彼女のディーノ

フカイ

掌編(読み切り)

 彼女はいま、レマン湖を望むジュネーブの郊外の邸宅に、国際的な名声を持つ職業人の夫と、3人の子どもたちとともに暮らしている。


 邸宅のガレージには、何台かのクルマ。

 家族で広大なヨーロッパ大陸を移動するためのステーション・ワゴン。そして夫がビジネスの移動の目的で使用するサルーン。彼の若き日の思い出の詰まった小さな趣味のクルマ。そして彼女のイエローのディーノ。






 彼女はティーネイジャーの頃、日本でアイドルとして活動していた。


 その常人離れしたエキゾチックな容貌は、周囲の大人たちを時めかせ、彼女の望みとはまったくかけ離れた世界へ彼女を連れて行った。


 そこで彼女は望むと望まざるとに関わらず、トップアイドルとして扱われ、常に偶像として、生身の身体を離れたイメージの存在として取り引きされた。


 メディアは彼女の率直な言動に必要以上に過敏に反応し、生意気だ、あるいは世間知らずだと騒ぎ立てた。そしてそれを素直に信じ、彼女はその美しすぎる外見とともに、いささかズレたところを持つ人物として、大衆に記憶された。






 彼女は、しかし、そういった自身のアイデンティティーの大いなる齟齬そごに関して、悩み、悲しむことがほぼ無かった。


 何故なら彼女にはそもそも、自己を客体化して冷静に見つめることのできる性格を持っていたからだ。その結果、マスコミと世間が理解した彼女の偶像を、むしろ利用し、それにあわせた振る舞いをすることで世間を欺き、そうすることで上手く世間からフェードアウトしていった。


 平たく言うと、彼女のキャラクターは、この、ということだ。

 むしろ強烈な個人主義者で、他者と自己を常に異なるものとして認識し、その断絶こそが愛の発足点となる欧州の人々とのほうが、彼女にとっての親和性が高かった。

 レマン湖を望む邸宅の窓辺で、子どもたちの服を干すためにバルコニーに立ち、遠くに離れてしまった故国を思うとき、彼女の心は悲しみではなく、むしろ平穏を感じる。懐かしさではなくむしろ、異国情緒を覚える。






 彼女が彼女の成人の祝いとして、自分自身に買い与えたフェラーリの六気筒は、「ディーノ」という名前を持つ、美しいスポーツカーだ。

 浮世離れしたその魅力的なボディと、小さなエンジンが生み出す動的性能は、今現在でも熱烈なファンを生み出すほどの、ユニークさを併せ持っている。

 欧州で、やはり有名人セレブレティというよりも上流階級アッパークラスの婦人として暮らす彼女には、その六気筒がとても良く似合う。


 そもそも階級クラスという概念を理解することも、社会に定着させることもできないこの貧しい国には、言うまでもなく、彼女も彼女のディーノも、似合いはしない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女のディーノ フカイ @fukai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る