血在ル核執ル

伏潮朱遺

第1話 月あげ窒ぽけ

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 いい加減まともに話をしてくれ。そちらが何も云わないから、悪いのは僕のほう。一方的に犯罪者に仕立て上げられて。

「ですから、冤罪だと云っているんです。僕はその方と相当離れた位置で、尚且つぎゅうぎゅうのすし詰め状態にいたのですから。絶対にあり得ません」

 なんて、正当性を主張するのも疲れてきた。相手が駅員では埒が明かない。警察官ならば、と思って耐えていたのに、期待外れ甚だしかった。なおいっそう酷い。

 奴らは僕の話など一切聞いていない。耳から耳に抜ける段階にすら。僕イコール痴漢現行犯。奴らの頭ではその等式がすでに強固なものとなって。

「きみ、高校生だろう。まったく最近の若者は」

 腕をつかまれそうになったので振り払う。断じて公務執行妨害ではない。僕はやっていないのだから、公務も執行も妨害もない。

 嵌められたのだ。この女に。泣き脅しに決まってる。涙なんか出てないじゃないか。声だけ。顔を覆う両手の合間から薄っすらと笑みが零れてるのに。何故それに気づかない。警察はこんなに無能なのか。僕が順序立てて客観的に説明しても、奴らは。

 真っ白は黒く塗りつぶす。かといって真っ黒は見落とす。これが警察? 情けない。こんな輩の集団に、国民の平和と安全を託していいのだろうか。何も任せられない。何もしていない。余計なことしかしていない。冤罪を取り締まることに躍起になって。

「もう一度だけ云います。これは冤罪です」

「きみねえ、ここで言い訳したって何の意味もないんだよ。わかるだろ? 賢そうな顔してるのになあ。社会のルールなんだ。そのくらい」

 机に張り付いても無駄だ。こいつは机ごと担いでいく。いま応援を呼んでいる。こんなのに寄ってたかって尋問されたら、屈してしまう。それが狙いなのだ。取調室でこそ犯罪は作られる。精神的苦痛に耐えかねて、はい、と認めさせるのが。

 どうせ強制連行されるなら、女を怒鳴りつけてからにしよう。ぎっと睨みつける。ずっと考えていた。どう云ったら女の鼻を明かしてやれるか。その嘘泣きをやめろ。そしてその憎らしい顔を曝け出せ。さあ、第一声は。

「災難だったな」

 僕じゃない。いまのは。能なし警察でも、況してや犯罪女であるわけがない。戸が開いて、大きなシルエット。巨人?

「お届けモンだ。おーらよ」

 凄みのある低い声。や、の付く人か、そうでなくても不良の部類。巨人に蹴られて、ひょろい男が躓く。その勢いのまま地面に手をついてひたすら土下座。謝っているのか。声が上擦っていてよく聞き取れない。

「なんだねきみたちは」

「んなイイトコのぼっちゃんに、そこの露出ヤローのでっけえ尻まさぐる勇気はねえよ。節穴どこっか眼球入ってねんじゃねえの?」

 無能がつかみ掛かろうとしたところに、ひょろ男がしがみ付く。おかげでドアはばたんと閉まる。女も立ち上がっていた。顔を覆うのも忘れ、赤い顔でドアを凝視。男が女に眼線を遣るが、完全無視。やはりグルだ。そうゆう雰囲気。

 駅員に案内されて、無能の応援が申し訳なさそうに入ってくる。僕に頭を下げる。最敬礼。駅員もぺこぺこと頭を下げる。無能筆頭のあの男も、部下あたりに耳打ちされて、電撃が走ったように態度をひっくり返す。いまさら、気づいても。

 察しがついてしまった。冤罪だったことに対する謝罪は駅員だけ。無能どもは僕に頭を下げているのではない。僕の背後に君臨する権力。

「誠に申し訳御座いません。もう、何と言ってお詫びをしていいのか。お人が悪いなあ。まさか貴方様があの」

 そこから先は聞かなかった。耳にも入れない。車で送るとかとんでもない。無能と同じ空気なんか吸いたくない。

 溜息すら出ない時刻。いまから行っても、意味がない。遅刻は0点。欠席と同義。全国模試だったのに。これからどうしよう。自暴自棄。家に帰っても仕方ない。世間的には夏休みでも、誰もいない家もある。かといって、その辺をふらふらしても怪しいだけ。同学年の連中は模試の会場。

 ケータイが鳴る。そろそろ来ると思ってた。むしろ早いくらいだ。

「何か不都合が生じたか」

「時間を返してください」

「無理な相談だ。顛末を文書にして送りなさい。アドレスはわかるね」

「気が向きましたら」

 どうせ、何も出来ない。

「気に病むな。お前の実力はすでに数字に表れている」

「なんとかなるんですか」

「越権行為だ」

 ほおら、役に立たない。

「さっきの人たちどうなるんですか」

「どうして欲しいんだ」

「死刑」

「越権行為だ」

「クビくらいは飛ばしてください。そうしないと、僕は正義を疑うほかなくなります」

 正義。そんなもの、あるのだろうか。自分で言っておいて、なんだそれ。

 虚しい。この人と話すと、ただただ穴が空く。

「お忙しいのに、わざわざご連絡ありがとうございました」

「もう電車には乗るな」

 だから、そうじゃない。

 伝わらない。伝える気がないのだから、何も伝わらない。伝えようと思っていない。諦めた。僕はあの人とはわかりあえない。

 警察になんかなりたくない。今日改めてそう思った。犯人を逮捕したのは、無能極まりない警察どもじゃない。一般市民だ。せめてお礼を云いたかった。助けてくれたのに。逆光のせいで顔すらよく見えなかった。悔やまれる。どうして僕は、すぐに追いかけなかったのだろう。

 もう一度会いたい。手掛かりは、平均を著しく逸脱した身長。凄みのある重低音声。あの路線を利用している。年齢は二十代から三十代。や、の付く人だろうが不良だろうが、僕を助けてくれたことには変わりない。いくら感謝してもし足りない。

 これからすることもないから、駅で張ろうか。それこそ警察の張り込みだ。やめやめ。すぐに警察と結び付けてしまう。ああゆうことは、初めてだろうか。そうか。前にも似たような状況で助けられた人がいるなら。

 駅員に訊いてみる。僕の顔を見るなり反射的に頭を下げて何度も何度も謝ってくれた。この人には正義があるのかもしれない。

「いや、長いことここにいるけど、初めて見るね。たいてい現行犯だったらそのまま」

 署に連行。冤罪だった人は、僕以外にもいるのだ。絶対に、そう。

 他の駅員にも尋ねてみたが、僕を助けてくれた人の手掛かりは何も得られなかった。もし見掛けたら渡してください、と手紙をお願いした。手紙といってもノートの切れ端に、僕の氏名とケータイ番号。あの時のお礼がしたいのでご連絡下さい。と書いて折り畳んだだけ。望み薄。

 次の日、模試二日目だが受ける意味はない。担任にはすでに話が通っていた。あの人の手回しだろう。余計なことしか気が回らない。

 駅に、昨日より早めに着く。どうしても会いたくて、ちっとも眠れていない。何故夜中張ってなかったのかと夢で後悔したくらい。しかし一日中ここにいたとしても、見逃す可能性だってある。来ないかもしれない。たまたま昨日、この路線を利用しただけとか。駅員に訊いてみたがまだ見掛けていない、とのこと。期待するだけ無駄だった。

 夏休み。好きでサボったわけではないが、模試をサボったのと同義。図書館か塾で自主学習したほうが有意義のような気がしてきた。受験だって控えてる。楽勝とは思っていない。試験当日は何が起こるかわからない。

 眠くなってきた。ぼんやりする。緊張が解けたら途端眠気が。

「寝んなら」

 一気に眠気が吹っ飛ぶ。この重低音は。昨日の。

「ここはやめとけな」

 胸元の大きく開いたシャツ。暑いからだろう。だらしないズボンの履き方だが、そもそも相当脚が長いため奇異に映らない。なまじ一般の日本人男性より長く見えるところがすごい。彼は億劫そうに腰を屈め、僕の顔を覗き込む。鼻が接触しそうな。

「なんで、んなことんなったんか、わかるか」

 電車がホームに入ってくる。アナウンス。方面。行き先。彼は車両を顎でしゃくる。

「あれんにゃ、乗んな」

「どうしてですか」

 発車。乗り遅れた人が、数名。電車に乗るな、なんて。なにも、あの人と同じこと云わなくても。

「なんか用あったんじゃねの?」

「あ、昨日は、ありがとうございました。おかげで」

 正義を完全に否定しなくて済んだ。

「お礼をしようと思って」

「カネ? モノ?」

「何がいいですか」

「お前、正真正銘イイトコのぼっちゃんだな」

 莫迦にされたような口調だったが、別になんとも思わない。彼は僕の恩人。それにこれが素。悪気も何もない。

「有り金ぜんぶ寄越せったらくれんの?」

「欲しいんですか」

「生憎カネにゃ困っちゃねえよ。モノもおんなじ。お礼ったってなあ」

 不良は棄却。正答。や、の付く人。

「じゃあ、僕が生きてる間は捕まえないことにします」

「んあ? なにお前、ポリなんの?」

「いまのところ」

 鼻で嗤われる。僕だって鼻で哂いたかった。所詮、その程度の決意だ。

「まあ、付いてこいや」

 移動は徒歩だった。大通りを離れて裏路地。に入るかと思いきや、店の前で立ち止まる。レンタルビデオ。であることには違いないのだが、ガラスに貼ってあるポスタは。

「捕まえねんだろ?」

「未成年て」

「あっち」

 看板に、営業時間と休業日。今日は。

「やってねんだよ」

 押して開くドア。鍵はかかっていなかった。照明が赤いのでいまいち把握しづらいが、そう狭くはない。コンビニくらいの広さはある。

 店というより在庫保管用倉庫。羅列も陳列もない。積んである。透明なケースにアルファベットと番号。それによって管理しているのだろう。外から見る分には中身がまったくわからないので、眼の遣り場に困ることはなさそう。ほっとする。

「世話んなったな」

 彼がカウンタに話し掛ける。親しげに。透けないカーテンで遮られていて、向こう側は見えない。

「お早かったっすね。おかげで一発しか」

「ほー、あいつ懐いたんか」

「単に餌がよかったんでしょうよ。そんだけっす」

 カウンタの下が開いて、小学生くらいの少年が這い出てくる。大事そうにディスクケースを抱えて。ナンバリングはない。売り物ではない?

「イイもんあったみてえだな」

 少年はこくんと頷いて僕を視る。弟にしては離れすぎ。子どもにしては大きすぎ。甥っ子、親戚の子。顔が似てない。昨日今日の付き合いではなさそう。

「なんぼ」

「はあ、こんなで」

 カーテンの中央が割れて、電卓が。数字を見て、彼が眉を寄せる。

「高っけ」

「これでも大まけにまけたんすよ。ちーさんがいなかったら俺、いまっころ」

「イヌっころだあな」

 彼がぱんと膝を叩いて振り向く。

「ぼっちゃん、お礼」

「え」

「してくれんだろ。メンでーからこいつでいーや。俺ちょうど手持ちねんだ」

 お礼って、だって。カネじゃなくていいって。

「威勢イイんは決意だけかあ」

「いくらなんですか」

「ケーヤク違反てのはパクんだろ」

 電卓がカーテンに呑み込まれる。金額を見せない気だ。つまり、いくらフっかけられようが、ボったくられようが、僕にはわからない。見込み違い? いや、まだ信じたい。

「裏読むっつことしてみたらどだよ」

「どういう意味でしょうか」

「まんま。文字通りそのままを莫迦正直に受け取るなってことよ。昨日の痴漢騒ぎ。イイトコのぼっちゃんなのをイイコトに、示談金だの欲しかっただけだと思うか」

「意味がわかりません」

 それ以外に思いつかない。違う? 間違ってる?

「ツゴーよすぎんだろ。なんで赤の他人なんざわっざわざ助けにゃならん? あのランチキヤローどもにもあったように、俺側にも、なんか、あったんじゃね? それこそ、イイトコのおぼっちゃんなのをイイコトによ」

 肩に、手。硬い皮膚。

「あいつらな、実は俺の知り合いなんだわ。ここまで云や、わかんだろ? 伊達に偏差値高えわけじゃねし。未来のエリートケージさん」

 後ずさりできない。少年が邪魔してる。右も左もビデオやらディスクやらの山脈。腰に指先。背筋がぞっとなる。下品な笑い。

「月、水、金。たまーに土日。知ってんだ。毎度おんなじ車両のおんなじドアっから乗るもんじゃねえぜ。俺みてえのによ、ずうっと眼ぇつけられっぞ」

 両脚ごとしがみつかれる。関節が曲らない。なんでこんな。小学生くらい振りほどいて。指が下に。下がって。そこは。

「や、めてくだ」

「じゃー三択。カネか、モノか」

 財布ごと置いて逃げようとしたけど、ダメだった。彼は僕の腕をつかんだままレンタル料を払う。きっちり、お釣りなく。

「さーんきゅ」

 彼が笑う。莫迦にしても下品でも。

 腕と両脚が自由になった瞬間、走った。違法裏ビデオががらがらと崩れる。聞こえないふり。お礼の額がいくらだったのか、いまでもわからないまま。



 第1章 ツキあげチッぽけ



      1


 キリュウの代わりがのこのこやってきた。車の音。インタフォン。聞こえてるってのに、そう何度も鳴らすな。床に散らばっているビデオやらディスクやらを踏みそうになってしまった。危ない。俺のもんじゃないんだから。

「おはようございます」

 長々と挨拶はせんでいい。起き抜けの脳に響く。無駄にきんきん高い。さては殉職しようが損害のない若い下っ端を寄越したか。甘く見られたものだ。からかってやろ。

「出直してくれ」

「へ? あの、朝一番に、と」

 上司の助言か。それとも前任のキリュウ直々。どちらにせよ勇み足。早すぎだ。

「出直せ」

「え、でも」

 受話器移動。足元で眠るニンゲンの口元に。うーん、むーとか寝言が向こうに聞こえたはずだが。さて、これで理解できるか。

「申し訳ありませんが、え、その」

 駄目だ。てんでお話にならない。キリュウの爪の垢でも煎じてもらえ。初日に回線遮断も可哀相なので大ヒント。

「俺の起床時間は」

「はい。え、起床じ、かんですか」

「俺の交友関係は」

「え」

「え、じゃない。そのくらい調べてから来い。じゃあな」

 切った。すぐにチャイム。駄目だ。本当に、切り捨てるつもりで寄越したとしか。ぴんぽんぴんぽん喧しい。起きてしまう。せっかく気持ちよさそうな寝顔が。

「申し訳御座いません。勉強不足なのはわかってます。ですが」

 溜息も出ない。察するとか空気を読むとか、そうゆう努力が感じられない。出来ないのか不可能なのかする気がないのか。本気でやってるらしいからまだいいが。これで、演技だったら。正気じゃない。

「ですが?」

 黙った。口調が強すぎた。とは思えない。キリュウと話すときはもっとつっけんどんで喋ってる。こんなんで犯人逮捕に至れるのか。口で説得できないどころか打ち負かされている。日本のケーサツは何があってもぶっ放してはいけないことになってるから、犯人側が銃を所持してたら真っ先に撃たれて死ぬ。殉職。

 そうか。殉職。本部がそう願ってるなら、それを叶えてやろう。ちょうどこちらにもそんな都合がある。可愛い寝顔を中断させた罪を償ってもらう。命をもって。

「時間と場所指定する。いいか。一回しか云わんから」

 ケーサツなんかみんなそう。任務だの事件だの、与えられるとしっぽ振ってうきうきする。出世欲の塊みたいなキリュウだって。

 代わり第一号がいそいそと帰っていった。本部には報告するな。さもないと、俺は出向かない。そうゆう忠告も付け加えたから応援を呼ばれることはないだろう。例え呼ばれても、その応援ごと殉職してもらえばいいだけのことだが。

 一時間後に公園。地図を広げて、じらふに説明する。

「自分で行けるか」

 じらふは首を傾げる。そうだろうと思った。しかし、俺も車は持ってない。車どころか免許もない。要らない。あんな自動殺人機械。

 電車で送り届けてから、電話をかける。までもないか。奴にはそのくらいお見通し。

 もらっていいの?

「いんじゃね? 俺にゃ必要ねえよ」

 そ。ありがと。

 十分前、代わり第一号は到着していた。もっと前からいたのだろう。あのあと直行したに違いない。時計を見ながら額の汗を拭う。運がいい。ラジオ体操勢は見当たらない。応援も控えてない。ひとり。

「暑っち」

「ですよね」

 じゃねえだろ。すでにジャケットは脱いである。ネクタイも緩めて。まあ夏だからとは思うが。いちいちキリュウと比較してしまう。

 どんなに太陽が照りつけようと蜃気楼が見えようと黒一色。汗腺がないのかと疑ったがそうではなさそうだった。襟元が湿って、シャツが汗で貼り付いて。身長二メートルもたまには役立つ。そうでなければ見えやしない。見せないように振舞っている。

「なにが起こるんですかね」

「そこまではな」

 なんだその意外そうな顔。俺は予言者の類じゃない。確かに予知能力の一種かもしれないが、それは単に観測する側の問題。ケーサツ側が俺を予言的探偵として祭り上げてるだけ。あらかじめ、事件が起こる場所がわかってしまう。おまけに謎まで解く。

「でも、わかるんですよね?」

「わかるだけだな。残念だが」

 なんだその不審そうな面。駄目だ。生かしておくだけ無駄。こいつは何ももたらさない。血税泥棒はキリュウだけでいい。

 木陰に隠れてるじらふに合図する。

 好きにしろ。

 二時間後、じらふが顔を見せる。心なしか顔が赤い。朝からハードワーク。この暑い中駆け回ったのだろう。担いでいる日本刀を袋にしまわせる。一応、この国には銃刀法という厄介な法律があって。という話は以前にもしたか。じらふもわかってくれている。と期待。

「愉しかったか」

「おにーさん、死ぬ?」

「いんや。まだ」

 最速で昼のニュースか。本日未明、警察官が。

 死因も状況も詳しく報道されなかった。できるわけがない。近いのは性犯罪。遺体に付着していた体液を調べて。が限度。付着? 冗談だろ。残っていた。が正しい。それに体液? なんとも都合のいい言い回し。はっきり云やいいだろ。精液だと。

 それでもキリュウは戻ってこない。代わり第二号も、代わり第三号も殉職したというのに。探偵の俺のところに派遣されたのだから、俺のところに訊き込みに来たっていい。それすらない。莫迦か。

 犯人は俺。そうじゃなきゃ探偵なんざ、ただの妄想野郎。


      2


 被害者は私の同僚。全員同じ方法で殺されている。ここ四日連続して。

 上司に何度嘆願しても聞き入れてもらえないので、単独捜査しかない。これをやればクビになる。わかっている。でも私はそうしないわけにはいかない。

 一年前のあの。奴がまた、現れた。

 手口は多少違うが同じ方向。性犯罪。これほど個性の出るものはない。同じ嗜好を持った人間はそうはいない。模倣犯もあり得ない。まったくと言っていいほど情報を外に出していない。知り得るのは内部の、警察の人間。

 ジンナイちひろ。

 探偵なら何か。いや、探偵は絶対知っている。探偵のところに派遣された人間が、立て続けに殺されているのだ。何かつかんでいるに違いない。

 今回も、防げなかった。彼女の仇を。

 探偵は留守だった。おかしい。午後になってようやく活動できるほどの怠けが、朝の三時にいないはずがない。居留守もかくれんぼも使えない。私は合鍵を持っている。

 部屋は滅茶苦茶。片付いていないのは今に始まったことではないが、数少ない食器類が見事に粉々。水音。蛇口から水が。空き巣だってもう少し大人しい。まるで子どもが暴れたような。子ども。心当たりがない。探偵の血縁に子どもはいないので、血縁者ではないのか。知り合い。いったいどこで未成年と知り合えるというのだ。

 よく見るとますますおかしい。布団が切り裂かれて綿が散乱している。刀傷だろうか。カーテンにも似たような痕。畳も座布団も壁も床も。さすがに天井にはないが。

 水音。蛇口はさっき締めたので、浴室か。浴槽内にシャワーの水が注がれる。その音だったらしい。溢れないのは、浴槽上部に穴があるから。とりあえず、水を止め。

 なんだ。これ。

 水面に、なにか。細い棒。一つじゃない。いちにいさんしいご。五本。私はこれをどこかで見たことがある。どこで。どこだ。いちにいさんしいご。全部で五本あるもの。腕の先に付いてるもの。手の先端。ゆび。

 似てる。同じだ。等しい。

 恐る恐る拾う。タオルに包んで。気持ちが悪い。よく見なかったので視覚情報としては残っていないが、触ってしまった。タオル越しにぬるぬると。嘔吐感。トイレに駆け込む。しかし吐き気は一瞬にして引く。

 もう五本は、便器内に。

 なんで。なにが。まさか。

 探偵の。

 いや、そうはあってほしくない。しかし、これが探偵の指じゃないなら誰の指だと。

 私のではない。思わず確認してしまう。いちにいさんしいご。いちにいさんしいご。右も左も五本ずつ。ある。よかった。

 本部に連絡するか。単独捜査中に自分の居場所を報せる阿呆がどこにいる。手柄だの協力だの、そんな時限の話ではない。いまは集団の力は必要ない。むしろ邪魔になる。上司も無能の部類だ。みすみす部下を見殺しにして自分はのうのうと。部下。ちょっと待て。

 十本は、同僚の?

 あり得ない推理じゃない。だとするなら、これは死んでから切り取られた。とも限らないか。生きたまま。ああ駄目だ。胃液が逆流する。

 探偵との連絡方法は皆無。渡したケータイも眼の前で水没させられた。一度や二度ではない。走る車内から放られたこともあった。いっそ発信機をつけておけばよかったか。何か手掛かりはないだろうか。探偵のメッセージらしきものは。

 ないか。探偵は私が嫌いなのだ。私のことが気に入らないから監視役を外したし、眼も合わせない口も碌すっぽ利かない。況してや私の所属するケーサツに協力するなどと。何か事件に巻き込まれたとしても、探偵なら自分でなんとかするだろう。

 楽観すぎる。ここで考え得る最悪のケースは、奴を捕まえられないことではない。探偵が死ぬことだ。探偵は奴を知っている。だから私は探偵の監視役を買って出た。復讐したいわけではない。奴による被害者をこれ以上増やしたくないだけだ。そう説得したら、探偵は納得してくれた。私が監視役に就くことを認めてくれた。だいぶしぶしぶだが。

 それでも嫌いなものは嫌いだったのか。私は探偵の監視役を外された。ショックだったのだと思う。たった一日だが、出勤できなかった。なにがそんなにショックだったのだろう。そもそも好かれてなどいない。裏切るほどの関係もできていない。一年前に彼女を殺した奴への手掛かりが薄れたことか。そうではないような。

 現場に行っても何も得られない。何も得られないから同僚が続々と死んでしまった。探偵は現場に行っただろうか。現場。上司に見つかってしまう。見つかれば自宅謹慎では済まない。見つからないように行くには。

 無理だ。探偵のようにずる賢い方法が浮かばない。いなくなるなら書置きくらい。

 そういえば、こんなにビデオやディスクがあっただろうか。テレビすらあったかどうか怪しいというのに。デッキやスピーカ等、オーディオ機器が揃っている。ニートの探偵にこれだけの経済力があるとも思えない。借金。それで夜逃げしたわけではあるまい。

 ビデオにもディスクにもラベルがない。ケースは紙。まさか違法モノ。十本二十本の比ではない。三桁。棚がないので積んである。ほとんど崩れているが無事。刀傷はない。中身を確認したほうがいいだろうか。違法。私の担当ではないような気もする。しかし、ここだけ無傷だということは、なにかある。

 念のため、停止ボタンに親指を置いて再生。度でかい音量。ヴォリュームが最大まで触れていた。しかも無駄に大きなスピーカ。画面は暗い。いったんミュートにしたので、音を徐々に戻す。声。高い声。悲鳴。ホラー映画の類かと思ったが、それにしては悪趣味すぎる。年齢指定をつけても尚まずい。

 人間を生きたまま分解している。フィクションだったらよかったが。


      3


 瞼よりも背中が重い。布団にめり込みそうなくらい。このまま眼を開けなければ、ドアを通らなくても外に出られる。密室のまま住人喪失。鍵は問題ではない。靴がなくなっていないのだから。裸足で出たという推論は成り立たない。

 皮膚に障るあの気配。勝手に作った合鍵で毎日定刻に不法侵入してくる。やはり私は逃げられない。どんな死体消失トリックも霞む。水の音。また断りもなくコーヒーを淹れる。コーヒーメーカだって私のものではない。奴が堂々と持ち込んで設置した。人の家に私物を持ち込むな。

 奴は私がとっくに起きていることを見抜いている。知らないふりをしているわけではない。コーヒーを飲んでから起こしても充分事足りる。急ぐ必要がない。私が覚醒しない限り、奴は動かなくていい。一歩たりとも。

 薄眼を開けて、本日の奴の格好を見てやろう。真夏にダークスーツなんか着込んで。ほとんど喪服。いったい誰の葬式だ。国家権力のか。それはなんともおめでたい。是非私も参列させてもらいたい。

「いい加減タヌキ寝入りをやめろ。ぐうたらニート」

 コーヒーメーカは静か。奴の気はコーヒーが出来る時間よりも短い。寝返りを打つ前に奴が先手を打つ。布団を剥ぎ取られた。

「寒い」

「おい、風邪引いたんじゃないだろうな。あれほど体調管理には気を配れと」

 奴が私の額に手を当てようとするので払いのけた。眼を瞑ったまま。

「何す」

「お前に触られたくない」

 銀縁が日光を反射する。奴がカーテンを開けたのだ。眩しい。うつ伏せになっても防げない。だから夏は厭だ。昼が長すぎる。

「よかった。元気じゃ」

「ない。いい加減、クソの役にも立たんプラスティック変えてもらえ」

「やっぱり元気じゃないか」

 下らなすぎて力が抜ける。今日も私が折れてしまう。これが奴の狙い。というわけでは絶対ない。奴は意図せずにやっている。だから厭なのだ。本当に、厭だ。

 奴が暢気にコーヒーを啜っている間に、仕方なく顔を洗う。時間稼ぎのために風呂まで入る。嫌がらせだと奴が気づくまでそう時間はかからない。ほら、走ってきた。

「騒音で近隣迷惑だと思わ」

「シャワーだけじゃなかったのか」

「気ィ変わった」

 奴のメガネが曇る。立ち込める水蒸気で。もしくは奴の頭が沸騰した湯気で。

「出ろ」

「常習的に風呂のぞく国家公務員の命令じゃあな」

「のぞいてない。お前を監視するのが俺の仕事だ」

「国の最高法規、日本国憲法の基本理念三つ言えるか。国民主権、平和主義、もう一つ。憲法第九十九条になんて書いてある? 憲法尊重擁護義務ってのはどこのどいつに」

 奴が物に当たろうとして寸前で押し留める。単に自分の持ち込んだマグカップを壊すのが忍びなかっただけかもしれない。善良な一般市民の口を割らせるのが主たる業務なら、正論言い返せよ。国家権力を傘に着て、自分の思い通り運ばなければ力で捻じ伏せる。私が湯船に漬かっていなかったら、間違いなく何かが飛んできていた。奴本体とか。なんという凶器。

 外見こそインテリと思慮の塊みたいなくせに、中身は短絡的で易刺激的で。奴が完全にぶちキれたところは一度しか見たことないが、本音を言えば何度も見たい代物ではない。手に負えなかったり、始末が悪いわけではない。とても犯罪抑止のために滅私奉公している職業に就いているとは思えない。あの時奴は、本気で私を殺そうと。

「閉めてけ」

「二分で何とかしろ。それ以上待てない」

 タオルで水滴を拭いながら。奴がどんな態度で待機しているか想像する。不貞腐れ。引き攣り。貧乏揺すり。正解は、通話中。

 上司辺りから叱咤激励かと思ったが、聞き耳を立てずとも、そうではないことはすぐにわかる。声の質が平常とまるで違う。対、女性用の。しかも奴が好意を持った相手にしか使わないとっておきの。反吐も出ない。

 ようやく奴が私に気づき、極めて自然に電話を切る。わざとらしい。

「二十分もオーバだ」

「未来のお偉方は職務中にも優雅なもんで」

「うるさい。いまのは」

「ほう、へえ」

「信じてないだろ。なんならリダイヤルするか。新しい上司だがな」

「その新しい上司サマと。ほう、へえ。さすが出世のためには手段を問わない」

 確実にムキになっている。表情を取り繕っているつもりだろうが、首から下の動揺が隠しきれていない。まんざらハズレでもなかったか。

「そうゆう出世方法もあるんだな。標語にしてパトカーに貼っと」

 読みどおり。湯船に遣っていなければ。

「殴れよ」

 わざと布団の上。私が怪我でもしたら奴が一番困るから。

「そうすりゃお前、俺に付き纏わなくてよくなる」

「浅はかな小細工はやめろ。俺を怒らせて監視役解任させたいんだったら無駄だな。俺は絶対お前から離れない。例のお前の特異体質がなくなるか、お前が俺を殺しでもしない限り」

 前者はいずれなくなる。希望的観測だが、その特異体質持ちの本人が言うのだから間違ってない。もって一年。いや、半年か数ヶ月。奴はそれを知らない。知らずに云っているのだから困る。報せられない。知らすつもりもない。そして、後者。

 おそらくあり得ない。万一あり得たとしても、主語が異なる。奴を殺すのは私ではない。奴だ。

 奴がゆっくり体を起こす。スーツが皺になったらしい。ざまあみろ。

「行くぞ」

「どーぞごゆるりとおひとりで」

「お前が行かないでどうする。今日はどこだ」

 なぜそんなに楽しそうなのか。ケーサツになるような不届きパーソナリティは、なべてこんななのだろう。これから出掛ける先で、何某かが不幸になっているというのに。

 だから私は出掛けたくない。一生家に引きこもっていたい。そうすれば、少なくとも私の周辺で人が辛苦悲哀を味わうことはなくなる。確率論でもなんでもない。私が事件に吸い寄せられるなんて、推理小説の探偵染みたことも起こっていない。ちょっと考えればわかること。発想の転換だ。

 私が事件を起こしている。それが真実。

「またその話か。原因部分はどうだっていいと云ったろう」

 結果として、私の行く先々で事件が起こっているのだから、それを未然に防ぐことはできなくとも、でき得る限り早期対処することで、被害を最小限に食い止める。筋は通っている。聞こえもいい。

「できてんのか」

「それをするのがお前だ。自分で察知して自分で解決できるんだからな」

「そんなまだるっこしいイタチごっこちまちま続けるより、もっと根本的な解決方法がある。俺を監禁してどっか閉じ込めとけばいい。やってみろよ。間違いなくお前らの仕事減るから」

「俺の一存では決められない」

「じゃあさっきの上司とやらに電話つなげよ。俺から云ってやる」

 手を出したが奴は動きもしない。ケータイ仕舞った場所くらい。

「疲れてるんだ」

「疲れてるよ。どっかの口うるさいストーカのせいでな」

 奪えないこともない。でもやめておく。私が熱くなればなるほど奴は冷静になる。逆上した自分がどうなるのか、わかるから抑える。大丈夫。まだ、平気。

「今日は休んでもいい」

「なんだ急に。やる気満々はどこいった」

 奴がコーヒーを飲み干してカップを洗う。コーヒーメーカも片付けた。荷物を持って靴を履く。

「いいのか。勝手に出掛けるぞ」

「外にいる」

 それだけ言い残して、奴は出て行った。なるほど。私の頭が冷えるのを待っている。危害の加えられないよう、距離をとって。視なくともわかる。本当に外にいる。覆面パトに乗って待機。

 奴が私に付き纏うのは、出世のため。出世は目的ではない。手段。奴の本当の目的など聞きたくもない。聞いて厭きれる理由に決まっている。出世してケーサツ組織を変えるだの、犯罪のない平和な世の中を作るだの、国民が安心して暮らせる日本を、以下略。清々しすぎて気持ち悪くなってきた。

 理想論にまみれた奴を突き動かしている原動力は、単なる正義感。だから厭なのだ。ケーサツなんか。憎らしい。

 奴は私の家には泊まらない。泊まる必要がない。午前中まったく使い物にならない私の生活リズムを知っているから。私が起きる前に訪ねてくればいいだけのこと。一緒に暮らす必要もない。特異体質が発揮されるのは、その日私が一番最初に出掛けた場所のみ。もちろん、何も起こらない時だってある。確率論ではないのだ。私にその気があれば何かが起こるだろうし、私にその気がなければ何も起こらずただの無駄足。

 それでもケーサツは私に見張りを付けた。眼をつけるきっかけになった事件にたまたま奴が鉢合わせたということで、奴が適任とされた。私が協力する姿勢をこれっぽっちも見せないにもかかわらず、ご苦労にも毎朝通いつめる。それが仕事だから。

 奴を私の家に来させなくする方法。簡単だ。気に入らないから担当を替えろ、と訴えればいい。ケーサツに。それだけの話。たったそれだけのことで、奴のクビが飛ぶ。私の意向次第で、奴の運命など造作もなく捩れ歪め。

 駐車禁止の標識など見えないのだろう。奴のメガネは度が狂っている。路駐中の趣味の悪い車のウィンドウを叩く。

「学科からやり直せ」

「何の話だ」

 助手席に乗る。行き先は、ふたつ。どちらにしよう。どちらを先にしたほうが、奴を劣等的に遠ざけられるだろう。

 私はケーサツなんか大嫌いだ。もっと嫌いなのは。

「探偵、目的地は」

「俺は探偵じゃない」

 犯人だ。

 推理も謎解きも必要ない。俺が犯人なんだから、俺がすべて知っている。自分のやったことを口に出せばいい。主語を変えて。

「お前に逢いたかったから」

 やった。

 もうだめ。不可逆。


      4


 目撃者ゼロ。そんなことがあろうか。

 一人目は公園。二人目は学園。三人目は庭園。四人目は霊園。地理的に近すぎる。すべて管轄内。同僚たちは自分の管轄内で被害に遭っている。

 一年前は動物園だった。遊園地だったかもしれない。どこでも同じだ。遺体は消失してしまったのだから。目撃者は私と探偵。二人だけ。証拠不十分。ただ、彼女だけがいなくなった。

 生きているのだろうか。生きているのならなぜ会いに来てくれない。無事だと姿を見せに来てくれない。私に愛想を尽かしたのだろうか。失踪。別れたいならことばで言ってくれれば理解したし了解した。私たちはちっとも恋人らしいことをしていない。セックスどころか手をつなぐことすら。なぜ付き合っていたのだろう。いまとなっては、アプローチがどちらからだったかもわからない。

 新しい上司が眉をひそめる。そうだった。私は現場に出向いて部下に見つかったのだった。前の上司は飛ばされた。果たしてどこに飛んだのか。空ではないことは確か。飛んだのは身体ではなく首だったか。

「居場所だが」

 心当たりがあったら初めから目的地に設定している。上司はその当たり前のことがわかったらしく、発言を途中で濁した。前の上司よりは見込みがあるかもしれない。私に向けた第一声がつまりは叱責でも皮肉でもなかった。いま優先すべきは過去ではない。未来、すなわち捜査。

「彼はどこまで関わっているんだね」

 この人についていけば出世できるだろうか。

「探偵を見つけることが事件の糸口につながると思われます。しかし、それは現時点ではなんとも。つまり、こちらでも独自の捜査が求められると」

「で、君は独自に捜査していた。とそうゆうわけかな」

 成程。遠回しに責めるのか。厭な手口だ。

「何かわかったかね」

「わかったとしても披露する気にはなれません」

「何故」

「あなたを信用していないからです」

「誰なら信用するのかな」

 引き出しが開いて中から、紙切れ。少なくとも私にとっては単なる紙切れではない。上司が眼鏡をかける。

「読むのが面倒だな。まあ、そうゆうことだ」

 辞令。

 そんな、まさか。

「クビでしょう」

「クビだよ。私だってそう思ったさ。でもね、ああ、わからんな。わからん。私にはわからんことが多い」

 見なくてもいいことは見ない。聞かなくてもいいことは聞かない。知らなくてもいいことは知らない。今度の上司はそうゆうスタンスか。こいつも駄目だ。適度なところで関係を切ろう。私にはそれができる。すぐに私がその椅子より上に行く。

 なにはともあれ、私はまた探偵の監視係に復帰できた。当然だ。これは私にしか務まらない。相性や実力云々でなんとかできるものでもない。怠惰で寡黙な探偵に足りない部分は、ぜんぶ私が補える。すべて私が兼ね備えている。

 違法ディスク。実は一つ持ち出してしまった。証拠品ではなく参考に。調べてもらうつもりもない。なにか、引っ掛かる。気のせいならいいが、たまにこうゆうことがある。あとでわかって、あのとき、と後悔するのが落ちなのだ。きっかけがあるのに意味が取れない。勘というより予感。

 公園には行ったから、学園あるいは庭園あるいは霊園。場所の共通点は園だが、次に犠牲者が出るなら、私か。探偵の監視役が死ぬのだから。園の付く。果樹園。荘園。田園。菜園。御苑、は字が違った。植物園。漢字テストになってきた。

 探偵の実家。ふと思いついたが、なぜそんなことを。場所はわからなくもないし、ここからそう遠くない。いるのだろうか。いなくても、ここで無益な漢字テストをしているよりはずっと有益な気がする。

 割に大きな日本風家屋。来たのは二回目。最近まで親戚が住んでいたとのことだが、諸事情により引っ越したらしい。いまは無人のはずだが、やけにきれいだ。手入れだけはしているのかもしれない。探偵はニートでも、この家の所有者はカネがあるのだろう。

 鍵は開いている。一度に百人訪ねてきても余裕で靴を並べることができるほどの拾い玄関。そこに、なにか。

 探偵だ。でかい図体が横たわっている。仰向け。頭が戸口側。特に外傷はないようだったが、揺するとまずいかもしれないので声をかける。

 眠っているだけか。場所がおかしい。眼を開けたがすぐに閉じる。私の存在に不満があったのだ。腹が立つ。

「何してる」

「見りゃわかるだろ」

「わからないから訊いている。なんでこんなところで寝転がってるんだ」

 久しぶりなのに、ふてぶてしい態度は相変わらず。寝たふり。眼を開けない気だ。地べたに後頭部をつけたまま口だけ動かす。

「そりゃこっちのセリフじゃねえの? クビになったからっつって泣きついたって」

 再び監視係の任。私はそれを告げる。

 探偵が跳ね起きた。すこぶる厭そうな表情。そうだろうと思う。

「はあ? ケーサツなんざよってたかってなんぼじゃねえの?」

 集団から逸脱する者を排除する方向だと云いたいのだろう。同感だ。私のことを買ってくれている人が上層部にいるとも思えない。私はまだ顔を売るほど有名になっていない。可能性としては、探偵と唯一コミュニケイションが取れることだが。

 いまは瑣末な問題。いまの重要な主題は。

「どこで手に入れた」

 そうあからさまにそっぽうを向かずとも。

「知らないとは言わせ」

「知らね」

「お前の家にあった」

「フホー侵入」

 訊き方を変えても無駄だろう。私は尋問が得意ではない。云いたくないならいい、と思ってしまう。それがいけないのだ。

 探偵が髪や服についた土を払う。タオルを貸そうと思って気づく。ゆび。車に置いてきた。置いてそのまま。これこそ本部に捨ててくるんだった。

「見たんだろ」

 頷く。

「ありゃ俺んじゃねえ。やったのも俺じゃねえ」

 探偵の指。見るまでもない。いちにいさんしいご。左は違う。

「でもやった奴は知ってる」

「誰だ」

 眼が合う。珍しい。あまりの珍しさに、私のほうから逸らしてしまう。

「わかんだろ」

 奴だ。やはり、奴がまた。

「てめえの同僚の、なかったろ」

 なにが。

 ゆび。

「見てねえのか」

「見たのか」

「お前の仇がやったのは、死体から持ってっただけ」

 じゃあ。

「犯人は」

 別に。

「そいつも俺の知り合いだがな」

 知り合い。彼女を殺した奴も、同僚を殺した奴も。

「逃がした」

「追ってたのか」

「疲れた」

 眼の下に隈。痩せたように見えたのは、そのせいだったのか。いつもぐうたら寝こけているのでつい。

 探偵が風呂に入っている間に、汗を拭う。手を洗う、と云ってタオルを借りた。嘘は吐いていない。手も洗った。探偵の前では上着も脱がないしネクタイも緩めない。意地なのだろうか。なんのために。暑い。夏は暑いのだ。

 窓を開けたので風が通る。少しだけ涼しくなった。足音。まずい。探偵が戻ってきた。いつもはもっと風呂が長いのに。間に合わない。なんてことだ。どうせ鼻で笑われる。俺が見てないと思って油断しただろ。

「寄越せ」

 格好は無視か。寄越せ。ああ、タオルのことか。

「洗濯して返す」

「いい」

 引っ手繰られた。意地になって取り返すのもあれなので、まあいいか。借りではないだろうし。石鹸のにおい。風上に探偵が座る。私が汗臭いので当然か。

「行ってこい」

「結構だ」

 シャワーの隙にディスクを破棄される。おそらく、そう。探偵は犯人を庇っているのだろうか。庇う。知り合い。どの程度深い。

「戻ったってのは」

「本当だ。四人も殺されてようやく」

「辞めろ」

 そんな云い方。

「辞めない。それに辞令が」

「んなの意味ねえよ。俺が取り消させる」

 そんなに厭か。

「何が不満」

「五人目はてめえだよ」

 そんなの。

「確かにお前の担当が」

 わからなくない。探偵がそう云うのなら、それは真実。確実で絶対の未来。私は殺される。近いうちに、彼女を殺した奴によって。性犯罪。

「死にたくねえなら従え」

 ケータイを奪われる。上着のポケット。脱いでいなければよかった。上司直通。私はまた外される。せっかく復帰できたというのに、半日ももっていない。

 ただの紙切れだった。あんなもの。早く出世したい。出世すれば自分の人事くらい。

 探偵がケータイを叩きつける。畳の上。

「帰れ」

 帰らない。

「帰れよ。死ぬぞ」

「お前が捕まえるのか」

「俺はケーサツじゃあない」

 不可能だ。これ以上ここにいる意味がない。ネクタイを締めて上着を羽織る。ケータイを拾う。壊れてなくてよかった。あ、ディスクが。音。

 割られた。探偵が踏んづけて真っ二つ。

「忘れろ。てめえには向いてない」

 わかっている。私にこの職業は相応しくないことくらい。でも、私はこの職種に就きたかった。何故か。

 何故だろう。忘れている。忘れるべきか。一年前も、彼女のことも。

 探偵と初めて会ったのは大学のとき。入学年度は同じだが、探偵のほうが年上。講義にも出ずひたすら図書館で本を読み耽っている巨人。学部は違ったが、目立つ外見のせいで学内では有名だった。変人として。

 そんなことを続けていればいつかは追い出される。一つも単位を取らなかったせいなのか、探偵のほうから申し出たのかはわからない。私が四年になった夏、探偵は大学を去った。

 確か探偵と再会して、初めての事件がそれ。一年前の夏、彼女の。

 そして幾つ目だったか、未遂なのか狂言なのか、出不精な探偵が単独行動をした事件があった。違う意味で記憶に残っている。私が左遷された事件だから。

 これのせいで出世の道が遠ざかったのだ。同期はとっくに指揮を執る側に。管轄が違うから顔を見なくて済んでいるが、噂は耳に入る。耳障りな雑音。

 そうやって思想が歪んだ輩が上へ上へと登れるのだから、ここは朽ち果てる。かといって私がここで離れればもっと錆び付く。私だけでは、どうしようもない。変えられない。だから、探偵が必要だったのに。私一人で立ち向かえというのか。この魔窟に。

 霊園。気づいたら。車を降りて歩いてみる。同僚、本当は部下になるはずの人間、が私に気づいて近寄ってくる。適当にあしらう。用なんかない。捜査する意味もなくなった。

 ゆび。こいつらに預けても、説明が面倒だ。どうせ解けない。絶対にわからない。埋めようか。ちょうどここは霊園だ。いちにいさんしい。四本。五本あったはずなのだが。木陰で確認する。やはり四。どこかで落としてしまったのだろうか。車だ。気味が悪い。あんなものが車に生のままで。

 取りに戻ろうにもなんとも。一本は別途なんとかしよう。当たり障りのなさそうな土地を見繕って、穴を掘る。視線。木の上に、なにか。

 飛び降りてくる。少年だった。ぶかぶかのTシャツ。左肩が出ている。脚の形がわかる膝丈のズボン。白い肌は日焼けをしていない。黒い髪と大きな眼。中学生にしては童顔すぎるか。すっとしゃがんで、私の手元をじっと見る。タオルの中身。

「違うんだ、これは」

 違う。なにが違うというのだろう。隠してももはや。

「頼む。誰にも」

 なにを慌てているのだろう。死体遺棄。首元が熱い。汗が流れているのがわかる。少年は眼をぱちくりして頷く。私の手元をじっと見て指を差す。五本のゆびを。

「ちょーだい」

 なにを。

「ちょーだい。欲しい」

 どれを。

「くれる。僕、だまる」

 それを。

 差し出すしかない。タオルごと手にのせる。少年はにっこり笑って走っていった。善かったのか悪かったのか。脚の力が入らない。指にも。

 気持ちが落ち着いてから車に戻る。クーラの冷風を顔に当てる。いま何時だろう。時計の数字が読めない。ゆび。そうだ。一本落としたんだった。車の中を探してみる。

 なかった。どこにも。どこに。

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