第5話 金らず塩すと
第5章 カナらずエンすと
1
授業の終わりのチャイム。それも、五時間目のチャイム。今日の授業はその音でぜんぶ終わった。また、終わってしまった。
自力で抜け出そうにも、前に自力で抜け出したことが教訓となって、さらにきつい結び目になっている。縄の本数も倍以上に増えた。喉が渇いた。のだと思う。身体のあちこちが無感覚でよくわからない。
傷や痣は一目瞭然。虐待の証が残れば都合が悪い。転んだことにしろと云われても、さすがに全身にリンチの痕があれば周囲の人間が怪しむ。おかげで殴られたり蹴られたり踏まれたりすることは格段に減った。しかし、いまのほうが痛い。
朝はきっかり七時半に登校しなければならない。そして朝の挨拶。ひとりずつ、一枚ずつ服を剥がされる。服が汚れたり敗れたりすれば、登校時との違いが生じてしまう。最初から裸なら、一緒に風呂に入ったり着替えるところを見ない限りはバレる確率が低い。優しいのはそこまで。そこからが、毎日地獄。
今日の当番はsOAだった。曜日ごとに中枢が変わる。木曜はsOA。そうか、今日は木曜なのか。今日と明日耐えれば、二日間の休養が与えられる。土日に押しかけてくることや呼び出されることはまだない。
絞めつける首輪を嵌められて、じゃらじゃら鳴る鎖をsOAにぐいぐい引っ張られる。背丈の関係でもなんでもない。四つん這いで移動。プールだった。まっぱではかわいそうだから、と水着を与えられる。白の小さめの。生地は透けてるし、性器は完全にはみ出るし、尻は丸見え。
sOAがくすくす笑いながら、何かを水の中に投げ込む。ぼちゃんと水飛沫。沈む。それを、口で拾って来い。
泳ぎが苦手なのを知って、それを強いている。そもそも水に潜ることが得意ではない。塩素水をがぶがぶ呑みながら、脚を吊ってもがく場面が観たいのだ。ぜんぶ拾えば終わる。やってしまおう。鼻にも眼にも耳にも水が入る。息が苦しい。プールサイドに上がることも許されない。sOAの落し物を拾ったら、即、次の。手を突いて呼吸を整えていたら靴で踏まれた。いたい。
もうだいぶ拾ったのに、ちっとも減らない。そんなにたくさん投げたのか。ちがう。拾った端から、sOAがプールに戻している。遠くに放り投げている。そんな、減るわけがない。頭がぼんやりしてきた。
気がついたらトイレにいた。塩素のにおい。そうか、プール更衣室の隣だ。さむい。水温が低かったから、今日の水泳の授業は中止だろう。また、誰も来ない。便器に縛り付けられている。性器に粘液が絡みついて、肛門から粘液が流れ出てくる。気を失ってる間に何をされたのか、簡単に想像がつく。
腕を頭の上で固定されている。指が冷たくなってきた。指。ハリを思い出す。きっと見つけてくれる。いつだって、どこにいたって探し当ててくれる。たすけて。
声がする。呼んでいる。名前。俺の名前を間違えずに読めたのは、ハリだけ。うれしかった。絶対に誤読する表記なのに。注釈なしで正しく読めるなんて。
声に応えたい。喉に何かが貼りついていて。空気が通らない。ここだ。ここにいる。こっちだ。こっち。はやく。
「ちーろ」
いじめられても、どんなにひどいことをされても、登校したいと思えるのはハリがいるから。ハリがいなかったら、とっくに。
ハサミでもなかなか切れない。ハリが動揺して力が入らないのだ。大丈夫。平気だから落ち着いてほしい。ゆっくりでいい。ついに涙が落ちてきた。
「なんで泣く」
「だって」
一日中探し回ってくれたこともわかってる。妨害されてひどい目に遭わされたこともわかってる。髪の毛が変に短くなっている。ぱっと見は気づかない。でも俺にはわかる。いつも見てれば、そのくらい。
「泣くなよ」
「くやしくないの?」
「くやしい?」
「くやしいよ。ちーろがなにをしたの? なにもしてないでしょ。だったら」
言いつける? だれに。先生は見て見ぬふり。親になんか云えない。自分で解決するしかないのだ。それはいままで何遍も何遍も話し合った。
「どうしてがまんしてるの?」
「我慢してんじゃない。無視してんだ。相手にしてない」
「でもそんなことしたって」
意味がない。余計にエスカレイトしている。それでも、奴らの狙いが俺だけになればそれが一番最善策。どうせあと一年も一緒にいない。それまでの辛抱。耐えるのは得意だ。ずっとそうしてきた。習慣みたいなもの。
復讐にも革命にも興味がない。ああゆう奴らはどこにでも存在する。転校しようが不登校しようが逃げられない。立ち向かったって媚売ったって、結果は同じ。
溢れる涙を拭ってあげたいのに。慰めの言葉を掛けてあげたいのに。不自由だ。あらゆるものが思い通りにならない。悔しいとすれば、それが最も口惜しい。
「ふたりで、もっと楽しいところに行きたいね」
「うん」
「ちーろは、ついてきてくれる?」
「ああ」
縄が解ける。腕の重さを思い出す。痺れ。ハリが撫でてくれる。あたたかい。それだけで痛みが引いてく。舌。這って、指。左手の中指を、ハリが気に入っている。ふやけてふにゃふにゃになるまでしゃぶってたこともある。別に厭じゃない。きもちい。
次の日、金曜。当番だれだっけ。
2
「なんで起こさなかった」
聞き飽きた。答えるのも面倒くさい。
「俺が平気だと思った」
揉めてる暇があったらとっとと車を出せばいいのに。さすがにキリュウも気づいたらしく、荒々しくアクセルを踏み込んだ。
「どこだ」
「住所聞いてねえのかよ」
医者の家。
「いると思うか」
「お役所閉まってるだろうが」
黄から赤に変わるタイミングならいざ知らず、ほぼ赤。クラクションが鳴らされないのが奇跡だ。鳴らすより前にその場を走り去っているという可能性が高い。衝突事故にならないのも同じ原理。
「家だと思うぞ」
「いなかったら承知しない」
車はあった。窓から明かりが漏れている。
「これでもいねえってか」
「いるふりかもしれない」
「んなら行って来いよ」
どうでもよくなってきた。えんでは医者と死ぬつもりだし。医者はえんでに殺されてるだろうし。念のためにゴミ捨て場を。それらしき袋はなかった。
キリュウが玄関の前で立ち往生している。
「どうしたよ」
「嘘ついてないか」
「ついてるよ。それが?」
キリュウが利き手を上げる。降参かと思ったら。
銃口。
「やっぱりお前が怪しい」
「だから最初っからそう言ってっだろ。逮捕しろって」
ドア。僅かに開く。
「なんですかね、人の家の前で」
いいところで。虚言癖の。
「時間にはまだ早いですよ」
「待たせてもらう」
「ううん、それは困りますねえ」
医者の後ろ。えんで。
またそうやって危ないものを。
「そうだよ。時間は守ってもらわないと」
包丁。料理中たまたま。なわけがない。えんでは料理ができない。えんでは包丁を料理のために使ったことはない。脅すためとか切り落とすためとか。
キリュウが苦々しい顔で銃口を下す。余計な邪魔を。せっかく捕まると。
舌打ちしたのが聞こえたらしい。地獄耳の。
耳打ち。
キリュウくんを助けてあげるから。取引か。
どっち道僕はここで。キリュウのトラウマになる。
見えないところでやるから。嘘くさい。
「それ、こっちに」
投げる。床。
「もっと優しく投げてほしかった」
キリュウはたぶん怒っている。この状況で頭に血を上らせてどうする。そこがキリュウらしいといえばらしいのだが。挙句の果てに拾おうとする。えんでも遮ればいいのに。
「そいつを下ろせ」
「撃ちたいなら構わないよ。僕には中らないから」
頼むから煽るな。キリュウは人質なんかなんとも思ってない。人質を貫通させてえんでに中てる気でいる。正気じゃない。羨ましい。
「僕は先生に弾が命中しても何も困らない。なんでかわかる?」
「指か」
悪いことは言わない。何も言わないほうがいい。そんなこと言ったら。
「指に中てる」
ほら、いわんこっちゃない。
ターゲット変えた。撃つ気満々。
ちーろ、見てないで止めてよ。俺が撃たれる。
撃たれたくないの? そうゆう予定はいまのとこねえ。
捕まりたい?
邪魔すんな。
えんでを止めたらキリュウが引き金を引く。
キリュウを止めたらえんでは。
なにもしない。キリュウが床に転がる。気絶。
「心配だから縛っといてよ」
リビングは散らかっていた。物が散乱。その中から使えそうな。これでいい。手錠。どんなプレイしてたんだ。二十二時。眼を離してからずっと。
「お前らできてんじゃねえの?」
「できてるよ。ねえ、先生?」
「ええ、まあ」
キリュウの推論は間違っている。医者は嘘つきだ。
「ホントかよ」
「嫉妬?」
「脅されてそう言ってんだろうがよ。どうだよ」
「そんなまさか」
危ない。包丁が足元すれすれに突き刺さる。
「うるさいなあ。僕と先生は両想いなんだから」
「んじゃあ凶器置いて訊いてみろよ」
「好きだよね?」
「ええ、それはもう」
「本音いってみろよ。離婚させられて迷惑してんだろ」
「はて、なんことやら」
キリュウが眼を醒ました。頭が痛いらしい。そりゃそうだ。頭ぶつけたんだから。
「なんだこれは」
「生きてこいつ捕まえたいんだろ。ちょい待ってろ」
「お前がやったのか」
「俺じゃなきゃ誰がやるよ」
「外せ」
キリュウの眼が銃を探している。安心しろ。ちゃんとここに。
「また手に入れてもらいたいの?」
左手の中指。遙か昔にえんでが。
生きて、
捕まえる。
だれを。
駄目だ。駄目に決まってる。キリュウがえんでを捕まえたら俺はどうなる。キリュウの協力者だから。捕まらない。探偵は。探偵じゃない。俺は探偵じゃ。
キリュウに見せるといろいろ厄介だから、キリュウの前に立って。壁。背が高いとこうゆうときに役に立つ。
医者もきっとそう思っている。迷惑だ。
賛成者多数。可決。
さようなら。
えんで。ハリによろしく。
音が遅い。聞こえたときには。後ろからキリュウの声。
それだけ聞ければいい。他は雑音。
言葉も出ない。
なんだその顔。何も悪いことをしていない。人質を助けるために已むを得ず、だ。キリュウの辞書にはない。なんだそうゆうこと。
念のために弾を使い切る。キリュウに撃たれるのは構わないが他の奴は厭だ。
是にて指事件終了。めでたしめでたし。あとは。
俺がキリュウに捕まるだけ。
医者がえんでに近寄る。もう手遅れだ。それにお前の専門じゃない。
「電話してもよろしいですか」
「別れた妻か」
「三桁ですよ」
時報?
「いや、私の病院にね、こうゆうときほど右に出る者がいないくらい頼もしい方がいらっしゃいますのでね」
「助ける気か」
「恩を売っておきたいのですよ」
どっちに。
許すわけないだろう。余計な奴らに邪魔されたくない。俺はキリュウに捕まりたいんだから。突き飛ばす。ケータイを奪って踏んづける。固定のほうは線を切る。
医者が外に出ようとするので。仕方ない。正当防衛だ。
反撃はない。諦めたのかと思ったらえんでのほうに這って。
「無理だぞ」
椅子が転ぶ。キリュウが憎しみのこもった眼で睨む。ぞくぞくする。
「現行犯で逮捕する」
「なんの? 監禁?傷害?」
殺人じゃない。えんでは死なない。こんなことで死んでたら。ピアノに火をつけたときも。プールに沈められたときも。バッドで後頭部かち割られたときも。窓から突き落とされたときも。糸ノコで指吹っ飛ばされたときも。
ハリだって生きてる。えんでが生きてれば。
「死んでねえだろ」
医者が首を振る。
「死んでないよね」
医者が頷く。
「僕が死ぬわけないんだから。ねえ、先生」
「そうでしたね。いやいや私としたことがお恥ずかしい。早計でした」
椅子ごとキリュウを起こす。メガネが外れかかっていたのでかけ直してやる。これがないと満足に俺の位置もわからない。
「こんなことしなくても逃げませんし」
嘘つけ。
3
金曜の四時間目。図工。
いつまで経ってもだれも現れない。間違えた? 時間割には確かにそう書いてある。廊下。窓の外。じっとしてもいられないし、かといって大人しく待っているのも。呼びにいく? どこへ。全員が俺を陥れようとしているのならむざむざ探しに。罠にかかりに行くウサギがどこにいる。守株だってあんなもの単なる偶然に。
厭な予感がする。脳がちりちり。ハリは今日休み。休み? いまさら気づく。休みなんかじゃない。教室にいないイコール休み、じゃない。しまった。
走る。当てもないのに。勘も鈍ってる。登校してからいったい何時間ぽわぽわ。道理で今日は静かだと。俺の周りだけ静かだっただけ。
教室もグラウンドももぬけの殻。飛び込み台。プールは、SiHが。
「どこやった」
指を差す。水面。いない。水中。いない。水底。
なんだ、あれ。
「ちひろ」
だれの、こえ。
「ここだ、起こせ」
ぎいいいいいいいいいいいいい。油の切れたネジの音。プールサイドに、黄色いあひるのおもちゃが。仰向けでのた打ち回っている。命令。
SiHの腹話術。
「そいつは関係ない。わたしを耳に当ててみろ」
命令。プラスティックがぬめっとして。恐る恐る鼓膜。
「さはりは病院だ」
病院?
「知らなんだのか。血を流しすぎた」
血。まさか。
走る。駆ける。階段がウザったい。足が縺れる。曲がり角も直線も妨げ。図工を図工室でやるとは云ってない。
「粗野な奴だな。最後まで聞か」
「なんで」
「どっちの味方でもないよ。あえて云うなら」
SiHだ。飼い主。
「主人下僕の関係じゃないさ。わたしたちは友だちだ。対等に利用しあう」
名前のない部屋。あるかもしれないが、表示がない。子どもがみだりに触ると保守的管理的にまずい展開になる。そうゆう機械器具をしまってある場所。普段は鍵がかかっている。当然だ。保守的で管理的なのだから。生かさず殺さず、生殺し。学校の目的。
洗脳と、お国のための兵隊作り。
「わたしは入らんぞ」
あひるを窓から捨てる。落下。しないだろう。鳥なんだから。飛べばいい。翼を羽ばたかせて。
赤なのか黒なのか。赤い、あかい。色が濁る。厭なにおい。何か光る。床に突き刺さる。刃。背格好のシルエット。わかった。わかる。喋らないのはSiH以外にはもうひとり。IClが金曜担当。放課後からなのに、早すぎる。
天井にも床にも壁にも机にも椅子にもなんだかわからない機械たちにもべったり部屋中に飛び散ってるのは、ハリの。
にしては量が多すぎる。血を流しすぎた。としたってこれだけ出てしまったら、助からない。そんな。病院に担ぎ込まれたって。死んだかどうか書類に記されるだけ。どこの病院。わからない。あひるめ、適当なことばかり。
にちゃ。
見るべきでなかった。IClの口から、指。
だれの。
おれの?
ひいふうみいよう。
たりない。一本足りない。
でもこれは、ここで落としたんじゃない。もっと先。未来に。図工室で手元が狂って。手元が狂う? だれがくるわせた? 自分で。
左手の中指は、ハリに食べられた。
プールの底。あれがなにかわからない。なんだ。なんだろう。飛び込んで拾えばよかったか。拾ってそれがもし、ハリのだったら。厭だいやだ。
IClはじっと視てる。動かない。動け。
「お前が」
首を振る。
「お前だろ」
べちょ。涎の絡まった指。舐めている。飴のように。
「ハリに何した?」
話し声。遠いのか近いのか不明。近づいてるのか遠ざかってるのかも。あひるのとは違う。三種類。やけにはっきり。
FCiあーつまんね。
BNoその割には笑ってない?
sOAばーかざまーみろ。
BNoこれで僕の。
FCi水曜も俺な。
sOAしねバットやろう。
FCiいーだろ、空いてんだから。
BNo誰か他の人の日だったと思うよ。
FCiだってあいつなんもしねーもん。
sOAやーだあたしの。
FCiだったら勝負すっか。
BNo勝った人が一日増えるってこと?
FCiちげえ。負けたやつの日、ぶんどれる。
sOAぜんぶあたしの日。
BNoそんなのやってみなきゃわかんないよ。
ねえ、ジンナイちひろ。
最後の声に聞き憶えがない。低い声のような気もするし高い声のような気も。おとこなのかおんななのか。どちらでも変わらない。実在しようがしまいが。俺に危害を加えようとしてることは確か。内から外から。
病院に駆けつけるより、ここでやるべきこと。
指だ。ハリは指が好き。指が好きだから、俺の指はぜんぶハリにあげる予定。死んだときに、という約束。でもそれだといつになるかわからないから、とりあえず一本。て、ことになっている。正確なところは思い出せない。
指。俺のが駄目なら他がある。
五人。単純計算で、えっと。掛け算。九九だ。ニンゲンが五人いて、手の指がそれぞれ十本ずつあれば。合計で。足の指は要らない。
できる。殺してから指を切ったほうがいいだろうか。それとも、殺さずに。状況に応じて臨機応変に対処しよう。いっぱい手に入る。たくさん、抱えてお見舞いにいこう。
ハリの喜ぶ顔が浮かぶ。
あいつらのこと、怨んでない。遊んでくれてありがとう。
いままでのこと、絶対に忘れない。
4
トマトより血のほうがマシ。とか思ってきたあたりそろそろ限界だ。
アタマが働かない。どうやったらこの状況を打破できるのか全然思いつかない。叫んでみるか。武器は口。説得。私の最も苦手な手段だけわざと残して。勝てるわけがない。探偵は揚げ足取りの名人。言葉を発すれば負ける。発すれば。発しない。それはもっと難しい。その方法も探偵のほうが得意だ。
最悪の状況。俺が殺されることではない。探偵が自殺すること。
「だから何遍もゆったろ。俺がやったって」
「悪かった」
演技も通用しない。演技できるほど私は器用ではない。探偵は私以上に私のことを知っている。私が次にどんな手で出るか、手に取るようにわかっている。私にもわからないのに。私はこの状況で次に何をしようというのだ。
まず、動けない。がたがた椅子を揺らしたところで床に這い蹲るのが落ち。一度やって懲りた。
そして、四マイナス二。これが致命的だ。私は眼の前で二人も見殺しに。救急車も呼べない。ただ彼らの体から赤黒いものが流れてくるのをじっと見ているしか。情けない。舌を噛み切って死ぬべきだろうが、まだ死ねない。
探偵は食事を終えたらしく、食器を洗っている。音がする。あれを食べたのか。吐き気がする。おかしいとか狂っているとかは私には判断できない。わからない。
人の指を切り取ること。
トマトの指煮を完食すること。
「やっぱ嫌いか」
トマト。
「まだ食えねえのかよ」
「これからどうする気だ」
「お前に捕まるか。お前に殺されるか」
「自首しろ」
「いまさら? 証拠は」
「俺が証人だ」
探偵が鼻で嗤う。笑わせようと思った。ダイニングから椅子を引きずって俺の正面に座る。手が自由なら首が締めれる距離。
「憶えてるか」
「忘れた」
「まだなんもゆってねえだろ。お前、痴漢に遭ったとこ助けられた憶えねえか。電車ん中で」
「痴漢の冤罪ならある」
「勝手に記憶改竄すんな。そのとき助けてくれたやつは、なんで助けたと思う?」
「人間として当然のことだ」
何の話をしている?
「助けてもらったあと、お前どうした?」
何の話だ?
「ありがとうございました、てゆったか。ゆったろ? まあお前ならゆったろうな。そのあとどうした?」
「何のことか」
痴漢と間違えられて厭な思いをしたことはあるが。痴漢に遭ったことは。
「なんで俺が」
「狙われるのは女だけじゃあねえの。そっか。思い出さねえか」
ニンゲンとして、ねえ。探偵はそう呟いて椅子に座り直す。
「便所行きたくねえか」
「特に」
「行きたくなったらゆえよ。膀胱破裂させるつもりはねえんだから」
意図がみえない。私にみえなくても探偵にはみえている。なぜわかる。私はそこまで単純なのだろうか。
「なんか飲むか」
「いや」
どことなく落ち着かない様子で。そわそわしている。探偵が私と眼を合わせない。後ろめたいのは当然だとして。
「なんかゆえよ」
「これを外せ」
「それ以外で」
「初犯はいつだ」
「殺人の? ハリかな。ああ、えんでの最初の」
「助けようとしたんだろ」
「助けらんなかった。だから、俺が殺した」
それは結果論だ。やっぱり読まれてる。
結果論だがな、と探偵が漏らす。
「養子だっつう話したろ。ジンナイの。あれの部下がちょっとばかし莫迦だから揺さぶってやったら死んだよ。それかもな」
「揺さぶった?」
「心理的にな。たぶん調べてもなんも出てこねえだろうから教えてやるが」
「知ってる」
「ああ、そっか。呼ばれたんだっけか」
「それもお前か」
「かもしんねえし、そうじゃねえかもしんねえ。どっちにしろ時効だ」
性犯罪。
「やっぱり痴漢には遭ってない」
冤罪だと見抜いて真犯人を引きずってきてくれた人なら憶えている。私はあの人の正義に憧れて。
「風呂入ってくるわ」
「逃げるな」
「だから風呂だっつってゆったろ。逃げねえよ。だいたいこんなナリでそこらうろうろしてみろ。職質で一発だ」
「お前はそれを無効にできる」
「無効ったって。血まみれだぞ。鼻血の量じゃねえよこりゃ」
「お前なら鼻血で誤魔化せる。自首しろ」
ジンナイちひろ。
リビングから出ようとした探偵が戻ってくる。椅子に腰掛けて身を乗り出す。見たことない表情だった。いつものぐうたらじゃない。近いのは、あのとき。
彼女から電話が来て、彼女を助けに行って。手遅れ。
居心地が悪い。呼吸がしづらい。トマトなのか血なのかわからないにおいをいまさら意識する。ついでに。私の立場のほうが不利だったことも思い出す。
「自首自首自首自首うるせんだよ。もうやめだ。鬱陶しくなってきた。風呂入ったらすっきりするかと思ったのに。なんで俺がお前を殺さねえと思う?」
私を殺したら祟られそうだから。
「お前さえいなくなれば俺はこの状況を無関係にして前みてえに一日中ごろごろしてられる。俺が断固拒否すればケーサツどもの協力もしなくてすむ。なんで俺がそれをしねえのか」
警察に協力するのは市民の義務だから。
「お前が島流しに遭った事件。なんでお前が島流しだけで済んだか。フツーはクビだ。口封じの代わりにしちゃ軽いと思わねえか」
私が優秀だから。
「お前、どっか怪我してるか? 痛えか? 平気だろ。椅子に繋がれてるだけで。うるせえならピンポン玉でもタオルでも噛ませりゃいい。なんでしねえか」
私を傷つけるとあとが怖いから。
「わかんねえだろ」
「重要なこととも思えない」
さっきの桃。探偵が口に入れる。
どうするかわかった。私にも読めた。私が単純なわけではない。単に情報量の違い。
毒は入ってない。入ってたらとっくに探偵が死んでいる。
彼女は銃殺。
医師は刺殺。
私は、殺されない。死ぬとしたら私が殺す。
吐き出すとスーツが染みになる。シャツも。ネクタイも。
ほぼ液体にしてから寄越さなくとも。
「風呂入ってくる」
「死んだら承知しない」
「なんで風呂で死ぬんだよ。溺死?リストカット?」
探偵が椅子を戻す。ダイニング。死角。
「死刑だよ」
「死にたいのか」
「お前になら殺されたかった」
「じゃあ死ぬな」
「じゃあってなんだよ」
死なせるわけにいかない。なんで外れない。ニセモノなら外れる。犯罪に使われないように。そうゆう作りに。
「ホンモンだよ。残念だったな」
鍵。
「外せ」
「外したらどうすんの」
「お前を捕まえる」
「ほかには」
「本部に連れてく」
「ほかには」
「俺に彼女が出来ない理由を教えてやる」
鍵。鍵さえ手に入れば。
「ドーテーだからじゃねえの?」
「ようやくわかった。邪魔してる奴がいるんだ。精神的に」
鍵。
「そりゃ困ったな。そいつぶっ殺さねえとお前永久に」
「あくまで推論だから、確証はない。本当のところを聞きたい」
鍵。探偵の手に。
ゴミとして捨てられる。窓から放り投げられる。トマトの指煮にぶち込まれる。一番困るのは。呑み込まれること。
「さっきのはどうゆう意味だ」
地雷を踏んでいないと思いたい。苦手なのだ。口で誰かを言い負かしたり、口だけで人を操ったり使ったりするのは。
私を殺さない理由。私に協力する理由。私がクビにならない理由。私を無傷で生かしておく理由。
早く何か言え。鍵。まだ手の中に。
ない。
どこだ。どこに。
「ポケットだよ。ここ」
よかった。息が詰まる。
「驚かせるな」
「ビックリしねえのか」
「俺はまだ何も聞いてない」
見当違いではなさそうだ。探偵が俺の後ろに立つ。振り向こうとしたら後頭部を抑えられる。
「そのまま聞け」
やけに低い声だった。もともと低い声だが。重低音よりさらに低い。
「これから鍵を外す。だから眼瞑れ」
「逃げる気じゃないだろうな」
「鍵外してる間だけだ。最初に足、次に手の順番。俺がいいってゆうまで動くな。声も出すな。絶対に眼ェ開けるなよ」
何を意図しているのかわからなかったが鍵さえ外されるのなら。銃は弾切れ。包丁が怖いが探偵はそんなことしない。
「闇討ちもなしだ」
「しねえよ、んなこと」
ほら。思った通り。何がどこにあるのか確認して眼を閉じる。
かちゃかちゃ。
足。
「外れたぞ」
手。
かちゃかちゃ。
かちゃかちゃ。
指。何か冷たいものが。金属? 鍵が当たったのだろう。
かちゃかちゃ。
やけに苦戦している。そんなに面倒な鍵なのか。
音が已む。外れたのかと思って手を動かしたが。
まだ。
文句を言おうと思ったら。
血のにおい。
いいってゆうまで動かない。声を出さない。眼を開けない約束。
そうゆう意味か。
わざわざ桃を口に入れた理由。
私がトマトを嫌いだから。トマトのままだと私が厭がると思ったのだろう。
「何もわからない」
「喋るなっつったろ。外さねえぞ」
「俺はそうゆうの疎いから、ちっともわからない。察せない」
「それでも察しろ」
血のにおいしかしない。おかげで部屋に立ちこめるトマトは気にならなくなったが。後ろが気になる。
「続きがあるのか」
「終わりだ。これ以上は」
無理。不可能。
「それは何に配慮した結論だ? お前の都合ならそれでいいが。俺の都合だったら俺が決める」
血のにおい。
強くなる。
「俺はただの殺人犯だ」
「瑣末な問題だな。罪を償えば」
「償えない」
「顔も口も利くんだろ? カネでなんとかすればいい」
生ぬるい息。
首にかかる。
「現役のケーサツ官の発言じゃねえな」
「どうやら向いてないらしい」
「遅えよ」
遅いんだよ、と耳元で。
「遅くない。まだ間に合う。俺は何もわかってない。それがわかった。だから」
駄目だ、と耳元で。
「駄目な根拠を言え」
「俺の思い通りにはならない」
堂々巡りにもほどがある。
ぐだぐだぐだぐだと。俺の知ってる探偵はそうゆう奴ではないはず。俺の勘違いだったのだろうか。違う。根拠を言え。といったら、俺が言ってる。のテンプレート。まともに取り合おうとしない。それが、いつもの。
「さっきから、何度も言わせるな。俺は何も聞いてないし、何もわからない。だから聞いてるんだ。お前がどう思ってるのか。それを云った上で俺がどう答えるか。まだ何も言ってないうちに勝手な想像で決め付けるな」
地雷じゃないように気を遣ったつもりだが。
「とっくに外れてるぞ」
「許可が下りてない」
両手首は。
探偵が握ってる。
「眼、開けろ」
実は薄目を開けていた。
「絶対振り返るなよ」
「きちんと云えるならな」
んなことゆったって、と耳元で。
「お前の云いたいように言え。わからなかったらまた聞き返す」
「ゆえるわけ」
「言ってから決めろ」
表情はわからない。声色は異常。掴んでいる手。汗。包帯越しに。
離す。離れた、だけかもしれない。
「じゃあな」
ドアが開いて閉まるまで。
動けなかった。
足が縺れて転んだ、が正しい。急に立ち上がれなかった。
ケータイを捜す。上着のポケットになかった。
車のキィ。それもない。
とにかく外へ。靴の中に。
ケータイ。キィ。
念のために浴室を。いるわけない。
逃げれられた。
せっかく答えを用意していたというのに。答えを聞いてからでも。私から言えばよかったのか。無理強いさせた。だから私は尋問に向いていない。
じゃあな、の数秒前。
なぜそのあと数秒待てなかったのか。
アタマがくらくらする。糖分が足りていない。
そうだ。連絡。
二名死亡。
一名逃亡。
それをどこへ伝えればいいのかわからない。
なんで。
なぜ。
たった三文字。二文字でも伝わる。
伝わった。
だから、返事を聞きに。
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