第6話
「ねえ、せっかくですから
「気が変わるなら変えてもいいんだ。まさかエレンディラも得票のために、俺に身売りしろとは言うまいよ」
渋々とぼやきながら、イェズラムはまた、散らかった女部屋の床の、空きのあるところを拾い歩きつつ、見慣れぬ
横目ににっこりと、秋波を送ってくる女英雄もいた。ここは凄いところだなと、ギリスは感心した。確かに
「もうっ、意気地がないのですね、エル・イェズラム。もう撤退ですの?」
苛立った声で、エル・ファランジールが上座から怒鳴っていた。肩をすくめて、イェズラムは怯えたふうな仕草を作った。
「そうだよ。お前らより、
言いながら去る、
それに走ってついてきていたギリスが、少々遅れをとったあたりで、イェズラムは立ち止まり、養い子が追いついてくるのを、待っていてくれた。
ギリスはすでに甘い味のしなくなった、七色の飴の軸を、まだ口に銜えたままで、
「イェズラム。あれでファランジールは、イェズの都合のいいほうに、投票するの?」
「さあ、どうかな。知ったことじゃないさ。何もしませんでしたでは、後が怖いから、何かしにいっただけさ」
「後が怖いって、
うっかり口を滑らしていた
「怖くないよ、女は。みんな優しいよ」
「そうだな。お前は俺より大物になりそうだ」
「そうかなあ。そんなの無理だよ。だって俺、馬鹿なんだもん」
照れながら、ギリスは褒められた嬉しさで身を捩っていた。それを笑いながら見て、イェズラムがギリスの歯の間にある、飴の軸を引き抜いてきた。
そこにあった飴は、すっかり溶けてなくなっていて、七色の飴だったはずのそれは、ただの竹の軸になっていた。そして、その、元は赤い飴玉が突き刺さっていたところに、焼き印らしきもので、焼け焦げた星印がくっきりと、捺されているのが見えた。
「当たりだ。初めて見た」
びっくりしたように、イェズラムは片方だけの目を、見開いていた。
「当たりなの?」
イェズラムが握っている飴の軸を、いっしょに覗き込もうと、ギリスは
「当たりって、なに?」
「当たると、もう一本、ただでもらえる」
「どうして、ただなの?」
「幸運の星なんだ。遊びだよ」
しげしげと、焼き印の星を見るイェズラムは、ものすごく真剣な顔をしていた。飴がもう一本貰えるくらいで、
二本目のをくれるとき、
まだ沢山あるのに、どうしてイェズラムは、ただでもらえる飴なんか欲しいのだろう。飴なんて、自分では滅多に食わないくせに。
「ギリス、悪いんだが、これをもらってもいいだろうか」
「いいよ。もともとイェズが買ってきたんじゃん」
真面目に頼んでくる
「すまないな。昔から、どうしても気になっていたんだ。この飴に、本当に当たりがあるのかどうか」
昔からと、
一体なにが懐かしいのか、それは問うまでもなく、すぐに分かった。
着替えるといって、
族長リューズ・スィノニムは、イェズラムを見つけると、足を止めた。
いつものことだった。族長はイェズを無視しては通り過ぎない。よほど急いでいれば別かもしれないが、よほど急いでいるように見える侍従が泣きそうな顔をしていても、
その時も、侍従はいらいらと、焦る顔色だったが、族長はといえば、優雅なものだった。
「選挙だそうだな、エル・イェズラム」
上座からの声で、ギリスが立位の略礼を終えるのを待たずに、族長は声をかけてきた。その、他より真っ白い、まるで古代の
「もめているそうだな?」
「もめてなどいない。もう収まった」
素っ気なく答えるイェズラムの声に、族長はむっとしたようだった。
「そうか。それは何よりだったな。さすがは敏腕の
「なんでも得意だ、俺は」
つんと澄まして、イェズラムは答えていた。せかせかと、冷や汗を垂らしている侍従を、気の毒そうに、横目に見ながら。
「つまらんな。今夜の晩餐は荒れ狂うのかと、恐れていたのだが。お前は見張りに来ないのか」
「行く。いつまた出火しないとも、限らんので」
静かに答える
「ふうん」
歯を見せて笑う、その悪戯小僧みたいな笑みは、いつも族長が、太祖から継承した玉座の上で、皆に見せてやっているものとは、全然違った。
「それはそれは。いつも正装を嫌って顔を出さないくせに、内輪の投票ともなれば、致し方ないな。高座にお前の
「嫌みを言うな。行き合ったついでだ、これをやろう」
帯にさしてあった、幸運の星印の飴の軸を、イェズラムは引き抜いて、向き合って立っている行列の中の、族長に差し出した。
それを侍従が取り次ごうと、手を出しかけたが、族長リューズは先程の
「当たりだ。そんな馬鹿な」
囁くような小声で、族長は早口にそう言った。イェズラムは無表情に、ただ頷いていた。
「お前、作っただろう、これを。ずるいぞ」
噛みつくように、族長はひそひそ言った。その族長らしからぬ振る舞いに、イェズは顔をしかめていた。
「そんなことをするつもりなら、二十年前にやっている。これは本物だ」
「二十年以上も一度も当たりが出ていないのに、今さら出るわけがない!」
どうでもいいような事なのに、族長は本気で怒っているようだった。声こそ潜めているものの、もっと踏み込んでいいなら、イェズラムに詰め寄ってきそうな気配だった。
しかし、当代の星には威厳が必要で、族長が護衛でない者に肉薄してよいのは、後宮の
だから詰め寄られて、イェズラムはそのぶん、一歩二歩と後に退いていた。
族長はたまに、腹に据えかねることがあると、
族長というのは、もっと、有り難いものだと思っていた。天使が聖別した、部族の支配者なのだから。
しかし、だらだら長居をしすぎて、イェズラムに、さっさと帰れと叱られている時の族長リューズは、ギリスとも大差なかった。ただの
「この二十年、毎日飴を食って生きてきたわけじゃない。久しぶりで、たまたま買ったら、当たりが出たのでな」
ちらりとギリスに目をくれて、イェズラムは続けた。
「ほんとは、こいつにやった飴なんだ。しかし、くれるらしいので、感謝して、ありがたく拝領しろ」
「そうか……すまないな、小さい我が英雄よ」
微かに目が泳ぐ族長は、ギリスの名を知らないらしかった。それも当然だ。ギリスにはまだ
「エル・ギリス」
それでも、ぴしゃりと叱るような声色で、
「エル・ギリス。ひとつ借りだな」
「俺の宝物なのに」
ギリスは恨んでそう言った。イェズが欲しいというから、分けてもいいかと思ったのに、まさか玉座に献上するとは。そんなの聞いてない。
「すまないな。何か褒美をとらせよう。何がいいだろうか、エル・ギリス」
にこやかに、族長は訊ねてきた。
「馬がほしいです、閣下。足が速くて、誰よりも先に、先陣が切れるようなのを」
ギリスが頼むと、族長は頷いた。
「エル・ギリスに、王宮の厩舎より、名馬をとらせよ」
気前よく、侍従にそう命じて、族長は連れ歩く官服の群れに、お辞儀をさせていた。
それはたぶん、とても名誉なことだった。族長の厩舎には、並み居る名馬が繋がれていたし、その血筋は、古い
きっと風のように走るだろう。
それでも急に、とりあげられた幸運の星が、惜しい気がして、ギリスはもじもじした。しかし今さら返せとは、言ってはいけないのだろうし、イェズラムも恥をかくのだろう。
仕方がないので、ギリスはじっと俯いていた。
族長は上機嫌に、もらった幸運の星を、黄金と
「やめろ、リューズ。馬鹿みたいだぞ」
小声で鋭く
「ふん。そんなことを思う奴がいたら、斬首にしてやる。俺に文句のあるやつが、この宮廷にいるものか。お前のほかにな、エル・イェズラム」
ふっふっふと含み笑いする声がして、そして衣擦れの音がした。族長の行列が、また進み始めるようだった。
「飴にまつわる賭は、俺の負けだな、イェズよ。なんでもいうことを聞くよ」
行きすぎようとするまま、振り向いて、族長はイェズにそう言った。
「ではそれを髪に挿してるのをやめてくれ。族長冠を帯びる頭がそんなふうでは、墓所の祖霊が嘆かれる」
イェズラムがそう頼むと、族長はますます笑って、ついさっき挿したばかりの幸運の星を、おとなしく引き抜いていた。
そして、これでいいだろうと見せつけるように、取った飴の軸をイェズラムに示しながら、族長は立ち去った。高座に匂う、祖先伝来の
「イェズラム。族長にも、この飴をお土産にしたの?」
「そうだ。即位するずっと前の話だ。子供の頃、あいつはいつも、腹が減っていたんでな」
「王族なのに? よっぽど大食いなんだね」
厳しく育てられる英雄達と違って、王族は甘やかされている。食いたければ、食事も菓子も、ふんだんに食えるし、何不自由がない。それでもまだイェズラムに、菓子をねだるとは。イェズが茶会の菓子を食わないのも、嫌いだからだと本人は言うが、たぶんそれは事実とは違う。
茶会で食いきれなかった菓子は、懐紙に包んで持ち帰るのが作法だが、イェズはたぶんそれをずっと、
今では大して食ってるようには見えない族長にも、そんな
「イェズラムにも、子供のころって、あったの?」
不思議に思って訊ねると、
「あったよ。俺もお前と同じように、赤ん坊の時にこの王宮に連れてこられて、英雄としての名を授けられた。そしてここで育ったんだ」
「信じられない。イェズにも幼髪の頃があったなんて。最初から
ギリスは真面目に話していたが、イェズラムはそれが、可笑しくてたまらないようだった。くつくつと笑うイェズラムを連れて、ギリスは英雄たちの引きこもる、自分たちの縄張りへと戻る道を、小走りの足取りで行った。
「そんなことはない、エル・ギリス。皆はじめは赤ん坊で、やがて大人になって、いずれは年老いて死ぬ。それが世の道理だ。生まれつき賢い者も、なんでもできる者もいない。皆、それぞれ努力して、人並みになっていくんだ。それは族長でも、英雄でも同じさ」
珍しく、にこやかに歩くイェズラムは、部屋に着替えに帰るのかと思っていたら、それとは全然別のほうへと、ギリスを連れていくようだった。どこへ行くのか、訝しみながら、ギリスは行き先を尋ねはせず、おとなしくついていった。イェズラムが連れていくところなら、どこへ行こうと構いはしなかった。どこへ行くときも、どこへ行くのか尋ねようという気が回らないことが、大抵だった。
それに、
「お前もいつか、一人前の英雄になるだろう。そのとき俺は、もうこの世にいないだろう。そういうものだ、ギリス。さっきの飴の色が、次々変わるみたいにな、赤の時代が終わって、次の色に変われば、前の赤は、もういない。だけどまた、新しい時代の色合いと、それ独特の味わいがあるさ」
歩きながら、新しい飴を懐から出して、油紙を剥きながら、イェズラムは諭す口調で話していた。食うかと差し出された真っ赤な飴を、ギリスは受け取って、それをまた口に入れた。甘い
黙って聞きながら、飴を食っているギリスの背を、イェズラムの腕が、やんわりと押していた。それに案内されて、連れてゆかれた部屋には、盛大に泣き喚く声が、満ちあふれていた。
がらんとした清潔そうな部屋の中に、丈の高い囲いのある机のようなものがあり、その側には、肩布のある白い前掛けをして、結い上げた髪をやはり白い布きれで包み込んだ、女たちがいた。
やけに胸の大きい女だなと、ギリスは思った。エル・ファランジールよりも、でかい。
それもそのはずで、彼女らは乳母だった。囲いの中で盛大に泣いているのは、赤ん坊だった。額に赤い石のあるのと、青いのと、黄色いのとがいた。
その赤ん坊たちは、身も世もなく泣いていた。体を引きつらせて泣いている、
乳母の乳房を含ませられると、赤ん坊は瞬時に泣きやんだようだった。腹が減っていたらしい。そういえば俺も腹が減っていると、ギリスは思った。よしよしと、歌うように言ってやって、赤子をあやしている乳母の声が優しく、羨ましかった。俺も誰かにそんなことを、言ってもらっていた頃が、あったろうか。あったのだろうけど、憶えていない。気がつくと、子供ばかりの大部屋にいて、いつも誰かと、争っていた。
「皆様、お元気で、順調にお育ちです、エル・イェズラム」
赤ん坊をつれていった女たちの、束ね役であるらしい、歳をとった女が、イェズラムに深々と腰を折ってから、そう報告していた。イェズラムはただそれに、頷いてみせていた。
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