So What?

フカイ

掌編(読み切り)



 進行方向に深くたれこめた雨雲が見える。

 街が途切れ、海沿いの国道をゆっくり流している。晴れた日なら右手の紀伊水道が美しく見えるのだろうけれど、今日はその海原も濃緑色に沈んでいる。


 こんな時期に単車でツーリングに出かけるなんて。仕方がないとは言え、気が滅入る。

 両脚のあいだに挟んだ408ccのSOHC四機筒も、朝から機嫌が悪い。

 紀伊半島をゆっくりと南下している。今日は潮岬までゆくつもりだ。


 毎年は9月の末、暑さが一段落したところで前後の土日をくっつけて10日程度の休暇を取り、愛車にまたがってツーリングに出る。

 しかし今年は仕事が片付かず、9月にはとても休みをとることができなかったのだ。致し方なく、10月の末に東京を発った。すでに気温は下がり気味で、オートバイに乗るベストシーズンを過ぎていた。


 自分と同い年生まれのセミ・クラッシックのこいつも、時間がなくて完全整備には程遠い。四連キャブレターの油面調整をキチンと出していないから、四機筒の吹上も今ひとつだ。

 午後はあの雨雲の下を走らなくてはいけないな、と思いつつ、ヘルメットの中で嘆息する。


 ―――翰那ハンナなら、こんな時どう言ったろう。

 古いヨーロッパ車を愛し、人並み以上にハードな運転を好むあのパートナーは、雨を愛した。雨が降れば雨漏りし、貧弱な足回りは途端に車体をバタつかせる時代のクルマに乗っているくせに、その雨の不都合を彼女は喜んで受け入れた。


「あなたは悲観的すぎるのよ」と彼女は言う。「世界は思ったほどひどくはないものよ。雨の中を走るとそれがよく分かるの。雨は全てに平等だから」


 それはオートバイに乗らない君だから言える言葉だ。多少雨漏りしても、普段着でいられるクルマだから言えるセリフだ。

「オートバイに乗ってみろよ。そんな悠長なことは言っていられないぜ」

「それはあなたが選んだことよ。私が選んだことではないわ」

 それはよくある恋人同士の痴話喧嘩のようなものだ。

 その会話の行き着く先はすぐに想像できる。

『私は私が選んだ人生を全うしているから』、と言われるに決まっている。

 在日韓国人であり、尹翰那イン・ハンナという韓国名を胸を張って名乗る彼女。でも在日であることに悩む素振りは見せず、日本人以上にこの国で立派に暮らす彼女。東京の有名な大学を出て、一流のコンサルティング・ファームに勤務し、有り余るほどの報酬を全て、マニアックな古いヨーロッパ車につぎ込む彼女。それは彼女に言わせれは、韓国籍としての自分の人生を全うする、ということなのだ。

 それに対して、祖父の代から日本名を名乗り、日本人として暮らしている自分。

 翰那とは同郷の幼馴染であったが、上京してからはすっかり縁遠くなり、偶然東京の共通の知人の紹介で再会した。


 最初に飲みに行った夜、そのまま翰那を抱いた。

 子どもの頃からは想像もつかないような見事な肢体。華奢なランジェリー。そして、たっぷりと潤って、よく締まる性器。

 いまにして思えば、たがいに勢いに乗っていた時代だったのだと思う。仕事も順調、将来の見通しも明るく、いつか全てが上手くいくような、根拠のない確信が互いの胸のうちにあった。なにより、お互いがこの国での異邦人ストレンジャーであるという点が、他のどんな恋人とも違う心の深い場所で自分を明け渡せる鍵だったのだと思う。


 それから四年。

 翰那の子宮頸がんが見つかり、彼女の葬式をあげるまで、我々の交際は続いた。

 翰那の意向で我々は入籍しなかった。「」と彼女は弱々しく笑った。

「縛れるほどの未来なんかないさ。オレみたいな根無し草にはね」


 翰那を失ってから三年が過ぎた。

 彼女のところにあった古い欧州車は、その筋のマニアに売り払った。火を入れないまでも自宅のガレージに置いておけるような甲斐性があればきれいなストーリーだ。しかし、実際にはそんな骨董品を維持できるほど生活に余裕はなかった。それでなくとも手のかかる国産バイク一台だけで、こちらの生活はギリギリだ。

 翰那は笑って言ったろう。「仕方のない人」、と。

 こちらも苦笑を浮かべる以外、返す言葉を持たない。


 大粒の雨が降り出す。

 ゴアテックスの雨具は、長年のツーリング経験から、レイングッズだけはケチらないと決めた大人買いの産物だ。雨の中でも蒸れず、冷えず。長いツーリングにあっても集中力を維持させる。


 潮岬まであと10キロ、の標識が雨に叩かれて飛び去ってゆく。

 宿についたらとにかく熱い風呂に入ろう。

 もうそれしか考えられなくなる。

 海を右手に見ながら右へ左へ。道は蛇行する。路面がドライなら、楽しいワインディングだろう。しかしこの雨では。

 ヘッドライトをハイビームにし、対向車に自車の存在を強調する。

 路面に当たる雨が、白く泡立つように見える。エアクリーナーを持たないレーシングキャブを積んでいるせいで、燃焼室に雨水が入らないか心配になる。

 急制動をかけるとフロントからすくわれて派手に転倒しそうなので、注意を払いながら巡航する。


 雨に濡れたちいさな漁師町。

 猫の額ほどの漁港を、国道がぐるっと半周する。そこをペースを落として車体をリーンさせ、抜けてゆく。晴れていれば美しいこの国の田舎の景色だろう。

「自分の国でもないくせに」と君は笑うのか? それもまた、翰那らしい。


 と、左の側道からいきなり白い軽トラックが鼻先を出してきた。

 軽トラの運転席の年寄りの顔が、こちらのヘッドライトに照らされ浮かび上がる。大きく見開かれた目。

 あ、と思った瞬間に自車はその軽トラの鼻先に衝突する。

 金属がひしゃげる音。

 ガラスの割れる音。

 そして、自分自身が濡れた路面に投げ出される。

 一度、二度、とバウンドして、豪雨の路面を滑ってゆく。

 身体を止めることさえ出来ずに、ただ、なすがまま、滑走してゆく。ヘルメットが激しく路面を削り、目から火花が出る。自分の先を、自分の愛車がスライドしてゆく。貴重なエキゾーストパイプが、アスファルトの路面にすり下ろされてゆく。


 死にはしない、と分かる。

 死ぬようなスピードではない。

 でも、対向車に轢かれるかもしれない。

 早く安全地帯に避難しなくては。


 そう思いながら、身体が動かない。

 so what?、と思う。

 翰那、お前ならなんと言った?

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