第3話
それは怒鳴るでもない、ただ呼んだだけの声だったが、ギリスは鞭打たれたように、びっくりした。
まだ殴りかかろうとする喧嘩相手の手を逃れ、ギリスは壁際まで引いた。それでも執拗な相手の手から、腕で頭を
そうして開放された、自分のへばる足もとに、割れた飴の欠片が転がっていた。ころんと
食い残した虹の、最後のひとかけだ。
それを眺め、じわりと胸が焼ける感覚がして、ギリスはその先の敷物の上に、見覚えのある靴があるのを、暗く
イェズラムだった。見間違えるはずがない。
今朝見た靴と、同じだし。それに、イェズラムの声だった。
「エル・ハルマーン」
ギリスを呼んだ時と同じ、呆れたという声色で、イェズラムがたったの今まで、ギリスを殴っていた相手の名を呼んでいた。
イェズラムは、こいつの名前を知ってたらしい。
そりゃそうか。知らないわけがないか。長老会の部屋で、自分と同じように養育されていた一人だ。名前も知らないわけがない。名前だけでなく、いろいろ知ってる。どんな魔法を使うやつだとか、どんな性格なのかとか、どんな派閥の、どんな人脈の中にいるのかとか。なんでも知ってる、イェズラムは、こいつに限らず、いろんな
名を呼ばれたエル・ハルマーンは、さんざんに殴られた顔で、拳を握って立っていた。その
格好悪い。俺もそんなふうだったら、嫌だな。せめて顔に来る拳骨は、避けた方がいいな。
そんなことを思いつつ、
「喧嘩はほどほどにな」
参ったなという、微かな笑い方で、イェズラムは型どおりの説教を垂れて、すぐに立ち去るようだった。
ギリスは顔を上げられず、
「
言わずもがなの話を、お節介な
「そうだったろうかな。子供の喧嘩だ。見なかったことにしたらどうだ」
苦笑いしつつ、イェズラムが話している相手は、随分と渋い顔をしていた。
「しきたりです。
それは膚の色を見れば分かることだ。見た目はまだまだひよっこで、大人の体格と比べようもないが、それでもお互いすでに、皮膚の変色が始まっている。元服の儀式を経て、日焼けしたのだ。それは大人の仲間入りをするための、誇らしい変化のはずだったが、今は少々、都合が悪かった。
「そうだったか?」
イェズラムがとぼけていた。
淡く、嗅ぎ慣れた独特の煙が匂った。イェズラムが煙管を吸っているのだろう。
そのせいか、
「そうだったか、ではありせん。掟ですから。ギリスだけ大目に見るのでは、示しがつきません」
苛立ったような声で、誰かがそう言っていた。名前も知らぬような誰かだった。もしかしたら、知っているべき名前かもしれないが、派閥で
「なぜ喧嘩などしたのだ、幼髪の餓鬼でもあるまいし。お前たちはもう、ひとかどの英雄なのだろ?」
ついさっきまでは、まだ子供だと言った相手に、イェズラムは平気でそんなことを言っていた。喧嘩相手に話しかけている
「こいつが……」
ギリスを指さして、喧嘩相手のエル・なんとかは言った。それに促されて、こちらを見たイェズラムが、ぎょっとしてギリスを見た。
たぶん顔が、殴られて大変なことになっているのだろう。ギリスは面目なくて、両手で顔を隠した。しかしそんなことをしても、今さらだった。失態はすでに目にも明らかだ。
「俺の名を、誰も憶えていないと言ったのです。この、馬鹿が……」
もっと罵りたいのだろうが、相手の少年は長老会の
「そんなことはないだろう。現に、俺はお前の名を知っていただろ? エル・ハルマーン」
諭す声で、イェズラムが話すと、エル・なんとかは、悔しげに、こくこくと頷いていた。長身のイェズラムは、話し相手の顔を見るために、首を傾げるようにして、覗き込んでいた。
大体イェズラムは誰にでも親身だった。厳しいようだが、結局、根は甘くて、誰にでも優しい。族長のことだって甘やかしている。仮にも玉座に君臨する男が、乳兄弟の兄がいるからといって、いまだに愚痴愚痴と我が儘を言いに来るというのは、おかしいような気がギリスにはしたが、イェズラムはそれも咎めはせず、いつもおとなしく愚痴られている。
増して相手が本物の子供となると、イェズラムは罰を与える気もないようだった。徹頭徹尾、子供扱いで、そこはかとなく、幼児をあやす口調だ。
「そうですが……
相手が甘いようなのをいいことに、エル・なんとかは、
往生際の、悪いやつだ。
今さらそんなことを言ったところで、それじゃあ長老会に戻ってこいと、イェズが言うわけないのに。
「確かにお前は成績優秀だ。才気煥発にして、魔導に秀で、容姿も端麗。教養も行儀作法も、申し分ない。しかし鈍色の部屋ではな、本来、はなからそういう者どうしの争いなんだ。無能だから負けた訳ではない。生まれ持った性格や、人柄の問題だ」
救いようのないことを、イェズラムはあっさりと言っていた。酔っているせいではない。
諭される前より、エル・なんとかは深い傷を受けたらしかった。ぐっと堪える顔になるのが見えた。
もう黙っといてやればいいのに、
「大体だ、エル・ハルマーン。お前のように誇り高い英雄がだな、日々、王族の我が儘に踏みにじられる立場に立って、やっていけるだろうか。ギリスにつつかれた程度で、この様だ。王族の毒舌は、もっと悲惨だぞ。お前らは知らないだろうけどな……」
すう、と煙管を吸って、それを吐き出すまでの間、イェズラムは沈黙していた。そして、その間に、自重することにしたらしい。口ごもっていた。
「とにかくだ。人には向き不向きがある。お前は一英雄として、部族のために尽くすほうが、有用だと俺が判断した。この挫折を力にして、
そう励ましてから、イェズラムはまだ項垂れているエル・なんとかの肩をぽんぽん叩いてやってから、頭を撫でてやっていた。それにエル・なんとかは、泣きそうなような顔をした。泣くのじゃないかと、ギリスは期待した。人が泣いているところを見るのが好きだったからだ。ちびどもが、ぴいぴい泣くのはよく見るが、これぐらいの年格好のやつが泣くのは、滅多に見られるものではない。
しかしエル・なんとかは、堪えたようだった。
なんで堪えるのかと、ギリスはがっかりした。
「どちらが先に殴ったのだ」
ギリスと、青い石のを見比べて、イェズラムは訊ねた。どちらも同じ程度の負傷だったので、見た目には判断がつかなかったのだろう。
ギリスが回想するより早く、エル・なんとかは躊躇いもなく、指を突き出して、ギリスを指し示してきた。
「こいつです、
そうだったろうか。ギリスは混乱してきた。そうだったっけ。先に俺が、殴られたんじゃなかったか。
「そうか……ではギリスが悪かったようだな?」
ちらりと横目にこちらを振り向いて、イェズラムはギリスにそう訊ねた。
そうかもしれない。挑発したから。それが悪かったといえば、そうかもしれない。だけど先に殴ったのは、俺じゃないのにと、ギリスは戸惑って、迷う目のまま、力無く、首を横に振ってみせた。俺じゃないと、言いたいけれど、俺は悪くないとは、言いづらい気がして。
イェズラムは何度か瞬きする間、黙ってギリスを見ていたが、やがてため息のような声で、話を続けた。
「しかし、喧嘩は両成敗だ。お前も結局、殴ったのだろう。お互いの
呆れ果てたふうに、イェズラムがそう言うと、向こうもギリスの顔を見たのか、いたたまれないふうに、俯いていた。
「しょうがないな、これで反省しろ」
苦笑になって、イェズラムは青い石のやつの、額の真ん中を、びしっと指で弾いた。あれはものすごく、痛いらしい。派閥の
青い石のやつは、それで泣くほど餓鬼ではなかったようだが、もちろん痛かったようだ。自分の石を覆って、ひいひい言っていた。皆はそれを、面白そうなような、同情めいた笑みで、眺めていた。
「ギリス、お前もだ」
やっとこちらに目を向けてきたイェズラムに、ギリスは俯きがちに向き合った。
そして、差し招く
「不公平です、
「いいや。これで同等だ。お前は俺にまた嘘をついただろう。本当にお前が先に殴られたのか? ギリスは違うと言っていたぞ。それにお前はな、嘘をつくとき、目が泳いでるんだよ。どうせ嘘をつくなら、堂々として言え。でないとバレるし、意味がないだろ。看破されれば嘘も弱みになるんだ。憶えておけ」
くどくど言われる話を、エル・なんとかは、暗く俯いて聞いていたが、イェズラムの長身から滔々と浴びせかけられる厳しい口調にびびったのか、唐突に、泣き出した。
うっ、と低い嗚咽とともに、いきなり号泣しはじめた子供を、イェズラムはあんぐりと見ていた。まさか泣くと思ってなかったのだろう。ぽかんとしているイェズラムの目前で、エル・なんとかは、腕で涙を拭いながら、肩を震わせおいおい泣いていた。
ギリスはそれを、じっと見た。すごいな、泣いてるよと思いながら。
人が泣いているのを見るのが、好きなのだ。自分にはない、その激しい情動が、羨ましいような気がして、見ずにおれない。そんなふうに泣くほど悲しいというのは、どんなもんなのだろう。
ギリスは泣いたことがなかった。少なくとも、物心ついて以来、憶えている限りは。赤ん坊の頃にはどうか、知らないが。まさかその頃にも泣いたことがなかったのか。
「なぜ泣いているんだ、エル・ハルマーン」
ほとほと困ったように、イェズラムは青い石のに、訊ねていた。考えたけど、
「
泣いて嗚咽する声で、エル・なんとかは、恥も外聞もなく、平伏せんばかりにイェズラムに頼んでいた。その餓鬼くさい姿に、ギリスはぽかんとした。
イェズラムが俺を贔屓してるなんて、そんなことがあるだろうか。あったらいいなと思うけど、
疑わしいとギリスには思えたが、見ればイェズラムは渋面だった。反省したような顔をしていた。
「さっきも言ったが、エル・ハルマーン。能力の問題ではない、性格の問題なんだ。さらに言えば、相性の問題だ。長老会は新星となる王族の絞り込みをしている。お前はその王子と、気が合いそうにないんだ」
「そんなこと言われても。俺も名を遺したいのです。新星の射手として……
わんわん泣いているチビを、
なんのために戦っているのか、それが肝心だと、
いずれこの戦いに勝利し、戦う必要がなくなったら、
しかしそれは矛盾している。英雄など要らぬようになったら、自分たちはどこへ行けばいいのか。戦いの中で名を遺すことでしか、幸せになれないのに、皆、その幸せを奪われて、どうやって生きていくのか。イェズラムは優しい
懐から取り出した飴の包みを剥いて、イェズラムはそれを、青い石のやつの口に入れてやっていた。飴でも食って、元気を出せと言って。
話しても、しょうがないと思ったのだろう。
青い石のやつは、嗚咽を堪えながら、それでもおとなしく、黙々と飴を食っていた。他にすることがないので、その甘い味を噛みしめて、堪えているらしかった。よしよしと、幼児をなだめるような調子で、誰かがそいつの肩を抱いてやっていた。派閥の
「ギリス。お前はなんで、こいつの名を憶えていないんだ。同輩だろう。それに毎日、長老会の部屋で顔を合わせた仲だろう?」
なんとか泣きやんだ青いのに、ほっとしたような顔で、イェズラムは困ったふうに、ギリスに訊ねてきた。
「そうだっけ……」
小声でギリスは正直に答えた。
正直にいって、憶えていなかった。毎日だったろうか。知っている奴だとは思うが、名前もろくに覚えていなかったし、詳しいことは分からない。
ギリスの返事に、失笑したのか、イェズラムが笑っていた。その取り巻きの兄たちも、ギリスを馬鹿にしたような、苦笑の顔だった。
「ギリス、まさか俺の名も知らないわけじゃなかろうな」
イェズラムが問うと、皆が笑った。なぜ笑うのか、ギリスには分からなかった。
「知ってるよ。イェズラム……」
ギリスは真面目に答えた。イェズラムは、うんうんと、煙管をふかしたそっけない顔で、頷いていた。
「そうか。よかった。俺もちょっとは名の知れた英雄らしい」
イェズが心底ほっとしたふうに言うと、また皆が笑った。名の知れたもなにも、部族でイェズラムの名を知らぬ者などいないだろう。特にこの宮廷においては。
ギリスは話の意味がわからず、身を固くして、壁際にうずくまっていた。
「俺が明日になって、お前の名前を忘れていたら、どう思う。エル・ギリス」
悠々と言われた、その話に、ギリスは衝撃を憶えた。
そういうことは、あるかもしれない。
想像すると、ギリスは戸惑った。朝、挨拶をしにいくと、
「そんなのいやだよ」
口の中に苦い味がした気がして、ギリスは顔を顰めた。殴られて、腫れているらしい頬が、熱く引きつっていた。
「そうだろう。
淡々と解説される話は、宮廷での英雄暮らしの常識だった。そんなこと言われるまでもなく、知っていたし、それにギリスには
イェズラムに名を忘れられて、いやな気がするのは、英雄としての誇りが傷つくからじゃない。ただ単に、いやなだけだ。
寂しいから。
そういう苦痛があることに、近頃突然、気がついた。昔は分からなかったことが、少しずつ分かるような気がする。人の世にあるという、幸福や、傷みのことが。
「
話していたイェズラムに、脇から誰かが口を挟んだ。誰か伝令の者が、ここを探し当てて来たようだった。
イェズラムは隻眼の目で、声をかけた者を流し見た。
「どうした。お前も俺の名を忘れたのか?」
問われた
「いいえ。エル・イェズラム。エル・シャリマーが来ました。投票の件で、急ぎのようです」
取り次ぎを待たずに人を掻き分けてきて、イェズラムに立位のままの略礼をしている、エル・シャリマーなる
「
その話にも、イェズラムは不愉快そうに
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