第3話 水まで水いと
第3章 ミナまでスイいと
1
欠番かと思ったが、おそらく消された。消えることを望む何者かによって。
何故消す必要がある。何か不都合な事件だったのだろうか。誰にとって不都合。上にいる奴ら。私に見られたくなかった、わけではないとは思うが。買いかぶりすぎか。
ドアをどんどん叩く音。返事したら勢いよく誰かが。元同僚。もと。いまは。
「おい」
屈辱以外のなんなのだろう。いじめ。嫌がらせ。怨み妬みやっかみ。顎で使う快感。だから崩れ去る。追求すべきは上からの眼線ではなく、上からの展望。
問答無用で雑用を押し付けられる。さっきだってデータ整理。冗談じゃない。私の仕事と何の関連性が。
「接待だ」
主語は。
「なんだその顔は。お客さまが来てるといっているんだ。退屈されないよう持て成してさしあげろ」
「誰が来ているんでしょうか」
返答なし。無視。
成程。こいつは右から左、上から下に私に押し付けただけ。来賓の正体など知らない。知るつもりもない。それは部下の私の仕事にしたのだからあとは問題さえ起こらなければどうなろうと。問題。起こしてもいいだろうか。
扉からして扱いの格差を。廊下に絨毯が敷いてある。元同僚は小さく咳払いすると態度をひっくり返して腰が低くなった。部屋内にいる人間はまだ見えない。本当は自分が相手すべきだったのだが本当に心から相手したかったのだが自分の管理職という立場上どうしても抜けられない監督義務の仕事が云々。そのような事態はあり得ない。要するに、面倒ごとに関わりたくなかっただけ。もしくは私を使ってみたかったか。
すぐに追い抜いて真っ先に飛ばしてやろう。首から上を。
背中を押されてドアを閉められた。こうゆうときの行動だけは迅速。自己紹介をしようと思ったが、気のない欠伸が眼に入って、タイミングを逸した。
「よう、ぜーきん泥棒」
身長二メートルはあろうかという大男。だがあくまで縦に長いだけで、適度に筋肉もある。服装もラフすぎる。ネクタイなんか概念すら知らないような。これがお客さまとやらなのだろうか。担がれたか。畜生。
男が吹き出す。私の顔をじろじろ見て変わってねえなあ、と云って身を乗り出す。変わってない。何が。
「せっかく指名してやったってのに。接待なんだろ? せいぜい退屈しねえように心からのサービスしてみろよ」
よく見ずともわかった。シルエットがそのままだ。
なんで。
「なんでって顔すんなよ。俺だって来たかなかった。電話つながりゃこんなとこ」
「どうゆうことだ?」
「どーもこーもねんだよ。迷惑してんのはこっちだっつーの。ケーサツってのは電話もまともに受けられねえのか」
意味がわからない。なぜジンナイが、ここに来る必要が。しかも。
「どこをどうしたらそうゆう扱いになるんだ。お前が」
考えられるのは、血。関係者に、しかも相当の上層に。
「いいから呼んでこいよ。俺は探偵なんざ御免なんだ。日本国憲法にもあんだろ。職業選択の自由ってのが」
「探偵? お前が?」
「探偵じゃない。そーゆーふーに名乗った覚えなんざねえの」
私は気持ちを落ち着けるために座った。ジンナイの正面。やはりでかい。学生時代よりさらに伸びてると思う。異常に高い身長。思い当たる。
たぶん、合ってる。
「指名してもらったところ生憎だが、俺とは部署が違う。上から呼び出すならまだしも」
「へえ、まだ下にいんのかよ。入って何年経ったよ」
相変わらず、口の減らない。
「探偵を辞めたい。だからその交渉に来た。そうゆうことか」
「ついでに下で燻ってるって噂の惨めな某有名大学抱かれたい男四年連続ナンバワンを見物に」
その話は、しないでほしかった。私だって忘れていたのに。
「あれは」
「六法全書が経典のてめえは知らねえだろうがな、有効回答数が百超えてりゃな、充分信用に足るんだよ。その点は調査者が賢かったってことだな」
確かにあれはサークルの奴らが勝手に調査したことだが、結果も調査自体も大々的に行なわれたわけではない。あくまで弱小サークルのほんの暇潰しにすぎない程度の。
「やけに詳しいじゃないか」
「親切だったぜ。てめえんとこの」
誑かしたのか。
「心配すんなって。手なんか出してねぇよ。第一こっちにも選ぶ権利ってのが」
「誑かしたんだな。誰だ」
「んなのいちいち憶えてねえよ。見分けつかねえし」
最低な奴だ。俺をからかいに来たのが本来の目的だろう。
「なに? てめえの意中の女がいたっての?」
席を立ったらテーブルを蹴られた。脚癖も悪い。
「心に当たったんだろ。呼んでこいよ」
「自分で行け」
部署が違うから訊きづらいが、こいつの名前を出せば印籠になるだろう。なにせファミリィネームが同じ。内線でいいか。そもそも番号を知らない。
ジンナイ。名前だけ聞いたことがある。名前だけ。
「呼び捨てでいいぞ。できんならな」
うるさい。せっかく訊いてやっているというのに。とうとう無駄に長い脚をテーブルにのせてしまった。両方。
「いまはまずいんだ」
「実は」
息子。甥。親族。おそらく、年齢を加味するに。
「そ、それもまずいな。しかし会議中」
「では終わりましたらお伝え下さい」
放蕩息子がお見えです。
「息子じゃねえぞ」
「嘘を吐くな」
「ウソじゃねえよ。血ィつながってねえし」
離婚。再婚。連れ子。
「はーずれ」
「養子か」
「まあ、んなとこ」
初耳。顔を比べようにも見たことがない。声を比べようにも聞いたことがない。雰囲気を比べようにも遠すぎて。
「んで? 四年連続抱かれたい男のナンバワンのエリートくんはい、ま、だ、に、ドーテイくんなのかな。おおかた彼女も」
「うるさい。彼女くらい」
どうも調子が狂う。うっかり口を滑らせた。もう遅い。そこまで言えば誰だって。ジンナイがにやにや笑いを浮かべて脚を組み直す。相も変わらずテーブルの上で。
「はーん。ヤらせてもらえねえのか。かーいそーになあ」
もう少しで、てところまでは行ったのだ。でもそのようなときに限って彼女は生理。危険日。断られたらそれ以上求めるわけにいかない。もうそんなんばっか。
「愛だ恋だってこだわってっからいつまで経ってもドーテーくんなんじゃねの? なんなら連れてってやろうか。四年連続抱かれたい男ナンバワンのくせにドーテーくんの」
「黙れ」
不快極まりない。これなら元同僚のほうが扱いやすい。あいつらは私のことなど何も知らない。だがジンナイは、何故だか、私のことを知っている。私はジンナイのことをほとんど知らない。血のつながらない養父が上層部にいることだっていまさっき。
「付き合ってどんくらい?」
「云う必要はないな」
「三ヶ月」
何故わかる。
「ちょーど倦怠期だな。そろそろ厭きてくる頃だ。厭きられてねえといーな」
まったく、私が良識ある人間でよかったと思え。そうでなければ、適当に罪をでっち上げて逮捕していたところだ。親が偉かろうが関係ない。
「捕まえてもいーぜ」
また見透かされた。ジンナイはテーブルから脚を下ろして椅子を立つ。両手を差し出した。なんのつもりだ。冗談。からかい。
「俺、ヒト殺しなんだよ」
「下ら」
「ねえかどーかは、話聞いてからでも遅くねえと思うよ」
急に素直になって、騙そうとしたってそうはいかない。最重要人物だろうが、ここにいるのがジンナイなのだから放っといたってどうということはない。データ整理のほうがまだ有益だ。削除されたデータも気になることだし。
「なんだよ。接待が仕事だろ」
そのままドアノブを回す。ポケットが振るえている。勝手に振るえるわけがないから、ケータイ。誰だろう。廊下に出る。ジンナイに聞かれると再度からかわれるのが落ちだ。
彼女だった。何故。仕事中はかけてこないはず。私の変則的な職種を知らないわけではあるまい。だいたい向こうにも仕事が。これが初めての着信ではなかった。立て続けに。メールも何通か。
「もしもし?」
聞こえない。
「もしもし? どうしたんですか?」
私のほうが年下なのでなんとなく敬語を使ってしまう。いつか直せるだろうか。
「く、ん。ュウ、くん」
ノイズが酷い。窓を開けたが大差ない。ジンナイが出てきてしまった。背を向けても意味がない。奴のほうが無駄に背が高い。
「どうしたんですか? なにか」
あったのだ。だから私に助けを求めてきた。まったく、何故気づかなかった。ジンナイのせいだ。そちらに気を取られて。
「もしも」
切れた。向こうから、ではない。ジンナイが私のケータイを。
「彼女か」
「いまそれどころじゃ」
「彼女なんだろ」
手を伸ばそうがジャンプしようが敵わない。何故奴は私の邪魔ばかりする。
「彼女か、て訊いてんだよ。それだけ答えりゃ」
「いいから返せ」
思いっきり睨んだら一瞬怯んだ。その隙に取り戻す。でもすでに。
「切ったのか」
ジンナイが切って。
「切ったんだな」
「んだよ、こっちから掛けりゃいいだけの」
つながらない。電波の届かない云々。最悪の状況しか浮かばない。ケータイが壊されたのだ。ケータイが壊されたということは。
力が、入らない。脱力している場合ではない。わかっている。そんなこと。でも想像が行動の邪魔をする。何故、あらゆるものが私の邪魔をする。私がしていることが間違っているというのか。そんなはずはない。私は正義のために。
ジンナイの口が、動く。
わからない。意味が。
「んじゃあ今日、どこに行ったかわかるか」
どこって、仕事しか。世間は夏休みでも職場。地理までは。
「借りるぞ」
どうせつながらない。つながらないということは、もう彼女は。
私のせいだ。
「車出せ」
どこに。どこに行くと。
「わかったんだよ。場所」
「そんな」
わかるはず。わからない。私にわからないのに。
「とにかく車だ。ったくしっかりしやがれ。そんなんで国民の平和が守れるってのかよ。とんだ腰抜け」
「るさい。来い」
ついこの間交換したばかりのタイヤすり減らして、ほぼブレーキなしで到着した先が動物園。担がれたかと思ったが、車が完全に止まらないうちに奴は一目散に駆けていった。何故わかる。何故。疑問はあとだ。とにかく行かないと、彼女は。
どうか無事で。お騒がせでも構わないから。尋問も連行もしないから。
広い園内な上行楽者で賑わっていたが、ジンナイは目立つ。初めて役に立った。どこにいようが絶対に見失わない。コンパスの差もなんとか誤差範囲。足は私のほうが早いかもしれない。伊達に中高大と陸上に入れ込んでない。
コーナを曲がって突然止まる。ぶつかってはいない。距離が幾分か。
「おい、キリュウ」
指さした先に、芝生。花壇。花の中に。
きこえない。ききたくない。やめろ。何も云うな。ジンナイ。だからお前は余計なことをしないで。
しんでるおまえのこいびとが。
あまりにむごい。見れない。見えない。赤が焼きついて。赤い。赤い液体は一つしかない。何故一つしかない。他にもあるはず。赤い花びらが絨毯のように。
あり得ない。真夏にそんな花は咲かない。
涙も出やしない。
「ぼっとしてねえで応援だろ。こりゃ救急車は」
何もできない。なにもできなかった。彼女は私に助けを求めてくれていたのに。すべてを無視して私はのうのうと。
首が苦しい。ようやく、ショックが身体に。
「いつまでも腑抜けてんじゃねえぞ。応援だけじゃねえ。もしかしたらまだ近くに」
犯人。だれだ。でてこいいますぐ。
ころして。
「キリュウ」
首が苦しいのは、なんのことはない、ジンナイが私のネクタイを。
「いまお前がしなきゃならんことはここでほーけてっことじゃねえだろ。なんのためにケーサツになったんだ。俺を捕まえるためじゃねえだろ」
何故。ジンナイを捕まえなければ。
そうだった。私は、こんなところで。
「誰にも触らせるな。それは」
俺が、捕まえる。
「こっちはいいから、お前は」
「頼む」
彼女のケータイは、彼女の傍らで潰れていた。滅茶苦茶に。そして彼女も。
あれでは、人間では。
応援はすぐに来た。物々しいサイレン。真夏の行楽が台無しだ。私の管轄だが本来私の仕事ではない。でも第一発見者ならば別。最前線で介入できる。
「どこだ」
「こちらです」
現場にジンナイの背中。その陰に、彼女が。
「どこだ」
いない。
「ここです」
「ここと言われてもな」
何故。間違えた? いや、ここだ。確かにここなのだ。コーナも芝生も花壇も。花も。何もかも先ほどのままなのに、彼女だけがいない。そんなはず。
「どうゆうことだ。まさか狂言じゃ」
「違います。私は確かに」
思わずジンナイを見る。首を、振るな。
「ここで見てたんだろ? お前も何か」
「消えた」
「消えたわけないだろ。だってお前ずっとここに」
ジンナイが頭を下げる。何故。そんな、こと、したら。
「悪い。眼、離したら」
離したのか。この状況で。
「事情はわかりませんがどうかお顔を。ジンナイさまにそのようなことされますと」
やはり本家上司は違う。放蕩息子の顔も滞りなく。
「ガキがちょろちょろしてやがって、そいつ追っ払ってたら」
「そんなの言い訳に」
だが血は、血は残って。
「あのお、本当に、ここでしょうか」
「ここじゃなければどこだと」
地面と私の顔を交互に見て、最後に申し訳程度にジンナイの顔を。
「そのような形跡は」
嘘だ。節穴にもほどがある。ならば私が見て。
ない。
なにも。そんな。なぜ。
「ジンナイさまもご覧になったんですよね」
どの口でそんなこと。お前らは私の眼が信じられないと。
「あぁ? 俺がウソこいてるってか?」
「いいえそのようなこと、滅相も」
ない。なぜ、ない。確かに私はここに彼女が、赤い血が、赤い。
ジンナイのおかげで鑑識も念入りに調べているようだったが、本当に何も出なかった。私は幻影でも見ていたのだろうか。蜃気楼の類の。見つかったのは、彼女のケータイのみ。彼女も、彼女から流れた血液も、根こそぎ消えてなくなってしまった。わけがわからない。わからない。わから。
「悪かったな」
「いい。お前のせいじゃない」
全員撤収。ジンナイのせいだ。私のせいでもある。
「通り魔にしちゃやりすぎだな。怨恨にしちゃイカれてやがる」
「心当たりなんかないぞ」
あるわけない。あったらとっくに、殺しに。
「お前には酷かもしんねえが、ありゃ、性犯罪だ」
せい、は。
「何故そう言い切れる」
「前に、見たことあんだよ。おんなじ」
「前?」
「高校んときだったかな。もちろん殺され方は違ェ。でもあれは」
同じ、だと。
「どんな」
それを聞いて、私は彼女の敵討ちを諦めた。復讐は犯罪だと身に染みてわかっていたつもりだったが、それでも私はこの男を、ジンナイちひろを殺したくて殺したくて殺したくて仕方なくなった。
いまでも後悔している。何故私はあのとき応接室で差し出された両腕を、迷わず手錠につないでおかなかったのか。そればかり考えてしまう。
彼女は戻ってこない。当たり前のこと。彼女は、彼女ではなかった。私だけが舞い上がっていた。たったそれだけの。
2
ハリも死んだ。キリュウも死んだ。
俺が殺した。
じらふは観賞に疲れたのか、すやすや眠っている。自分でごわごわに斬り刻んだ畳の上で。痛くないのだろうか。半袖で、脚もあんなに。
生き残ったのは、俺とじらふ。じらふは俺を殺したくて殺したくて殺したくてひたすら待っている。
おにーさん、死ぬ?
それにイエスと答えれば、すぐにでも死ねる。でも俺はまだ死にたくない。死ねない。俺が死んだらキリュウも死んでしまう。キリュウは俺が生きている限り死ぬことはない。でも俺が死んだら、死んでしまう。それが厭だ。それだけが心残り。
顔色悪いよ。大丈夫?
「大丈夫じゃねえっつったら見舞い来てくれんの?」
それはだーめ。僕はいま幸せの絶頂にいるんだから。邪魔しないでよ。
「そりゃ悪かった」
確か精神科医と同居してるんだった。妊娠。ガキは産まれたんだろうか。産まれてないか。産まれないだろうな。産まれなきゃいいのに。
ニンゲンなんか、これ以上殖えても。
なあ、キリュウ。早く戻ってきてくれよ。午前中から俺の家に不法侵入して、勝手に持ち込んだコーヒーメイカで一服して、俺の布団を引っぺがしてけよ。俺の監視係はお前しかいないんだから。代わりに来た奴らなんか門前払いで追い返したのに。四人も。四人も来やがって。
どうすれば捕まえにきてくれる? だから探偵は厭だ。探偵はケーサツに協力しなければいけない。そんなのまっぴら。キリュウがケーサツになると知ったときは、気が狂うくらい嬉しかった。沈黙厳守の図書館で雄叫びを上げそうになった。
だから早く出世して、俺を単独で捕まえられるくらいに成長してくれ。そのためならなんでもする。厭な探偵の役も演じるし、殺人事件も起こす。死体にびびって腰抜かしたら、ぶん殴ってでも連れて行く。アタマ真っ白になって何するのかわからなくなったら、俺に訊けばいい。俺は慣れてる。昔から、そうゆうケーサツのごたごたの近くにいた。
キリュウに捕まることだけ考えて、いままで過ごしてきたのに。なんだよ。監視係外されたくらいで、ぽっと会いに来なくなりやがって。所詮、仕事上の付き合いでしかない。俺の監視係ってゆう辞令が下ってなかったら、キリュウは俺のことなんか。
だったら会いに行けば?
「なんて云って。だいたいどのツラ提げてのこのこ」
正直に云えばいいんじゃないかな。会いに来たよ、て。
「アホか」
アホかもね。でも僕だけ幸せになるのは忍びないよ。きみも。
「気ィ遣わなくていいや。お前はいままで散々だったんだから、やっと思い通りになったそいつを謳歌しねえと。病院だってもう行かなくていいんだろ」
うん。先生がここにいるからね。
「まさか、その先生がいたからじゃねえだろうな」
先生そんなに老けてませーん。まだ若いよ。僕らより三つ上なだけ。
「へえ、んじゃ計算合わねえな。やっぱ閉じ込められてたわけか」
頻繁に逃げ出してたから、閉じ込められてたとは言い難いね。
「やな患者」
やな生徒。
「ありがと」
なあに、急に。
「ちょっと元気出た。お前のおかげで」
それはよかった。またなんかあったら遠慮なく。
「邪魔してやるよ。ヤってるときとかな」
お生憎さま。妊娠中だからできないよ。
「いつ、産まれるんだ」
先生次第だね。なかなかお父さんになる勇気が出なくって。
「仕事忙しいってか」
ううん、浮気。僕と結婚したってのに、前の奥さんと会ってるんだよ。酷いよね。
「そっか」
そうなの。困るよね。愛人だって仕事場に何人も。
ころせばいい。
「そうもいかないよ。僕は極めて善人な一般大衆に紛れてるんだからさ」
そうか。殺せばいいんだ。
なにも探偵である必要はない。すでに俺は探偵の役を降りてた。そうだそうだ。俺はもう探偵じゃない。探偵じゃないんだ。
犯人に、戻れば。
気持ちよさそうに眠ってるじらふの首を掻っ斬れば。じらふが肌身離さず握ってる日本刀をちょこっと拝借して心臓に突き立てれば。
「おにーさん、死ぬ?」
「死ぬのはお前だよ。じらふ」
「僕、死なない。死ぬの、僕ちがう」
首を振ったって、いますぐその首振れなくしてやる。
「お前が死ねば、キリュウは戻ってくる。殺人事件が起これば、キリュウは俺の元に飛んでくる。探偵は助言と推理を披露する。そうだろ? そうなんだ。いま気づいたよ」
ありがとう。ハリだったおんな。
「死ねよ」
「僕、死なない」
心臓を動かしたって、いますぐその心臓。
「しなない」
「死ねって言ってんだろ」
日本刀。駄目だ。奴の手の内。そいつは奴のオモチャ。奴の思い通りに。
「おにーさん、僕嫌い?」
「キライ? 何言ってんだ? 嫌いとか好きとかそうゆう話なんざしてねえんだよ。いまお前がしにゃいかんのは、そいつで死ねってことだ」
奪えない。俺のほうが断然リーチが。
素早さ。
「嫌い?」
「少なくとも好きじゃねえな」
「おにーさん、好き、死んだ。僕、殺した。それでも嫌い?」
「キリュウは死んでねえよ」
死んでない。死ぬはずがない。いまも本部でイライラしながらステアリングをこんこんこんこん。俺には聴こえる。俺にだけ聴こえる。お前には聞かせない。
そいつが奪えないならほかの。包丁。台所の戸棚に。
「ない。僕、嫌い」
なかった。そんなはず。確かに包丁はシンクの下の。
「お前が捨てたんだな」
「おにーさん、僕好き?」
「好きじゃねえっつてんだろ」
飛びかかったら危ない。だからしない。わざわざ死ににいくような。
「好き、ない」
じらふはぶつぶつ呟きながら、ゆっくり鞘を抜く。銀色の刃先。キリュウのメガネのフレームの色。同じ。きらりと光る。
刃先が、俺に向かう。
「おにーさん、死ぬ?」
「シなねえよ」
「死ぬ?」
「お前が死ね」
じらふが日本刀を武器にするなら、俺は呪いをかける。死ね死ね死ね。死んで俺の役に立て。いままで面倒看てきてやったじゃないか。何十年も前から、ニンゲンを与え、殺させ、快楽を得てきたじゃないか。いったい誰のおかげで*液放ってきたと。
襲いかかってこない。できるわけがない。俺を殺したら人を殺せなくなる。俺を最後に誰も殺せなくなる。簡単だ。キリュウが捕まえるから。お前なんかキリュウにかかれば。
キリュウは、お前を捕まえる? 俺を捕まえずに?
それは駄目だ。許されない。俺が許さない。キリュウに捕まるのは俺だ。俺を捕まえずに誰を捕まえる。ない、ないないないないない。キリュウは俺を捕まえる。ただそれだけのためにケーサツなんかに。無能の集まりに組して。無能どもに染められて。
だから、来なくなったのか。無能どもが、俺のキリュウを奪った。
無能があの人が俺の。
「じらふ。喜べ。俺ひとり殺すよりもっともっと大量に愉しいことできるぞ」
「だれ、死ぬ?」
連れてってやるよ。無能の巣窟へ。喚け泣き叫べ無能ども。なんて啼くのか聴いててやるから、文字にしやすい表記で。
たの、む
よ。
あれ。おかしいな。キリュウの声が聞こえない。キリュウ? どこ行って。いるんだろ。居留守使ってるんじゃねえぞ。俺しか訪ねてかねえんだから。俺が行かなけりゃお前はひとりだぞ。ひとりで何ができる? ケーサツは特に無能だから、ひとりじゃ何もできないことを棚に上げて束になってかかってくるのが。
キリュウ? きりゅう??
一本足りないじゃないか。ひいふうみいよう。いつ? 捜してこなければ。一本だけないなんて耐えられない。キリュウの身体は俺の。おれの。
お前が食ったのか。
出せ。吐き出せ。逆さ吊りにして、内蔵吐き出すまで。
「いいの?」
「一人も残すなよ。特に」
俺と同じ名前の奴は。
じらふが勇んで駆けていく。本部。正式名称は忘れた。なにせこれからなくなる。容ってるニンゲンいなくなれば、建物は洋ナシ。じゃなかった。用なし。
俺はキリュウを捜しに。電気的な箱から逃げ出すなんて、さすがキリュウ。まずは植物園。キリュウはそこを最期に俺以外に逢えてない。ゆびもきっとゆうえんち。
3
アポを取るまでもない。向こうが先手を打ってきた。名指しの呼び出し。血のつながらない養父だなんて嘘だろう。私の考えることなど先百年まで見えている。
左遷されて畑も同じになったことだし、ここで、直系上司といっても差し支えないところまで登り詰めてやる。おおかた島流しは厄介払いの一環。上層部と仲のいい組織に手を出した見せしめに、社会の道理を知らない新参者に痛い眼を。見てないが。
場所は最近オープンしたての遊園地。私を動揺させようとしている。生憎絶叫系は苦手ではない。万一乗れと命令されても笑顔で応じれる。おばけ屋敷は困るかもしれない。そう思っていた矢先にメールが届く。厭な予感しか当たらない。
おばけ屋敷というより廃病院だった。趣向が懲りすぎている。余計なことを。
「キリュウさまですね?」
わかっているくせに。サルの着ぐるみが喋ったのでちょっと吃驚したが、その後ろにいる何者かの声だったらしい。着ぐるみは喋らない。そうゆう決まりになっている。
入り口ですら冷気を感じる。設定温度が低すぎる。余計な。この奥に進むのはできるなら遠慮したい。私を会いに来させないための工夫なら充分に成功している。
「こちらです」
廃病院の裏に回る。よかった。肝試しは避けられそうだ。サルの着ぐるみの後ろにいる何者かの手が、スタッフオンリと書かれたドアを開ける。ぎいいいいと油の切れる音の演出は余計だ。
点滅。切れかけた蛍光灯くらい替えておいてほしかった。入ってすぐのところに暗幕が垂れ下がっており、部屋が区切られている。そこより先に行くな、ということだろう。用意されたパイプ椅子に腰掛ける。脚ががたがたする。ぎいぎい鳴るのはもういい。
「顔を見たいのなら拒まないよ」
暗幕の向こうから低い声。そこにいる。
「ここで結構です」
「気を遣わなくていい。顔なんて見せるためにあるものだから」
狙いがわからない。私の応対次第では面会時間が短縮されるということだろうか。それはまずい。しかし、何を言っても的外れのような気がする。
「見ておいたほうが後々役に立つこともあろう」
「出世、ということでしょうか」
「元気にやっているようだね」
起伏がないわけではないが、読み取るのに時間がかかる。意味を見出している間に次の話題に映ってしまう。話しづらい。探偵とは違う意味で。
「私のことですか」
「きみ以外に誰がいる。場所柄幽霊でもいるのかな」
冗談、か。冗談も言えるらしい。この手の場所が苦手なことは知っている。そんな口調だった。
「訊きたいのは」
「消されたデータです。あなたが消したんですね」
「あなたというのはやめてくれ。ジンナイだ。そう呼べばいい」
「お断りします。気軽に名前を呼び合える関係になれるとも思えません」
「哀しいな」
確かにジンナイだが、私にとってのジンナイは、探偵。あのぐうたら以外に想定できない。
「あのときの犯人は、あなたが逃がした。去年の事件も揉み消し、この事件もあなたがまさにいま消し去ろうと」
首に汗が。とても厭な感じが纏わりつく。首が苦しい。ネクタイしかないはずなのに、なにかほかのもので絞められているような。
しせん。
「楽にしていいよ。上着もネクタイも外して構わない。失礼には当たらないさ。私には見えていない」
嘘だ。私からは見えていなくても、向こうからは見えている。どこかにカメラが隠してあって、私の様子をリアルタイムで観賞しているに決まっている。だから厭な視線を感じるのだ。そうでなければ気のせいか、超常現象にするしか。
「気になるならそこからのぞいてみればいい。簡単だよ。手を伸ばしてその暗幕を少し持ち上げればいいだけのことだ。私が君を観察しているかどうか、私がどんな顔なのか」
「あなたは犯人と面識がある。そして庇っている」
「根拠がききたい」
「あなた以外にあり得ない」
「その根拠は」
いまここで私が殺される可能性。暗幕の向こうから銃で撃たれれば。もしくは扉の外で控えているサルの着ぐるみの後ろの何者かが部屋に。低く見積もって八割。高く見積もれば。
「根拠は」
計測不可能。
「あなたがジンナイちひろだから」
嗤え。笑え。私の下らない仮説を莫迦にして大声で。
ジンナイ。
暗幕がするすると落ちる。一番最初に顔が見える。首、肩、胸、腹、脚、足。腕と手と指と。奴は全裸だった。
笑え。
「まだ、根拠に乏しいな」
わかっている。鎌かけもいいところだ。ほぼ丸腰で敵陣に突入するなんて、用心深い私のすることではない。しかし、時間がない。ここで奴を止めないと。
しんで。
「私がジンナイちひろならなんだというのだ。息子と同じ名前だからなんだと」
「私が左遷された事件、憶えてますよね。憶えててもらわないと困るんです。おかげで私は出世の道がさらに遠ざかった。怨んでるんですよ。あなたを、ジンナイちひろを」
「ならば殺すか」
本当はそうしたい。殺して殺して殺して殺してやりたい。でもそれは私の正義に反する。法律が押し留めているわけではない。私の正義がその方法を却下している。
奴は真っ直ぐに私を見下ろす。厭な視線の正体はこれだった。奴は立ったまま、座った私と話をしていたのだ。暗幕越しに。
「お前になら殺されてもいいよ」
そう言って、奴は何かを差し出す。細長いずた袋。形状からして、日本刀。
これがたくさんの命を奪ったのだ。一人や二人じゃない。彼女も、これで。凶器を持ってるなんて、これ以上の証拠がどこにある。これは、これだけは。
しさつ。
払い除ける。床に、落ちる。凶器が。
「好みじゃないのかな」
「殺しません。死にたいのなら自分で死んでください」
笑う。
「キリュウならそうゆうと思った」
暗い。急に視界が。停電か。違う。布。
暗幕が私に。どけ、こんなものに捕まってる場合じゃ。
「次は銃くらい持って来いよ」
待て。行くな。自分で死ねなんて、誰が本気で。
破壊音。部屋の外。
暗幕の裾から一瞬、サルの着ぐるみの首が、落ちる。落ちたんじゃない。あれは最初から取れる仕組みで。
まさか、そこに。
遅かった。気づくといつも手遅れ。サルの着ぐるみの中にいたのだ。もうひとり。そいつが奴を。
いない。でももう遊園地にはいない気がする。遊園地にいないなら。
4
「莫迦なこと」
ゆうに事欠いてそれか。他にないのか。ほかに繰言は。
ギャラリィが多すぎる。キリュウだけに来て欲しかったのに。邪魔な。邪魔だな。万一俺とキリュウの視界を遮ろうもんなら。
しね。
倒れた。アタマが鈍い奴は倒れるのも鈍い。胸なんか押さえて。そこじゃない。斬ったのは、ここ。死にゃしない。殺すつもりもない。手当てが早けりゃ治る。
ゆび。
わかってくれキリュウ。人質なんか取りたくないんだ。そんな野蛮な立て篭もり犯みたいなこと。
「なにもこいつ巻き込むこたあねんだよ。人質交換だ」
俺の指名なら断れない。
「ぼさっとしてっとくっつかねえぜ?」
刃先で示す。落ちた指。血の痕。キリュウはこの上なく苦渋の顔つきで近づいてくる。そうそう。関係ない元同僚に死なれちゃ困るんだろ? いまは上司か。すぐ追い抜いてやれる。キリュウならできる。なにせ、俺を捕まえて二階級特進どころかいろいろ飛び越えて。そう遠くない未来の島流し候補を突き飛ばす。入れ違いでキリュウを。
「歩け」
そのまま本部の外に。キリュウの車。カーナビと無線とケータイぶっ壊して夜のドライブ。凶器突きつけるまでもない。
「いいのか」
キリュウは戻らない。そんな愚かなことは。殺人犯をみすみす見流すようなことは。手柄を横取りされたくない。
「の割には眼ェ血走ってんぜ? 捕まえる気満々だろうがよ」
「お前だったのか」
おかしすぎて笑えやしない。ホント、ゆうに事欠いて。
「前から云ってんだろ。探偵が犯人だって」
レンズの脇からキリュウの眼。前見ろ。ああそうだった。前見なくても運転できるのがキリュウの特技だった。しかも見事に道交法に則って。あり得ない。
「どこだ」
これもゆうに事欠いて。いつものルーティンワークじゃねえか。探偵の指定した場所で殺人事件が起こる。その座標を訊いている。
「ねえよ」
「真面目にやれ」
「デートだよ」
歪むと思ったのに、なんだその間抜けヅラ。意味がわからないでもあるまい。
「夜に二人で車乗って行くトコなんざ、ふたつしかねえだろうが」
「取調室と留置所か」
キリュウにしてはジョークが利いてる。面白かったから正解を教えない。そっちのほうがキリュウらしくていい。
赤信号。キリュウはしきりに胸ポケットを触っている。そこに、あるのか。
「ちゃんと持ってきたみてえだな」
銃。
「許可下ろさせるための理由が浮かばなかった」
「ウソ吐かなくてせーかいだぜ。顔に出んだよお前」
青信号。急に曲る。アクセルとステアリング。相変わらず前なんか見てない。横眼でずっと俺を睨んでる。銃使わなくても穴が空きそう。
うでに、金属。
手錠。
「心中希望か?」
「生きたままお前を連れてくためだ」
胸のは銃じゃなくてそいつだったか。ったく、いちいち機を逃す。
「死んじまったショックで首掻っ切るかもしれねえしな」
こんなもの、意味がないことくらいキリュウもわかっている。キリュウに先に逝かれると困るだけの話で、要は道連れで死んじまえばいいだけのこと。簡単だ。運転をミスさせればいい。言うのは簡単だが実際は。なにせ前を見なくても運転できる奴だから。交通事故で心中は諦めよう。
さすがキリュウ。ぴーぽーぴーぽ付いてくる覆面とパンダを撒いた。向こうのほうが交通事故かもしれない。ケーサツ官なら道交法くらい守れ。
「こーかいしてっだろ。俺を監禁しとかなかったこと」
「逃げたら捕まえればいい。そのために俺が見張ってた」
監視係として。ああ堪らない。キリュウのそんなドス利いた声を、こんな間近で聴けるなんて。じゃあ俺も誠意を見せよう。半分はどーじょー。
「ドーキとかききてえか」
残りはあいじょー。
「単に病気だろ。俺はそう聞いてる」
そんなわけ。
「あいつがんなことくっちゃべるわきゃねえだろ。ビョーキだあ? くっだらね。ビョーキで人殺してたってか」
なんだその眼。俺よりあいつを信じるのか。付き合いの長い俺よりあんな。
鎖。斬ってやろうか。
「もういいだろ」
「なにが?」
車を止めずに向きを変える。タイヤが鳴る。逆戻り。巻き戻し。
「茶番は終わりだ」
茶番?
「ガキのお守りするほど俺も暇じゃないんだ」
今度は、銃。まさか両方持ってたとは。
たまには、予想に反してくれる。
「ジンナイはどこやった?」
知らね。
「心当たりがあるだろう。云え」
だから、知らねっての。
「あいつが通ってた施設。そいつはどこだ」
さあな。
「云え」
銃口。日本刀と戦うつもりか。莫迦だろ。ばーか。
しんだら、こまるかな。ジンナイちひろは困るかな。
試そう。
「おにーさん、死ぬ?」
キリュウは首を振る。俺を睨んだまま、銃口を突きつけたまま、引き金に指をかけたまま、じっと。
「いい加減にするんだ」
つまんない。この人は。
「ごめんなさい」
かえろ。
ジンナイちひろを殺しに。
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