夜ごと繰り返す物語

唯月湊

夜ごと繰り返す物語

第一夜


10月10日


 螺旋階段を下へ下へと降りた先は、人類の叡智を集めた書物庫が広がっていた。


 その重い扉を白い手が押し開く。耳に痛いほど静まり返った書物庫の松明がひとりでに灯り、広い書物庫を炯炯と照らした。紙書物の独特の香りとひんやりとした空気の中を、長い白銀の髪の女は歩んでいく。その名をオフィーリア。国の領主の娘であった。

 細かなレースをあしらったモノトーンの彼女は書架の間を歩みながら、戯れに本を手に取る。本の中身をぱらぱらとめくって時に書棚へ戻し、時に腕の中へ誘いながら彼女は奥の机へたどり着く。

 白いしっかりとした装丁の表紙をめくり、少し厚手の遊び紙を経た先に題字が続く。その活字へ目を向ければ、描かれた物語が彼女の周りに広がっていく。

「お嬢様。今日もここにおられたのですか」

 そうかけられた声に、手にした書物をぱたりと閉じた。声の方へ目を向ける。

 お伽噺の執事のような、テールコートの機械人形が立っていた。その灰色を帯びた蒼の瞳はただのレンズを埋め込んであるだけで、口元も定型にしか稼働しないというのに、その声音だけは酷く人間らしいそれだった。

 だが、そのアンバランスさに違和感を覚えることはない。彼女の中でこの従者は初めからこの姿であり、お伽噺のように愛らしくこそなかったが、よく気の付く良い傍仕えであった。

「今日も、とは、わたくしは昨日もここへ来ていたのね。リコルド」

 その言葉に、人形は胸に片手をあててこうべを垂れた。

「あなた様の向かわれる場所は限られておいでです。お嬢様」

「仕方のないことだわ。興味があるものなどもはやこれしか浮かびもしない」

「さぁ、今日は何の本を読みましょうか」

 その言葉に、手にした書物を差し出せば、人形はそれを受け取り、題名を見る。その無表情な顔が少女を見た。

「お嬢様。これは十日前に読み終えられたものにございます」

 彼女はその書物を眺め、持ってきた書物を指さした。それらの書名を確認した人形は、やはり首を振った。

 その答えに、少女は「別の物を」と一言。どのようなものが、という問いに、宙を見上げて思考を巡らす。

「夜の話がいいわ。闇夜でない夜が良い。陰鬱な雰囲気はこの国だけで十分」

「かしこまりました」

 深く椅子に腰かけた主をそこへ残し、人形は書架を歩んでいく。少し迷うようなそぶりすら見せながら、しっかりとした夕闇色の装丁の書物を手にして戻ってきた。

「夜の世界を生きる物語といたしましょう」

 満足げに、彼女は頷いた。主の前へと座った人形が、白手袋の指で表紙をめくる。どこかなめらかなビロードを思わせる声が、朗々と書物庫に響いていく。


*****


燈火ランプ売りと少女の過ぎる夜』


 空は満天の星々。街燈が灯る宵闇の街。酒場には賑やかな笑い声が響き、家々からは暖かな光が漏れる。そんな街の外れに、ひとつの工房があった。どこか錆びついた古い扉を開けば、中から色とりどりの光が溢れ零れだす。

「閉めてくれないか。光が逃げてしまう」

 工房には男がひとり。シンプルなシャツに綿のパンツ、そして長い厚手のエプロンという出で立ちの彼は、こちらにゆっくり視線を向けた。手元をはじめ服もどろどろとした汚れが至るところについていた。

「燈火をひとつ、作ってもらいたいのだが」

 訪ねてきた初老の男はその帽子を取って一礼した。小奇麗な身なりをしたその男に、工房の主はうろんな瞳を向けた。

「あんたのような人なら、俺の店じゃなくても十分立派なものが手に入るだろう。帰ってくれないか」

「いいや、君でなくては。君の燈火でなくてはならないのだ」

 杖をついた男は一歩、工房の中へ踏み入った。

「君の燈火は人の心を灯す。どうか娘へ燈火を作ってはくれないか」

 その言葉を聞いて、工房の男は手を止めた。杖の男へ向き直る。

「俺の燈火をそんな風に言った人間は初めてだ。話だけは聞かせてもらおうか。受けるかどうかはその後だ」


*****


 機械の身体に疲労などないであろうに、読み上げる手を止めて人間臭くも一息ついた人形へ、さも今思い出したように彼女は口を開いた。

「ねぇリコルド。お父様はどうされているのかしら」

「何もお変わりはありません。今日も書斎にいらっしゃいますが、お会いになりますか?」

「いいえ。何も変わらぬと言うのなら、会う意味はないわね」

 まだ父が存命であることを覚えていた自分に少し満足をして、彼女は問う。

「さぁ続きを。時間は有限。わたくしが忘れてしまわないうちに、読み終えてちょうだい」

「しかしながらお嬢様。そろそろ夕食のお時間にございます」

「面倒なものね。お前が羨ましいわ」

 そう彼女は席を立つ。人形は彼女を伴い書物庫から外へ出た。


 「人は過去から逃れられなどしない。過去が人を形作る。

  ならば私は過去に学び、未来を歩む」


 これがこの小さな国の領主の思想だった。己の過去を残すために日々手記をしたためるのはもちろんのこと、古今東西の書物を集め、それを読むために語学の勉学に励むような人間であった。その領主の噂は他国にも広まり、変わり者と言われながらも疎まれはせず、人によっては賢者と謳う者もいたほどだった。


第二夜


10月11日


 書物庫への扉を、白い手袋に覆われた機械の手が押し開く。ひとりでに壁に備え付けられた燭台が灯り、暗い書架を照らし出す。人と違いこの眼には光源など必要ないのだが、この書物庫も本当は人の物として作られていた。今でも彼の仕える主は肉の身体を持つ人であるから、この照明も必要なものだ。

 書物庫を歩みゆけば、奥がほんのりと明るい。そしてそこには、白髪の女が座っていた。

「お嬢様。今日もここにおられたのですか」

 いつもと全く同じ言葉、同じ口調でそう問えば、彼女は昨日と同じようにぱたりと本を閉じてこちらを見た。黒曜石をはめ込んだようなその瞳に、機械の自分の姿が映る。この体躯になってしばらくの年月が経ったが、今なお時折この姿には違和感を覚えることがある。

「今日も、とは、わたくしは昨日もここへ来ていたのね。リコルド」

 彼女が返す言葉も昨日と同じもの。彼女はいつも自覚出来ない中でこう言うのだった。

「昨日は『燈火売りと少女の過ぎる夜』を読み始めたところでございます」

「だからここにこの本が置き去られていたのね」

「置き去りにしたわけではございません。今日もお嬢様がお読みになるだろうとおいておいたのでございます」

 人形は、書架に戻してしまえばこの主が探せはしないと知っていた。彼女が年若いからでもこの書物庫が広すぎるからでもなく、ただの事実として、である。

「そうなの。それでは続きを読む前に、昨日の話をしてもらえるかしら。簡単で良いわ」

 それがなければ続きは読めない、と小さく嘆息する主に、人形は片手を胸に当てて「かしこまりました」と一度頭を下げた。これも、初めてではない。簡潔なあらすじの後、人形は昨日と同じように丁寧にページをめくり、朗々と本を読み聞かせる。


*****


 彼の作る燈火は全てが一点もの。二つと同じものはない。その燈火の持ち主となる人間に合わせて作るため、同じものなど存在しようがない。工房を訪ねてきた男に連れられ、彼は依頼者の元までやってきた。

 そこにいたのは蜂蜜色の髪をした十五~六ほどの少女だった。どこか所在なげに部屋にいた彼女は、初めて出会う彼へ静かに一礼した。どこか怯えたような、左右違う色のまなざしが印象的だった。

 ここまで案内した男は下がらせた。燈火を作る相手とは必ず一対一で会うと決めていた。余計な雑念が入ることを嫌う青年――クライスの数多く在るこだわりのひとつだった。

「父がまた無理なお願いをしたのでしょうか。それならばお帰りください」

 そう少女はのたまった。


*****


 この地をとある病魔が襲ったのは、十年ほど前の事だった。

 昨日の記憶がさっぱりと抜け落ちている。

 そんな風に訴える人間が現れた。記憶障害であるのは確かなのだが、外傷も特になく、周囲の人間に尋ねてみても特段原因になりそうな行動はしていなかった。結果として、観察処分とするよりほかになかった。

 だが、これを皮切りに同じ症状を訴える人間は増え続けた。皆それぞれ唐突に記憶を失い、自覚した時には既にその日の記憶が翌日へ持ち越せない状況となっていた。そのために、毎日彼らは「昨日の記憶がすっかり消えている」と医者を訪ね、医者は匙を投げるよりほかなく、国はじわりじわりと混乱に落ちていった。


 名さえも付けられぬその流行病は瞬く間に彼の領地を侵していった。医療従事者もその病に侵された。結果として、治療法や感染経路、原因を解明するより前に記憶がかっちりとリセットされるがゆえに手の出しようがなかった。

 こうなってしまえば治療根絶はもはや諦めるよりほかにはない。

 そして、病魔はこの国の領主一家をも蝕んだ。

 この国はゆっくりと死に向かっている。形式だけは国として成り立っていようが、彼らは先へ進むことがなくなった。ただその場に立ち止まりいずれ朽ち果てる、生ける屍に過ぎないとすら、この領主は言い捨てた。


 零れ落ちる過去と知識を恐れ絶望した領主は、消え失せる記憶よりも確固たる記録を重んじた。それは次第に常軌を逸するほどの執着心にとってかわった。

 そして徐々に、智者は愚者へと落ちていった。

 蒐集した本を所蔵する地下の書物庫はまるで生き物のように拡大を続け、その場所はさしずめ、かつて怪物を閉じ込めたと言われる迷宮の様相を呈していた。

 人の身でこの病に抗するすべはない。それがこの国の最終決定だった。既に領主が病に侵され閉じこもるように書斎へ逃げ込み、ただひたすらに自身の手記を読み返し崩れ去りゆく記憶に縋るようになってしまえば、主導する人間ももはやいなくなっていた。オフィーリアがこの病に侵されたのは、そんな国の終わりが見え始めた頃だった。


 そうしてこの国の人間は、その後ふたつの道を選択することになった。

 ひとつは、全てを諦めこのまま病とともにいきていくこと。最後まで人であることに固執し幾度も同じことを繰り返しながら日々を生きて、最期には早すぎるとも、人としての死を迎えることを望む。

 もうひとつは、己の身体を機械へ移し替えてしまうこと。今ある意識を電子回路に覚えさせ肉の身体を捨てることを対価に記憶を繋ぎ先へと歩むことを望む。


「お父様。わたくしは鉄の心も機械の頭も欲しくはありませんことよ」

 この選択肢に、かつての彼女は言ったのだった。そのようなものは、お伽噺の中だけで十分であると。私は最後までこの人の身体で生きたいと。

 けれどひとつ、願いがあると彼女は告げた。


「私は、たとえ記憶がなくなりこの場に佇み続けようとも、死ぬまで本が読みたいわ」


 彼女も領主に似て、負けず劣らず本の虫であった。何の意味が在るのかと問われこそしても彼女はただゆるりと笑うだけで何も答えはしなかった。

 そして、今ではその真意など分かるはずもない。病魔は確実に彼女の身体を蝕み、彼女の記憶はある日を境におぼろげに消えるそれへと成り果てた。彼女の言葉はある種遺言となった。


10月31日


 形あるものは全て最後には壊れるものだと、言ったのは果たして誰だったであろうか。それはまさしく正論である。

 ある朝、休眠状態から設定した時刻通りに起動した人形は、脳内時計と室内時計の日付のズレに首を傾げた。別の部屋の時計確認し、ズレているのは自分の時計であることが分かった。日のズレを修正し、いつものように主を探しに向かう。向かう先は庭園か書物庫か。彼女の興味の対象は限られている。

 そうして書物庫へ向かい、その姿を認めて機械の口を開く。

「今日も、こちらにおいででしたか。お嬢様」

「今日も、とは、わたくしは昨日もここへ来ていたのね。リコルド」

 そう人形を見る白髪の、齢七十の老女を目の前に、人形は変わらぬ表情で告げた。

「さぁ、今日は何の本を読みましょうか」

 老女と人形は、そう幾日もの時を過ごす。けして変わることなく、彼女の命が終わるまで。


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