第4話 木らと炭ません
第4章 ボクらとスミません
1
外されそうだ。被疑者の知り合いなら無理もない。
知り合いの知り合いだから、と駄々を捏ねたところで。私を外したら被疑者の直の知り合いを永久に見つけられなくなるというのに。駄々を捏ねてみるか。
「なんだか浮かない顔ですね」
顔に出やすいのは直したほうがいいかもしれない。生活安全の。名前がややこしいからすぐに思い出せない。
「浮かない気分に幸せのお裾分けです」
左手の薬指。指輪。
「辞めるのか」
「なんで素直におめでとうって言えないんですかね。辞めませんよ。やっと慣れてきたってのに」
呼ばれた。浮かないほうじゃない。幸せなほう。
「状況はよくわかんないですけど、ガンバってくださいね。きっと捕まりますよ。悪いことしたらそれなりの報いを受けないと」
それなりの報い。あんなガキ。よくて施設。状況がよくわからないのは私だ。このまま私を省いて。どうなるというのだろう。本当にあんなガキが私の同僚を次から次へと。性犯罪。できるような年代か。おかしい。絶対にまだ何か。
小学校。突き止めたのは私なのに。私を抜いて向かうなんて。私が行かなければ。誰が奴を逮捕するというのだ。
車で進入できるぎりぎりのところにパトカが大量に待機。基本的に末端にまで情報は伝わっていないはずだから。敬礼。ほら、容易い。最前線は手柄。墓荒らしと同義。廃校。もう誰も通っていない。
こんなときに、ケータイ。誰だ。非通知。
「着いたか」
探偵。
「お前いまどこ」
「入るな」
そうやってまた私の邪魔を。
「正当な理由があるんだろうな。俺を出世させないためだったら」
「は、命令無視のほうがヤベえんじゃねえの? とにかく入るな。死にたくなかったら俺のゆうとおりに」
「従わなかったらどうなるんだ」
「死ぬ」
はったりではなさそうだった。信じるしかない。他の奴らならいざ知らず、探偵のゆうことは。筋が通っていなくても当たるのだ。
「ここで大人しく指咥えて観てろ、だったら切るぞ」
「そっから坂が見えるだろ。上ると」
プール。探偵はそこにいた。
「お前いままでどこをほっつき」
「切るなよ。切ったら」
目線。プールサイドから校舎が見下ろせる。
「眼の前にいるのにわざわざ電話で話す必要は」
「お前の上司が木っ端微塵だ」
「は?」
爆発物。スイッチ。
「正気か」
「俺じゃない。それはこれから説明する。だからちょいとばかし協力してほしい」
「切らなければ平気なんだろうな」
「俺はそう聞いてる。あとはあいつの機嫌次第だが」
あいつ? それが私の捕まえるべき。
「俺とあいつはここに容れられてた。ああ、調べたかそんくらい」
「あいつってのは誰だ」
校舎。探偵。どちらにも集中するとなるとかなり根気の要る。フェンス。探偵の身長のほうが勝っている。
「お前の彼女だった奴の名前は」
「いまそれを言わなきゃいけない理由がない」
「名前は大事なんだ。あいつはいくつも名前がある。俺もぜんぶ知ってるわけじゃない。ごく一部だ。それにそのごく一部もたまに内容が変わることがある。俺が把握してるのはせいぜい六つかそこら」
六つも偽名があるとでも。
「偽名じゃねえよ。そいつはぜんぶあいつの名前だ。先にゆっとくが多重人格じゃねえ。だいぶ違う。まあそれはどうでもいいんだ。お前の彼女だった奴」
えんで。
「知ってたなら訊くな」
「確認だよ。えんでが一番厄介でな。あいつの趣味知ってるか」
手を広げる。ケータイを持っていないほうの手。
「切り落とす」
探偵の両手には包帯が巻かれている。手首から指の先まで。ケガをしているのではない。手袋の代わりでもない。左手の中指がないのだ。それを隠すため云々。まさか。
「わかったろ。えんでが厄介だってこと」
「そのあとどうするんだ」
「切り落とせばそこで終わり。コレクションするとでも思ったか。違えよ。あいつの趣味は指を切り落とすこと。そんで、終わりだ。んで、また切り落としたくなったら目ぼしい指見つけて」
意味が取れない。切り落として終わり? 何がしたいのだ。
「指が欲しいわけじゃないのか」
「フツーはそう考えるわな。所有のために欲しい部分だけ切り取って手元に。もしそうだったらとっとと捕まえて首吊らせてやれ。そうじゃねえよ。指切り落とす過程が目的だから、切り取ったもんは要らねえの。ゴミだからその辺捨てる」
探偵の家にあった指。浴槽に浮かんでいた指。便器に沈んでいた指。
ゴミ。
「捨てたのか」
「捨ててった。追っかけたんだが」
逃げられた。
「彼女は」
「心当たりがないこともない。が、そいつも死んでるかもしれない。死んでたら心当たりが消える」
「どこだ」
ケータイ。探偵が指さす。自分の持っているほう。
「まずはこいつをなんとかしねえと。眼の前でバラバラになるのは抵抗あるだろ。無能な上司とはいえ」
爆発物。
「見えるか。窓がない部屋があっだろ。ガラス割れてるだけだが。そこにピアノがある。そいつを鳴らしたらどかん、だ」
「それなら報せれば」
「報せてもどかんだとしたら」
観ている? 私と探偵のいるプールサイドを。私が妙なことをしないように。カメラ。らしきものはなさそうだった。直接観て。
「いるのか」
「と思っていい。そうゆうつもりで言動に気ィつけろよ」
「どうすればいい」
そういえば、ケータイ。探偵はケータイを持っていないはず。
「あいつのだよ。突っ返そうと思ったとこであれだ。どかん、の仕掛け。そうだな、どうすっかな」
「それを考えるのがお前の」
「ああ、そうだ。こいつ」
手の平。のっているのは。指。指輪が嵌っている。指輪。左の薬指か。指輪は必ずしも左手の薬指には嵌めない。嵌めないことはわかっている。しかしそれは、左手の薬指に嵌っている。嵌っていた。さっき、本部で。
見間違いだろう。たまたま似たような指輪だという。
「捨てたんだろうな」
「どこで」
「そんなのいちいち憶えてねえよ。なんだ、見覚えでもあんのか」
「憶えてないわけないだろ。どこだ。思い出せ」
本部だ。生活安全の。外に出た? 時間。本部からここまで移動してくるまでの間。何があった。本部は。いや、本部内で何かあれば私に連絡が。
駄目だ。通話中なら、わからない。確認したいがそれをさせない気だろう。
「彼女の狙いは何なんだ。俺に怨みが」
「そーだったら幾分か楽なんだが。あいつはなんも考えてねえよ。指切り落とすこと以外は」
探偵がケータイを放る。後ろは、プール。沈む。
同時に。
煙。建物ではない。音はやや遠い。あの方向は。
「待て」
「俺の車だ」
「待てっつってっだろ。早まるな。いいのか、お前の上司」
「本当に仕掛けられてるのか」
「あいつが」
「そのケータイは」
「置いてった」
「その、指は」
「あいつが」
「嘘だな」
爆発音。見るまでもない。震源地。
建物の最上階。屋上ではない。屋上には行けない。
ケータイを切って。ポケットに。
なにも、
起こらない。スイッチは。
「そこか」
白いロングコート。ポケットに。
「出せ」
「突っ込んでみゃいいだろ。ねえけどな」
手を。なんだ、これ。
厭な感触。
つかまれる。包帯越しに。探偵の。
「捕まえた」
上司が生きていようがいまいがどちらでもいい。死ななければいけない人間だったのだろう。所詮はその程度の寿命。
2
名前くらいは知っている。名前しか知らない、と言い換える。有名無実というわけではない。名前が印籠になるだけの。大学病院。
探偵は名前だけ呟いて他所へ行こうとする。他に用事がある、というよりは、その名前の人物に会いたくないような。
「お前が行かなくてどうする」
「任すわ。死んでたら会ってやってもよかったんだが」
「知り合いなのか」
「知り合いたくもねえな。ああ、俺の名前は出すなよ。あくまで国家権力ってことで」
受付に尋ねてみる。精神科。呼び出してくれるそうだ。
しばらくして、白衣。いい加減な着方。ボタンをひとつも留めていない。ぼさぼさの頭髪。無精ひげで、猫背の。まだ若い。研修医に毛が生えたくらいにしか。私とさほど変わらないのでは。この忙しいときに面倒な輩が、という無言の拒絶を感じる。
「部屋をお借りできませんか」
「任意同行かと思って覚悟してきたんですがねえ。あなたは案外、いいえ、どうでもいいことですね。せっかくのいい天気ですから、はあ。どうです? お散歩がてら」
病院の裏に遊歩道があって、患者らしき人間が銘々、日向ぼっこなり会話なり気分転換なりをしていた。探偵の気配が。尾行けてきている。
「紹介が遅れました。キリュウといいます」
「はあ、ユサです。よろしく。ちなみにご担当は? 殺人?テロ? なんにせよ物騒ですね。指のことでしょう」
「えんで、という名前に心当たりは」
「ここで嘘をついた場合、ええっと、罪に問われますかね」
「そう考えていただければ間違いがないかと」
「そうですか。まあ私もか弱き一般市民の側ですからね。ご協力いたしましょう。一日も早く捕まえてもらいたい。えんでは近々私を殺すつもりですからね」
「会われたのですか」
「会うも何も、棲みついていますよ。住所を教えます。いいですか」
メモする。ここから近い。
「ありがとうございます。ところで、どのようなご関係ですか」
すごく厭な顔をされた。
「仲睦まじいように見えますか。恋人やらなにやらの関係に見えますか。私は迷惑しているんですよ、ええ。あれのせいで妻は私に愛想を尽かす寸前です。離婚届のね、書き損じを三枚も見つけましたよ。三枚も。ゴミ出しの担当は私でしてね。ああ、明日ちょうど燃えるゴミの日です。この日が来るのがどんなに苦しいか。ですからね、一秒でも早くあれを私の眼の前から消していただきたい。お願いしましたよ」
「具体的にどのような被害に」
「精神的被害ですね。毎晩毎晩欲しい欲しいゆわれるんですよ。私の指を。切ってどうするのかと訊いたらなんてゆったと思います?」
切り落とすだけ。切り落とせばゴミだから。
「翌日のゴミ捨て当番を代わってくれるそうですよ。ゴミとして出しておいていただけるそうです。残りの部分を」
「残り? 指では」
「指? 何を仰っているんでしょうかね。指を切り取って、何故指を手放すのか。わかりませんねえ。指が欲しいに決まっているじゃないですか。あれは私の指を狙っているのですよ。いろいろな部分が故障しているとしか」
違う。探偵の想定している像と。医師の思い描いている像は。別人?
名前が同じでも内容が変わることも。それだ。
「ご協力ありがとうございました。また何かありましたら」
「本当は護衛を付けてほしいものですが、まあ、私が死んだところで誰も困りはしないでしょうから」
単独捜査だから応援は望めない。名刺を手渡す。
「ピンチのときは来ていただけると」
「必ず捕まえます。それでは」
探偵は助手席で居眠りしていた。鍵は。かかっていたはずだが。
「いねえよ」
いまから行こうと思っていたのに。
「医者を見張れ。ユサ、とかゆったか。あいつは医者に惚れてる。狙い目は帰宅時」
「ここで待ってろってことか」
「張り込みしてみてえんだろ。いいじゃねえか」
「何故いないと言い切れる?」
「見てきたから」
それで別行動だったわけか。成程。
「ここよりも家の前にいたほうが」
「医者見殺しにしてえんならな」
「来るのか」
「明日ゴミの日なんだろ。まあそうゆうことだな」
夕刻、日が落ちる。月が目立つ。探偵はほぼ居眠りをしていた。
彼女のことについて問い質そうにも、何を訊いていいかわからない。生きている。嬉しいのだろうか。殺人犯なのに。捕まえられるだろうか。その二択はあり得ない。捕まえるのだ。指が切り取られているということは、切り取られた人間がいるということ。阻止しなければ。
駐車場にそれらしき。医師。探偵を叩き起こす。時刻。夜勤でなくてよかった。
「静かにしろ」
別に声なんか。動きのことだったらしい。
エンジン。足音。聞こえない。車の中にいるのだから。耳から聞こえていない。頭の中から聞こえている。シルエット。外灯。
彼女だ。頭の中の映像かもしれない。
医師は振り返らない。見えていないのだ。私にしか見えていない。探偵は。
気づいていない。気づくはずがない。探偵にも見えていない。医師にも見えていない。彼女と眼が合った気になる。笑う。私は、笑わない。
ひさしぶりしんでなくてごめんね
彼女が持っているもの。
医師が持っているもの。
探偵が持っているもの。
共通点。
私は車から降りる。探偵に不審な顔をされたが止められはしなかった。医師が車の前で立ち止まる。キィを取り出して。乗り込もうと。彼女は。
うしろから。抱きつく。
銃口。
「何の真似だ」
「静かにしろっつったろ。えんで、早く行け」
うしろから。それは私の。
「張り込みっつったら変わりばんこに寝るもんだろ」
手を挙げる。両方の。
医師は動かない。彼女が。抱きついているから。
「ピンチのようですね」
「ええ、まあ、まったくです」
彼女が欲しいもの。欲しい欲しいとねだるもの。めぼしいと目を付けたもの。
わからない。私には何も。
「捕まえてよ、キリュウくん」
「後ろのでっかいのを退かして下さい」
「ちーろ」
「危ねえだろ」
「危ないかどうかはやってみないとわからない。それにいま一番危ないのはちーろの考えてることだから。そのちーろが持ってるものが一番危ないと思わない?」
探偵は舌打ちして銃口を下す。返す気はないようだ。
「ここではなんだから。ね、先生。お客さん呼んでいいかな」
「どうぞ。狭いところですが」
医師の車で医師の家に向かう。詳しい解説を期待していたが誰も口を利かない。
まったくわからない。何がわからないのかわからないという最悪の状況。
打開策は。
3
駄目だ駄目だこんなんじゃ。キリュウと一緒に捜査。協力するなんて冗談じゃない。俺はキリュウに捕まりたい。キリュウの敵にならなければならない。
もう、死んでるけど。
夢の中で会うよりマシ。あれは厭だ。ムイシキとか欲望とかが絡んで。強制自動映像に巻き込まれる。何も思い通りにならない割にすべてが思い通りなのだと分析される。
だから、死んでるんだって。
死んでる。
知ってる。それはもういい。
キリュウがいないから、特にすることもない。
寝て寝て寝て寝て朝なのか昼なのか夜なのか夕なのかわからなくなる。キリュウと会う前だ。会う前に戻った。キリュウと再会するだいぶ前の。
もやがかかってる。ボケた霧。きり。キリュウ。
いなくなったわけじゃない。ここに、いないだけで。
捜しにいったけど、見当たらないからのこのこ戻ってきた。手当たり次第捜した。わけでもない。もし、手当たり次第捜して見つからなかった場合。
案外に脆い。それも知ってる。
想像の余地を残しておきたい。まだあそことあすこに行ってないから、きっとそこらにいる。そう思いたい。そうすれば幾分か。
優れない。優れないからこうやってぐだぐだぐだぐだぐだ。いや、それは最初からだった。ニートで引きこもり。それは俺に付けられた。だれが。
誰が付けたんだったか。
つまらない。こんなにつまらなかっただろうか。起きている時間が短かったから気づかなかったのかもしれない。起きていても、寝ていても。
おなじ。だったら楽なほうを。
大学をやめたのは、単位が取れなかったからじゃない。キリュウはそう思っている。そう思ってくれていい。そう思わせるためにそうゆう素振りもした。だからそれでいい。大学なんかどうだっていい。学問も研究もどうだって。高校も中学も小学校ですらまともにいってない俺が、どうやったらまともなあんな空間に。
良く言えば、自首退学。悪く言えば、期限切れ。
ただ時期が来ただけ。やめるべきときが、キリュウが四年になった夏だっただけの。
ケーサツ。
耳に入った。聞き耳を立てていた俺が悪い。聞かなければよかった。どうしてその道を選ぶ。どうしてそんな。どこでもよかった。どこでも。そこ以外なら。それだけは厭だった。俺と同じ囲いに入ってこないでくれ。
朽ちてるんだ。もうこれ以上体重を支えきれない。転落落下したニンゲンはそのことに気づかない。打ち所が悪くても。首の骨を折って、腕が変な方向に曲がったとしても。上の上の上を見て、へらへらへらへら笑ってる。
俺はそれを知ってる。知っているから平気でいられる。でも、キリュウはそれを。知らない。知り得ない。まだそれを達するまでに達せれない。キリュウは優秀で頭がいいからすぐに上にいけるが、上にいる奴がそれをさせない。キリュウは人を押し退けてまで上に上ろうとはしない。上に行く代わりに、下で。下から変えようとする。
無理に決まってる。莫迦だろう。お前の上にどれだけのニンゲンがいると。
キリュウは、そんなことがしたかったのだろうか。ケーサツくらい無視したって。なぜケーサツにこだわる。キリュウならどこでだってトップに。ケーサツでなければいけない理由なんか。知らない。
聞いてなかった。聞くのを忘れてた。正義? それは知ってるが、たかだか正義の一つや二つに惹かれて。あり得ない。正義。死んだ親父の名前がマサヨシか?
いやいや、莫迦いってる場合じゃない。莫迦だ。莫迦は俺だ。
莫迦だろ、たいがい。
まさかそんな理由で? 完全否定するにはあまりにも。だってキリュウだ。莫迦な俺ならともかく、頭のいいキリュウが。単純なのか純粋なのか。
いくつだ。あんときは。俺も、大してかわらねえのに。タッパのせいでずいぶん上だと思われたな、ありゃ。たまたま気紛れで。また、これか。まあそっちのほうが最初だけと。放っておけばいいものを。気になった。目障りだからちょっと、からかってやっただけなのに。本気にしやがって。
それを差し引いたとしたら、何が残るだろう。残ったものが差し引いたものより大きかったら。大きいだろう。そんなことで大部分を占められたり根幹を形成されたり。されたくない。
キリュウは気づいていたのだろうか。莫迦だから気づいていない。そうゆう面倒なことはすっかり忘れて決意だけ憶えている。それがキリュウだ。そうだった。
図書館で本を読むふりをしていた俺の手元の本のタイトルを探るために。ただそれだけのために、俺の椅子の下にわざとボールペンを転がした。
悪いが、拾ってくれ。拾うか莫迦。てめえで。
拾え。
「何が可笑しい」
「なんも」
いけないいけない。張り込み中だった。
「寝てていいぞ」
「お前にそれをいわれたらお仕舞いだ」
とはいいつつも相当疲れている。もう一ヶ月。なにか音か沙汰があれば疲れも吹っ飛んでくれるだろうが。キリュウはメガネを外して眼を押さえる。
「見当違いじゃないか」
指事件の被疑者を匿っている。
「俺が言ってる」
「そうじゃない。お前が言ってることは正しい。そうじゃないんだ。そうじゃなくて」
何が言いたい。表情がわからない。
「脅されて、匿ってるってのがお前の言い分だろ。脅されてるように見えるか」
「見たことない」
溜息。
「だからお前だけに見張らせられないんだ」
医者が建物から出てきて大あくび。いい気なものだ。手招き。俺じゃない。医者はキリュウに身辺警護を頼んでいる。個人的に。
「寝るなよ」
「努力義務」
えんでは医者を好いている。医者はえんでを好いていない。
殺される。殺されない。手に入れる。
そうゆう構図じゃないのか。
キリュウの目つきが変わる。なんだ。なにか、余計なこと吹き込まれたか。
「今日だ」
「なにが」
医者が妙な顔をして。ああ、そうだった。あの顔は笑っている。一週間は忘れられないくらいあくの強い。
「嫌われてるのか」
「俺が嫌ってる」
立ち会わせようとでも思ったのだろう。ご免だ。そうゆうのは、ケーサツの仕事。俺は探偵ということになってるから。しかもチェアズディテクティヴ。情報収集はワトソンにやらせる。キリュウはワトソンにしておくには惜しいが。
キリュウが医者から聞いた話をまとめると、今日。えんでが会いに来るらしい。二十二時。医者の家。強行デートだろ。どう考えても。
「で、野暮にも隣の部屋で張れと」
「そうは言ってない。玄関で」
御用。
「礼状は?」
「現行犯だな」
「なんの? 不法侵入?ストーカ?」
キリュウが沈黙する。やっぱりアタマ働いてなかったか。
「ちょうどいいや、時間まで寝ろよ」
「信用できない」
「んじゃあ医者の家の前に車駐めてそこで寝ろ。それなら」
「間に合わなかったらどうする」
「間に合わせる」
「お前が起きててか?」
起きていられるのか。起きていられるわけがない。無理だ。キリュウはそうゆう顔で。
突っ伏す。
ステアリング。
動かない。呼んでもつついても。
安心して急激に眠気がきたのだろう。見栄張るから。張り込みだけで充分張ってるんだから他のもんは張るな。
きょう。なんで今日? 今日でなければいけない理由。今日のほうがいい、くらいだったらえんでは来ない。今日。今日。なんだ。思い出せ。日付、年号。西暦。
医者の個人情報。医者に聞いてまとめたから医者が嘘を吐いていたらまったくもって役に立たない書類。誕生日。ちがう。結婚記念日。知らない。結婚は学生のときすでに。離婚。したんだったか。離婚。りこん?
病院で医者をつかまえる方法。簡単だ。診察室。
いない。ついさっきまで。戻ったんじゃないのか。戻った。どこに。
ナースに問い質す。先生なら先ほど。
やられた。
離婚。医者は今日離婚する。離婚届を。
妻の名前。住所。職業。ぜんぶ。
虚偽。
忘れてた。あの医者は嘘つきだった。
役所にはもういない。あんなところに長居しない。
今日の二十二時に。ということは、今日の二十二時までは放っておいてほしい。ということだろうか。邪魔をするな。その時間までは安心だから。
キリュウの寝息がうるさくて集中できない。何週間寝てなかったんだこいつは。
寝てる。んじゃあ起きてからでも。
起きてから考えるか。
4
両腕を後ろに回して、椅子の背もたれに。手錠だろうか。厭な感触。足首もほぼ同じ。動くことは出来る。ただ、椅子と運命共同体。椅子は自らの意志で動けない。座った姿勢で彼女を見るか、床に這い蹲って彼女を見上げるか。
「こんなことしなくても逃げませんし、捕まえられません。現時点では」
「邪魔されたくないんだよ。キリュウくんは僕を止める。そのためにのこのこ付いてきたんだと思うけど」
真正面のソファ。医師の隣に。
「もっとお客さんにおもてなししたほうがよかったかな」
「ええ、どうぞご自由に」
医師は私より待遇がいいが、距離が近い分苦労だ。彼女の意に反しないように必死で演技している。必死。そうには見えない。慣れている。どうすれば彼女に殺されないか。どうすれば生き延びられるか。
答えは明白。私を見殺しにすればいいだけの。
「夜食でも作りましょうかね」
「うーん、どうしようかな。キリュウくん、何か食べたい?」
さも最後の食事みたいな訊き方をしないでくれ。
「返事によっては朝ごはんも作ってもらえるかもよ」
「なぜ指を切り取る?」
医師がキッチンに立つ。リビングとは一続き。私が拘束されているこの椅子はそもそもダイニングにあったものだ。角度的に、湯気が出ているか出ていないかくらいしかわからない。メニュも材料も調理法も。
「敬語は? 仲良くなった気でいる? それでもいいよ。そうだね、なんでだろうね」
考えないでやったとでも。
「キリュウくんは、息をするのに意識する? 心臓動かしたり、食べ物を消化したり。そうゆう解釈の仕方もある」
「違うのか」
「理由は一つじゃないよ。それに僕は因果論が大嫌い。原因と結果。仮説と検証。動機が知りたいの?」
医師が嫌いなものはあるか、と尋ねる。ない。あると答えたらそれをメインにした料理を出されそうだった。
「先生の料理すっごく美味しいんだよ。遠慮しないで」
食べたくない。
「ちーろが帰ってくるまでにできるといいね」
帰ってくるのだろうか。ここに。私をこうやって拘束したのはほかでもない探偵だ。そのあと部屋を出て行ったきり。彼女とアイコンタクトがあったかもしれないが見ていなかった。現状を整理するのに必死で。必死。そうか。必死なのは私だけ。
「動機を探るのに手掛かりがほしいんじゃない? なんでも質問して」
「名前は」
「えんで」
「名字は」
「ユサ、て言いたいところだけど内縁だから。エイヘンえんで。知ってること訊かないでよ。脳に糖分いってないんじゃないの?」
彼女は口に何かを含んで私の前に。屈む。
「口開けて」
首を振る。
「開けてよ」
おそらく飴だとは思うが。口移しが厭なんじゃない。毒が入っているかもしれない。私だったらそうする。苦しいけど椅子と一心同体だからのた打ち回れない。じわじわ効いてくるタイプの。
「僕が食べてるんだから毒は入ってないと思うな」
顔を背ける。彼女の足が見える。
顎。
「アタマの働いてない朦朧としたキリュウくんと話したくない」
生ぬるい。ブドウ糖がこんなに不味いものだとは。苦い渋い味は拒絶するようにできているが甘いものは。栄養。摂り込むようにできて。
彼女の輪郭が見えたところで吐き出す。
転がって。音がしない。服に張り付いたかもしれない。
「果物なら食べる? 桃とか。先生、剥いてよ」
ガラスの容器に。楊枝。彼女が一口食べる。食べかけ。
「あーんして」
私から死角の位置で剥いたのだから。
「強情だなあ。知らないよ。頓珍漢なことゆって僕の機嫌損ねても」
トマトのにおいが。実は私はトマトがそれほど好きではない。なぜ知っている。偶然? 彼女に言ったことがあったか。まさか憶えて。
「質問が途中だよ」
彼女ではない。もう、彼女ではないのだ、最初からそもそも彼女じゃなかった。
「知り合ったのは?」
「馴れ初めってこと? いい質問してくれるね。並みの取調べじゃないよ。だいぶ前、日本で」
「もっと具体的に」
「子どもの頃、本州で」
「ふざけないでほしい」
桃。下唇に押し付けられる。
「食べたら?」
トマトのにおいが鼻につく。気持ちが悪い。気分は最悪。俺の背景は完璧に知られているとみていい。探偵のタレこみ。でなくとも、俺のことなんか。俺がべらべら喋った。彼女が何も語ってくれなかったから。俺が喋ればきっと。そうゆう甘い期待で。
果汁。顎を伝って。
「染みになるよ」
睨む。桃は彼女の口に。
「ちーろとの出会いと一緒。もうちょっとロマンティックだったけど。先生、憶えてる? 僕がベッドに縛られてて、先生は暇だからうろうろしてて。僕を見つけてくれた。先生は暇だったんだ。運がいいことに僕も暇。そこにいたニンゲンは僕と先生だけ。好きにならなくて誰を好きになるの?」
医師が彼女と視線を合わせる。絶妙なタイミングだった。彼女が医師を見ようと眼球を動かしたそのときに、医師も振り向いた。トマトのにおいが一層強くなる。
「ちーろに聞いた? 名前がいくつも、て話」
六つ。だけどときどき内容が変わる。
「ハリってゆうんだけど、ちーろが好いててね。ピアノが上手かった。僕よりもずっと。僕が弾こうとするといつもしゃしゃり出てきてピアノを横取りするんだ。でもそのくせちーろの前ではいい子ちゃんぶる。我慢できなくてさ。あいつがピアノ弾いてるときに、いまのキリュウくんみたいにして、火つけてやった」
絶対に、トマトを煮ている。
「だいぶ火が大きくなったところでちーろが慌てて走ってきて。ハリは?てきくから、あっち、て指さした。そしたらちーろ、炎の中に飛び込んだんだ。莫迦だよね。そんで大火傷。莫迦だよ。入院になっちゃって。建物は燃えちゃったから僕だけ一足先に引越し。新しいところは厭な奴ばっかだったな」
トマトを煮る料理。ミートソース。ポトフ。ミネストローネ。
「聴いてる?」
「そこで、六つか」
「ぜんぶが僕をいじめたよ。ちーろが退院すると、ちーろも一緒に。莫迦だよね。僕を庇うからまとめて標的になる。でもちーろが助けたかったのは僕じゃない。ハリだよ。僕を助けることでいい顔したかったんだ。もう死んでるのに。死んでないとかいう。認めたくないんだろうね。自分が助けられなかったから」
「いまは」
「数えてみれば」
料理が完成したらしい。盛り付けを手伝う、と彼女が死角に。
全然解せない。わからない。トマト料理なんか食べさせられたくない。毒入りの。トマトがすでに毒なのに二重に毒を盛られる。頭が働く部類ならまだいいが。筋弛緩も困る。身体依存精神依存。そんなレベルではない。死ぬこともできない。
厭なにおい。厭な色。湯気で視界が曇る。
「自分で食べる? 僕が食べさせる?」
「食べなかったらどうなる」
「手に入れてゴミに出す」
人質。しかも本人は人質という自覚がない。あるのかもしれないが、一般市民を見殺しにするとは思ってない。やっぱり私はここで死ぬべきなのか。
探偵。何をしている。なにを。
「邪魔だからいなくなってもらった」
違う。
「見てなかった?」
ちがう。
「そこからだと死角なのかな」
皿は床の上。あかい。やけに赤い。トマトだから当然だが。トマト。こんなにどす黒い色だっただろうか。
違うのだ。死んでなんか。
しんでる?
だれが。
俺は死んでない。
彼女も死んでいない。
医師も死んでいない。
だとしたら。
「先生、僕のこと好き?」
「ええ、もちろん」
死角。
「どのくらい好き?」
「そうですね。かなり」
「かなりって? どのくらい?」
死角。
「数字で言いましょうかね」
「やだよ。わかりづらい」
「困りましたねえ。数字以上にわかりやすい指標はないと思ったのですが」
「あのときの約束憶えてる?」
「忘れるわけがないでしょう」
自覚。
「僕を患者にしてください」
「厭です」
視覚。
ソファの影。赤黒い液体で床が。トマトをぶちまけたにしては。
なにかが、
たおれる
死角で起こっていることだから、私には感知し得ないが。どう考えても彼女のほうに分がある。とするなら、医師。
気絶したほうがいいかもしれない。痛みで殴り起こされたとしても。
悲鳴。
嗚咽。
絶叫。
そのいずれもなかった。私の耳が聞こえないふりをしてくれたのかもしれない。足音。料理の皿が視界に。ぼちゃん。固形の物質を何か。
混入。なにも私の眼の前で。
「冷めちゃったから火を入れてくるね」
トマトと指の煮物。
食べたくない。
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