第5話

「まったくなあ……お前はなんで昔から、俺の取り巻きに手を出すんだよ。それも大の男ならいいよ。誰と寝ようが、そいつらの勝手だ。でも、この子はどうだろうな。お前にはこれが男に見えたのか」

「十二ともなれば立派に大人です」

 つんと顔を背けて、エル・ファランジールは気位高そうに答えた。でもその鼻先が、微かに震えて見えるのに、ギリスは気がついた。この人は高飛車で、偉そうだけど、実際にはそうでもない。ふたりっきりで布団に籠もると、急に気弱で、優しくなる。

 イェズラムはそれを知らないから、厳しい声で怒鳴れるんだろう。まるでほんとに怒ってるみたいに。

「大人か。そうだな。昔はな。訳もわからんうちに、誰も彼も大人ということになっていたさ。十二、十三ともなれば、麻薬アスラも吸ったし、戦場に出て人も殺した。夜の玉座のダロワージで大人の真似事もするさ。でも、お前はそれが、幸せだったか?」

「幸せでしたわ。たくさんの英雄と恋もしたし! あなたみたいな偏屈とは、全然違う本物の英雄ばかりでしたわ」

 ぎゃんぎゃん噛みつく犬のように、エル・ファランジールは養父デンと話していた。それでもイェズラムは、からになった煙管に新しい葉を詰めていて、その話を真面目に聞いてるようには見えなかった。

「お前は便所にされただけだよ、ファランジール。女だから知らないだけだ。男どもがお前のいない、男ばかりの派閥の部屋サロンで、お前のことをどう言っていたか、知らないからこそ幸せだったのさ」

 それを何もかも知っていた顔で、養父デンは不愉快そうな表情だった。

「知るわけないでしょう。そこは男の聖域で、女どもは近寄るなって、そういう態度だったじゃないの!」

 癇癪を起こしているようにしか見えない口調で、エル・ファランジールは答えていた。イェズラムはそれに、嫌な顔をしていた。養父デンは癇癪持ちが嫌いなのだ。族長の癇癪に耐えるだけで、もう精一杯らしい。

「それが伝統だ。別々の派閥に属するのが」

 しれっとして、そう答え、養父デンは煙管に火を入れた。盆にある火種からではない。魔法の火でだ。

 ギリスは養父デンが、煙を吸いたいぐらいのことで、火炎術を使うのを、初めて見た。そしてそれに、びっくりしていた。養父デンは無意味に魔法を使って、与えられた時を浪費するようなことは決してしない男だった。少なくとも、ギリスの知る限りでは。

 それがなんで今は、魔法で火をつけるのか。

 腑に落ちない事実に、ギリスは戸惑った。

 それは全然、イェズラムらしくないけど。たぶん養父デンは、格好つけたんだろう。炎の蛇と讃えられる英雄イェズラムが、火炎術師だと、知らぬものはない。そういう身の上でありながら、女派閥のデンとして座すファランジールに、火口を火種を使うのを見せるのが、気まずくて。

 火炎術師は自分の火を使う。煙管に火を入れるとき。単にそれが、格好いいからだ。

 知らなかった。イェズラムにだって、見栄はあるんだ。

「次やったらな、本当に殴るからな。容赦があると思うなよ。俺の餓鬼に、手を出すな。一体なにが不満なんだ、お前は」

「……今回の、投票のことですわ」

 エル・ファランジールは悔しそうに、ぽつりと言った。

 大人たちは確かに、投票の準備をしていた。竜の涙はひとりに一票の投票権を持っていて、身内にまつわる重要な決定事項は、投票によって決める習わしだ。十二歳になって元服すれば、その権利を手にすることができる。だからギリスも投票には参加できる。それに何の意味があるのか、良く分からないが。

「族長の選定権を、女派閥にも与えようと、あなたはしているとか。それは、あなたが後生大事に守っている、部族の伝統なるものに、反することではないのですか」

 ファランジールの口振りは、芝居がかっていて、くどくどと憎たらしかった。イェズラムの長衣ジュラバの陰に、くっついて立ち、ギリスはその可愛げのない女英雄の顔を、盗み見ていた。そんな顔したら、可愛くもないんともないと、びっくりしながら。

「自分たちの権利が増えて、何が不満なんだ」

 心底うんざりという声で、養父デンは話していた。

「それがエレンディラの出した動議だからですか。あなたがそれを後押しするのは」

「いいや」

 ため息とともに答え、煙管を持った指で、耳の後ろを掻きながら、養父デンはいかにも面倒そうに、話を継いだ。

「部族のために命をかける英雄である点で、男も女もないからだ。俺の経験からいって。同じように戦って死ぬのだから、お前達にも玉座に座る王族を選ぶ権利があっていいだろう。他のことでは投票権があるのに、族長選定権だけ無いというのは、確かに中途半端だし、筋が通らない。どうせ、あってもなくても関係のないような権利だ。過去、竜の涙の投票によって即位した族長は、ごく稀にしかいない。有名無実の権限だ。それでも持っていたいという者が多いようなら、お前たちも持っていてもいいじゃないか。いつかそれによって、お前達好みの星が、昇る時代もあるかもしれんのだからな」

 そんな時代があるわけないと、イェズラムは思っているらしかった。次代の族長は、当代の指名によって決まるし、誰を次代の星にするかは、その時々の趨勢を眺め、長老会の合議によって決まるらしい。これこそ新星と見込んだ王子を、長老会は後押しするし、竜の涙を持った英雄たちも、一丸となってそれを支える建前だ。なぜなら長老会が選ぶのは、英雄たちにとって都合のいい施政を行いそうな族長であり、それが即位することに、誰しも不都合はないからだ。

 長老会には女英雄もいるが、歳を食えば誰でも長老会の一員になれる訳ではなかった。そこに招き入れられるには、それ相応の能力と、人脈と、英雄譚ダージが必要で、現にエル・エレンディラは、イェズラムと同様、長老会の重鎮デンのひとりだが、エル・ファランジールは違う。ふたりの女英雄は、同い年で、同じだけの戦歴を戦った、勇者であるはずなのに。エレンディラには、重鎮デンとして、伝統を突き崩す動議を提案する権利があり、ファランジールにはない。

 その理由は単純のように、ギリスには思えた。エレンディラは賢いおばちゃんだけど、ファランジールは馬鹿だからだ。いい人だけど、エレンディラと比べると、知性に欠ける。

 戦場から王都に戻った、ひとときの休息の日々、ファランジールは派閥の娘たちと、いつも部屋サロンで酔っぱらってどんちゃん騒ぎをしているが、エレンディラは詩など吟じたり、役者に古典の戯曲をらせて、皆で静かにそれを眺めたりしている。

 付き従っている舎弟デンたちも、エレンディラのところのは、高嶺の花という感じだ。誘っても、ついてこないと、いつも、こちらの派閥のデンたちがこぼしていた。

 同じ美人でも、可愛げがあるのは、エル・ファランジールの売春宿ポヤギの娘と、確かに乳のない英雄ばかりの部屋では、デンたちもあけすけに笑っている。しかしそれを、玉座のダロワージで暴露してはならない。男ばかりの部屋サロンにも、秘密はあるのだ。

「だから女どもにも権利をくれてやろうかと、皆が思うでしょうか」

 憎々しげに、ファランジールは養父デンを見ていた。まるで敵みたいだった。

「いいや、思うまいな。しかしエレンディラがやってみたいと言うんだ。動議を提出する権利は誰にでもある。あいつも長老会の一員だからな」

 美味そうに煙を吸って、イェズラムはそれを、ゆっくりと吐いた。もやもやと漂う煙が、エル・ファランジールに乱れかからないように、宮廷仕込みの、優雅な作法で、脇へ顔を背けて。しかし、そのことに、エル・ファランジールは気付いていないようだった。女は鈍いものなのだ。養父デンもそう言っていたし、ギリスもそう思った。ふたりっきりで話したときは、ファランジールはイェズが自分を、ごみっかすか虫けらか、砂牛の糞程度の価値も無いと思っているのだと、ぼやいていた。そんな訳はないのに。イェズはただ、エル・エレンディラに義理立てしているだけだ。

「あなたがそれを後押しするのは、なぜですか」

 青い顔をして、ファランジールは訊いていた。訊くまでもないことなのに。その理由は、エレンディラが好きだからに決まっている。

「協調派閥のデンだからだよ。大抵は、向こうがこっちの票田なんだ。時には逆もあるだろう。持ちつ持たれつさ。ただの政治だよ、エル・ファランジール」

 ふはあと煙を吐いて、養父デンは白々しかった。嘘じゃんかと、ギリスには思えたが、黙っておいた。

「ちなみにお前は反対なのか。どっちに投票するつもりだ」

「私もエレンディラの意見に賛成です」

 悔しそうに、エル・ファランジールは答えた。

「ならいいじゃないか。まったく女ってのは、訳のわからん事をするもんだよ」

「わたくしが提出した動議だったら、あなたは協力してくれましたか」

 噛みつくように、ファランジールは訊いた。まるで痴話喧嘩みたいだった。女部屋の英雄たちは、困ったように視線をそらしていた。ファランジールに付いている女英雄たちは、みんなどことなく派手で、古来からのしきたりに従い、男装はしていても、やけに袖がひらひらしていたり、髪に花を飾っていたりして、女臭かった。部屋サロンに籠もっているときには、禁を破って、女装しているのもいるのだろう。頭を石に食われているのに、平気で女みたいな薄紅色の裳裾を、ひらひらさせているのもいたし、それを長老会のデンに見とがめられて、何らかのお仕置きがあったらどうしようかと、そんな蒼白の顔をしているのもいた。

 しかしファランジールは一向に気にしない、勝負の顔だった。文句があるなら言ってみろという顔つきで、必死でイェズと睨み合っていた。

 養父デンはそれと平然と向き合い、じろじろとファランジールの服を見ていた。それが英雄にはあるまじき、女の格好だということに、気付いていないはずはなかった。

「さあ、どうだろうな。今回の揺さぶりを見ると、協力する気になれないな。それにお前には、動議を提出する権利はないだろう」

 今さら見てもしょうがないくらい、見慣れたはずの長煙管の軸にある、古い蛇の浮き彫りを、イェズはしげしげ眺めて言った。

「土壇場でごねて見せるのは、確かに効果的だが、投票は今夜だぞ、エル・ファランジール。お前とエレンディラは友達なんだろ。友達っていうのは、そんな簡単に、裏切っていいものなのか」

「あなたの派閥の若いのが、うちのジョットに二股かけていたのです。馬鹿にしています。名誉を傷つけられたといって、ジョットがあまりに泣くので、わたくしも派閥のデンとして、見過ごしにはできないのです」

「据え膳食わぬは男の恥だ。お前は昔、そう言っていただろう」

 ふはあ、と煙を吐いて、養父デンは素知らぬふうに、女部屋の天井装飾を見ていた。滅多に目にすることのない部屋の、古いが華麗な装飾は、それは見事な芸術品で、養父デンの目に新しかったのだろう。しかしその、花園のような可憐なように目を奪われているような素振りでいながら、養父デンの声には含みがあったし、この部屋にいる皆に聞こえるように、イェズラムは話していた。

「憶えてないのか、ファランジール。お前は昔、そう言っていたんだがな。いくら決まった相手がいても、据え膳食わぬは男の恥だって。それで俺のことを、さんざん罵っただろう。役立たずとか、虚勢馬とか、男色趣味だとか言って、酔っぱらって晩餐の席で、大声で俺を指さして罵ったよな。俺がその事実無根の話で、どれだけ苦労したか、お前は知ってるのか。よからぬ噂に尾鰭がついてな、俺も後悔したよ。あの時ファランジールと一発やっとけば、こんな苦労もなかったのかってな」

 養父デンは平然と話していたが、ファランジールは呆然としていた。そして、それから悔しいという顔で、真っ赤になっていた。

 ファランジールは養父デンを誘ったことがあるらしい。だけど振られたのだ。たぶん、それもエレンディラに義理立てしたのだろう。もしかすると約束があって、エレンディラと会うはずだったとかで、それどころでなかったとか、愛想無く振って逃げたのかもしれない。

 傍目にはわからないようだが、イェズラムは照れ屋で、いかにも女みたいな、ファランジールのようなのは、断然苦手なのだ。その苦手が、顔には出ないだけで、背には汗をかいている。上着にはぎりぎり、響かない程度に。今もかいているのかもしれなかった。

「だから何だというのです」

「だから、お前も昔は、二股を推奨していたという話だ。やってもやらなくても怒るんだろう、女は。わたくしの心を踏みにじったとか言って。だったらどうすりゃいいんだよ、男は。やるかやらないか、選択肢は二つしかないんだ。俺はやらないほうだったけど、お前はやるほうを推奨してたんだろう。だったら今、その二股かけていたという奴に、よくやったと言ってやるのが筋だろう」

 ファランジールは真っ赤なまま目を伏せて、わなわなしていた。怒っているみたいだった。

 怒るのも当然のような気がしたが、怒らないでほしかった。たぶん養父デンには悪気はないからだ。そう言えばファランジールも納得しやすいだろうと思って話している。ただ単に論破しているだけのつもりなのだ。

 でも。イェズ。もう言うの、やめたら。怒ってるし。ファランジール。

 ギリスは心配して、イェズラムの平然とした顔を見上げた。

「そうですね……よくやったと言ってやりましょう。それで貴方も、そのジョットを褒めてやるのですか?」

「まさか。軽く揉んでやってから、三、四日、営巣で飢えてもらうよ。それで放免だ」

「男って野蛮ですわね」

「しょうがない。それが派閥の伝統だ。それに、色男に何の懲罰もなしでは、お前らの気が済まんのだろ?」

 イェズラムは苦笑していた。懲罰を与えるのは、派閥の掟だ。そうでないと、くせ者揃いの派閥の秩序なんて、あっというまに崩壊してしまうだろう。イェズラムが怖いから、おとなしく従っている者もいる。もしも怖くなくなれば、好き勝手をする奴らもいるに違いない。

「泣いてもらうさ、うちの若いのに。それで丸く収まるなら。だが憶えておけよ、ファランジール。お前がこういうことをする奴だと、俺は死ぬまで忘れないからな」

「呆れてらっしゃるのですか、デン。わたくしに。馬鹿な女だと、うとましいですか」

 円座にぐったり項垂れたふうに、ファランジールは威勢がなかった。ぐんにゃりしていて、しおれた野菜みたいだった。ふわふわひだのある紅色の裳裾の、ふちのところだけが緑色で、ちょうど昨日の晩餐に、こんな色した葉っぱが出てきた。ちょっとほろ苦くて、いまひとつ美味くないんだけど、好き嫌いすると養父デンに怒られるから、我慢して食ったのだ。今日のファランジールの格好は、それに似てる。

「疎ましくはないよ。ただ困ってるだけだ。俺はお前のことは、協調派閥のデンだと思っていたんだからな。正直言って、足下を掬われた気分だよ」

「申し訳ありません。ただ、わたくしは……なんと言うか……当たり前とは、思わないでいただきたいのです。わたくしが貴方に助力を惜しまなくても、それが当然とは、思っていただきたくないのです」

「思ってないだろ。お前に礼儀を欠いたつもりはないけどな」

 確かにそうだ。天使降臨祭に贈るしきたりの、贈答品の送り先名簿にも、エル・ファランジールは入ってる。道で会えば略礼するし、エル・ファランジールの新しい英雄譚ダージを詩人が詠えば、養父デンはそれを褒める。でも、ただ、それだけだ。養父デンは歴史の師父アザンみたいな、よぼよぼの爺さんにだって、天使降臨祭には贈答品を贈っている。それが儀礼だからだ。

「もうじき投票だぞ。その、野菜みたいな服をとっとと脱いで、正装しろ、エル・ファランジール。そんな格好で玉座のダロワージをうろついたら、気が狂ったと思われる」

 冗談とも本気ともつかない話を、ずけずけ言っている養父デンの話に、エル・ファランジールは虫歯が痛くて死にそうだったデンがしていたのと、そっくりの顔をしていた。きっとどこか痛いのだと、ギリスは思ったが、それが一体どこなのか、想像がつかなかった。

「野菜ではありません。王都でいま流行しているのです。この色合いの、段染めが……」

「知ってるよ。商業区へ行けば、そんな野菜だらけで、間違えて農業区へ来たかと思ったぐらいさ。俺は好かんな、そういうのは」

 イェズラムにも、この服は野菜みたいに見えるんだと、ギリスはほっとして、にこにこしていた。だけどこれは、言ってもいい話なのだろうか。養父デンが平気で話しているのだから、別にいいのかもしれないが、してはいけない話なのかと思っていた。少なくとも、自室で寛ぐ時に、この野菜みたいな裳裾を引きずっている手合いの、乳のある英雄たちには。

「どうせわたくしは、気の狂った野菜みたいな馬鹿です」

「そんなことはないよ。お前は疾風のファランジールだろ。もっと自信を持て」

「一体どうやって自信を持つのです?」

 しおしおになっているファランジールは、もう、油で揚げた魚の下敷きになっていた葉っぱみたいだった。くたくただ。

「どうやってって、詩人を呼びつけて、お前を讃える英雄譚ダージでも聴いてみたらどうだ。お前は戦場での戦力として、必要不可欠な英雄だ。それに宮廷にあっては舞いの名手だろ。族長が褒めていた。お前の舞いは見事だと言って。当代の目に適うとは、この上なく名誉なことだろう。まあ一応」

 まあ一応。

 そう言われた話に、エル・ファランジールは困ったように、こくこくと頷いていた。

「それにだ。なんというか。こう言われるとお前も不愉快かもしれんが。お前はその……二大美人だ」

「二大美人?」

 ぽかんとして、ファランジールはイェズラムを見上げていた。養父デンも急に、虫歯が痛くなったような顔をして、頷いていた。

「そう。そういう話だった。昔な。当代の、二大美人は、エレンディラと、お前と、あたかも百合ゆり芍薬しゃくやくと、なかなか評判がよかった。昔な。昔の話だぞ」

 昔の。そう言うイェズラムの話に、ファランジールはますます、ぽかんとしていた。開いた口が塞がっていなかった。

芍薬しゃくやくに、もてたと言って、俺もずいぶん虐められたよ。各方面からな。そういうのもあって、お前とは格別、距離をとったんだ。それが不躾に思えたんだったら、謝るよ。しかし俺にも都合があるのだ。その……いろいろな」

 言い淀んでから、イェズラムは結局、がくりと諦めて、誤魔化した。言いたくない話ばかりだったらしい。

 ファランジールは少し、悲しそうな顔をした。派閥の娘たちは、そんな情けないデンのことを、心配げに見ていた。

 ここは男ばかりの部屋サロンとは、少々勝手が違うらしい。イェズラムは派閥の部屋サロンで、弱った顔など決して見せないが、ファランジールは気にしていない。素直にがっくり項垂れている。

「そうですか。ご都合が」

「そうだ。ご都合がな。それもあって、今まで言った例しはないが、ファランジール、お前は美しい女だよ。それに、その野菜みたいな服が似合わない女だ。お前はもっと、軽やかな、淡い色の服を着たほうが、可愛いのではないかと、俺は思うよ。ただし、ここだけの話だぞ。お前の友達には、それは黙っておけ」

 イェズラムは今にも、背後の扉から、雷撃の女英雄が踏み込んでくるのではないかと、警戒しているような背中をしていた。どうも、エル・エレンディラは怖い女らしい。イェズラムにとっては。

 その顔を見上げて、エル・ファランジールは矢庭に、うふっと笑った。少し照れたような、ちょっと可愛げのある微笑だった。イェズラムはその笑みに呪いでもかかっているかのように、さっと目を逸らして、視線を合わせないようにしていた。目を逸らすのは無礼だし、負けたような気がしないのかと、ギリスはびっくりしたが、養父デンは赤い頬で微笑むファランジールと見つめ合うくらいなら、負けたほうがましだと判断したようだった。

「今度着てみます」

「好きにしろ。この部屋サロンでだけだぞ。それで外に漏れ出てきたら、俺も見過ごしにはしない。英雄は男装するものだ。それが伝統だ。お前らは男なんだからな。そんな、女の腐ったような格好で、ちゃらちゃら歩くな。それをやられると、こちらの派閥の連中の、気が散るのだ」

「以後、気をつけさせます、デン

 お前が一番気をつけろという格好で、エル・ファランジールは請け合っていた。

 そうして、すらりと裳裾を引いて、立ち上がった姿で、エル・ファランジールは上機嫌に、あたりの娘たちに呼びかけた。

「さあ、皆さん。もうじき投票の時間ですわね。真っ黒いからすになって、票を入れに行きましょう。わたくしたちの権利ですからね。将来やってくる、わたくしたちの後輩ジョットのためにも、最善と思える票を投じなさい。難しくて分からない事があったら、エル・エレンディラの派閥の子に訊くと良いですよ。皆さん親切ですからね!」

 にこにこと、恥ずかしげもなくそう言って、エル・ファランジールは長く垂らしたそでをひらひらさせていた。仕立て屋が、うっかり寸法を間違えて、異常に長く作りすぎたかのような、宮廷ではちょっと見ない種類の袖だった。

 養父デンはそれに、失笑を堪えたようだった。

 我慢しなければならない。投票はもうすぐ始まるのだし、せっかくエル・ファランジールの機嫌が良いのだ。

「すごいね、ファランジール。俺、そんな長い袖、見たことないよ。ていうか、それ、床に引きずってんじゃない?」

 しかしギリスはうっかり口を滑らした。それでもエル・ファランジールは機嫌を崩しはしなかった。高く結い上げた髪の具合を、後ろ手に確かめつつ、色っぽい首筋をこちらに見せていた。

「そうよ。凄いでしょ。こんな長い袖は初めて仕立てましたって、商業区の仕立て屋も話していたわ」

 イェズラムがせていた。たぶん笑いを堪えているのだろうけど、なぜ笑っているのか、ギリスには分からなかった。

「それって、いいことなの?」

 きょとんと訊くと、ファランジールは婉然と微笑みながら、まるで舞踊のような優美な腰つきで、こちらにゆっくりと振り向き、豪華な刺繍で飾り立てられた、長い長い袖を見せてくれた。

 まるで垂簾すいれん衝立ついたての垂れ布でも着てるみたいだ。何かの手違いとしか思えない。

「あらぁ、当然よ、エル・ギリス。長ぁいおそでが流行っているのよ、タンジール市街ではね。街の富豪の女たちは皆、袖の長さを競っていてよ。今はもちろん、わたくしがこの街で一番長い袖をした女ですけどね!」

 そう勝ち誇って、ファランジールはおっほっほと笑った。美人だったが、ファランジールはもしかして、本当に馬鹿なんじゃないかと、ギリスは思った。

 でも、俺の思い過ごしかもしれない。だって俺も馬鹿だって言われるけど、イェズラムは違うって、いつもかばってくれるもん。だったらファランジールだって、実は賢いのかもしれないじゃないか?

「ま、まあ、ほどほどにな……英雄エルが着るものに現を抜かして、まるで女のようだと、宮廷や市民の評価もかんばしくなかろう」

 イェズラムは立ち去る気配を見せていた。たぶん、いたたまれなくなったのだ。養父デンの首筋が、うっすら汗ばんでいるような気がして、ギリスはそれを見上げた。しかし長身のイェズラムの襟元は、結われた長い髪の束に隠れて、よく見えなかった。

「お待ちになって、エル・イェズラム」

 すごく芝居がかった声で、ファランジールはイェズラムを止めた。辺りには、ぷうんと白粉おしろいの香が立っていた。

「ねえ、デン。最後にひとつだけ、教えていただけますでしょうか」

 うっとり誘うような、長い袖の女の、しなのある姿を、イェズラムは怖いものでも見るように、自分の肩越しに振り返っていた。その黄金の目と、ファランジールはにこやかに、見つめ合っている。

「わたくしと、エレンディラと、どちらが美しいとお思い? わたくしでしょうか。それとも、エル・エレンディラ?」

 にこにこと機嫌よく、大きく開いた襟足も露わに、エル・ファランジールは長老会のデンに、難問を押しつけていた。

 その答えを渋るイェズラムの、沈黙をごまかすように、リーン、と音高い、時報の音色が聞こえた。玉座のダロワージにある、からくり仕掛けの時計が知らせる時を、伝令役が念話の声で、一帯に伝えているもので、皆はそれを、りんと呼んでいた。

 人の声とは思えぬような、澄み渡る硬質な音で、確かに金属製の鐘を鳴らしているような音色に聞こえた。

 それが、リーンリーンと、五回、六回も鳴ったろうか。その間ずっと、イェズラムは振り向いた姿勢のまま、沈黙していた。にこやかな艶姿のエル・ファランジールと、睨み合いながら。

 十七回目のりんが鳴き、そして静かになった。つまり、第十七時ということだ。あと一時間で、皆、晩餐のために正装しなくてはならない。第十八時には広間ダロワージで晩餐が始まり、それが終わるとともに、投票は開始されるらしい。

「エレンディラでしょうか?」

 怯む馬に鞭打つように、エル・ファランジールは妙なる美声で、歌うように言った。声を作っているようだった。なんだかやけに色っぽい声で、舞台上の女優が、ちょうどそんな声で詠う。

「いや。お……お前だろう」

 幾分、掠れた声で、養父デンは答えた。エル・ファランジールに背は向けたまま、それでも目は逸らさずに。

「まあ」

 にやりと、にっこりの中間の笑みで、薄赤いほお紅をさしているエル・ファランジールの顔が、笑っていた。

「イェズラム、貴方、もしかして目が見えていないのではないかと、このところ心配していましたの。おふみも代筆ですし、書面もジョットに朗読させるそうじゃありませんか。片方しか残っていないのに、残るそちらも失明したら、ご不便でしょう。でも、ちゃんと分かってらっしゃるなら、心配ありませんわね。わたくしの顔が、見えているのでしょう?」

「見えてるよ、生憎な」

 その不名誉な話を、ぐったりと否定して、養父デン部屋サロンを出て行く扉のほうに、顔を向けた。

「投票は、およそ十九時ごろからだろう。今夜の見物だ、リューズも投票見たさで、早飯を食うだろう。俺も久々に玉座のダロワージで飯だ。お前が自分の票をどちらの箱に入れるか、ちゃんと見えているからな」

「ご心配なく。そんな土壇場では、裏切りませんわ」

 うっふっふと笑って、エル・ファランジールは、なおも何か言うようだった。

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