第4話

「ええ?」

 この上なく呆れたような声で、イェズラムは問い返していた。どうしてそんな事になったのかというような調子で。

「それが……その。こじれたようで。玉座のダロワージの恋の付けが、回ったというか」

「馬鹿。誰だ!」

 怒ったのか、焦ったのか、イェズラムは急に不機嫌だった。

 それは、話すデンが声をひそめたところを見ると、辺りを憚る話だったのだろうが、イェズラムは平気で聞いていた。ここが勢力図的に、イェズラムの支配下にある派閥の領域にあり、辺りにいるのは全て身内と、信じてもよい界隈だったせいだ。ギリスもそれでなければ、ふらふらと一人で出歩きはしない。下手に敵地を一人歩きして、もしも何事かあると、自分の失点になるからだし、養父デンにも迷惑がかかる。

「はぁ……それが。先頃、そちら様は私どもを馬鹿にしておいでのようで。そのような方々とはお付き合いできませんと、エル・ファランジールが、ずいぶん着飾ってお越しで……」

 エル・ファランジールは、怖い綺麗なおばちゃんだった。おばちゃんと言うと怒られる。イェズラムが苦手としている、女英雄の一人で、女英雄と言っても怒られる。男だが、ただ乳がある。しかも、ずいぶんでかい。ただそれだけだ。

 一応は、身内のはずだった。

 ただ、乳のある英雄たちは、敵とも味方ともつかぬのが常だった。女心はあてにならぬものだと、イェズラムは言っていた。もちろんそれは一般論で、向こうは乳のある男だが、乳のある男でも、良く似たことが言えるらしい。

「どういうことだ」

「二股をかけていたようで」

 問うイェズラムに、口元に添えた手の平の陰から、エル・シャリマーは言いにくそうに、苦渋の顔で囁いていた。

「馬鹿……なぜばれたんだ」

 イェズラムも苦い顔だった。しかしやっぱりイェズはずれているような気がする。

「誰だ!」

 叱責するような声で問いただされて、エル・シャリマーは養父デンに耳打ちしていた。長煙管を吹かしながら、イェズラムはむかむかしているらしかった。煙を吐き出す、呼気がずいぶん荒かった。

「あいつか……まったく。誰かあの色男の玉を抜いて、女部屋に持っていけ。自重しろと言っておいたろ。政敵に利用されるような、弱みは作るな。俺をエレンディラに叩頭させる気か」

 エル・エレンディラは、怖い綺麗なおばちゃん、その二だった。しかもこちらは真打ちだ。イェズラムが、乳のない英雄たちに君臨しているように、エレンディラは乳のある英雄たちに君臨している。もしかすると、イェズラムにも君臨しているのかもしれなかった。なんだかそんな気配が、時たまふっと匂った。

 イェズラムはいつも、相手がたとえ子供でも、特別に親しくない相手ならば、名前に英雄エルの敬称をつけるのを忘れないが、エレンディラには時々忘れる。大して親しいようには見えないのに、よく忘れている。

 たぶん実は親しいのだろう。

 どうしてエルってつけないのと訊くと、養父デンはいつも、びくっとしたような無表情で、昔、長老会の部屋サロンで競い合った間柄だ。俺が勝ったがな、と言った。

 どうもそれは事実のようだった。歴史博士の師父アザンも、そう話していた。イェズラムも昔、長老会で育てられている子供のひとりだったと。そうして、その後、選ばれて、イェズラムは射手になったのだ。それは、表向きには、族長に戴冠を行う役目を負った、特別な役割の竜の涙のことだ。

 イェズラムが選ばれて、エル・エレンディラは敗退した。彼女も、長老会の絨毯を踏んで育った一人で、そして、イェズラムと最後まで射手の座を争った、女英雄だった。射手の座こそは逃したものの、今でも好敵手ではあるらしい。女嫌いで、乳のあるのが苦手なイェズラムだが、エル・エレンディラにだけは、一目置いている。女がらみで、困ったことがあると、いつも内々に、エレンディラに相談している。

 その時、イェズラムは、誰もつれていかない。普段なら、どんな込み入った話でも、ギリスを同席させるのを嫌がらないイェズラムなのに、相手がエル・エレンディラだと、お前も遠慮してくれという。何か、聞かれてはまずい話をするからに、違いない。

「エル・ファランジールは、デンには説明責任があると……」

 極めて申し訳ないという、打ちひしがれた面持ちで、伝令にやってきたエル・シャリマーは話していた。それにイェズは、くっと呻いていた。

「何を説明するんだ、俺が。なんの責任だ。俺が二股かけたわけじゃないだろう」

 イェズラムは片手で頭を抱えていた。よっぽど嫌なのだろう。エル・ファランジールや、エル・エレンディラに会うのが。

 みんな、どことなく辛そうだった。まるでこれから養父デンを、怪物の生け贄に差し出すみたいだった。

 実際そうかもしれなかった。

 女部屋と事を構えると、イェズラムは大抵、部屋で打ちひしがれていた。石に苦しめられている時のほうが、よっぽど涼しい顔をして見えた。良く分からないが、養父デンにとっては、自分の脳を押しつぶす石より、エル・エレンディラのほうが痛いのだ。

「イェズ……俺、いっしょに行ってあげようか?」

 養父デンが気の毒になって、ギリスは提案した。

 養父デンはそれにも、ぎょっとしたようだった。

 しかし何も答えずに、しばらくもくもくと煙を噴かしていた。

「お前が女部屋を説得するのか」

「納得のいく説明をすればいいんだろ。どうして二股かけたのか」

 ギリスが真面目に言うと、養父デンは様子をうかがうように、こくこくと小さく頷いていた。頭が痛むような顔だった。

「やりたかったからじゃないの……?」

 ごほっとせるような声が、イェズラムの取り巻きのどこかからした。咳き込むふりをして、笑いを堪えたらしかった。一体何が、可笑しかったんだろう。

 それでもイェズラムは、まだ苦虫を噛み潰したような顔でいた。

「それを言うのか。エル・ファランジールに? 勇気があるなあ、お前は。俺にはとても無理だ」

「平気だよ、俺が話すし。イェズは黙ってればいいよ。いやなんだろ、女部屋へ行くのが。心配しないで。俺がうまく、なんとかするからさ」

 だってイェズの役に立ちたいんだよ。

 その一心で申し出ると、イェズラムもげほげほ言っていた。煙にせたらしかった。大丈夫ですかデンと、兄たちが口々に心配したような事を言っていた。しかし役立たずばっかりだ。イェズラムの指示がなければ仕事もできないし、世話をかけるばっかりで、困ったやつらだ。

「いや。いい。俺が行く。生憎それも、俺の仕事なんだ。これでも派閥の、デンなので。舎弟ジョットの不始末は、俺の不始末なんだ」

 ほとほと情けないように、イェズラムはそう言った。

「ただ問題は、その不始末が、なぜ明るみに出たのかということだ。残念ながら、玉座のダロワージでは、そういうことは日常茶飯事だ。色を好む英雄が、あちらの花で蜜を吸い、返す刀でこちらの花を摘んだからといって、今さら驚くような事ではない。そうだな、エル・シャリマー」

「俺に話を振らないでください、デン

 エル・シャリマーは、やめてくれと、差し向けられた話を振り払うように、手をぶんぶん振っていた。

「しかしだな、投票の行われるこの時期だけは、身を慎めと言っておいたはずだ。何故なのか考えて動け。相手は女だ。……いや、違う。女のようなものだ。もっとひどい。ただの女ならまだしも、あいつらは投票権を持っている。お前らと同じ、部族の英雄で、投票によって行われる裁決のとき、お前らと同等の力を持っているんだ」

 いらいらするのか、イェズラムは煙をふかしていた。もくもくした白煙がたなびき、痛恨の表情のデンに、まとわりついている。

「増してだ……お前らは戦場にいるとき、あいつらに、いい格好してみせているだろう。死亡率が高い。これは内々の数字だが、英雄エルとつく名の六割は、その後ろに女のような名前が続いているのが現状だ。さらにだ。エル・ファランジールは、エレンディラに次ぐ大派閥の長で、俺はあの女がな……苦手なんだ!」

 エル・ファランジールは、男のはずだが、随分と色っぽいおばちゃんなのだ。時たま女装して、イェズラムにも迫ったことがあるらしい。しかし、エル・ファランジールはイェズラムの好みではなかった。それで結局、何事もなかったわけだが、振られたことに業を煮やしたらしい女英雄は、晩餐の玉座のダロワージで、あることないこと噂を流した。

 エル・イェズラムはきっと、あちらのほうが役に立たない方なのですわ。それとも女に興味のない方なのかしら。案外そうかもしれませんわね。浮いた噂のひとかけらも、耳にしたことございませんもの。

 それを、エル・ファランジールが、わざわざ皆にも聞こえるように、おっほっほと哄笑して話す横で、エル・エレンディラは黙々と、あわびの刺身を食っていた。ふたりの女英雄は、仲が良かったのだ。

 しかし女というやつは、どんなに親しい間柄でも、お互いに秘密を持っているものらしい。

 エル・エレンディラは、その場ではなにも言わなかったが、やがてその噂は、彼女の派閥の娘たちの囁く別の噂によって、あっさりと鎮火された。

 それは、あくまで秘密らしいが。もう皆よく知っている。

 イェズラムはエレンディラとできているのだ。これといって、玉座のダロワージを賑わすような、浮いた話は流れ出てこないが、他には誰もいない密室さえあれば、長老会のデンも、ただの男ということだろう。

 イェズラムは、皆には怖いと思われているようだが、別にそんなことはない。厳しいところもあるけど、俺には優しい養父デンだ。

 いらいらするらしい養父デンのそばに擦り寄っていって、長く房を垂らした腰の飾り帯のはしを掴むと、ギリスはむっとした顔をしているイェズラムの隻眼の顔を、じっと見上げた。

「だが苦手だろうが何だろうがな、この際、肝心なのは票だ。エル・ファランジールの派閥の票を含めておかねばまずい。全く、些細なところだがな、勝負事というのは、勝たねば意味がないんだ」

 ぼやくデンの話に、皆、しょんぼりとしていた。

 皆がイェズラムに従うのは、養父デンが怖いからではなく、好きだからだ。なぜかは知らないが、イェズラムは皆に慕われている。たぶん、優しいからだろう。結局、イェズは舎弟ジョットに甘くて、人使いは荒くて、厳しいところもあるが、最後の最後では、いつも守ってくれる。

「大方、妨害工作だろう。俺が嫌いな誰かが、エル・ファランジールに強請りのねたを垂れ込んだんだ。しょうがない。これから頭のひとつも下げに行くから、シャリマー、お前もういっぺん女部屋まで先触れに走れ」

「はい……」

 すみませんという顔で、エル・シャリマーは一礼し、言われたとおり、走り去った。ほんとに走っていくつもりのようだった。

 廊下は走っちゃいけないんだぜ。

 ギリスはそう思って、悶々としたが、イェズラムにそれを訊くのは、我慢していた。皆も大勢見ていたし、養父デンも暇じゃあないだろう。

「もう行く。お前らは、派閥の部屋サロンに帰っておけ。俺が女どもに平身低頭するところなんぞ、見に来るな」

 苦い顔でぶつくさ言って、養父デンはこの足で、エル・ファランジールのところを訪ねるつもりのようだった。

 彼女の部屋サロンは、回廊を回って歩き、香水の匂いがぷんぷんする辺りにある。イェズラムはそこにたむろする、乳のある英雄たちのことも、おしなべて苦手で、陰ではその界隈のことを、エル・ファランジールの売春宿ポヤギと呼んでいる。

 兄貴分デンたちは皆、去れと命じられたが、ギリスはそれに、自分も含まれているとは、思っていなかった。にこにこしながら、養父デンの帯端を握って立っていると、イェズラムが困ったような顔で、ギリスを見下ろしてきた。

「お前もどこかに行っていろ、ギリス」

「どうして。エル・ファランジールに会いに行くんだろう。エル・エレンディラじゃないよ」

 エレンディラなら遠慮するけどと、そういうつもりで気をきかせたのだったが、イェズラムはその話に、腹でも痛いような顔をした。

「大人の話だ。お前が行く必要はない」

「でも俺、イェズラムに、話があるんだよ。行く道でいいから、ちょっとだけ俺と話してよ」

 じっと見上げて頼むと、イェズラムは返事をしなかったが、やれやれというふうにため息をこぼし、仕方ないなという顔をした。

 そうして、そのまま歩き出した養父デンの、握った帯端が引きつらないよう、ギリスは小走りに、足の速い養父デンを追いかけて、ついていった。

 イェズラムが宮廷を歩くと、出会う英雄エルたちも、文官も武官も、女官たちも、吹きすぎる風に薙がれた麦の穂のように、優雅に腰を折って一礼をした。人に腰を折らせる、なにか不思議な魔法があって、イェズラムがそれを使っているみたいだった。

 一緒に付いて歩くと、自分まで偉くなったような気がして、ギリスは面白かった。

 いつも、ふぬけた白痴と自分を馬鹿にしてきた宮廷の連中や、居ても居ないみたいに無視していた奴らが、ただイェズラムと一緒にいるだけで、まるで自分にも頭を下げているみたいに見えた。

 そんなふうになればいいなと、願ったことはなかったはずだが、いざそれを目の前にすると、ギリスの心は熱く疼いた。いつかイェズラムのような大英雄になって、自分もこんなふうに、畏れ敬われる日もあるだろうか。イェズのようには、なれないだろうけど、それにも次ぐような、立派な英雄に。

 どうすれば、そんなふうになれるのか、今はまだ見当も付かなかったが、それは野心というより、熱い憧憬だった。いつか墓所で自分を待つ養父デンが、現世の偉業を成し遂げて、英雄として死んだ自分を、よくやったギリスといって、上機嫌に出迎えてくれる。そういう生涯が、今は純粋に、美しい夢に思える。

「あのね、イェズラム……」

 何をどこから話せばいいやらと、ギリスは考えたが、考えてもうまい案が、思いつかなかった。

 意気込んで話しだしたギリスを、歩きながらちらりと横目に、イェズラムが見下ろしてきた。

「はじめさ、赤だったんだ」

「なんの話だ」

 石に食われて、片方だけになった目で、養父デンは何かを見極めようとするような、険しい顔になった。話の意味が、伝わっていないらしかった。

「飴だよ。今朝、イェズラムがくれた飴だよ。はじめ赤だったんだ。それから、橙色になって、それは、芒果マンゴーの味だったんだ。……あっ。赤はさ、苺味だったんだ。それから、橙色になって、それから檸檬レモンになって。いや、そうじゃなくて、黄色になってさ、それが檸檬れもん味でさ、それから……」

「なんの話だ、ギリス」

 聞きながら、養父デンは首を傾げていた。

 うまく話せていないらしいことに気がついて、ギリスはじわりと、焦ってきた。

「飴の話なんだけど……」

 握ったままだった、養父デンの帯端を、さらに強く、ぎゅっと握りしめて、ギリスは口ごもった。自分がなにを話そうと思っていたのか、よく思い出せなくなっていた。

「飴がどうなったんだ。全部食べたのか。最後まで?」

 大人の早足に、ギリスがついてこられないことに気付いたのか、イェズラムはきゅうに、ゆっくりとした足取りになった。それに倣うように、ゆったりした話しぶりで訊く声は、長老会のデンではなく、ギリスの保護者の声だった。

「食べてない。噛んじゃった」

 正直に話すと、腹の奥底のあたりが、ぎゅっと縮むような気がした。イェズラムが、怒るのではないかと。

 しかし養父デンは、はははと小さく声をあげて、笑っていた。

「なんだ。そうか」

「でも、わざとじゃないんだよ。俺が飴を食っていたら、さっきのあいつが、殴ってきやがって、その時、飴が口ん中にあるじゃんか。それで俺、噛んじゃったんだよ……」

「そうか。それは事故だな」

 いまだに含み笑いしつつ、養父デンは答え、そして自分の袖の中を探っていた。そして、また新しい一本の、七色の紙に包まれた、棒付きの飴を取り出すと、それの包み紙を手ずから剥いて、しょんぼりと俯きがちだったギリスの口に入れてきた。

 甘い味がした。苺のような。

 真っ赤な色をした、素朴な作りの飴玉だった。

 渡された棒のところを、帯を掴んでいないほうの手で、しっかりと掴んで、ギリスは慎重に舌を絡めた。また七層の違う食味が、次々と現れるだろう。

「喧嘩をするな、ギリス。皆、お前の仲間か、部下になる連中だ。難しい時もあるかもしれないが、皆とうまくやっていけるように、頑張ってみろ」

「うん、俺、頑張るよ」

 深く考えもせず、ギリスは即答で、頷いていた。養父デンがそうしろと言うのだから、そうするほうが正しいのだ。さっきのあいつとだって、養父デンがそうしろというなら、仲良くなってみせる。

「ごめんね。俺、朝もらったほうの飴、さっきのところに落としてきちゃったよ。食い物を、粗末にするなって、イェズはいっつも言ってるのにさ。それはちゃんと、憶えてるんだよ。でも落としちゃった」

「それはもういい。次は気をつければいい」

 苦笑いして、イェズラムは許した。なぜ笑われているのか、よく分からず、ギリスは不安になった。

 手を繋いで歩いたら、だめなのか。もう、ちびすけじゃないから、だめなのか。

 人はどうして、大人にならなきゃいけないのだろう。ぼんやり食って寝て、たまに遊んで、長老会の部屋サロンの隅っこで、大人しく飼われているちびすけのままで、俺は良かったのに。いつの間にか大人になって、ひとかどの英雄にならないと、いけないものだろうか。そうでないとイェズラムは、困るのか。

 養父デンはギリスを、射手に選ぶつもりのようだった。

 他にも沢山の候補者がいて、今日、殴り合った相手のような、優秀な奴らがいくらでもいたが、それと競い合わせている間にも、養父デンはずっと、決めているようだった。

 お前は将来、新星の射手になるのだから、それにふさわしい、歴史に名を遺すに値する英雄に、ならねばならぬと、そんな話を養父デンはした。時折、石の与える病苦に耐える、青ざめた顔の時には。

 それは苦痛のための気の迷いで、つい口を突く話ではないかと思えるが、それこそが養父デンの本音ではないかと、ギリスには聞こえた。

 手ずから育てたエル・ギリスに、自分と同じ新星の射手の座を、継がせたいと。

 それは、石に冒された養父デンの脳が起こす、狂気の発作かもしれぬが、ギリスはその期待に応えたかった。自分には大きすぎるその責務も、敬愛する養父デンの命ずるものなら、可能なような気がするのだ。

 お前ならできると、イェズラムが言うと、できるような気がした。困難な、暴れ馬を乗りこなすことも、難しい、数学の問いに解を見出すのも、次代を照らすための新しい星を、闇夜に放つことも。今まで課されてきた期待に、全て応えたように、それにも応えられる。皆が認める大英雄イェズラムと並び立つような、偉大な者になって、養父デン亡き後の部族を、幸福へと導くための生け贄に、自分もなれる。あるいはこの宮廷で飼われる、英雄エルの名を持つ兄弟たちが、今と変わらず幸福に、生きて死ねるように、守り導くデンに、俺もなれる。イェズラムがずっと、そうだったように。養父デンの代わりを務められる。それが他ならぬイェズラムの命令であり、望みであれば。

「エル・ファランジールを、何て言って説得するの」

 連れ立って歩きつつ、ギリスは訊ねてみた。養父デンには策があるのかと思って。

 すると養父デンはまた、苦笑いの顔になった。

「さあなあ。奴の顔を見てから決めるよ。何を今さらごねているのやら」

「エル・ファランジールは、イェズが好きなんじゃないの。だから困らせたいんだよ」

「そうだろうかなあ。好きなら困らせないでもらいたいもんだよ。奴が俺を好きでも、俺は困るんだしなあ」

 いかにも苦手という顔で、イェズラムは、エル・ファランジールの顔を思い出しているようだった。

 件の女英雄は、確かに化粧も濃いし、女みたいな服を着てるし、頭もあんまり良くないと評判だ。それでも抜群の風刃術を使うので、疾風のファランジールとか詩人に讃えられて、英雄譚ダージはなかなか格好がいい。そんなことありえないと思うのに、詩人の詠う英雄譚ダージの中では、エル・ファランジールが起こす魔法の突風に、いい匂いのする赤い花吹雪が舞ったりするのだ。その一陣の風で、敵の魔物もいちころで、なんだかお色気むんむんなのだ。

 それでもイェズは、お堅いエル・エレンディラが好きなんだから、しょうがない。

 いくらファランジールが、イェズラムってどんなのかしらと思っても、しょうがないのだ。普通はね。

「秘密でさ、ちょっとだけ、いいことしてあげたらいいんじゃないの。そしたら、エル・ファランジールも、納得するんじゃないかなあ」

 一生懸命考えて、ギリスはそう提案した。飴を舐めながら。

 養父デンはまた、長煙管の煙に、げほげほ言っていた。

「いいことってなんだよ」

「なにか気持ちのいいこと」

 にっこりして話すと、養父デンは立ち止まって、ギリスの顔をしげしげと見た。

「なにか気持ちのいいこと?」

 呆れたように問い返してくる養父デンに、ギリスは微笑んだまま、こくこくと頷いてみせた。それを眺め、養父デンはいよいよ、呆れたという顔になった。

「分かって言ってるのか、ギリス。お前なあ……子供のくせに」

「俺、子供じゃないよ」

 にこにこして、ギリスは養父デンに教えた。イェズラムは、ふっと微かな声をたてて、苦笑したらしかった。

「元服式を済ませたぐらいで、大人になれるわけじゃない。肌色が変わってもな、頭の中身はその前と、大差ないんだからな?」

「でももう子供じゃないって言われたよ。上手だって」

 少しむっとして、ギリスは自信なく答えた。

 それを、しょうがない奴だと笑って見ていた養父デンの顔が、ふと真顔になり、それからだんだんと、青ざめていくようだった。

「……誰に言われた」

 そう訊ねた時の養父デンの表情は、ひどく硬かった。

「エル・ファランジールだよ」

 身を固くして、ギリスは答えた。養父デンを怒らせたらしいと気付いて。

「何をされたんだ。言ってみろ……小さい声で言ってみろ、すごく小さい声でだぞ」

 まるで何と言うか知っているみたいに、養父デンはもう、眉間に指を添えて、頭を抱えていた。

「言っちゃだめなんだよ、それは。ふたりだけの秘密だからさ」

「馬鹿っ」

 ギリスに言ったのか、養父デンはとにかく、微かに天を仰ぐ仕草で、そう怒鳴っていた。

 自分に言われたのかと、ギリスはぽかんとした。

 養父デンがそんなことを、自分に言った例しはなかったからだ。いつも、お前は馬鹿ではない、人並み以上に優れていると、褒めてくれていたではないか。

 ぽかんと何も考えられなかったが、それなのに、悔やむ顔の養父デンの様子を見ていると、息苦しいようで、ぜえぜえと胸が喘いだ。

 何か言わないといけないのかと思えたが、なにも言葉が出てこなかった。まるで舌が、悪い病気にでもかかって、痺れちゃったみたいに、口の中で重く腫れた、塊になっている。

「あのな……ギリス……。そういうことは、大人になってからするんだ。好きな相手とな」

「俺もう大人だよ。それにファランジールは好きだよ」

「違う」

 きっぱりと断じて、イェズラムは険しい顔だった。そして、深いため息をつき、煙の残り香のある呼気を、ギリスに嗅がせた。

 イェズラムが手を挙げたので、殴られるのかと一瞬思ったが、そういうわけではなかった。片手でも、ギリスの顔を覆い隠せるような大きなてのひらを、イェズラムはギリスの、殴り合いの痕のある顔に、やんわりと押し当ててきた。

 ほんのり温かい感触から始まって、やがて熱い力のようなものが、手の触れた頬の上に感じられた。たぶん治癒術だろう。ひどい顔だと思って、養父デンはそれを魔法で治すことにしたのだ。

 養父デンの頭の中にある石は、もう十分に進行しており、魔法の使用は控えるのが賢明のはずだ。詩人たちが英雄譚ダージに詠う、炎の蛇と異名をとる、稀代の火炎術も、イェズラムはいくら頼んでも、見せてはくれない。

 それでもたまに、痛みに気付かないギリスが、ひどい怪我をして戻ると、自分の治癒術で治してくれた。それは過酷な課題を与えすぎたことへの罪滅ぼしのように見えたが、それでもギリスは満足した。尽きかける命を惜しまない施療が、怖ろしくはあったが、それでも満足だった。

「お前には、分からないのかな。まだ。愛とか恋とか、そういうものはな。俺にも良くは、分からないからな」

 自嘲するように言って、イェズラムは施療を終えた。そして、また、元通りになったギリスの顔を、しげしげと見下ろしてきた。

「子供みたいなつらだがなあ……お前が大人になるのも、もうすぐか。俺が爺になるわけだよ」

 懐かしげに言って、イェズラムはギリスが銜えたままだった、飴の竹軸を、ぴんと弾いた。

 それに促され、ふと気がつくと、飴はもう、肉桂にっきの味になろうとしていた。ほろ苦い独特の味が舌を刺し、ギリスは沈鬱な顔になった。

「イェズが爺ってことは、ないと思うよ。まだまだ若いんだよ」

「そうか? 俺にはちらちら、墓所の門が見えるけどな」

 冗談なのか、イェズラムは可笑しそうに、笑っていた。それはイェズラムには面白いのかもしれないが、ギリスにはその可笑しさは、全く分からなかった。

 イェズラムが死んで、墓所の骨になったら、どうしようかと思う。その時、自分は、どうやって生きていったらいいだろう。一体誰が、俺を大事にしてくれるだろう。イェズラムがずっと、守っていてくれたみたいに。

 きっとまた、ひとりぼっちになって、誰にも庇ってもらえない。ひとりで生きてる、王宮の野良犬になる。

「俺だけ大人になって、イェズは年を取らない方法って、ないの?」

 そんな魔法があればと思って、ギリスは真面目に訊ねた。すると養父デンはますます苦笑して、確信めいた頷きかたをした。

「あるさ」

「あるの?」

 期待の笑みになるギリスに、イェズラムは微笑みかけていた。まだ微かに、頷きながら。

「あるよ。俺が死せる英雄になって、お前が一人前の英雄になれば、そうなる」

 笑って軽く言われた話に、愕然として、ギリスが押し黙っていると、イェズラムが行こうというふうに、ギリスの肩を押した。

「お前が俺より長生きすれば、お前のほうが年上になるさ。そうなるといいなあ、エル・ギリス。お前はゆっくり育つようだから、大人になるのに、他人ひとより時間がかかるだろう。だから、お前にはたっぷり時間があるほうがいいよ」

 さあ行こうと、背を押すイェズラムに連れられて、ギリスはまた、回廊を歩いた。養父デンはにこやかだったが、少し怒っているようだった。

「どうして怒ってるの、イェズ……」

「ファランジールに文句を言いに行く。俺は腹が立ってきた。頭なんか下げてやるものか」

 真面目な顔で、そう断言して歩くイェズラムの歩調は、ずいぶん勇む足取りだった。

 回廊を行くと、やがて男装した女英雄たちの姿が、そこかしこに見られる辺りへと出た。

 一礼はするものの、陰からくすくす見て笑う、いい匂いのする若い英雄たちに、日頃はいやな顔をするイェズラムも、今回は知らぬ顔だった。

 エル・ファランジールの大派閥の部屋サロンには、取り次ぎをする侍女や、下座の英雄たちが、いくらでもいたが、イェズラムは取り次がせなかった。

 部屋サロンの手前の、控えの間には、先触れに走ったはずの派閥のデンが、なんだかんだと誤魔化されて、足止めされていたようで、踏み込んできたイェズラムを見るなり、ぎくりとしていた。

デン

「のろまな伝令だなあ、おい。お前の失点にしておくぞ」

 苦笑いでそう言って、通り過ぎようとするイェズラムを、部屋付きの女官や女英雄たちが、今はどなたもお取り次ぎいたしませんと、引き留めようとした。

 しかしイェズラムはそれに構わず、彼女らの肩を押しのけて、片手で扉を開くと、そのままずかずかと部屋に入り込み、驚く女英雄たちの裳裾を踏み分けて、甘く麝香の香る部屋サロンの奥の、いちばんの上座に座る美貌の女のところへと、まっしぐらに踏み込んでいった。

 エル・ファランジールは女の服を着ていた。急にやってきた長老会のデンに、仰天したようだった。

 側近の女英雄に、楽しげに爪を磨かせていたエル・ファランジールは、イェズラムの顔を見て、さっと青ざめた。

 理由は分からないなりに、こちらのデンの顔色が、尋常の用件でないことを物語っていたのだろう。

「俺と喧嘩をしたいそうだな、エル・ファランジール。外に出て殴り合おうか」

 長煙管の中に残っていた、燃え尽きた葉を、イェズラムは腰をかがめ、エル・ファランジールの膝元にあった煙草盆に、打ち付けて落とした。その、かつんという金属質な音に、エル・ファランジールはびくっとしていた。

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