エピローグ

暖炉の前、老婆と青年

「ここまでが私が見た世界での出来事なのだけれど、ちょいと、聞いているかい?」


 暖炉の中で燃え盛る火の明かりのみが部屋をぼんやりと照らし出していた。設置された家具は暖炉と棚と椅子と、ボトルとグラスを置けばそれだけで一杯になってしまう小さなテーブルだけ。いずれもが古い物ではあったが、大切に扱われているようで悪くはなっていない。


 そのとても素朴な部屋で揺れる椅子に腰をかけた白髪の老婆は棒針を使った編み物をする手を止めるとそれを毛布の掛かった膝に置き、少し離れたところで同じ椅子に腰を掛けた星々の輝く黒髪をした青年へとそのしゃがれた声を掛けた。静かに椅子に揺られているその青年は老婆から声を掛けられ、びくりと肩を震わせると下を向いていた顔を急遽上げて手に危なげに持っていたグラスの中のウィスキーを唐突に煽り、そして挙げ句に咳き込みながら何度も頷いてみせる。


「う゛ふっ……ごふっ、ごほっ……ん゛ん゛! えへんッ! もちろん! もちろん、聞いていたさ。ああ、もちろんな。……それで?」


「だから、終わりだよって」


「ああ……あー……だな。流石ばあさん、あんまりにも話が上手いもんで、つい聞き入っていたよ。本当、いやマジで」


「寝てただろう……」


 青年は咳のせいで乱れた呼吸を落ち着けながら、もう一口、今度はゆっくりと酒を口の中に入れて喉へと流す。そして重い吐息を一つ落とすと、傍らのテーブルにグラスを置いた。青年が僅かに暖炉の方を見る。薪の割れる音がしたからだった。火に照らされた青年の顔は不健康に青白いものの、その表情までは辛気くさくなく。掌で己の髭の一本も生えない口元から顎にかけてを一撫ですると、その暖炉の中で揺れる火と舞い上がる火の粉を深淵のような瞳で見詰め続けた。そして言う。


「……まあ寝てたよ、うん。認める。でも私たちには起きていようが寝ていようが関係ないだろう。”王”のしもべのそのしもべである私たちは、必要なら考えを共有できる。嫌な呪いだが、自ら進んだ道だし、便利なときもある。……気になってるならどうして追いかけない? 少し視野を広げれば簡単に見つけることができるだろう、ホームズ君」


「それもそうだけれどね、私はこれから”インフェルノ”絡みの別件に取り掛からなきゃならないんだよ。セーターを編み終えたら取り掛かろうと思っていたんだが、存外事態は急速に動き始めているようだ。今”上位者”で暇してるのはあんたくらいだろうから、こうして頼んでるんだよ」


「ちょっと待てよばあさん、あんたいつ私に頼み事なんてした? 眠気を誘うお話を聞かせてくれてただけじゃないか、あとウィスキーもな。……死ぬほど回りくどいぞ」


 老婆の言葉を静かに聞いていたはずの青年であったが、頼んでいるという老婆の発言に反応してその表情をしかめた。酒を餌に連れてこられ、分岐世界の話をただ聴かされていた青年は老婆がそのどこに頼み事をしていたのか疑問に思ったが、その後すぐに理解する。そもそも関わらせるのが目的で、酒は餌であり前払いの報酬というわけだと。回りくどい上にせこい。青年は既に酒を飲んでしまっているし、断るに断れなくなっていた。


 青年の言葉に老婆が笑う。この老婆はよく笑うが、企みが上手く行ったときは魔女のように性悪く笑うのだ。


「私たちは死なない。目的のためにまず辿り着く場所だろう? 行く先がこんな地獄とはつゆ知らずにね。視野を広げるのはあんたさ、しっかりと観測をするんだよ、いいね?」


「ああ、くそ……わかったよ、じゃあついでにスカウトもしてくるかね。分岐元の少年には期待もしてるし、あんたに恩を売っておくのも悪くない」


「ほほ、なら決まりだね」


 椅子から立ち上がった青年は背中を向け、帽子を手に取り、それを星々の瞬く髪の上へと被せた。


 そして老婆はそのまま、窓の外へと視線を向けると部屋は暗がりの筈だというのにその窓の向こうは明るく晴れ渡っていて、青い小鳥が二匹、窓辺へととまって囀っていた。どうやら外の光は部屋に届かないらしい。老婆は笑い、小鳥を眺めていた。


 そんな老婆に振り返ることなく青年は歩みを進め、一つの扉の前に立った。そして身に纏った背広の懐から懐中時計を取り出し、その中の秒針が動いていないことを確かめると扉にあるドアノブに手を掛けた。捻り、扉を押し開ける。


「――”下の世界”の空気は良い。出来ることなら戻りたくなる。だから、出来れば吸いたくないんだけれどね」


 外に広がるのは新緑の大地。森の中、木々の合間に扉はあって、青年はそこから姿を覗かせる。一歩踏み出すと驚いた森の鳥や小動物たちが逃げ出して行く。


 扉の閉まる音が響き、そして扉はここから消失した。残されたのは青年ただ一人。彼は手にした懐中時計に視線を落とす。秒針は時間を刻んでいた。


 大きく息を吸い、森の噎せ返るような強い緑の香りを肺の中へと蓄え、そして吐き出す。凪いだ森がざわざわと風に騒ぎ始める。青年が顔を上げると、木々の葉の隙間から覗ける僅かな青空を、太陽の光を遮って立派な翼を携えた巨大な影が飛んで行くのが見えた。


 青年はその後を追って歩き始めるが、少し歩くと青年の姿は遙か先に瞬間的に移動していた。それはまるでコマ送りしているかのような不思議な光景であった。しかし青年はただ歩いているだけ、コマ送りに見えるのはそれは彼が世界に影響を及ぼしているからであって、世界から彼を見た時の光景でしかない。故にかなりの速度である翼の影には引き離されず、青年はそれを決して見失うことは無かった。


 場面が切り替わるようにして森の中を青年は進み続ける。そして遂に森が途切れた。青年が最後の木々の出迎えをくぐり抜けると、その先に広がっていたのは広大な草原であった。


 帽子を押さえながら、青年は空を見上げる。まだ”彼”は訪れていない。しかしすぐに訪れることだろう。もうすぐだ。


 視線を戻すと、草原を駆ける一匹の手負いの獣が居た。二回りほど巨大ではあるが、猪だろうそれは体中に矢を受けながらもその命を力強く燃やし走っている。だがそれもここまで。猪は死へと辿り着いている。


 森の方より飛び出した翼の影。細い体躯をした爬虫類の様なそれは長い首とその先の頭部に角を持ち鋭い牙を持つ。前足を翼へと進化させ、空を手に入れたそれはワイバーンと呼ばれる竜の一種だった。そしてそれに跨がるのは、人。


 手綱を放し、ワイバーンの背から飛び降りたその人はまだ若い、少年ほどだろう、男の子であった。彼は腰に携えた剣を引き抜き、それを落下地点を走る猪目掛け切っ先を向ける。雄叫び、そして落下した少年は見事に猪の上へ、その剣を突き刺すことに成功した。


 猪と共に少年は草原を転げて行く。飛び起きて、猪へと止めを刺す。その僅かな時間でも、自身よりずっと大きな猪と交わる緊張感は少年の顔に大粒の汗を浮かばせていた。しかし、獲物を仕留めた喜びには代え難い。


 ――空を見たまえ。太陽の方だ。


 笑顔を作った少年であったが、不意に聞こえた声に顔を上げる、太陽はどこだ。少年はその首を捻って、青空の向こうに太陽を見つける。その輝きがあまりに眩しくて、少年は目を細めた。だが直後、それでも少年の目は見開かれることになる。


 輝きは七色を発し、そして太陽の中に浮かび上がった僅かな小さい影を少年は視界に捉えた。


 青年は笑う。少年と同じものを見て、太陽から零れ落ちた七色を纏う影の正体に笑う。それに気付いて、飛竜を駆り空へと昇って行く少年を見て、笑う。


「――さて、第二幕の始まりだ」

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日だまりドラゴン ~リーンとガイルとルナ~ こたろうくん @kotaro

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