1話 青の目覚め(2)

 息をのむ。

 まったく記憶がない。思い出せないのだ。


 名前。性別。年齢。誕生日。生まれた場所。育った場所。

 親の名前。兄弟の名前。友人の名前。好きな人の名前。

 嫌うもの。憎いもの。恨むもの。忌むもの。

 ここにいる理由。

 何もかもが自分の記憶として引き出せない。

 


「……どうした、アスール?」

 そう語りかけてきたのは目の前に立つ紅い髪と瞳をした少年だ。

 鏡から視線を外して彼の顔を見る。

 ……心配そうにぼくを見る彼は、悪人は見えなかった。

 ぼくの分からない幾つかの言葉を口にしたあと、彼は目をじっと細めた。

「アスール……本当にどうした」

 ぼくの頬に彼の指が触れ、そっと離したそこに雫が伝っている。

 知らないうちにぼくは涙を流していたらしい。

 無意識で怖がっているのだろうか。今のこの状況を。

 言葉を返すために何度かつばを飲み込み、喉の渇きをかき消す。発声する過程で何度か捻り出したぼくの声は、声変わり前の少年のものように思えた。

 3度目の試みのあと、ようやく言葉らしい言葉をぼくは吐き出すことができた。

「……分からないんだ。ぼくのこと、全部」

 たどたどしく繋いだ文章であったが、紅い髪と瞳をした少年は状況を察してくれたらしい。

 彼の表情に少しだけ強張りが見える。

 視線を外さないまま、ぐっとぼくに顔を近づけた。

「いつからの記憶ならある?」

 紅い瞳がそう言ってぼくを

「き、君が呼びかけてくれた頃からなら」

「……なるほど。”君”、か」

 そう言って、紅い髪と瞳をした少年が表情を崩して笑みを浮かべる。

 何かおかしいこと言ったのだろうか。

 表情の遷移の意味が解せず茫然とするぼくを見て、彼はかぶりを振ってすまないと謝罪した。

「俺の知っているアスール=ファンダルは、人前で泣いたり、人のことをそう警戒した言い回しで呼んだりはしないんだ」


 まだ15か16。ぼくより少しだけ年上に見える彼は優しくそう言った。

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アスール戦記 浮椎吾 @ukisiia

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