第2話 火える酸きゅう
第2章 クワえるサンきゅう
1
奴は来なかった。あのまま出勤されても殉職されるのが落ち。機転の利く上司に巡り会えたものだ。
代わりの監視係が派遣される前に出掛ける。奴以外なら、意味ない。親切なお達しのおかげで、本部に泊まらなくてよかっただけでも儲けもの。もう獣。檻なんか食い破って抜け出してやる。
原材料、権威二百パの大学病院。病棟が病棟なせいか、やけにガードが固い。逃げられないし入れない。閉じ込められた奴らが団結して頭働かせれば、なんとかなる。そこまでして外の世界は恋しくないのか。諦めたのか絶望したのか。
監視カメラ付き。音声までは拾っていまい。ナースステイションも、物騒な器具で溢れている。胴拘束だの両腕両脚ベッドに縛り付けるだの。狭い通路。格子は嵌ってなかったが、頑丈な二重扉がお出迎え。扉越しにしてもらった。病院側はだいぶ保守的。
「昨日ぶり」
向こうの声は充分届く。顔が視えなくてこちらも御の字。
「望んだろ」
「僕にも事情があってね。来てくれてうれしいよ」
すぐそこにいる。残像。
「昔の話したいけど、場所が悪いかな。きみの顔が観えない」
不穏なナースに従って病棟の外へ。外来の医療相談室とやらでいい加減なことを云われる。明日には退院できます。んなアホな。
翌日本当に、んなアホな展開になった。病院まで奴を引き取りに。その足で奴の新居とやらに連れて行かれる。充分歩ける距離。それが何を示しているのか、あらかた。
「先生と僕の愛の巣だよ」
「医者か」
「会わせてあげられなくてごめんね。先生、忙しくて」
「担当じゃねえんだな」
「さすがにパートナの主治医になんかなれないよ。でもここでは僕だけの先生だから」
新たな犠牲者。寄生主。お気の毒に。
「へえ、嫉妬してくれてる?」
「レプリカ」
自分の死体を。
創った。
「そ、ニセモノ。だからだあれも死んでなんかないよ」
ソファ。長引かせるつもりはないが、見下ろすのも疲れる。座る。奴は隣。白い手、触れる。奴がいないので、包帯。奴が解く。くるくる。空気。
「バレてるの?」
「バラした」
「一緒にお風呂入る関係ってことかな」
「のぞかれる。毎日な」
左手中指。あるつもりで、奴がしゃぶる。
「何してんだ」
「性行為」
「そうじゃねえ。どうやって生計」
指を差す。奥の部屋。白い、グランドピアノ。
「弾いてあげようか」
「センコー?」
「ひどいね。評判だったんだよ」
「だった?」
奴が服をたくし上げる。腹。
「産休」
「ウソっけ」
「ホントだよ。触ってみる?」
膨らんでない。膨らまない。
「キリュウは触ったよ」
嘘を抜かせ。
「先生とやらだろ」
「さあ。どっちも避妊してくれないから」
何をしに来たのか。ようやく思い出す。
「堕ろさないよ」
「ヤってねえよな」
「だれと?」
一本一本、唾液が滴る。痛み。痒み。左手薬指に、歯形。リング状の、あれ。
「僕、重婚とか気にしないから」
奴の左手薬指。俺の口に。血が出るほど噛んでやった。どんどん大きくなる。粒の赤。まるで柘榴石。
「キレイ。結婚指輪」
あいつがおかしくなったら、俺がお前を殺す。
なんて。牽制ですらない。もうすでに、手遅れ。奴の脳はいま、亡くした奴で満ちている。偽の死体の残像で、発狂しそうなくらい追い詰められている。
なぜ、防げなかった。想像力の欠如。足りない。及ばない。あの時から、奴の思考。泳いで溺れて。羊水と唾と血と精の混合液。混ぜたら何色。色が濁る。
「楽しみにしてるよ。指輪失くしたら会いに行くね」
零れた柘榴石を舌で拾う。
狂いそうなくらい、まずい。恍惚。そう告げる。捨てゼリフ。
「きみのは美味しかった」
「味覚ねえんじゃねえの?」
ショックなら辞めればいい。ケーサツなんか、何も出来ない。奴を捕まえることも、奴を咎めることも、奴を、見つけることも。なにも。
人形だ。首を切り落とされ、膣と肛門に腕をぶち込まれて、そこから伸びる手に指は一本もなし。赤いあかい粘液の中央で無惨に転がってたあれは。気づくはずない。俺がそう云った。
死んでる。お前の恋人が。
これで充分。奴は、キリュウは、もう二度とおんななんか。
2
厭な夢だった。こんなところで寝るからだ。俺がキリュウの上司だなんて。吐き気を通り越して勃*する。
汗を流すふりをして抜いてきた。キリュウが汗を拭ったタオル。洗濯なんかさせない。無理矢理引っ手繰ってよかった。シャツくらい替えさせればよかった。そうすればシ*るネタが増える。
眼が醒めるといつもそう。まずいなんて展開じゃない。昨日見た夢の通りなら、じらふは俺の願いを叶えたことになる。過去に戻れるわけがないから、夢で過去に。幻覚妄想だとしても、じらふは、確かに、俺の願いを、叶えて、しまった。
五人目はキリュウじゃない。俺でもない。すでに始末が済んでる。
訪問者。じゃない。帰宅。じらふが俺の顔を覗き込む。逆さま。俺が逆なのだ。天井に足をつけて立っている。刃先が鼻を掠る。もしかしたら、血が床に。ぽたんぽ。たん。
「おにーさん、死ぬ?」
うっかりこれに生返事しては駄目だ。曖昧な返事はイエス。死にたくなかったらはっきり断るしかない。俺の答えも勿論ノオ。現時点で出来る唯一最上の抵抗。
「約束。みんな」
殺してきた。俺を昔いじめてた奴らの残党。
「死んでないさ。俺は死んだと思ってない。だから、まだ死なない」
「次、だれ」
考えるふり。いなくなって欲しいニンゲンなんか、沢山いすぎて。生きていてほしいニンゲンのほうが圧倒的に少ない。きっと片手で数えられる。
不服そうなじらふを宥める方法。今日の収穫。そろそろマンネリ気味らしく、新しい世界に踏み込まなければいけないのだが、踏み込みを渋っている。Ⅹ指定でも尚緩い映像を扱っている世界なんて、これ以上お近づきになりたくない。
前途洋洋、飛ぶ鳥落とす勢いだったキリュウを、泥舟に載せて島流ししたあの事件。キリュウにとっては一大事。俺にとっては、どうでもいい。そのときに知り合った坊ちゃんに頼んでみるか。出来ることなら頼りたくなかった。なにせあいつは。
「春休みぶりですね」
俺に気がある。
「夏休みあんだな」
「一応高校生してますからね、探偵さん」
「だ、か、ら」
俺は探偵じゃない。何度訂正しようがこいつは。
「無駄ですよ。僕にとっては探偵さんです」
ああやりにくい。こんなことなら助けるんじゃなかった。こんな奴放っといたって俺にとって何の利点もなかったはず。損得も生き死にすら。
事件の半年後、つまりはこいつの言う春休み、にもう一度会う機会があったのだが、そのときに寝ずの看病をさせたことでごっそり借りは返してもらってるから。
「貸し、か」
「いまみたいにこうやって」
カラダ。
「いい感じになれたと」
「あーあーそいつはもう」
あの時はアタマの中がごっちゃになって、つい、そんな流れに流されそうになったのを必死で耐えて、坊ちゃんが気を利かせて迎えに来させたキリュウの車に乗ったのだ。フった。あの時確かに俺はこいつをフって。
「どうせ云ってないんですよねえ」
「声跳ねてね?」
坊ちゃんはこの上ないスマイルを向ける。だいたい場所を失敗した。坊ちゃんの身の上やら立場やらを案じて、足の付きにくいラブホにしたのが間違いだった。まるでヤる気満々みたいに。
「先にします? 後にします?」
「時間ねえんだよ。こん次」
「はあ、そうですか。そうですよね。僕もこれから夏期講習がありますし」
足元を見られている。場所どころかキャストまでミスった。しかしこいつ以外に適任がいるだろうか。こいつの組織なら、じらふを満足させる映像を。
結局、同時進行で承諾を取り付けた。今日中に家に届けさせる。と約束させて。やはりその手の映像は日本には馴染まない。
「何に使うかは知りませんが、観賞はおススメできませんよ」
「俺んじゃねえ」
複雑と微妙を混ぜ込んだツラ。何か察したか。
「危ないことだけはやめてくださいね。もう、あの時みたいなのは」
あの時。どっちを指してる。
「キリュウサンが羨ましい」
希硫酸。羨ましいか。あんな劇物。
「僕も」
「やめろ」
「まだ何も」
「わかんだよ」
キリュウの真似してケーサツに。
「あのヒト死んだら」
「死なせね」
キリュウは死なせない。死んでない。俺が生きてる限り。
帰ったら、じらふは観賞中だった。自分でぶった斬ったカーテンを引いて、部屋を真っ暗にして、スピーカ大音量。近隣から苦情が来ないのでまだここにいられるが、時間の問題。布団だってずたずたはらわた大放出。興奮するのはわかるが他のもので発散して欲しい。畳も座布団も壁も床も、修繕する気も起きない。天井はリーチの関係でぎりぎり届いてないが、どうなることやら。
「いー加減捕まんぞ」
「捕まえる。みんな、いない。だいじょーぶ」
僕が生きてる間は、捕まえないことにします。
だなんて、守れない約束しやがって。死亡フラグ直結。
砂嵐。じらふがディスクを取り替える。何遍観ても飽きないのはこれ一枚だけ。そしてまったく同じシーンの同じタイミングで射精する。指を一本ずつ。いちにいさんしい。ご本目の代わりに。同じく細長いがもう少し太さのある。
ゆびが。
おちる。
キリュウは生きてる。死んでいるはずがない。俺が信じてない。ここにいる。この狭い電気的な箱の中で。いまもずっと。
画面に飛沫がかかって。どろり。と流れる。
キリュウの顔が見えなくなったが、拭う必要はない。すぐに透明になる。キリュウの視力を補っているレンズも曇らせない。
じらふが切り落としてくれたキリュウをしゃぶる。ハリみたいに。
3
夏休みの最後の日、あのレンタル店に行ってみた。今日も定休日。曜日が同じ。
その割に賑やかだと思ったら、人だかり。点滅する赤いランプを載せたツートンカラの車が。制服が黄色いテープを背に見張っている。私服の邪魔をさせないよう、眼をぎらぎら光らせて。
すぐにわかる。摘発。
やはり違法だったのだ。それ以前にまともな店だったかどうかすら怪しい。タイトルもラベルもない。陳列棚もない。値段だってその場の言い値。どれだけ稼いだのかはわからないが、売り上げの中には僕の小遣いも含まれている。
ここはあの人の管轄だから、手足に見つからないうちにとっとと帰ろう。敬礼なんかされたら死にたくなる。
ちーさん。店員はそう言ってた。どうなったのだろう。捕まったのだろうか。それとも店員だけ。店員はちーさんに頭が上がらないみたいだったから、庇って黙ってるかもしれない。たかが女の裸くらいで無能どもの餌食になるなんて。
首に汗が流れる。暑いことくらいわかっていた。何故ハンカチを忘れたのか。ケータイも置いてきた。どうせかける相手もいないし、あの人たちが一方的につけた発信機のようなものだし。
制服がぞろぞろと何かを運んでくる。ブルーシートに包まれて。ひとつふたつみっつ。よっつ。確認できたのはそこまで。私服と眼が合いそうになって逸らした。なんだか摘発にしては様子が。あんなものダンボールで事足りる。わざわざ隠さなくても卑猥なパッケージなんか。それに駆り出された人数が多すぎる。ビデオやらディスクやらを運び出してくるだけでこんなに大掛かりな。
ブルーシートを運んでた無能どもが。わらった。
なんだ。趣味の悪い無能集団が喜ぶ事件なんか一つじゃないか。それなら合点がいく。嫌味に張り巡らされた黄色いテープの意味も。わいのわいの騒ぎ立てる野次馬の量も。記憶の端に引っ掛かる私服が。あの人とつながってる。
気づかれた。逃げても遅い。僕のコンパスは大事なときに縺れる。
「どうしたんだい?」
どうもしねえよ。とは云わずに。
「塾の帰りで」
「そっか。でも危ないよ」
お前らがな。とは云わずに。
「そうみたいですね。帰ります」
儀礼的にお辞儀して去ろうと思ったら、制服に向かって手を上げると僕に鍵を見せる。まさか家の鍵じゃないだろうな。なに企んで。
「送ってあげるよ」
「駅すぐそこです」
「家まで」
なんだこのご機嫌鳥。図鑑にも載ってない。なんて鳴くんだ。啼いてみろ。
「留守ですよ」
「だろうね。さっき本部ですれ違ったから」
本部。寄る意味は。
「じゃあずっと帰ってきませんね」
「どうかな。案外早いかもしれないよ」
振り切るのも面倒だったので諦める。パンダのほうがまだマシ。覆面は一味になったみたいで。ケーサツなんか最初から願い下げ。探偵より犯人がいい。そっちのほうがカッコいい。推理小説の主役は紛れもなく犯人だ。彼らはとにかく魅力的。
「捕まったんですか」
「捕まってたら僕はいまこうして臨時任務に就いてないね」
無能め。とは云わない。無能なのはあの人だ。中枢が無能だから末梢も無能に感染。
「訊いてもいいですか」
「予行練習のつもりかな。いいよ。将来有望なきみの推理をぜひ」
死んだ。
店員とちーさん。
「凶器は鋭利な刃物。ナイフや包丁じゃない。柄の長い。そうだね」
日本刀。
「きみ、ご飯」
「まだです」
「じゃあやめとこうかな。お肉だったら困るし」
バラバラ。
刺されて抉られて血だらけ血まみれ。
「あれじゃ返り血が相当だろうよ。まあ時間の問題だと思うけど」
犯人いまだ逃亡中。
凶器を担いだまま。
「通り魔にしてはやりすぎなんだけど、怨恨にしては」
イカレてる。
「どんな犯人像を描けるかな」
「わかりません」
「そんなこと云わないでさ。気づいたことでも」
駐車場。ブレーキ。ハザード。ハザード?
「ね、送迎料ってことで」
あの人とつながってるくせに。今日ここで僕と会ったことを報告しない気だ。あの人は気づくだろうか。気づけるだろうか。気づいたところでなんとも思わないか。一時的につながってるだけ。すぐに切れる。
「留守」
「だろうね」
僕が報告したら。
「クビ」
「ずっと帰ってこないんだよね。きみとも会ってない」
僕が報告しない。
「性犯罪」
腰を撫でてた手が止まる。僕の発言と自分の今やってる行動が合致したからじゃない。この人はあの人と違ってちょっとだけ。
「なかった」
ぬるい。
「な、にが」
「ゆび」
変な顔。あの人とつながるときもそんな顔をするんだろうか。
「見事にぜんぶ、なかった。切り落とされてただけじゃなくて、現場になかった。それを探してたからなかなか撤収できなかった。違いますか?」
口の端が上がる。さっきブルーシートを運んでた制服と同じツラで。五本の指で僕の性器をいじる。もう五本は穴を広げる。無理矢理しゃぶらせないのがこの人のいいところだけど。
「やっぱり血なんだねえ。おんなじ味がしそう」
知らない。知るもんか。
「こっちもさ、キリさんと同じ味なのかな」
そんな名前しらない。へんな呼び名。
「同じですか」
咥えたまま頷く。満足げに。
嘘だろう。
「出してませんよ」
「いーよ、出してくれて」
僕がレンタル店の様子を見に行かなかったらどうしていただろう。あの人に云われて、とか適当に理由をつけて訪ねてきたかもしれない。そんなこと絶対あり得ないのに。あの暗い中でよくぞ僕を発見できた。て簡単か。そっくり。らしいし、あの人に。
部屋は勘弁してもらった。車内が思いのほか狭かったようで、苦労や努力の割には元が取れていない。続きはあの人につないでもらえばいい。まだ相手にされてるのなら、だけど。
早朝にあの人から電話が入った。気づかれたのかと思って内心わくわくしてたけど、第一声が。
「無事か」
なんて、気味が悪いにもほどが。
「いま」
「家ですけど」
もしかして。パニくってる? これは傑作。
「朝の五時に家にいない未成年って、いったいどんな状況でしょうか」
「休んでいい」
夏休み明け初日から。
「そんなわけに」
「休め」
「厭です。遊びまくってて宿題できなかったみたいに思われ」
「昨日」
どき、り。喉もとが絞め付けられて。心地のいい息苦しさ。
「塾だったな」
塾から駅までの通り道。見ないわけにいかない。
「送らせた、と聞いてる」
「僕が頼んだわけじゃありません。あっちが点数稼ぎに」
稼げてなかったらしい。マイナス三億点。くらいで妥当。
「何時に帰った」
「昨日中に」
「お前じゃない」
ああこれは。絶望的な愉しさ?
「帰っていないらしい」
「家じゃないんですか」
「連絡が取れない。もうだいぶ経つ」
で、最後の足取りを知ってるであろう僕に。
「尋問」
「知ってるんだな」
ほとんど誘導。答えはすでに。
「夜は一緒でした」
「その点は後でゆっくり訊く。いまは」
ああちがう。優先順位が低すぎる。これはとっくに、切れてる。
「胸騒ぎがする」
「勘」
遅刻は厭だ。出発デッドラインまで、あと。
「捕まってないんだ、まだ」
「はあ」
デジタルは計算がしづらい。六十進法。
「さっさと捕まえてください」
ノイズ。受話器が離れたような、間。逢ふ魔が刻。手足の報告。そうそう、報告は迅速に素早く滞りなく。お前が無能だからすべては手遅れ。被害者が増える。不得手不得手。れんぞく、しりある。
電話は切れていた。もう、僕から聞きだす意味もなくなった。
死んでる。
調子に乗って息子ともつながりたがるから、罰が当たった。ばーか。
同じ味? 冗談じゃない。僕はあの人とはつながってない。つながり。切れてる。学校はピアノのストレスで吹っ飛んでるし、研究もおじゃん。
ハリはどうしてるだろう。病院脱走かな。退屈だもんね、あんな人体実験。
「やったのお前?」
ううん。
「だろうな。お前」
ゆびだけ欲しいだけ。ほかは要らないよ。それに僕なら。
もっと、キレイにやる。
死体は人形の如く血を。流さず。
4
平時よりヴォリュームを落としたが、聞こえたと思う。聞こえたからこそ、ブレーキも停車もなかった。無視すればいい。さも聞こえなかったかのように振舞えばいい。キリュウにはそれができない。知っている。敢えて。
「文脈がわからないが」
「そいつであってる」
「はっきり云え」
「わかってんだろ」
キリュウの癖が拝めない。イライラするとステアリングをこんこん叩く。
「犯人がか。いままでお前が察知してきた」
犯人なのは間違ってないが。
底なしの鈍感。むしろ安堵する。
「そんなに有名なのか、俺は」
「モテる奴の言うことは重みが違う」
「茶化すな。今真面目な話をしてる。もしそうなら、俺は」
辞める。
莫迦か。どうしてそうなる。
「知ってたのか」
「知らんことは」
胃炎。じゃない、言えん。
「最初からそうだったのか。あの時の、お前と最初に」
最初じゃない。最初に会ったのは、もっと。
そこから先が言えない。まだ癒えていないのか。一年も経った。犯人は捕まらなかったが、事件は俺が解決してる。莫迦にもほどが。
「どっか駐めろ。事故ったら洒落にならん」
運転を代われなくてよかった。免許なんか持ってない。欲しくない。車は厭だ。あいつのせいだ。バスが真っ逆さま。その映像がこびりついてて、タイヤで動く乗り物が怖くなった。電車だってぎりぎり。飛行機は車輪が飾りだから平気だが。
キリュウが付き合っていた相手は、一年前の、俺が一番最初に解決した事件で、犯人に殺された。キリュウはそう信じている。事実はそうじゃない。それをこれから説明する。説明が終わったときが最後。キリュウがケーサツを辞めるという意味ではない。俺が探偵を辞める。そもそも探偵じゃないのだが、比喩として。探偵を辞める、
キリュウとは二度と会わない。会えない。
「どこだ」
「逃げねえよ」
キリュウになら、自首したっていい。
夏真っ盛りに咲かない。メインのバラがなくともサブがいる。植物園じゃなければとてもやっていけない。チケットの代わりにケーサツ手帳で入ろうとするので止めた。これだから国家権力の回し者は。たかだか五百円ですら踏み倒す。あまねく経費で落ちると思っている。
ぜーきん泥棒。ああ懐かしい響き。キリュウに再会してはじめに云ってやったことば。だったと思う。
「生きてんだよ」
意味が取れてない。アタマ働かして察せよ。あまり云いたくない。ことばなんか。
「生きてる。死んでない」
「主語は」
「どいつならうれしい?」
犯人。探偵。被害者。この中で、死んでないのがひとりだけ。ケーサツは死んでる。選択肢にない。
「俺だよ、俺」
なんだこれ。電話じゃないだから。
「俺しかいねえだろ」
「わかるように」
わかってる。本当はわかってる。キリュウは探偵にはなれない。お喋りじゃないから。思い込みで独壇場にしないから。推理不可能。
「お前の彼女殺ったの俺だっつてんだよ」
振り返らない。まだ耐える。もう少し。あとすこし。
「殺された日思い出してみ。彼女どこ行った? なんで出掛けた? 聞いてねえか。まあ云わねえだろな。浮気相手とデートす」
ふ、
ざける、
な。とキリュウの口が動く。振り返らなくたってわかる。キリュウの思考パターンくらい。
炎天下の見ごろの花。そんなのひとつ。もうすぐ観れる。
「下らない。話が堂々巡りだ。まだ寝ぼけてるなら」
「ショーコ、あんだよ」
観たい。視たくない。
「証拠?」
「痛ぇのと、痛くねぇの。どっちする?」
「何故証拠が痛いんだ」
「痛くねぇのもあるっつったろ。そっちにすっか?」
視界良好。射程距離。二メートルもあれば、遮れる。
「あり得ない。遺体は」
首を切り落とされ、膣と肛門に腕をぶち込まれて、そこから伸びる手に指は一本もなし。赤い粘液の中央で無惨に転がってたあれ。
「なくなって」
「そりゃな。どっかの節穴が応援読んでる隙に放り込んどいた。どこだったかな。肉食うどーぶつの」
檻。早く捕まえてぶち込め。
「美味かったんじゃ」
「いい加減に」
「邪魔だった。眼障りだったんだわ。彼女なんざ、くっだらね」
おんななんか滅べ。ヘテロのキリュウが惑わされないように。
「どーやって取り入ったんだか。ヤっちまっただけだろ? んで情が移ったか。てめえドーテイだったろ。女なんかヤれりゃ」
殴らない。掴み掛からない。他にニンゲンがいるから。公共の施設だから。周りはヘテロどもばっか。真夏に咲く花見たいなら、他行け。花火はここじゃ上がらない。花火なんか霞む。もっとキレイな花が咲く。
「これ以上彼女を侮辱するなら」
「ホントのこと知りたかったんだろ。なんで彼女は動物園で死んでたのか。なんで彼女の遺体は消えたのか。なんで彼女は殺されたのか。もっかい順番に云ってやろうか」
本気も浮気もやるせない。火葬も土葬もやらせない。
キリュウにかのじょは要らない。
「なんで」
「しょーりゃくされてんのは何? 殺した。消した。犯し」
「ジンナイ」
おいおい名字か。下の名前、知ってんのかよ。読めてねえんだろ。読めねえよな。キリュウには。
「何がしたい。そんなに俺が不満か。監視係外したいんだったら」
「んなのてめえが辞めたいだけだろ。いっさら出世に結びつかない。無能な上層に命令されてさぞ重要な任務と思や、くっだらね、クソの役にも立たねえぐーたらニートの世話かよ。そう云ってこい。いまならまだ間に合うんじゃね?」
頼むからそろそろ察してくれ。せめて察してから咲いてくれても。
痛いほう。痛くないほう。
どっちか選ぶとか。なんとか云え。下向いて怒りを押し留めて黙ってないで。そうしないと、両方選ぶしかなくなる。りょうほう、どっちも。破滅。
「証拠ってのは、いま」
「いつも持ってんだよ。てめえは節穴だから気づかなかっただろうがな」
「指か」
惜しい。でも筋はいい。
「指見てわかんのか? 彼女の指かどーか、見分けられんのか」
俺には出来る。キリュウの指だろうか。ハリの指だろうが。
あじが。
「見せろよ」
「どっちを」
「両方だ。一つじゃ信用できない」
望まないで欲しかった。どっちか選べば咲かなくて済んだのに。肝心なところでキリュウは間違える。どうでもいいところはあんなに鋭いのに。どうでもいい? そうか。
おれは、どうでもいい。てこと。
「んじゃどっち先」
「同時に見せろ」
「同時、にね」
レンズ越しの眼が睨む。ぞくぞくするくらい遠い。その眼で殺せばいい。キリュウにそうゆう力からがあればよかったのに。なんで、ない。なんで。
なんで、そうゆう未来を選ぶ。
「はったりか。ここまで云っといて」
心の準備。なんか疾うにできてる。はずなのだが。
「ないんだろ。どうせ」
「同時は」
「同時じゃないなら見ない。信用に値しないな。それとも撤回するか。嘘だと」
眩暈がしてきた。貧血。日射病。こんなときに。これだからでかいカラダは。キリュウは瞬きすらしない。いっそこのまま冷凍保存すれば、いっしょう。
とどく。届かない。
うで、つかんで。引っ張る。
ゆびさわって。
ひいふ、うみ、いよう。いつ、む、うなな、やここ、のつ。とう。
やっぱ、ダメだわ。
痛くないほう、禁止。いたいほうだけ、いまおわる。
飛び散ったあかが、花びら。視たのは俺だけ。キリュウの後ろにいる。いるいる。刃先に垂れる、したたる。あか、くろ。ぼたたたたったたたたたたたたったた、った。
重力に屈する。キリュウがしたに、おちて。見上げる、眼。めめめめ。
あーきた。
俺じゃなくて、後ろ。じらふが駆ける。
メガネにかける。
どろり、と白くて時間差で透明な。
服と一緒に四肢を斬り裂いて。しろいはだ。あかく、くろく。抉って落とし穴。指なんか一瞬で、ぜんぶ。ない。飛ばしすぎ。拾ってくるほうの身にも。
脚を開いて、そのあいだ。それは俺の役目。俺が終わったら譲ってあげるから。じらふには別の愉しみを教える。キレイな花火を打ち上げてもらう。
どーん。どどど。ず、どどーん。ぱらぱらぱ、ら。ら。
これは要らない。俺が欲しい。じらふに頼んで落としてもらう。
ゆび。
しゃぶったらあかい、あじ。くろかもしれない。しろを、呑んでみたかった。
悲鳴を上げるまえに逝ったから、じらふは不満そうだった。いたいほうを禁止したはずなのに、いたくないほうを選んであげてしまった。やっぱ、かわいそうだし、キリュウには苦しんで欲しくないし。でも、ちょっとは聴いてみたかった。
ぎいぃやああぁぁ。くらいは、期待してたのに。ないか。ないな。声にならない声。ならきちんと聴こえた。アタマの中でぐるぐる何度も。なんべんも。聴ける。
「つまんない」
「じゃあつまることしてこいよ」
指さす。ここには何十人もニンゲンがうようよ。選り取り見取り。
「おにーさん、死ぬ?」
「死なないよ。ほら、ばいばい。待っててあげるからいっといで」
しぶしぶ。とまではいかないが、足取りがいつもより軽くない。俺が好意を寄せていた相手だから期待していたのだろう。俺が恐怖する顔とか、野太い叫び声とか。
それはない。残念だったね。
指を捜す。ひいふうみいよういつむうななやここのつ、と。う? ない。だから吹っ飛ばすなとあれほど。説教したことはないか。次から注意してもらおう。
キリュウは永遠に生きる。この電気的な箱の中で。閉じ込める。もう誰も、俺以外はキリュウに会えない。ばーかざまーみろ。彼女と同じとこなんかいかせない。キリュウは死んでない。彼女は生きてない。
目撃者。いるわけない。どいつもこいつも、ニンゲンに無関心。
お前らだってニンゲンのくせに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます