最終話

 次年度から本社に戻ることになった。また、バレンタイン内示だ。


 年末から出張扱いで、体調を崩した社員の代わりとして本社に戻り、タウン誌の編集と取材の手配をこなした。その働きぶりが評価されたのかもしれない。

 半年以上、印刷所の仕事をしていたことで、最初から決め打ちの誌面レイアウトが出せるようになり、DTP作業の速度も上がった。チーフの補佐として、監督の役割を担うことが多くなった。反面、すぐに現場復帰という訳にはいかなかった。現場の感覚は、同期の営業に同行して取り戻していった。


 社員間の噂話でしか聞いていないが、社内行政の中で、旧権力側の一掃が行われたらしい。今まで、大人しかった学閥が急に発言力を持ってきたようだ。特定の派閥に属さない実里は、そういった干渉を受けづらい立場にいる。ただ、上司の配置が変わっていたことや、人事異動について、気遣う言葉をかけられるようになったことで、この先、少しずつ変わっていくことが分かった。あれほど憎んでいた元上司の顔さえ実里はろくに思い出せないというのに、周りの方がそういうことは覚えているものだ。


 鹿野は二月から産休を取っている。彼女が辞表を提出した際、パートの女性全員が反対した。その影響力は計り知れず、本社から来ている総務の社員は、人員配置がより流動的になることに不満があったようだったが、彼女たちの結束は固かったため、早急に態度を改め、辞表を受け取らず、産休の手続きを申請した。


 実里は、鹿野に復帰の意思があることを口添えし、精神的な不良を訴えた社員を彼女の復帰までという条件で、印刷所でリハビリさせる案を提出した。実際に、その配置で動くようになった。あちらの仕事も忙しいはずだが、メールのやり取りをしていても、以前のような切迫感は感じない。彼女が完全に復帰して、私があちらに戻ることになっても、もう、不満に思うことはないだろう。


 でも、多分、それがないこともわかっている。本社に戻るタイミングで昇進の話が伝えられている。


 何となく里奈にそのことを連絡すると、「出家するつもりが出世したね」とからかわれたので、「誰のせいで出家しそうだったのよ」と返信しておいた。鹿野には本社に戻ることだけ伝えたはずだったが、「先輩はどうせ出世でしょ。私のおかげですね」と意味が分からない返信が返ってきた。


 3月の山道は軽自動車では登れなさそうだった。車を山の下の駐車場に置き、歩いて階段を上っていく。ダウンを着て、マフラーで顔を覆った。今年は暖冬で、風景こそ雪景色だが、暖かかった。それでも、冬物のふくふくとした安心感は、動物としての本能が呼び起されるから得られるものなのか、気持ちを穏やかにした。


 見舞いを兼ねた最後の挨拶に行く。正門をくぐると、庭には滑らかな波が広がっている。廊下を渡る足音が聞こえた。そちらを向くと、大橋が立っていた。


「お久しぶりです。すみません、勝手に入っていました」

「いえいえ、結構ですよ。お久しぶりです。お茶でも持って来ましょうか?」

「あの、お構いなく。えっと、これ、みなさんで食べてください。私、来年度から引っ越してしまうので、ごあいさつに」

「そうでしたか。残念ですね。お気遣いいただき感謝いたします。まあ、みなさんといっても、今は私だけになってしまいましたが」

「え?」

「酒井さんが年末亡くなりましてね。親族の方もあなたにお礼がしたいということだったんですが、お伝えする時期を逸しました。新しく入ってくる方もおりますが、息子さんが跡継ぎではない以上、すぐにお任せするのはなかなか…。といった訳で、私が代理です」

「そうなんですか。酒井さんの御病気は、進行が遅いとお聞きしていましたが」あまりに突然のことで動揺する。


「隠していたようですが、他にも様々あったようでして。さらに検査で分かったようで。娘さんと息子さんが交代で来ていましたが、結局、退院することなく、そのまま逝きました」

「ご愁傷様です」実里は頭を下げた。

「本当に残念です。また、機会があれば是非いらしてください。私もまさかこの歳でもう一度寺を任されることになるとはね」

「えっと、安田さんはどちらに行かれたんですか?」

「ああ、そうですよね。吉田さんのお寺に移られましたよ。檀家会では反対されたのですが、最後は彼自身が移る意思をきっぱりとお伝えしていました。酒井さんが亡くなった直後は泣き腫らしてもおりましたが、すっかり精悍な顔になりました。あなたのおかげだともおっしゃっていましたよ。是非、会ってあげてください」

「ああ、ええ。機会があれば。そうですか」


 ここに来ればいつでも会えると思っていたのに、してもいない約束を破られた気分になって少し寂しかった。


「そうだ、あの、少し手伝わせていただいても構いませんか?ご迷惑ですか?」

「構いませんよ。どうです? お食事もされていったら」

「いえ、お構いなく」

 

 作務の後、結局、大橋に押し切られて、婦人会の面々と一緒に食事をとった。最後だと思うとしんみりとする。いつか話しかけてきた夫人が寄ってきて、実里の膳の前に座った。休憩時間のため、皆、歓談中だ。


「あなた、お仕事のことはもう大丈夫なの?」

「ええ、もうすっかり」実里は笑って見せる。

「そう、それは良かった。いなくなっちゃうんだってね。あのね、悩みがあったら、相談しに来るのよ。それと、これ、私の家の番号ね。もし、よかったらなんだけど、たまに電話くれないかしら?」


 電話番号を書いた紙と一緒にティッシュに包んだ現金と一緒に紙が渡される。お金は何度も断ったが、結局受け取ることになった。


「なかなか時間がないかもしれませんけど、こちらのお母さんだと思って、電話します」

「あそう。嬉しい。私も姑の目があるから長電話できないし、大丈夫よ。本当はね、こうやって、電話ができるかも知れないって思える人が一人でもいれば、私、嬉しいの。それだけで人生がずっと楽になったみたい」夫人は笑いながらも目頭を押さえている。

「私も嬉しいです」実里は微笑んだ。

「じゃあね。あ、そうだ。みかんいる?たくさん余ってるのよ。カバンの中に入ってるから。ちょっとだけ、待っててね」


 そう言い残して、彼女は本堂の方へ小走りで戻っていった。一生懸命に気遣いをしている姿は、開き直りの強さを感じる。そして、それは彼女自身思っているほど悪いことではない。

 結局、人生に苦悩は尽きないし、誰かに話したからといって、それが仏であったとしても、実際に軽くなることはないのかもしれない。それでも、誰かが、その一部を分かち持ってくれているのだと信じることができれば、確かに生きていきやすいものだ。


 安田が使っていた部屋の縁側から枯れた色をした庭を見つめていると、白い花が目に留まった。あの花、フタリシズカだ。ここからも見えていたのか。


 実里は、最初に迷い込んだ庭に出てみる。巨木があった場所を覗いた。当たり前だが、あの日鹿野も含めた三人で埋めた骨はどこにもない。その暗い穴を見つめていると苦しくなる。こんな暗い場所に隠されるより、一緒に連れていってくれる方が良い。どこへでも、どこまででも。

 

 白い花の目の前に結跏趺坐で座った。澄んだ空気に乗って、低い読経の声が聞こえる。

 

 落ち葉が乾いた音を立てる。冬の香りがした。実里は深呼吸して、目を閉じた。

 

 つまさきから頭の先まで地面から冷たさが伝わった。

 今まで散々浮かんできていた悲しいことが今は何も思い出されない。

 ここは何かを願う場所ではないけれど、今だけは願わせてほしい。


 里奈と将平がどこまでも二人で歩いていけますように。

 鹿野とその子供がずっと幸せでありますように。

 安田と彼女がいつの世も一緒でありますように。

 

 目を開けて、白い花をひとひら手に取り、摘んだ。なぜだかわからなかったが、そうするのが自然だと思った。

 

 不思議と笑みがこぼれる。


 実里はその花を大事にしまって、みかんを持って微笑んでいる彼女のもとへ戻った。

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