乳母に返した。確かイェズラムも、そうしていたような気がしたからだ。
「大きくおなりで。一時はどうなることかと」
「貴女が俺を脅すので、怖ろしくて殺せなかった」
「嘘です。貴方は情け深いお方です、エル・イェズラム。それにこの子も幸運でした。たまたま不作の年に、王宮にやってきて。例年であれば、おそらくは、産着のままで死の天使の
「まあ結局は運さ」
「違います。貴方のご尽力の結果でしょう」
「この子に関してはそうかもしれないな。しかし現実には、助けた子よりも、始末した子のほうが多い」
「それは貴方のせいではありません」
淡々と、イェズラムを論破する微笑の女を、ギリスは飴を舐めながら、じっと見上げていた。
イェズラムも、面白そうに乳母の顔を見ていたが、それ以上はもう、反論をしなかった。
「
「それはそれは。辛抱強いのだけが、俺の取り柄ですので。かつて世話してくれた
軽口のように言いながら、口寂しくなったのか、イェズラムは自分も煙管を銜えかけたが、乳母がそれを咎めるように、えへんと咳払いをしたのに気付いて、火口から、火を入れようとしていたのを、宙に浮かせていた。
「どなたからお産まれになろうとも、
「知っているんですか」
顔をしかめて、イェズラムは乳母に尋ねていた。しかし乳母は、素知らぬ顔で、しれっと答えた。
「存じません」
「そうですか」
深い息をついて、イェズラムは撤退した。ギリスは見上げる視線で、それを眺めていた。
「昔から時々、思うのですが、もしや貴女が俺の母親なのではないかと」
「違います」
「そうでしょうか。梃子でも動きそうにないところが、そっくりなような」
「違います。英雄をお産み申し上げた女は乳母にはなれないしきたりです」
また、あっさりと論破されて、イェズラムはため息をついていた。
そして、よっぽど口寂しくなったのか、愛用の長煙管を帯の煙草入れに仕舞うと、懐に残っていた七色の飴を、イェズラムは取り出した。かさこそと微かな音を立てて、飴を包む七色の紙を剥き、
飴を食っている
「王宮には難攻不落の場所がいくつかあってな、ここもその一つだ。よく憶えておけ、エル・ギリス。俺の死後、いずれお前がこの戦いを引き継ぐことになるかもしれぬ。新星の射手として、あるいは、どこかの派閥か、長老会の
「そんなことあるのかなあ、イェズラム」
飴を喰らったままの声で、ギリスはぼそぼそと訊いた。
「そういうことになればいいと、俺は思うよ。頭のいい奴や、魔法の切れ味のいい奴はいるが、自分より弱い者に気前よく、菓子の自分の食い扶持までくれてやる奴は、滅多にいないんだ、残念ながらな。お前ならきっと、次の時代の弟たちを、守ってくれるんじゃないかと、俺は期待してるんだ」
腹を満たして、寝床に戻されにきた赤ん坊を、イェズラムは飴を食いながら、じっと見ていた。それは、ここの他では見たことがないような、子煩悩なような目だった。
それが、先程、
じゃあ、俺もイェズラムみたいになれるだろうか。血は繋がってないけど、一応、
「まあまあ。お食事の前ですのに、おやつを召し上がったりして。悪い子ですね」
怖い顔を作って、乳母頭はイェズラムにそう言った。叱られてるようだったが、イェズラムは何が可笑しかったのか、参ったふうに笑っていた。
「急いでお着替えなさいませんと、晩餐に間に合わなくなりますよ、エル・イェズラム」
「わかった。退散しよう。その前に、ギリスに
やんわり叱られ、長老会の
甘い、乳の匂いのする女が、腕に抱いている小さいのを、腰をかがめてギリスに見せにきた。
飴を食うかと、ギリスは赤ん坊の口元に、黄色になった飴玉を、もっていってやったが、あらまあと笑った乳母に止められて、せっかく興味を示していた赤ん坊から、虹の飴を遠ざけられてしまった。ギリスはがっかりして、可哀想になと同情し、つるりと光る濡れた蛇眼の、真っ白い赤ん坊と見つめ合った。
赤子はもちろん、元服前の、透けるような肌色だった。それが
その顔のまま見上げると、イェズラムも淡いくつろいだ微笑だった。赤ん坊ではなく、ギリスを見つめて。
「可愛いなあ、イェズ。俺もこんなのだったの?」
「どんなのだったかなあ、お前は」
曖昧なことを言って、イェズラムは懐かしそうな顔をした。
「皆様、はじめは、こんなのでしたよ」
乳母頭がそう請け合うので、ギリスはなにやら気恥ずかしく、嬉しいような気になって、呟いた。
「そうかあ……俺って、可愛かったんだなあ……」
それを聞き、イェズラムが堪えきれないふうに吹き出したのを、ギリスはきょとんと見上げた。あははと、声をあげて笑い、
「お前はまだまだ可愛いよ。いつになったら大人になってくれるのだろうな。俺の命が足りるかどうか」
皮肉に言って、まだ笑っているイェズラムの話を聞くと、ギリスはまたほろ苦い、
「飯に行こうか、エル・ギリス。ここだけの話、今夜は俺の女房が、熱く燃えてる日なんだ。欠席なんかしようものなら、半殺しにされる。俺やお前の一票も、あいつの計算に入っているのだからな?」
「半殺しなの?」
ギリスはびっくりして、イェズラムに訊ねた。
「
ここだけの話を、イェズラムはしているようだった。イェズラムとできている、エル・エレンディラは、雷撃の魔法戦士だ。しかしまさか、その雷撃で、イェズラムに焼きをいれてるとは。
「それでは母上、ごきげんよう」
「朗報をお待ちしておりますからね」
ぴしりと念押しする乳母頭の微笑に、イェズラムは頭を下げていた。
そして、二人ですごすご去る時も、イェズラムは堪えたような、笑みだった。何かよっぽど、可笑しいらしかった。
「格好悪いだろ俺は、長老会の
にこにこしながら、イェズラムは秘密めかして、ギリスにそう言った。
「そんなことないよ、イェズラムは格好いいよ。今日のことは、俺とイェズの、秘密にしておけばいいよ」
「そうしてくれるか」
横目にギリスを眺め、微笑んでそう訊くイェズラムに、ギリスはうんうんと、深く頷いて見せた。
「そうか。いい子だな。これは口止め目的の賄賂だ、お前にやろう。当たりが出たら、もう一本、
懐に残っていた、七色の飴の束を、イェズラムはギリスに全部くれた。
それは沢山はないが、ギリスは子供部屋の連中に、分けてやろうと思った。これは宮廷では見かけないような、物珍しい市井の味で、皆、喜ぶだろうし、それに甘いものというだけで、いつも空きっ腹のみそっかすたちには、嬉しいものなのだ。数は足りないだろうけど、甘く香る煙をくゆらす銀煙管を、回しのみする大人たちのように、皆で交代に食えばいいよ。そしたら一人で食うよりも、きっと面白いだろう。
そんな自分をイェズラムが、また褒めてくれるかと、ギリスは期待して、並んで歩く
イェズラムはまだ、そこにいた。英雄でもなく、長老会の統率者でもない、ただの頼りがいのある、
ふと思いついて、すぐ脇にあるイェズラムの手を、ぎゅうっと握ると、イェズラムは
礼服に着替えて
やがて投票が行われ、エル・ファランジールは裏切らなかった。
雷撃びりびりのエル・エレンディラが勝利して、乳のある英雄でも、族長を選ぶ選挙があるときには、投票に参加してもよいことになった。
上機嫌になったエレンディラは、派閥の
居室に帰った鏡の前で、ギリスはそれと同じ頭の下げ方を、ちょっと練習してみた。しかし大人たちのやるように、優雅にとは、いかなかった。
しかしまだ、時はあるだろう。あればよいがと、今夜の天使に、ギリスは祈った。
ギリスはいつもと同じそのことを、熱心に祈り、寝床に入った。リーン、リーンと、硬質な美しい音色が、時を告げていた。うとうとと眠り込みながら、ギリスが数えると、それは王宮に消灯を命じる、第二十二時を告げていた。
【おわり】
「甘やかなる七色の日常」カルテット番外編 椎堂かおる @zero
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