第3話

 それは怒鳴るでもない、ただ呼んだだけの声だったが、ギリスは鞭打たれたように、びっくりした。

 まだ殴りかかろうとする喧嘩相手の手を逃れ、ギリスは壁際まで引いた。それでも執拗な相手の手から、腕で頭をかばっていると、誰かがその青い石のやつの、襟首を引っ張って無理矢理引き離していた。

 そうして開放された、自分のへばる足もとに、割れた飴の欠片が転がっていた。ころんといびつな半球の、外側は暗い青で、中は鮮やかな紫色をしていた。

 食い残した虹の、最後のひとかけだ。

 それを眺め、じわりと胸が焼ける感覚がして、ギリスはその先の敷物の上に、見覚えのある靴があるのを、暗くうつむいたままで見つめた。

 イェズラムだった。見間違えるはずがない。

 今朝見た靴と、同じだし。それに、イェズラムの声だった。

「エル・ハルマーン」

 ギリスを呼んだ時と同じ、呆れたという声色で、イェズラムがたったの今まで、ギリスを殴っていた相手の名を呼んでいた。

 イェズラムは、こいつの名前を知ってたらしい。

 そりゃそうか。知らないわけがないか。長老会の部屋で、自分と同じように養育されていた一人だ。名前も知らないわけがない。名前だけでなく、いろいろ知ってる。どんな魔法を使うやつだとか、どんな性格なのかとか、どんな派閥の、どんな人脈の中にいるのかとか。なんでも知ってる、イェズラムは、こいつに限らず、いろんな英雄エルのことを、事細かに知っている。英雄達を束ねる長老会の、デンなんだから。

 名を呼ばれたエル・ハルマーンは、さんざんに殴られた顔で、拳を握って立っていた。そのつらがあまりにひどいので、俺もこんな顔になってんのかと、ギリスはぎょっとした。

 格好悪い。俺もそんなふうだったら、嫌だな。せめて顔に来る拳骨は、避けた方がいいな。

 そんなことを思いつつ、養父デンの二言目を待っていると、イェズラムはなかなか喋らなかった。イェズラムに付き従っていた、取り巻きの年長者デンたちも、呆れたという顔で、押し黙っていた。

「喧嘩はほどほどにな」

 参ったなという、微かな笑い方で、イェズラムは型どおりの説教を垂れて、すぐに立ち去るようだった。

 ギリスは顔を上げられず、養父デンがどんな顔をして自分を見ているのやら、見当もつかなかった。

デン、喧嘩には罰を与えるしきたりです」

 言わずもがなの話を、お節介な年長者デンの誰かが、イェズラムに注進していた。そんなことは、言われなくても、イェズラムは知っているだろう。イェズだって、この同じ宮廷で生きてきた、英雄達のひとりなのだから。

「そうだったろうかな。子供の喧嘩だ。見なかったことにしたらどうだ」

 苦笑いしつつ、イェズラムが話している相手は、随分と渋い顔をしていた。

「しきたりです。デン。それに子供ではありません。両方とも元服しています」

 それは膚の色を見れば分かることだ。見た目はまだまだひよっこで、大人の体格と比べようもないが、それでもお互いすでに、皮膚の変色が始まっている。元服の儀式を経て、日焼けしたのだ。それは大人の仲間入りをするための、誇らしい変化のはずだったが、今は少々、都合が悪かった。

「そうだったか?」

 イェズラムがとぼけていた。

 淡く、嗅ぎ慣れた独特の煙が匂った。イェズラムが煙管を吸っているのだろう。

 そのせいか、養父デンの声はどことなく、陽気だった。たぶん少々、酔っているのだろう。ごく淡いものだが、煙で酔っぱらった時のイェズラムは、日頃とは別人のように機嫌のいい事がある。

「そうだったか、ではありせん。掟ですから。ギリスだけ大目に見るのでは、示しがつきません」

 苛立ったような声で、誰かがそう言っていた。名前も知らぬような誰かだった。もしかしたら、知っているべき名前かもしれないが、派閥で養父デンの傘下にいる連中の名を、いちいち憶えていたらきりがない。そんな兄貴分たちは、数知れずいるのだ。

「なぜ喧嘩などしたのだ、幼髪の餓鬼でもあるまいし。お前たちはもう、ひとかどの英雄なのだろ?」

 ついさっきまでは、まだ子供だと言った相手に、イェズラムは平気でそんなことを言っていた。喧嘩相手に話しかけている養父デンを、ギリスはこっそりと見上げた。

「こいつが……」

 ギリスを指さして、喧嘩相手のエル・なんとかは言った。それに促されて、こちらを見たイェズラムが、ぎょっとしてギリスを見た。

 たぶん顔が、殴られて大変なことになっているのだろう。ギリスは面目なくて、両手で顔を隠した。しかしそんなことをしても、今さらだった。失態はすでに目にも明らかだ。

「俺の名を、誰も憶えていないと言ったのです。この、馬鹿が……」

 もっと罵りたいのだろうが、相手の少年は長老会のデンの手前か、ぐっと堪えて、そこまでで口ごもっていた。イェズラムは、吸い口をもっていきかけた煙管を口元に浮かせたまま、呆れたという顔だった。

「そんなことはないだろう。現に、俺はお前の名を知っていただろ? エル・ハルマーン」

 諭す声で、イェズラムが話すと、エル・なんとかは、悔しげに、こくこくと頷いていた。長身のイェズラムは、話し相手の顔を見るために、首を傾げるようにして、覗き込んでいた。

 大体イェズラムは誰にでも親身だった。厳しいようだが、結局、根は甘くて、誰にでも優しい。族長のことだって甘やかしている。仮にも玉座に君臨する男が、乳兄弟の兄がいるからといって、いまだに愚痴愚痴と我が儘を言いに来るというのは、おかしいような気がギリスにはしたが、イェズラムはそれも咎めはせず、いつもおとなしく愚痴られている。

 増して相手が本物の子供となると、イェズラムは罰を与える気もないようだった。徹頭徹尾、子供扱いで、そこはかとなく、幼児をあやす口調だ。

「そうですが……デン。こいつが俺を侮辱したのです。この、薄ら馬鹿……エル・ギリスが! こんな奴より、俺のほうが優れていると思います。成績だって、俺のほうが良かったはずです」

 相手が甘いようなのをいいことに、エル・なんとかは、デンに取り入る口調だった。むっとして、ギリスはそれをただ眺めた。

 往生際の、悪いやつだ。

 今さらそんなことを言ったところで、それじゃあ長老会に戻ってこいと、イェズが言うわけないのに。

「確かにお前は成績優秀だ。才気煥発にして、魔導に秀で、容姿も端麗。教養も行儀作法も、申し分ない。しかし鈍色の部屋ではな、本来、はなからそういう者どうしの争いなんだ。無能だから負けた訳ではない。生まれ持った性格や、人柄の問題だ」

 救いようのないことを、イェズラムはあっさりと言っていた。酔っているせいではない。養父デンはもともとそういう人なのだ。

 諭される前より、エル・なんとかは深い傷を受けたらしかった。ぐっと堪える顔になるのが見えた。

 もう黙っといてやればいいのに、養父デンはさらに言った。

「大体だ、エル・ハルマーン。お前のように誇り高い英雄がだな、日々、王族の我が儘に踏みにじられる立場に立って、やっていけるだろうか。ギリスにつつかれた程度で、この様だ。王族の毒舌は、もっと悲惨だぞ。お前らは知らないだろうけどな……」

 すう、と煙管を吸って、それを吐き出すまでの間、イェズラムは沈黙していた。そして、その間に、自重することにしたらしい。口ごもっていた。

「とにかくだ。人には向き不向きがある。お前は一英雄として、部族のために尽くすほうが、有用だと俺が判断した。この挫折を力にして、英雄譚ダージを肥やせ」

 そう励ましてから、イェズラムはまだ項垂れているエル・なんとかの肩をぽんぽん叩いてやってから、頭を撫でてやっていた。それにエル・なんとかは、泣きそうなような顔をした。泣くのじゃないかと、ギリスは期待した。人が泣いているところを見るのが好きだったからだ。ちびどもが、ぴいぴい泣くのはよく見るが、これぐらいの年格好のやつが泣くのは、滅多に見られるものではない。

 しかしエル・なんとかは、堪えたようだった。

 なんで堪えるのかと、ギリスはがっかりした。

「どちらが先に殴ったのだ」

 ギリスと、青い石のを見比べて、イェズラムは訊ねた。どちらも同じ程度の負傷だったので、見た目には判断がつかなかったのだろう。

 ギリスが回想するより早く、エル・なんとかは躊躇いもなく、指を突き出して、ギリスを指し示してきた。

「こいつです、デン。こいつが俺を殴ったんです」

 そうだったろうか。ギリスは混乱してきた。そうだったっけ。先に俺が、殴られたんじゃなかったか。

「そうか……ではギリスが悪かったようだな?」

 ちらりと横目にこちらを振り向いて、イェズラムはギリスにそう訊ねた。

 そうかもしれない。挑発したから。それが悪かったといえば、そうかもしれない。だけど先に殴ったのは、俺じゃないのにと、ギリスは戸惑って、迷う目のまま、力無く、首を横に振ってみせた。俺じゃないと、言いたいけれど、俺は悪くないとは、言いづらい気がして。

 イェズラムは何度か瞬きする間、黙ってギリスを見ていたが、やがてため息のような声で、話を続けた。

「しかし、喧嘩は両成敗だ。お前も結局、殴ったのだろう。お互いのつらを見て見ろ。それが英雄という顔か。品位の欠片もないぞ」

 呆れ果てたふうに、イェズラムがそう言うと、向こうもギリスの顔を見たのか、いたたまれないふうに、俯いていた。

「しょうがないな、これで反省しろ」

 苦笑になって、イェズラムは青い石のやつの、額の真ん中を、びしっと指で弾いた。あれはものすごく、痛いらしい。派閥の兄役デンたちが、殴るほどでないちびすけに、お仕置きをするときの定番で、やられると子供らは皆、ひいひい泣いて痛がっていた。

 青い石のやつは、それで泣くほど餓鬼ではなかったようだが、もちろん痛かったようだ。自分の石を覆って、ひいひい言っていた。皆はそれを、面白そうなような、同情めいた笑みで、眺めていた。

「ギリス、お前もだ」

 やっとこちらに目を向けてきたイェズラムに、ギリスは俯きがちに向き合った。

 そして、差し招く養父デンに促されるまま、のろのろ立ち上がってゆくと、イェズラムはギリスの額にも、同じことをした。びしりと弾かれて、一瞬だけ、熱いような感覚はあったが、痛くはなかった。けろっとしているギリスを、まだ石が痛むらしい青いのが、恨んだ目をして、頭を抱えた腕の隙間から、じろりと見ていた。

「不公平です、デン。こいつは痛くないんです。それで同等の処罰と思えません」

「いいや。これで同等だ。お前は俺にまた嘘をついただろう。本当にお前が先に殴られたのか? ギリスは違うと言っていたぞ。それにお前はな、嘘をつくとき、目が泳いでるんだよ。どうせ嘘をつくなら、堂々として言え。でないとバレるし、意味がないだろ。看破されれば嘘も弱みになるんだ。憶えておけ」

 くどくど言われる話を、エル・なんとかは、暗く俯いて聞いていたが、イェズラムの長身から滔々と浴びせかけられる厳しい口調にびびったのか、唐突に、泣き出した。

 うっ、と低い嗚咽とともに、いきなり号泣しはじめた子供を、イェズラムはあんぐりと見ていた。まさか泣くと思ってなかったのだろう。ぽかんとしているイェズラムの目前で、エル・なんとかは、腕で涙を拭いながら、肩を震わせおいおい泣いていた。

 ギリスはそれを、じっと見た。すごいな、泣いてるよと思いながら。

 人が泣いているのを見るのが、好きなのだ。自分にはない、その激しい情動が、羨ましいような気がして、見ずにおれない。そんなふうに泣くほど悲しいというのは、どんなもんなのだろう。

 ギリスは泣いたことがなかった。少なくとも、物心ついて以来、憶えている限りは。赤ん坊の頃にはどうか、知らないが。まさかその頃にも泣いたことがなかったのか。

「なぜ泣いているんだ、エル・ハルマーン」

 ほとほと困ったように、イェズラムは青い石のに、訊ねていた。考えたけど、養父デンには理由が分からなかったんだろう。

デンは卑怯だと思います。エル・ギリスばかり贔屓ひいきしています。俺が負けたのはそのせいだって、俺の兄役デンが言っていました。そうなんだったら、もう一度、俺に機会をください。何がいけなかったんでしょうか。お言いつけのとおりに、何でもします。俺を長老会から追い出さないでください」

 泣いて嗚咽する声で、エル・なんとかは、恥も外聞もなく、平伏せんばかりにイェズラムに頼んでいた。その餓鬼くさい姿に、ギリスはぽかんとした。

 イェズラムが俺を贔屓してるなんて、そんなことがあるだろうか。あったらいいなと思うけど、養父デンはそんなに甘い男だろうか。

 疑わしいとギリスには思えたが、見ればイェズラムは渋面だった。反省したような顔をしていた。

「さっきも言ったが、エル・ハルマーン。能力の問題ではない、性格の問題なんだ。さらに言えば、相性の問題だ。長老会は新星となる王族の絞り込みをしている。お前はその王子と、気が合いそうにないんだ」

「そんなこと言われても。俺も名を遺したいのです。新星の射手として……デンのように、立派な大英雄になって、民に尊敬されるような、永遠に詠いつがれる英雄譚ダージを遺したいのです。俺も、石を持って生まれたからには……英雄に、なりたいのです」

 わんわん泣いているチビを、兄役デンたちは、困ったような目で見ていた。皆にもそれは分かるらしい。どうせ生まれてきたのなら、英雄の中の英雄に、押しも押されぬ歴史上の人物に、時を越えて語り継がれるような傑物になりたいと、誰しも思う。それが英雄達が、襁褓むつきの頃から植え付けられる夢であり、願望であり、唯一の生きる道だからだ。他のことでは、幸せになれない。それがそもそも、不幸だと、ギリスは時々、恨みに思った。英雄になるなんて、そんな難しいこと、石を持たずに生まれていれば、考えなくてもよいものを、生まれ持った宿痾しゅくあのせいで、逃げ場がない。逃げたら負けだと叱咤激励されて、皆、一心に励み、戦場での武功や、宮廷での活躍ばかりを目指しているが、それで本当に幸せになれるのか。

 なんのために戦っているのか、それが肝心だと、養父デンは常々、ギリスに教えた。養父デンは英雄になるために戦っているわけではないらしい。部族領を侵略から守るために、戦っている。戦わないと、民の安寧が守られないから、やむをえず戦っているだけで、必要ないなら、王宮で一日ずっと、寝ていたいらしい。

 いずれこの戦いに勝利し、戦う必要がなくなったら、養父デンは本当にそうしたいらしい。ぼけっと一日なにもせず、だらりと朝寝して、もはや兵にはとられぬ安堵に満たされた街の民人を、ぶらぶら眺めて散歩でもしたいらしい。それが口々に、さすがは稀代の名君と、かつて自分が即位させた族長を讃えるのを見て、養父デンも心底から安堵したいらしい。英雄など要らぬようになった、世の中に。

 しかしそれは矛盾している。英雄など要らぬようになったら、自分たちはどこへ行けばいいのか。戦いの中で名を遺すことでしか、幸せになれないのに、皆、その幸せを奪われて、どうやって生きていくのか。イェズラムは優しいデンだが、冷たいと思う。

 懐から取り出した飴の包みを剥いて、イェズラムはそれを、青い石のやつの口に入れてやっていた。飴でも食って、元気を出せと言って。

 話しても、しょうがないと思ったのだろう。養父デンは。確かにしょうがない。全員を新星の射手にしてやるわけにはいかないのだ。族長になれる王族がひとりだけなように、射手も一代に二人は並び立たない。族長冠はひとつきりで、それを帯びる頭もひとつだけだ。戴冠を行う竜の涙は、ひとりだけでいい。

 青い石のやつは、嗚咽を堪えながら、それでもおとなしく、黙々と飴を食っていた。他にすることがないので、その甘い味を噛みしめて、堪えているらしかった。よしよしと、幼児をなだめるような調子で、誰かがそいつの肩を抱いてやっていた。派閥の部屋サロンから駆けつけてきた、青いのの兄役デンかもしれなかった。

「ギリス。お前はなんで、こいつの名を憶えていないんだ。同輩だろう。それに毎日、長老会の部屋で顔を合わせた仲だろう?」

 なんとか泣きやんだ青いのに、ほっとしたような顔で、イェズラムは困ったふうに、ギリスに訊ねてきた。

「そうだっけ……」

 小声でギリスは正直に答えた。

 正直にいって、憶えていなかった。毎日だったろうか。知っている奴だとは思うが、名前もろくに覚えていなかったし、詳しいことは分からない。

 ギリスの返事に、失笑したのか、イェズラムが笑っていた。その取り巻きの兄たちも、ギリスを馬鹿にしたような、苦笑の顔だった。

「ギリス、まさか俺の名も知らないわけじゃなかろうな」

 イェズラムが問うと、皆が笑った。なぜ笑うのか、ギリスには分からなかった。

「知ってるよ。イェズラム……」

 ギリスは真面目に答えた。イェズラムは、うんうんと、煙管をふかしたそっけない顔で、頷いていた。

「そうか。よかった。俺もちょっとは名の知れた英雄らしい」

 イェズが心底ほっとしたふうに言うと、また皆が笑った。名の知れたもなにも、部族でイェズラムの名を知らぬ者などいないだろう。特にこの宮廷においては。

 ギリスは話の意味がわからず、身を固くして、壁際にうずくまっていた。

「俺が明日になって、お前の名前を忘れていたら、どう思う。エル・ギリス」

 悠々と言われた、その話に、ギリスは衝撃を憶えた。

 そういうことは、あるかもしれない。

 年長者デンたちの中には、突然そうなる者もいる。何もかも分からなくなって、壊れたようになる者が。大抵は、そうなる前に自決して果てるか、寿命のほうが尽きるものだが、時には心のほうが先に、石に押しつぶされてしまう者もいた。

 養父デンは随分長生きなようだし、そういうことが無いとも言えなかった。ある日突然、内側から崩れ落ちる日が、来るかもしれない。

 想像すると、ギリスは戸惑った。朝、挨拶をしにいくと、養父デンに訊ねられる。お前は誰だと。全く見知らぬ者を見るような、遠い目で。

「そんなのいやだよ」

 口の中に苦い味がした気がして、ギリスは顔を顰めた。殴られて、腫れているらしい頬が、熱く引きつっていた。

「そうだろう。英雄エルにとって、名は魂にも等しいものだ。それを敬うことは基本中の基本だ。名は憶えろ。もし忘れたときは、ただ英雄エルと呼べばいいし、目上の者なら兄上デンと呼べばいい。それで角は立たない」

 淡々と解説される話は、宮廷での英雄暮らしの常識だった。そんなこと言われるまでもなく、知っていたし、それにギリスには養父デンの話は、少々ずれているような気がした。

 イェズラムに名を忘れられて、いやな気がするのは、英雄としての誇りが傷つくからじゃない。ただ単に、いやなだけだ。

 寂しいから。

 そういう苦痛があることに、近頃突然、気がついた。昔は分からなかったことが、少しずつ分かるような気がする。人の世にあるという、幸福や、傷みのことが。

デン

 話していたイェズラムに、脇から誰かが口を挟んだ。誰か伝令の者が、ここを探し当てて来たようだった。

 イェズラムは隻眼の目で、声をかけた者を流し見た。

「どうした。お前も俺の名を忘れたのか?」

 問われた年長者デンは困ったような苦笑いをしていた。

「いいえ。エル・イェズラム。エル・シャリマーが来ました。投票の件で、急ぎのようです」

 取り次ぎを待たずに人を掻き分けてきて、イェズラムに立位のままの略礼をしている、エル・シャリマーなるデンは、派閥の一員だった。ギリスはその顔に見覚えがあった。

デン、女部屋が寝返ったようです。票が足りません」

 その話にも、イェズラムは不愉快そうにしかめた、呆れた顔をした。

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