第6話 土のこ切りん日

 第6章 ツチのこキりんビ



      1


 辞めようにも辞められなかった。すべてをなかったことにされた。

 口封じのために首を切るのでは情報が漏洩すると思ったのだろう。読みはいい。仲間に引き入れれば口は簡単に封じることができる。

 出世という餌で。

 疑似餌だとわかっていても飛びつくほかない。私にはそれしか残されていない。

 死体はどうなったのか。どうもなっていない。あのときとまるで同じ。

 彼女を助けに行った動物園。

 忽然と姿を消す。遺体消失トリック。血痕も薬莢も。

 医師は行方不明。

 彼女は。

 わからない。

 捜査や鑑識のやり直しを求めても改善は望めない。証人は私だけ。まるでもってあのときと酷似している。眩暈がする。

 私の衣服に付着していたこれは。誰の血液だというのだ。

 鼻血。

 そうだった。私は派手に階段で転んで鼻血を出した。

 鼻血なのだ。やけに量の多い鼻血。畜生。

 違うのは。

 医師の家が火事に遭った。放火なのかすらわからない。不審火。

 もう一度現場に行こうとした矢先だった。誰にも言っていない。啖呵切って出掛けたわけでもない。タイミングが薄気味悪い。

 幸い周囲に燃え広がらずに済んだが、全焼。何も残っていない。遺体らしきものも指も何も。

 早々に異動になった。別名島流し。出世はしてないわけではない。やる気が起きないわけでもない。つまらないはずがない。

 辞めたい。辞めて、やることは決まっている。だから辞めさせてもらえない。

 すべてを忘れて心機一転。できればきっと苦労はない。寝ても醒めても仕事仕事。そうやって忘れるしかない。忘れられない。

 ぜんぶ夢だった。どこからどこまでが。それがはっきりしないから夢というわけには。それがはっきりしないから夢なのか。考えれば考えるほどぼやけてくる。

 誰かに話そうにも話す相手がいない。緘口令。それもあるが、私には探偵以外にさほど親しい人間がいなかった。そこそこに話せる。世間話。それならいないわけではないが、もっと深い。いない。果たして探偵がそうだったかというと違うかもしれない。

 そしていまだに、彼女ができない。

 邪魔されているのだ。邪魔をしたいと思っている輩に。

 上司に呼ばれた。そろそろ潮時だと思われたのかもしれない。それでいい。いいから首を切ってくれ。生き地獄だ。耐えられない、とても。

 私に会いたいという人物。

 誰かと問う前に場所を示された。趣旨はわかった。拒否、したら。してもいい。しようか。すればきっと。

 それでものこのこ。会ってから辞めれば、と思った。

 探偵ではないとわかっているのに。怨み辛みを述べたいのかもしれない。あのときの。私を出世コースから遠ざけたあの。

「その節はどうもお世話になりました」

 嫌味か。

「そう怖い顔をしないでくださいよ。きっとあなたにとって損ではない情報です。しかしただでお伝えするには勿体ない」

「あのときのガキか」

 すっかり好青年。中身はあれだが。

「対応を誤られては困りますので先にお伝えしておきます。僕はあなたのことが大嫌いです。憎んでいます。あなたがキリュウもくひこじゃなかったらとっくの昔に僕の実家で拷問責めです。死なせませんよ。永劫に苦しんでもらいます」

「条件は何だ」

「指にしているそれ、戴けませんか。勿論拒否権はありません」

 外す。放る。

「こんなものでいいのか」

「こんなもの? あなたにとってはその程度の価値しかないのでしょう。嘆かわしい。つくづくはらわたが煮え繰り返ります。やっぱり僕の実家にいらっしゃいませんか?」

「交換条件だ」

 奴がそれを指に嵌める。広げて閉じて。

「緩いですね。僕には」

 外す。

「僕はジンナイちひろの居場所を捜していました」

「見つかったのか」

「順繰りに話しますから。そう焦らず。あんまり近づかないで下さい。顔を見ているだけで吐き気がする」

 座り直す。相手のペースに乗ってはいけない。落ち着け。

「ジンナイさんは僕の命の恩人です。ご存知でしたね。僕がここでこうしてあなたの手元を睨みつけているのも、すべてジンナイさんのおかげです。だから僕は彼に恩返しがしたかった。純粋な動機でしょう? でも、彼はそれを断った。おまけに都合のいいときだけ僕に優しくして僕を搾取しようとする。それでもよかったんです。彼に相手にしてもらえるなら。そしてあるとき、彼からの連絡がぷっつりと途絶えました。彼を見張らせていた眼と耳と口との連絡が取れなくなった、といったほうが正しいですね」

 指事件。性犯罪。

「それについてはあなたのほうが詳しい。別に話さなくて結構ですよ。あなたが知っているであろう情報はすべて耳にしましたし裏もとりました。これで二度目です。気が狂いそうになったのは。一度目は彼に助けられていますからなんとか治まりましたが、今回ばかりは、その現場にいながら何もしなかったあなたと直接話をして、返答がもし僕の気に少しでも触れれば」

「要点を言え」

「すみません。よく言われるんです。ジンナイさんにも言われました。くどいって。居場所でしたね。捜していたんです。捜せませんでした、とでも言うとお思いですか。僕の執念を甘く見ないでほしいものですね。見つけましたよ。でも、あなたには教えない」

「それだと見つかってないのと何も変わらない」

 投げる。私を飛び越えて後ろの壁に当たった。落ちる。

「条件だと聞いたつもりだが」

「要りませんよ。ちょっと嵌めてみたかっただけです。元々あなたが受け取るべきもの。その証拠にあなたの指にぴったりで、僕の指にはかなり緩い。本当に腹が立つ」

 青年の案内で移動。目隠しをされるのかと思ったが、あなたが黙っていればいいだけのことです、と釘を刺された。なるほど。私の今の立場は決していいものではない。

 白と黒ならばこの青年は確実に前者であり、千人のうち千人が彼を白だと答える。しかし、私にはそう思えない。私の思考と直感はあまり頼りにならないことで有名なのだが、どうもそう思えてならない。私に敵意丸出しなせいかもしれない。

 最初の観音開きをくぐったあたりから、坂を下っているように感じる。真っ暗なので確証はない。照明は青年の持つ小さな懐中電灯のみ。さっきから何度も躓いている。そのたびに青年が冷ややかな声で大丈夫ですか、というのがかなり気に障る。気に障らせようと思ってやっていることは見え見えなのだが、私は感情を抑えることが得意ではない。

「この先に」

「いたとしてもあなたには会わせない」

「どこに向かっているんだ」

「黙ってついてこればいいんです。厭ならどうぞ引き返してもらって結構ですよ」

 光の円が私の後方を照らす。無灯で帰れるわけがない。

「ついでに言っておきます。ここは僕に逆らった人間が送り込まれるいわば監獄と通路を同じくしています。万が一にも迷った場合、彼らと遭遇することもままあると思いますが、どうかご容赦下さい」

「むしろ監獄じゃないのか」

「足を踏み入れるのは二度目なんですよ。罪人を収容するのは僕の役目じゃない。あなたみたいな異分子に横でぐちゃぐちゃ口を出されますと方向感覚が狂ってしまう。到底重要と思えない事柄については口を慎んでくださいますよう」

「その異分子とやらにされてる俺を容れたいならそう言えば」

「お望みなら即手配いたしますが」

「俺はたんて、いや、ジンナイに用がある。会わせてくれないか」

 右折。急激に道幅が狭くなった。

「どのツラ下げて会われるおつもりですか」

「そう云われてないか。キリュウを連れて来い、とかなんとか」

「自惚れにもほどがあります」

 声が反響する。青年はたぶん振り返った。

「傍にジンナイさんがいてくださるのなら、こんなところに閉じ込めません」

「どこにいる」

 歩行再開。ペースが先ほどより速い。小走り。

「質問には」

「ですからついてきてください、と先ほどから」

「いるのかいないのか」

 無言。

「答えろ」

 無音。

 足が止まる。着いたのか。

 青年は息が切れている。日頃肉体労働をしないせいだろう。それは彼の担当ではない。椅子に座って指示を出す側。頂点。トップ。この若さでそこまで登り詰めたのは、単純に血筋ではない。頭脳、資質、あらゆるものを加味した上で彼がその座に相応しいと判断された。長生きはできないだろう。

 眩しい。天井の低い。部屋というより洞穴。中央に円テーブル、椅子は四つ。簡易キッチン。青年が蛇口を捻る。

「お湯も出るようですね。そちらがバス、トイレ。きちんと水洗ですから。そしてあちらにベッドが御座います。御用の際はなんなりと」

 壁に受話器。

「誰か暮らしてるんじゃないのか」

「暮らすんですよ。あなたが」

「目的は」

 青年が不可解な表情をする。少なくとも私の知っている感情ではない。

「異を唱えてくださいよ。あなたの国では不当に身柄を拘束されることは罪に当たるのだと聞いていますが」

 気づいていないわけではなかった。

 奥の部屋との仕切り。鉄格子。そこに何かが。

 じっと、動かない。

「醜いですよね。身内のごたごたというのは。実家の覇権争いに巻き込まれた僕は、対抗勢力に攫われてしまいました。ご存知ですよね。そうです。そのとき命を顧みず、僕を救い出してくれたのがジンナイさんです。おかげで僕はいまこうやってあなたを睨みつけてますが、僕が攫われたことにより、僕側に付いている人間はだいぶダメージを食らいました。治る傷ならいいですが、なかなか癒えないキズもある。幼い頃から僕を可愛がってくれて、親代わりに僕を育ててくれた。優しすぎたんです。身も心もぼろぼろにされた僕を見て、どう思ったんでしょうね。自分を責めたでしょうか。自分さえしっかりしていれば。自分が身代わりになればよかったのに。そうやってどんどん心のバランスを崩し、ついには」

 眼を遣る。

「どうなったんだ」

「見ればわかるでしょう。この有様ですよ」

 人間だったらしい。蹲って頭からすっぽりと毛布を被っている。背中を向けているせいで、体格も年齢も性別も何もわからない。

「対応が間違ってるように思えるが」

「あらゆる方法を試しましたよ。試した上で、これです。仕方なかったんです。部屋の隅っこで何時間でも何ヶ月でもこうやって。それを間近で見ている僕の身にもなってください。いいえ、撤回します。あなたに同情されたらお仕舞いです。すみません。感情的になりすぎました。あなたにして戴きたいことはただひとつ。彼を元に戻してください」

 男か。

「不可能だ」

「わかってますよ。精神科医やらカウンセラやらのほうが向いていると、専門課に任せろと仰りたいんでしょう? 彼らに任せてわかったことは、奴らは無能だ、ということだけでした。それがわかっただけでもよかったというものです。僕でも駄目でした。僕では駄目なんです」

 それなら完全に部外者の私には尚更。

「期限は明日から三十日。放棄しても構いません。その際は速やかに退室し、さきほどのルートを逆に辿ってください。簡単ですよ。同じ道を逆戻りすればいいだけなんですからね。期日までぽわぽわと暮らしてもらっても構いません。衣食住には困らないよう配慮します。お仕事先の上司の方にはすでにお伝えしてあります。心配しないで下さい。有給扱いではないですが、きちんと給料も支払われますしあなたの席がなくなることもありません。しかし、三十日、というお約束です。それ以上は上司の方のご意向にお任せしてあります。優しい方ならいいですね。ご質問がありますか」

「戻せなかった場合どうなるんだ」

「戻す、という定義が曖昧でしたね。彼が一言でも、いえ、一文字でも言葉を発せばそこで終了です。直ちにあなたを迎えに行かせます。おわかりのことと思いますが、ここの状況は常時モニタで監視しています。音声もすべて記録されていますので。もちろん、あなたがここを出るときには破棄いたします。お望みならばあなたの眼の前で壊しましょうか。ただし、あなたが出られた場合の話に限りますが」

 目的と趣旨はわかった。私がこの青年からすこぶる怨まれているということも。

「俺のほうに不利の条件のように思えるのだが。うまくいったとしても俺に何の報酬もないし、うまくいかなかった場合は」

 死なせませんよ。永劫に苦しんでもらいます。

「これでも精一杯譲歩したつもりなんですよ。あなたがキリュウもくひこだから。では、こうしましょう。上手くいった場合、お仕事先に口添えをします」

 金銭よりずっといい。拒否権もなさそうだ。

「一文字でいいんだな。マイクの感度上げておけよ。聞き逃したなんてのはなしだ」

 と啖呵を切ったものの、私の最も不得意な技術を試されていることが開始早々にわかり後悔する。青年はそれを踏まえてこの課題を選んだのだろう。

 無論ケータイは圏外。逃げられないし逃げる気もない。三十日あれば何とかできると楽観視している自分がいる。時計とカレンダ。冷蔵庫に食材が詰まっている。なくなったら連絡しろということだろう。青年と入れ違いで無愛想な大男が着替えを持ってきた。衣類にやけに見覚えが。自宅の箪笥とクローゼット。

 うまくいったときの条件に付け加えてもらえばよかった。引越し。


      2


 今更ながら、ニートで引きこもりの探偵の気分を思い知る。知った気になっただけか。

 奴は望んでニートかつ引きこもりであることを選んでいた。私は違う。私に並々ならぬ怨みを抱く青年によって、ニートかつ引きこもりであることを強いられている。ニートではないか。強制休暇中なだけで。まあそれも、うまくいけばの話だが。

 無理に話しかけても無駄だったので、特別な関わりをするのを諦めた。要は放任。私には何もできない。そんなことは、青年に言われなくともわかっている。

「一週間経ちましたが、如何です? 貴重な体験だと思いますよ。この体験を一日でも早く職場で活かせるといいですね」

 嫌味攻撃には慣れてきた。この程度なら軽い。どこぞの探偵に比べれば。

「戸棚の鍵には気づきました?」

 彼、青年の呼び方を踏襲する、が容れられている檻、といっていいのかわからないがどう見ても、は何故か施錠してあった。物騒な南京錠。逃げやしないし、逃げたところである意味万々歳だろうに。

「入りましたか」

「出してもいいんだな」

「ええ、出せるものなら」

 鉄格子の棒自体は太いが、交差の間隔は割と広い。腕は肩まで入るし、子どもなら頭も可能かもしれない。この空間は何を狙って作られたのだろう。獰猛な動物と地下生活。異文化の人間が考えることは理解に苦しむ。

 一応断りを入れて鍵を開ける。施錠が彼の望みだとしたら悪いと思った。

 無意味な自己紹介はしたから、何を話そう。何も話さなくても。お隣いいですか、と尋ねて座る。回答はもらえなかった。

 隣に座って初めてわかる。案外大柄。小さくなって蹲っているから気づかなかった。

 眠くなってくる。ベッドが柔らかすぎて寝付けないのだ。もしくはベッドで眠らない生活に慣れたせいなのか。

 電話の呼び鈴で吃驚する。うとうとしていたらしい。

「云い忘れましたが彼に触れることは禁じます。危なかったですね。僕があと三秒待っていたら打ち切りでしたよ」

「お気遣いどうも」

「もっとたくさん話しかけては如何です?」

「苦手なんだ。口下手で」

「でしょうね。だと思います。あなたを見ていると苛々してきますから。要らないことまでずかずか云ってしまう僕から助言させていただけるなら、言いたいことははっきり仰った方がいいですよ。そんなだから痴漢にいいように付け込まれて」

 またその話。青年が知っていてもおかしくはないが、何故青年が探偵と同じことを言うのかがわからない。それに私は痴漢に遭ったことなんか。

「憶えていらっしゃらないみたいですから、説明しましょうか。高校三年の夏休み、あなたは全国模試の会場に向かっていました。その電車の中で」

「だから、そこで俺が冤罪に」

「冤罪? どうしてあなたが冤罪なんですか。被害者でしょう。三十分だけ外に出してあげましょうか。混乱されているようですから」

 混乱などしていない。高三の夏休み。全国模試。電車。そこまでは合っている。そこから先が。

「あまりにショックで忘れてしまったのでしょう。僕がいうのも変ですが、あなたにはヒトを惹きつける魅力があります。男女問わず。性的に。その証拠にあなたの監視係は凄まじい競争率でしたよ。暴動が起きかねなかったので、公平に当番制にしました。ただ、どの時間帯を担当するかは僕への忠誠心を参考にさせていただきましたけど」

「褒めてるか」

「それはもう。残念ですが」

 監視係。なんだか懐かしい響きだ。私も四六時中探偵を見張っていた。モニタ越しにではなく肉眼で。

「うまくいかなければ、これ、割のいいお小遣い稼ぎにはなるでしょうね」

「需要があるとは思えないがな」

「またまたご謙遜を。機材と床は汚したら掃除しておいてほしいものですよ」

「しておこうか」

「いいえ、こっちの機材と床の話ですので」

 カメラの位置をいまからでも意識したほうがいいものか。死角があるようにも思えないから時間の無駄か。暇潰しにはなりそうだが。

「話が逸れました。それくらいショックだったのではないでしょうか。まああなたがどんな風に痴漢にあったかなんて興味の欠片もないですが。重要なのは、あなたが如何にして痴漢から逃れたか。助けてもらったんじゃありません?」

 そこも共通している。電車内。痴漢。部品は間違っていないのだ。組み合わせ方が私の記憶と異なっている。そうなのだろうか。どちらを信じる。私だ。

「信じてもらえないのならそれでいいです。助けてもらった、というところにポイントがあるんですからね。誰に助けてもらったのか。憶えてます?」

「名前を聞きそびれたんだ」

「本当に? 本当に、なにも、憶えていらっしゃらない?」

 やけに大きな。男。低い声。顔は。年齢は。職業は。

 わからない。

「憶えてない」

「そうですか。これが最後通告だったのに。よくわかりました。そうでしたね、そんなもの程度なんでしたっけね」

 なんだかわからないが、こっちだってなにがなんだか。青年のはらわたが煮え繰り返っているのはよくわかるのだが。

「もう一度痴漢に遭われては? あのときと同じ状況になれば何か思い出されるかもしれませんし。思い出していただかないと困るんですよ。どうして思い出さないんですか」

 といわれても、それは私の記憶ではないのだから思い出すも何も。

 私の記憶ではない?

 どれが。なにが。

 高三の夏休み。全国模試。電車内。痴漢。助けてもらった。

 どれが。ちがう。

 どれも違っていない。部品は合っている。組み合わせが。部品だけ。接続方法。もしかすると、そのネジはこちらに嵌って、このコードはこちらにつながって。

 なんだ。これは。

 私の知っているものと似ても似つかないまったくの別ものが。

 できて。

 そんな。これは。

「本人に触ったらいけないんだったな」

 返事を聞く前に受話器を壁に。

 檻の中。

 毛布を引っぺがす。

 蹲っている。大柄の。

 一文字喋らせる。簡単だ。私はずっとそれをしてきた。慣れている。私にはそれができる。私にしかできない。私にのみ可能だから、私がその任に就いていた。私をその任から解いたことがそもそもの誤り。無能だ。無能どもの巣窟。

 私の所属するあの魔窟より、青年の支配するこちらの魔窟のほうがいいかもしれない。給料もずっと法外にいい。しかし、こちらでは徹底的に欠けているものがある。ここに与したら絶対に遂行出来ないものがある。

 私はそれを、

 この男から教わった。


     3


 いい加減まともに話をしてくれ。そちらが何も云わないから、悪いのは。

「ですから、冤罪だと」

 お前には聞いていない。殴り飛ばそうと思って我慢する。こんなイイトコのお坊ちゃんに暴力行為を見せてはいけない。とか、言い訳して。

 単なる保身。下らない。莫迦莫迦しい。ちょっと外に出るとすぐ。これだから引きこもっていたいのに。

 ケーサツに突き出すと事情聴取とかでいろいろ面倒だし。かといって私的制裁はやっちゃいけないことになってるし。やってもいいし、やりたいのだが、あいつから電話がかかってくる。それが厭なのだ。恩を売ったみたいに取られるから。

 ああ本当に。ぐだぐだぐだぐだ考えていてもしょうがないのはわかっている。わかっているからだから。

 黙ってろっつったろ。うっせえな。

 ついに蹴り飛ばしてしまった。あーあ、お坊ちゃんが引いている。同類だと思われたかもしれない。同類。なんでこんな痴漢野郎と。

 何もかもに腹が立つ。いっそ逃げるか。そのほうがいい。助けたのがそもそもの間違いで、今日出掛けた俺が悪かった。なんだそうか。

 悪いのは、俺か。

 その場を捨てて立ち去ったが胸騒ぎがして戻ってみると。いない。痴漢野郎もお坊ちゃんも。人だかり。もしくは、制服やら私服やらを期待していたが。やばい。最悪の状況しか浮かばない。

 その辺にいた奴に問い質そうにも。駅のホーム。電車が来るまでの、または電車が止まって降りる場所にすぎない。ニンゲンは頼りにならない。点字ブロックが喋れればいいのに。電光掲示板が教えてくれればいいのに。

 駄目元で駅員に。知らない。だろうな。あんがとさん。

 なんで置いて帰ったんだ。痴漢野郎と被害者。肉食と肉食の餌を同じ部屋に容れるようなもの。しかも餌は抵抗しない。抵抗しなかったから見るに見かねて俺が助けた。泣きそうな顔で耐えてるから。

 やめてください。とか、大声を張り上げればよかったのに。なんで黙ってる。なんで好き勝手させてる。

 捜さないと。後悔はそれからでもいい。

 電車に乗った。降りた。降りたならまだ可能性はある。もし乗ってどこかに連れて行かれたら。駄目だ。想像力で死にそうだ。

 俺ならどうする?

 俺が痴漢なら、どうするだろう。

 わかった。

 電車が入ってきた。アナウンス。

 停車。ドアが開く。

 アナウンス。発車ベル。ドアが閉まる。

 野郎は電車に乗ってない。一度阻止されている。また阻止されるかもしれない。俺がやったように。その記憶が強烈に残っているうちに、電車に乗ろうとは思わない。捕まるのが怖いから。ふてぶてしいくらい臆病者だから。

 この近辺にいる。

 駅の公衆トイレ。ぜんぶのドアを蹴ったがいない。女子トイレだったかもしれないがどうでもいい。

 家はこの近くなのか。いや、俺に阻止されたからここで降ろされた。つまり、俺に阻止されなかったらあのまま続けていたことになる。続ける。降りる駅が近かったらもっとペースを上げるだろう。野郎の降りる駅はここからまだまだ先。

 通勤途中。ビジネススーツ。夏休みなのは未成年と学生くらいのものだ。常習犯。ところで、お坊ちゃんは何のために電車に? 制服。夏期講習。塾。お坊ちゃんはどこで降りるつもりだった。我慢していたのは、もうすぐ降りる駅だったからだとしたら。

 いや、そんなはずはない。降りる駅に止まったとしても降ろしてもらえるかはわからない。抵抗したところで。抵抗? していただろうか。わからなくなってきた。

 暑い。やたらと汗が出る。冷や汗だろう。そのうちきっと寒くなる。

 そういえば、俺は野郎を蹴飛ばした。怪我。すぐには立ち上がれなかった。立ち上がれるわけがない。手加減し忘れたから。ああゆうお坊ちゃんが、怪我したニンゲンを見たらどうする? どうするってそれは。

 手当て。

 違う駅員に尋ねる。さっきの奴は窓口にいたから知らない。知るわけがない。救護室にいた。二人揃って。

 どっと疲れた。

 なんだよそりゃ。それはないだろ。野郎はさっきまでお前のケツまさぐって興奮してたんだぞ。それなのに、なんで。そうゆうことができる?

 悔しいから駅員に教えてやった。こいつ、痴漢ですよ、と。

 結局二重三重に面倒なことになったし時間も取られたが、後始末をきちんとしなかった俺の責任だから。お坊ちゃんが解放されるまで一緒に付いてた。なにせお坊ちゃんは何も仰らない。あ、とか、はい、とか細切れの返事ばかり。さらに悪いことに一度も、いいえ、と言わなかった。暇なので数えていた。無能どもの切れの悪い質問に無能よろしくきびきび答えるよりかはマシだろう。

 ようやく解放されたときにはとっぷりと日が暮れていた。夏は日が長いはずなのに。俺の名字のせいかもしれない。いちいち対応が回りくどかったから。

 送るとか送らないとか。結構。歩いて帰りますんで。お坊ちゃんと。

 駅までほぼ無言。話しかけてもあ、とか、はい、とかの応酬で。とうとうつらくなってきて、俺も黙るしかなかった。せめてありがとう、とかゆってほしいのに。

 俺も下心があるじゃないか。ここで助ければ、違う、恩を売っておけば仲良くなれるかもしれない、と思ったから。助けたんじゃない。結果として助けたことになるが、俺は痴漢野郎と何も変わらない。それを見抜かれているのだ。黙っているのはきっとそう。話す価値もない。有無を言わさず蹴り飛ばしたし。

「一人で帰れるか」

「あ、はい」

 また。あ、はい。

 もうやめてくれ。

「災難だったな」

「あ、はい」

 溜息も出ない。

 もう行こう。電車は面倒だからタクシーでもつかまえて。

「じゃあな」

「はい」

「気ィつけろよ」

「あ、はい」

 手を振る。振り返してくれない。頭を下げる。

 それを、言語化してくれ。

「あー、ちょっと」

 ここで別れたくない。

 呼び止めたはいいが何も出てこない。お坊ちゃんがちらちらと時計を気にしている。だろうな。受験生なんだから。

「俺、痴漢に間違えられたことあって」

 何を言ってんだ。あーあー、また引いてる。

「だから、ああゆうの見逃せなくて」

 何を言いたいんだ。

「そんときに、冤罪だっつってホンモン引きずってきてくれた人がいて。んで、俺はその時にパニくってて大してお礼できなかったから」

 なんだその言い方は。まるでお礼の催促のような。

「違うから。そうじゃないから。なんつーか、お礼がほしいわけじゃなくて」

 ますます最低だ。

 ゆってしまった。

「そうゆうわけだから、うん」

 なにが、うん、なのかわからない。奇遇だな。俺にもさっぱりわからない。そうか、よかった。わかんないの俺だけかと思ってた。そうだよな。

 わかんねえよな。

「あの」

「なんだ?」

 話しかけてもらえて声が上擦る。単純極まりない。莫迦だろう、俺は。

「ありが」

 とうございます、は語尾にかけてほとんど消えてた。

 お坊ちゃんは、黙ってたんじゃない。

 何も言えなかった。何か言ったら出てしまいそうで。

 我慢してた。

 俺が泣かしたように見られるのが厭だったから。流れ上仕方なく。これを待ってたんじゃない。期待してたのはこうゆう形じゃなくて。もっと、なんてゆうのか。アリガトウゴザイマスオカゲデタスカリマシタ。やっぱりそんなんじゃ、なくて。

 息がしづらい。吸わないと生命的にまずいんだけど、吸ったら吸ったでいろいろとまずい。どっちがまずいのか。アタマが真っ白でエラー。真っ黒か真っ赤か真っ青か。どれでも同じだ。平常心でいられない。

 苦しい、と聞こえた気がして離れる。

「わ、るい。ごめん。そうゆうつもりはなくて、その」

 逃げたい。引きこもりたい。

 お坊ちゃんはしきりにメガネを気にしている。まさか。

「ごめん。それ、俺のせい、で?」

 首を振る。最初から曲がっていた、といわんばかりに。

 そんなはずはない。俺が曲げた。絶対にそう。

「弁償するよ。だから、ホントごめん」

 そうやって会う理由をこじつけているだけだ。見抜かれているだろう。頑なに断るのはきっとうそうゆう。こんな素性の不明な素行の悪いガラも悪い口も悪いアタマもおかしい救いようのない不審者に、二度と会いたくはないだろう。

「ごめん。とにかくごめん。いろいろ、悪かったと思って」

 もう行こう。諦めるしかない。

 せっかく出会えたのに。

「好きだ」

 いまの、だれが。

 俺か?

 お坊ちゃんは機能停止に近い。

 やっぱ俺がゆったみたいなそうゆう空気が。

 どうする。なんてことを。

 ホントのほんとに俺が、ゆった?

 それを確信した瞬間、走った。いろんなものががらがらと崩れる。聞こえないふり。あのときの返事がどうだったのか、いまでもわからないまま。


      4


 私たちむにゃむにゃしました。

 一番大事なところだけむにゃむにゃにインクが滲んで見えやしない。むにゃむにゃ、は検閲の証拠かもしれない。葉書。

 医師と彼女。どうゆうわけか差出人はこの二人になっているが、大方なにかの手違いだろう、と探偵は漏らしていた。奴にはむにゃむにゃの部分がわかるのだろうか。

「わかるだろうが。ここに書くのは」

「引越しかもしれない。離婚かもしれないし、または」

 隠されているわけではなくそもそも、むにゃむにゃ、という可能性も。

「莫迦か。たかが引越し如きで葉書寄越す莫迦はお前くらいだ。離婚だあ? 莫迦にもほどがある。莫迦すぎてやってられない。なんで別れた相手と仲良さそうに写ってる写真なんざ使う必要がある? 仲悪くなくなったから別れたんだろうが。莫迦が」

 莫迦莫迦言い過ぎではないだろうか。五回も。

「でもそうとは限らない。現にこれは消えてるわけだから」

 光に透かそうとしたら引っ手繰られた。

「もういいだろ。なにかの間違いなんだから」

 どうやら彼らは生きているらしい。

 私がこの葉書から読み取れるのはそれだけ。誰かの悪戯かもしれない。手の込んだ。アリバイトリックか。彼らが生きていると都合のいいニンゲンがいるのだ。そう言ったらまた、莫迦が、と一蹴された。

「推理小説の読みすぎだ。んな姑息なことしたとこで誤魔化せねえだろ。とにかくこれは間違いなんだ。わかるだろ?」

 あいつらが生きているわけがない。遺体は見つかってない行方不明。それもないあいつらはもう生きてる理由がない。そんなはずは。という探偵との遣り取りは省略して。

 根本的な一番の間違いは、彼らにこの法律行為を行えるわけがない。それに尽きる。しかし、私はそれについての反論を思いついた。

「国内じゃなかったらどうだ?」

 探偵が黙る。

 初めて言い負かせたと思ったがそうではないらしい。でかい溜息を。

「いいやもう。それで」

 出不精の探偵が珍しく外出したい、などというものだから吃驚して有給を取ってしまった。私はあまりに予想外のことがあると仕事を休んでしまう癖があるらしい。全然知らなかった。

 指摘されてそういえば、と思ったが、何年か前の探偵の監視係を外された日の翌日も休んだのだった。彼女が眼の前で死んだ次の日だったからかもしれない。

 探偵は免許を取る気が毛頭ないので私がドライバ。運転は嫌いではないので特に苦にならない。しかし、目的地を聞いて脱力する。近すぎる。県内。しかも困ったことに、最寄り駅の隣の駅から徒歩三分。近いにもほどが。

「いいだろ。文句あるなら一人でいく」

 探偵に絵画鑑賞の趣味があったとは。壁にかかってるそのよくわからないキャンバスより、そちらの事実のほうが私には面白かった。展示物を無視して探偵の反応を観察していたのがバレたらしく、幾度となく睨まれる。

「ったく何しに来たんだか」

 観てみろ、と顎でしゃくられる。

 その一角だけ異様な雰囲気だった。照明の色が橙から青に。

 絵画ではない。

 彫刻。

 異様に大きい。タイトルはすべて無題。

「これがなんだ」

「そっちじゃない。こいつ」

 彫刻。

 やけに白い。石膏。

 指。

 かと思ったが、ニセモノ。

 探偵が指さす。

 タイトル。中指。その下。

 それを創作したニンゲンの名前。

「それがなんだ」

 少なくとも日本人ではない。

「えんでだよ」

「嘘だろう」

「嘘じゃない。葉書のすみっこにちまっと書いてあった」

 帰ったら確認しよう。むにゃむにゃにミスリードされてちっとも気づかなかった。

「たぶん、俺の」

 中指。

「右手かもしれない」

「俺が言ってる」

 なら信じるしかあるまい。

 私たち以外に誰もいないのを確認して、探偵が包帯を外す。椅子に座って眼をギラギラ光らせている学芸員に不審に思われたかもしれないが、背を向けているので平気だろう。探偵の無駄な長身はたまに役に立つ。

「な?」

 本当だ。よく似てる。

「展示が終わったらくれるとさ」

「気味が悪いな」

「見なきゃいいだろ」

 中指以外にも、親指も人差し指も薬指も小指もあった。しかし、中指というタイトルの作品はひとつだけ。

 順路をすべて巡ったあと、もう一度彫刻のスペースに戻る。立ちっぱなしで疲れた、とぼやいたら、座ってろ、と言われる。

「悪い。そうゆう意味じゃなくて」

「気にしてない」

 とはいったものの、それから数時間、探偵はずっとそこにいた。私はついに椅子に腰掛ける。長くなるから、と一言付けてくれれば。

 手招き。

 座ってすぐに呼ばれた。奴なりに気を遣っているのだろう。

 違った。さきほどと顔つきが。

 視線の先。

 二本。中指は。

 ひとつだったはず。

 どうゆう。

「いる」

 私たちが順路を辿っているうちに、加えたとでも。

 あり得る。彼女ならば。

 しかも、もっと困ったことが発生する。

「これ」

 どこからどう見ても、指。

 ホンモノ。

 色こそ白いが、色が白いだけ。

「どうするんだ」

「どうもこうも」

 通報。

 私は現職の。

 笑う。笑い事ではないこともわかっている。

「いいやな。知らん」

 彼女だ。

 彼女は生きている。彼女が生きているということは、医師も。

 是にて指事件は見事に迷宮入り。

 私たちは無言で大笑いする。美術館の番人に怒られないように。

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血在ル核執ル 伏潮朱遺 @fushiwo41

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