第5話
「まったくなあ……お前はなんで昔から、俺の取り巻きに手を出すんだよ。それも大の男ならいいよ。誰と寝ようが、そいつらの勝手だ。でも、この子はどうだろうな。お前にはこれが男に見えたのか」
「十二ともなれば立派に大人です」
つんと顔を背けて、エル・ファランジールは気位高そうに答えた。でもその鼻先が、微かに震えて見えるのに、ギリスは気がついた。この人は高飛車で、偉そうだけど、実際にはそうでもない。ふたりっきりで布団に籠もると、急に気弱で、優しくなる。
イェズラムはそれを知らないから、厳しい声で怒鳴れるんだろう。まるでほんとに怒ってるみたいに。
「大人か。そうだな。昔はな。訳もわからんうちに、誰も彼も大人ということになっていたさ。十二、十三ともなれば、
「幸せでしたわ。たくさんの英雄と恋もしたし! あなたみたいな偏屈とは、全然違う本物の英雄ばかりでしたわ」
ぎゃんぎゃん噛みつく犬のように、エル・ファランジールは
「お前は便所にされただけだよ、ファランジール。女だから知らないだけだ。男どもがお前のいない、男ばかりの派閥の
それを何もかも知っていた顔で、
「知るわけないでしょう。そこは男の聖域で、女どもは近寄るなって、そういう態度だったじゃないの!」
癇癪を起こしているようにしか見えない口調で、エル・ファランジールは答えていた。イェズラムはそれに、嫌な顔をしていた。
「それが伝統だ。別々の派閥に属するのが」
しれっとして、そう答え、
ギリスは
それがなんで今は、魔法で火をつけるのか。
腑に落ちない事実に、ギリスは戸惑った。
それは全然、イェズラムらしくないけど。たぶん
火炎術師は自分の火を使う。煙管に火を入れるとき。単にそれが、格好いいからだ。
知らなかった。イェズラムにだって、見栄はあるんだ。
「次やったらな、本当に殴るからな。容赦があると思うなよ。俺の餓鬼に、手を出すな。一体なにが不満なんだ、お前は」
「……今回の、投票のことですわ」
エル・ファランジールは悔しそうに、ぽつりと言った。
大人たちは確かに、投票の準備をしていた。竜の涙はひとりに一票の投票権を持っていて、身内にまつわる重要な決定事項は、投票によって決める習わしだ。十二歳になって元服すれば、その権利を手にすることができる。だからギリスも投票には参加できる。それに何の意味があるのか、良く分からないが。
「族長の選定権を、女派閥にも与えようと、あなたはしているとか。それは、あなたが後生大事に守っている、部族の伝統なるものに、反することではないのですか」
ファランジールの口振りは、芝居がかっていて、くどくどと憎たらしかった。イェズラムの
「自分たちの権利が増えて、何が不満なんだ」
心底うんざりという声で、
「それがエレンディラの出した動議だからですか。あなたがそれを後押しするのは」
「いいや」
ため息とともに答え、煙管を持った指で、耳の後ろを掻きながら、
「部族のために命をかける英雄である点で、男も女もないからだ。俺の経験からいって。同じように戦って死ぬのだから、お前達にも玉座に座る王族を選ぶ権利があっていいだろう。他のことでは投票権があるのに、族長選定権だけ無いというのは、確かに中途半端だし、筋が通らない。どうせ、あってもなくても関係のないような権利だ。過去、竜の涙の投票によって即位した族長は、ごく稀にしかいない。有名無実の権限だ。それでも持っていたいという者が多いようなら、お前たちも持っていてもいいじゃないか。いつかそれによって、お前達好みの星が、昇る時代もあるかもしれんのだからな」
そんな時代があるわけないと、イェズラムは思っているらしかった。次代の族長は、当代の指名によって決まるし、誰を次代の星にするかは、その時々の趨勢を眺め、長老会の合議によって決まるらしい。これこそ新星と見込んだ王子を、長老会は後押しするし、竜の涙を持った英雄たちも、一丸となってそれを支える建前だ。なぜなら長老会が選ぶのは、英雄たちにとって都合のいい施政を行いそうな族長であり、それが即位することに、誰しも不都合はないからだ。
長老会には女英雄もいるが、歳を食えば誰でも長老会の一員になれる訳ではなかった。そこに招き入れられるには、それ相応の能力と、人脈と、
その理由は単純のように、ギリスには思えた。エレンディラは賢いおばちゃんだけど、ファランジールは馬鹿だからだ。いい人だけど、エレンディラと比べると、知性に欠ける。
戦場から王都に戻った、ひとときの休息の日々、ファランジールは派閥の娘たちと、いつも
付き従っている
同じ美人でも、可愛げがあるのは、エル・ファランジールの
「だから女どもにも権利をくれてやろうかと、皆が思うでしょうか」
憎々しげに、ファランジールは
「いいや、思うまいな。しかしエレンディラがやってみたいと言うんだ。動議を提出する権利は誰にでもある。あいつも長老会の一員だからな」
美味そうに煙を吸って、イェズラムはそれを、ゆっくりと吐いた。もやもやと漂う煙が、エル・ファランジールに乱れかからないように、宮廷仕込みの、優雅な作法で、脇へ顔を背けて。しかし、そのことに、エル・ファランジールは気付いていないようだった。女は鈍いものなのだ。
「あなたがそれを後押しするのは、なぜですか」
青い顔をして、ファランジールは訊いていた。訊くまでもないことなのに。その理由は、エレンディラが好きだからに決まっている。
「協調派閥の
ふはあと煙を吐いて、
「ちなみにお前は反対なのか。どっちに投票するつもりだ」
「私もエレンディラの意見に賛成です」
悔しそうに、エル・ファランジールは答えた。
「ならいいじゃないか。まったく女ってのは、訳のわからん事をするもんだよ」
「わたくしが提出した動議だったら、あなたは協力してくれましたか」
噛みつくように、ファランジールは訊いた。まるで痴話喧嘩みたいだった。女部屋の英雄たちは、困ったように視線をそらしていた。ファランジールに付いている女英雄たちは、みんなどことなく派手で、古来からのしきたりに従い、男装はしていても、やけに袖がひらひらしていたり、髪に花を飾っていたりして、女臭かった。
しかしファランジールは一向に気にしない、勝負の顔だった。文句があるなら言ってみろという顔つきで、必死でイェズと睨み合っていた。
「さあ、どうだろうな。今回の揺さぶりを見ると、協力する気になれないな。それにお前には、動議を提出する権利はないだろう」
今さら見てもしょうがないくらい、見慣れたはずの長煙管の軸にある、古い蛇の浮き彫りを、イェズはしげしげ眺めて言った。
「土壇場でごねて見せるのは、確かに効果的だが、投票は今夜だぞ、エル・ファランジール。お前とエレンディラは友達なんだろ。友達っていうのは、そんな簡単に、裏切っていいものなのか」
「あなたの派閥の若いのが、うちの
「据え膳食わぬは男の恥だ。お前は昔、そう言っていただろう」
ふはあ、と煙を吐いて、
「憶えてないのか、ファランジール。お前は昔、そう言っていたんだがな。いくら決まった相手がいても、据え膳食わぬは男の恥だって。それで俺のことを、さんざん罵っただろう。役立たずとか、虚勢馬とか、男色趣味だとか言って、酔っぱらって晩餐の席で、大声で俺を指さして罵ったよな。俺がその事実無根の話で、どれだけ苦労したか、お前は知ってるのか。よからぬ噂に尾鰭がついてな、俺も後悔したよ。あの時ファランジールと一発やっとけば、こんな苦労もなかったのかってな」
ファランジールは
傍目にはわからないようだが、イェズラムは照れ屋で、いかにも女みたいな、ファランジールのようなのは、断然苦手なのだ。その苦手が、顔には出ないだけで、背には汗をかいている。上着にはぎりぎり、響かない程度に。今もかいているのかもしれなかった。
「だから何だというのです」
「だから、お前も昔は、二股を推奨していたという話だ。やってもやらなくても怒るんだろう、女は。わたくしの心を踏みにじったとか言って。だったらどうすりゃいいんだよ、男は。やるかやらないか、選択肢は二つしかないんだ。俺はやらないほうだったけど、お前はやるほうを推奨してたんだろう。だったら今、その二股かけていたという奴に、よくやったと言ってやるのが筋だろう」
ファランジールは真っ赤なまま目を伏せて、わなわなしていた。怒っているみたいだった。
怒るのも当然のような気がしたが、怒らないでほしかった。たぶん
でも。イェズ。もう言うの、やめたら。怒ってるし。ファランジール。
ギリスは心配して、イェズラムの平然とした顔を見上げた。
「そうですね……よくやったと言ってやりましょう。それで貴方も、その
「まさか。軽く揉んでやってから、三、四日、営巣で飢えてもらうよ。それで放免だ」
「男って野蛮ですわね」
「しょうがない。それが派閥の伝統だ。それに、色男に何の懲罰もなしでは、お前らの気が済まんのだろ?」
イェズラムは苦笑していた。懲罰を与えるのは、派閥の掟だ。そうでないと、くせ者揃いの派閥の秩序なんて、あっというまに崩壊してしまうだろう。イェズラムが怖いから、おとなしく従っている者もいる。もしも怖くなくなれば、好き勝手をする奴らもいるに違いない。
「泣いてもらうさ、うちの若いのに。それで丸く収まるなら。だが憶えておけよ、ファランジール。お前がこういうことをする奴だと、俺は死ぬまで忘れないからな」
「呆れてらっしゃるのですか、
円座にぐったり項垂れたふうに、ファランジールは威勢がなかった。ぐんにゃりしていて、しおれた野菜みたいだった。ふわふわ
「疎ましくはないよ。ただ困ってるだけだ。俺はお前のことは、協調派閥の
「申し訳ありません。ただ、わたくしは……なんと言うか……当たり前とは、思わないでいただきたいのです。わたくしが貴方に助力を惜しまなくても、それが当然とは、思っていただきたくないのです」
「思ってないだろ。お前に礼儀を欠いたつもりはないけどな」
確かにそうだ。天使降臨祭に贈るしきたりの、贈答品の送り先名簿にも、エル・ファランジールは入ってる。道で会えば略礼するし、エル・ファランジールの新しい
「もうじき投票だぞ。その、野菜みたいな服をとっとと脱いで、正装しろ、エル・ファランジール。そんな格好で玉座の
冗談とも本気ともつかない話を、ずけずけ言っている
「野菜ではありません。王都でいま流行しているのです。この色合いの、段染めが……」
「知ってるよ。商業区へ行けば、そんな野菜だらけで、間違えて農業区へ来たかと思ったぐらいさ。俺は好かんな、そういうのは」
イェズラムにも、この服は野菜みたいに見えるんだと、ギリスはほっとして、にこにこしていた。だけどこれは、言ってもいい話なのだろうか。
「どうせわたくしは、気の狂った野菜みたいな馬鹿です」
「そんなことはないよ。お前は疾風のファランジールだろ。もっと自信を持て」
「一体どうやって自信を持つのです?」
しおしおになっているファランジールは、もう、油で揚げた魚の下敷きになっていた葉っぱみたいだった。くたくただ。
「どうやってって、詩人を呼びつけて、お前を讃える
まあ一応。
そう言われた話に、エル・ファランジールは困ったように、こくこくと頷いていた。
「それにだ。なんというか。こう言われるとお前も不愉快かもしれんが。お前はその……二大美人だ」
「二大美人?」
ぽかんとして、ファランジールはイェズラムを見上げていた。
「そう。そういう話だった。昔な。当代の、二大美人は、エレンディラと、お前と、あたかも
昔の。そう言うイェズラムの話に、ファランジールはますます、ぽかんとしていた。開いた口が塞がっていなかった。
「
言い淀んでから、イェズラムは結局、がくりと諦めて、誤魔化した。言いたくない話ばかりだったらしい。
ファランジールは少し、悲しそうな顔をした。派閥の娘たちは、そんな情けない
ここは男ばかりの
「そうですか。ご都合が」
「そうだ。ご都合がな。それもあって、今まで言った例しはないが、ファランジール、お前は美しい女だよ。それに、その野菜みたいな服が似合わない女だ。お前はもっと、軽やかな、淡い色の服を着たほうが、可愛いのではないかと、俺は思うよ。ただし、ここだけの話だぞ。お前の友達には、それは黙っておけ」
イェズラムは今にも、背後の扉から、雷撃の女英雄が踏み込んでくるのではないかと、警戒しているような背中をしていた。どうも、エル・エレンディラは怖い女らしい。イェズラムにとっては。
その顔を見上げて、エル・ファランジールは矢庭に、うふっと笑った。少し照れたような、ちょっと可愛げのある微笑だった。イェズラムはその笑みに呪いでもかかっているかのように、さっと目を逸らして、視線を合わせないようにしていた。目を逸らすのは無礼だし、負けたような気がしないのかと、ギリスはびっくりしたが、
「今度着てみます」
「好きにしろ。この
「以後、気をつけさせます、
お前が一番気をつけろという格好で、エル・ファランジールは請け合っていた。
そうして、すらりと裳裾を引いて、立ち上がった姿で、エル・ファランジールは上機嫌に、あたりの娘たちに呼びかけた。
「さあ、皆さん。もうじき投票の時間ですわね。真っ黒い
にこにこと、恥ずかしげもなくそう言って、エル・ファランジールは長く垂らした
我慢しなければならない。投票はもうすぐ始まるのだし、せっかくエル・ファランジールの機嫌が良いのだ。
「すごいね、ファランジール。俺、そんな長い袖、見たことないよ。ていうか、それ、床に引きずってんじゃない?」
しかしギリスはうっかり口を滑らした。それでもエル・ファランジールは機嫌を崩しはしなかった。高く結い上げた髪の具合を、後ろ手に確かめつつ、色っぽい首筋をこちらに見せていた。
「そうよ。凄いでしょ。こんな長い袖は初めて仕立てましたって、商業区の仕立て屋も話していたわ」
イェズラムが
「それって、いいことなの?」
きょとんと訊くと、ファランジールは婉然と微笑みながら、まるで舞踊のような優美な腰つきで、こちらにゆっくりと振り向き、豪華な刺繍で飾り立てられた、長い長い袖を見せてくれた。
まるで
「あらぁ、当然よ、エル・ギリス。長ぁいお
そう勝ち誇って、ファランジールはおっほっほと笑った。美人だったが、ファランジールはもしかして、本当に馬鹿なんじゃないかと、ギリスは思った。
でも、俺の思い過ごしかもしれない。だって俺も馬鹿だって言われるけど、イェズラムは違うって、いつも
「ま、まあ、ほどほどにな……
イェズラムは立ち去る気配を見せていた。たぶん、いたたまれなくなったのだ。
「お待ちになって、エル・イェズラム」
すごく芝居がかった声で、ファランジールはイェズラムを止めた。辺りには、ぷうんと
「ねえ、
うっとり誘うような、長い袖の女の、しなのある姿を、イェズラムは怖いものでも見るように、自分の肩越しに振り返っていた。その黄金の目と、ファランジールはにこやかに、見つめ合っている。
「わたくしと、エレンディラと、どちらが美しいとお思い? わたくしでしょうか。それとも、エル・エレンディラ?」
にこにこと機嫌よく、大きく開いた襟足も露わに、エル・ファランジールは長老会の
その答えを渋るイェズラムの、沈黙をごまかすように、リーン、と音高い、時報の音色が聞こえた。玉座の
人の声とは思えぬような、澄み渡る硬質な音で、確かに金属製の鐘を鳴らしているような音色に聞こえた。
それが、リーンリーンと、五回、六回も鳴ったろうか。その間ずっと、イェズラムは振り向いた姿勢のまま、沈黙していた。にこやかな艶姿のエル・ファランジールと、睨み合いながら。
十七回目の
「エレンディラでしょうか?」
怯む馬に鞭打つように、エル・ファランジールは妙なる美声で、歌うように言った。声を作っているようだった。なんだかやけに色っぽい声で、舞台上の女優が、ちょうどそんな声で詠う。
「いや。お……お前だろう」
幾分、掠れた声で、
「まあ」
にやりと、にっこりの中間の笑みで、薄赤いほお紅をさしているエル・ファランジールの顔が、笑っていた。
「イェズラム、貴方、もしかして目が見えていないのではないかと、このところ心配していましたの。お
「見えてるよ、生憎な」
その不名誉な話を、ぐったりと否定して、
「投票は、およそ十九時ごろからだろう。今夜の見物だ、リューズも投票見たさで、早飯を食うだろう。俺も久々に玉座の
「ご心配なく。そんな土壇場では、裏切りませんわ」
うっふっふと笑って、エル・ファランジールは、なおも何か言うようだった。
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