第3話 黒毒刃

 むせるほどに蒸し暑いガラス張りの温室の中で、その老人は一心に手を動かしていた。手押し車で重い肥料袋を運び、園芸用スコップで土を掘る。作業は遅々として進まなかったが、老人はむしろそれを楽しむようにして手入れを続けた。

 背後に軽い足音が響いた時、老人は驚かなかった。ここに来客があるとしたら、一人しか思いつかなかったからだ。

「〈深紅の栄光クリムゾン・グローリー〉だよ。見事なものだろう?」老人は軍手を嵌めたままの手で額の汗をぬぐいながら振り向いた。誇らしげな口調だった。「このあたりは土が合わなくてね……土壌の改良から始めなければならなかったのだが、苦労した甲斐はあったよ」

 まだ若い、パンツスーツで秘書の装いをした金髪の女は、赤いチェック柄のシャツ姿の農夫めいた老人を前にわずかに口ごもった。「……本日を持って、お暇をいただきたく」

 老人の笑みは崩れなかった。「、ということだね」

「はい……今夜だそうです」

 老人は目を細め、今まさに咲き誇る、あるいは咲こうとしている深紅の花弁を見回した。「いつかはこういう日が来ると思っていたよ。私が賜ったのは時間制限付きの魔法だ。ただ丹精込めたこの子たちまで灰燼に帰すのは、やはり……惜しいな」

「〈四騎士〉が投入されます」

「それでは誰一人生きて帰れまいな――気の毒に」

 老人は裁ち鋏を手に取り、薔薇の中でも一際見事な一輪を切り取った。「君に私が差し出せるものは、これくらいだ」

 何かを言おうとした女の言葉を封じるように、老人は首を振りながら言った。「によろしく。欲しいものはもう受け取った、と伝えてくれ」

 女は一礼し、踵を返した。

 遠ざかっていく軽い音を背で聞きながら、老人は作業を再開していた。

「……来るべきものが来た、というだけだな」


【皆さん、ご覧いただけるでしょうか。信じられないような光景です――数千ヘクタールに及ぶ広大な敷地、地上30階地下5階の〈ヘルメス流通〉カナダ・ケベック中央配達センターが、完全に消滅し、巨大なクレーターが現出しています……】

【先日お伝えしました人材派遣会社『G&Jガールズアンドジェリービーンズ』社上海支局の女性コンパニオン5名が出勤途中で消息を絶ち、昨日惨殺死体で発見された事件の続報です……】

【イスタンブール大学で発生した占拠事件の続報です。警察特殊部隊の突入により犯人5名が死亡、学生23人に及び……】

【マレーシア・ジョホールバルの大型複合施設で発生した爆発事件には、イスラム系原理主義組織〈ジェマ・イスラミヤ〉の名で犯行声明が出されており……】

 防護服姿のディエゴはリモコンを操作し、各モニターから流れてくるニュースの映像を消した。「世界十数か所での同時攻撃だ。〈犯罪者たちの王〉へのとしては充分だろう」

 モニター群の中の――やはり防護服姿の――〈連合〉メンバーたちが無言で頷く。

【しかしヨハネスにとっても痛手だろうが、俺たちにとってももっと痛手だ。『サービス』の使用を停止すれば日に数百万ドル近い損害が出るというのに……】

【それについてはもう話し合っただろう、ドゥドゥ。ヨハネスを生け捕りにし、その資産や世界各地の犯罪インフラに関する情報を吐かせれば、今回我々が受けた損害は悪くても差し引きゼロになる】

「そうだ。痛みは感じる。……だがそれは〈犯罪者たちの王〉も同じだと思えば、多少は愉快だ」

 口ではそう言いながら、白々しさの極致だな、とディエゴは密かに胸中で嗤う。仮にヨハネスが斃れ、〈連合〉が勝利したとしても今度は〈連合〉そのものが四分五裂して血で血を洗う闘争が開始されるだろう。まあ、それはいい。そんなことはここにいる誰もが先刻承知だろう。ヨハネスの首を取るまでの儚い連帯とは言え、連帯は連帯だ。

 コズロフが頷く。【よし――〈ムラヴォイ〉部隊、出動だ】


〈20XX/07/04 01:50

 オーストリア、チロル地方南西部エッツ渓谷タール

 昼であれば観光客の目を楽しませる、険しい渓谷と美しい渓流を禍々しいシルエットの黒塗りのヘリが3機、大容量の消音器によって音もなく飛ぶ。ロシア製のMi-38輸送ヘリを改装した特殊作戦用のステルス仕様ヘリである。

 風圧で河原の石と飛沫を吹き飛ばしているヘリから、人間大の昆虫よろしく一糸乱れぬ動きで人影が降り立っていく。人と呼ぶにはあまりにもいびつに見えるシルエットは、全身に昆虫を思わせる強化外骨格を装着しているからだろう。今回のヨハネス暗殺作戦の要――コズロフの誇る〈蟻〉部隊だ。

 異名の由来ともなっている、カメラと複合センサーからなる蟻そっくりのフルフェイスヘルメットを左右にめぐらし、彼らは油断なく周囲を警戒する。部隊の主力兵器である小銃と擲弾筒、あるいは近接戦用散弾銃から成る複合銃の銃口を構える姿にも隙はない。

「それにしても、よくヨハネスの根城を割り出せたな。俺たちがあれだけ血眼になって探し回っても見つからなかったのに……」

【〈Ⅰ〉の解析中にふと思いついた。もしかしてこれには何か能力の限界のようなものがあるのではないかと。でなければ〈連合〉はそれそのものが存在を許さず、抵抗すらできないままに叩き潰されていただろう】〈白狼〉の電子音声は誇る様子もなく淡々としている。【世界各地の〈Ⅰ〉の散布状況をデータ化してみて、不自然な空白がある場所に気づいた。居住さえ困難な高地や深海、あるいは人口密集地のような明らかに隠れ住むには不適切な場所、それらを注意深く取り除いていくうちに数か所に絞られた。後は根気の問題だった】

「大したものだ……」ディエゴは心底の感嘆を禁じ得なかった。「お前がいなければ無理だった。改めて礼を言うぜ」

 珍しいことに〈白狼〉は口ごもった。【……礼など、プレスビュテル・ヨハネスを仕留めてからにすればいい】

「それもそうだな。しかし、その……何とかって貿易商が家の持ち主なのか? そいつが我らが〈犯罪者たちの王〉の正体なのか?」

【ミヒャエル・ヘクトナー。ワインと綿織物の取引で財を成した、まあ地元の名士だな。食料その他の必需品はインターネットを使って月に数度麓から取り寄せている。逮捕歴も官憲とのトラブルもなし――綺麗なものだ。綺麗すぎて気に食わないぐらいだ】

【解せないな。電子空間上でだろうと商取引は何らかの記録に残る。ネットでなければ、人との取引は誰かが知っている。それさえも痕跡を残さないというのであれば、ヘクトナーとやらはこの場の全員を凌ぐ権力の持ち主ということになる】

【ぐだぐだ考えていても仕方ねえやな。突っ込もうぜ】とドゥドゥ。【こいつがヨハネスと関わりのある『何か』だってことに変わりゃしねえんだからよ】

 短絡的ではあるがそれなりに筋の通ったドゥドゥの意見にディエゴは微苦笑する。「そうだな。手をこまねいていても仕方がない。始めよう」

【始めます、頭目ヴォル

【ああ、行け。くれぐれも油断するな――〈犯罪者たちの王〉を確認するまではな】

 各〈蟻〉部隊員のヘルメットに装着されたカメラから、リアルタイムで映像が送られてくる。現場で指揮を執るのは〈蟻〉指揮官だが、ディエゴたちが現地の状況を把握するのに不足はない。それに各隊員のカメラだけでなく、上空に浮かぶ偵察用ドローンからも映像は送られてくる。

 最後のヘリから趙を含む、黒い獣を引き連れた黒いボディスーツ姿の男たちが声もなく降り立っていく。ディエゴには男たちが獣を引き連れているというより、獣たちに人間が追随しているようにも見えた。ぴんと立った双耳、鋭い鼻面、一片の贅肉さえそぎ落とされたような精悍な四肢――趙の軍用犬、いや、殺犬部隊だ。、護衛たちが引き連れる警備犬を見慣れているディエゴは、それらがどれほど優秀な犬かをすぐに見て取った。何でも趙は犬たちの攻撃性を維持するため、定期的に生きた獲物――獣であれ人であれ――を与えているらしい。並みの格闘家や兵士では、反撃すらできず屠られることだろう。

「それにしても本当にいいのか、趙? 直接あんたが強襲部隊に加わる必要があるのか? 部下たちに任せればいいものを」

【くどいな。俺にとっては犬も部下も同等だ。第一、犬たちは俺の命令がなければ動かない】

 前言は1ミリたりとも変えるつもりがないと言わんばかりの硬い声に、視界の端でモニターの中のドゥドゥが肩をすくめるのが見えた。「好きにさせておけよ」と言いたいのだろう。確かに趙が一人で張り切ってくれる分には、成否がどうあれディエゴたちは痛くも痒くもない(どころか、分け前が減るのはありがたい限りだ)。

 結局、全ての準備には3か月を要した。コズロフの〈蟻〉部隊と趙の殺犬隊が実働部隊、訓練地の提供をディエゴが行い、〈白狼〉はネットを通しての情報収集及び実働部隊の戦術支援、ヘリや弾薬・兵器類はドゥドゥの武器密輸ネットワークを通して供給、そして結構当日にはヨハネスの〈Ⅰ〉と各国治安機関に対する攪乱をジャルナハンが自爆要員による世界同時多発テロによって行う、という込み入ったものだ。

 それでもやるだけのことはやった、とディエゴは断言できる。懸念されていた〈蟻〉部隊と殺犬隊の作戦も、合同訓練を何度かこなすうち幾分かは解消されてきたようだった。役割こそ違えどプロ同士の間で麗しい友情が芽生えた、というところだろうか。

 やがて――濃い霧の中に建物が浮かび上がった。とりたてて堅牢にも瀟洒にも見えない、この地方ではよくある2階建てのログハウスだ。寒さに耐えるためだろう、造りはかなりしっかりして見えるが、それだけだ。裏にかなり大きめの――下手をすると母屋より立派な――ガラス張りの温室がある。

【なんと。塀すらない、哀れなではないか】ジャルナハンが嘲笑う。【わしの使用人が寝泊まりする離れの方がよほど豪奢だぞ】

【一番近くの住宅地やキャンプ場からも十数キロは離れている】と〈白狼〉。【銃撃戦が発生しても通報される可能性は低い】

【好都合じゃねえか】ドゥドゥは笑ったが、すぐに不審そうに呟いた。【何もかもおあつらえ向きって感じだな。好都合すぎて薄気味が悪いくらいだ】

【……ご指示通りの地点に到達しました。周囲に火器・致死あるいは非致死性のトラップ反応はありません。突入しますか、頭目?】

 奇妙な空気がディエゴを含む〈連合〉の間に広がった。言葉はなくとも、お互いの言いたいことはわかった。これが――こんな掘っ立て小屋が〈犯罪者たちの王〉の居城なのか?

 おかしいとは思う。だが、何も命じないわけにもいかない。

【突入しろ。抵抗があれば排除しろ……ただしヨハネス本人はできれば殺すな】

【難しいですね。ですが、やりましょう】

〈蟻〉指揮官が歯切れよく応答する。コズロフが彼にこの大役を与えた理由がよくわかるとディエゴは思った。彼に任せよう――どのみち、地球の反対側にいるディエゴたちには突入か撤退か、どちらかの命令しか下せない。

 複合火器とボディアーマーに身を固めた〈蟻〉たちが音もなくログハウスに殺到していく。

 突如、ログハウスの窓が内側から破られ、断続的に銃火が煌めいた。自動小銃の乱射だ。

【応戦しろ!】

 コズロフが命じるまでもなく〈蟻〉部隊員は反撃を開始していた。自動小銃を遥かにしのぐ発射速度で分隊支援火器がログハウスに向けて火を噴く。ろくに壁の強化もしていないのか、濡れ紙を破るように銃弾は次々と壁を貫通し、内側で悲鳴が上がる。

 シャンパンのコルクを抜くような軽快な音が立て続けに響く。複合火器の下部から発射された知能化擲弾スマート・グレネードによる攻撃。窓ガラスを破って建物の内部に転がり込んだ後で次々と爆発し、内側からの発砲は瞬く間に止んだ。

【突入!】

 ドアに突き刺さってから爆発する室内突入用擲弾ブリーチング・グレネードがドア枠ごと戸口を吹き飛ばす。間髪入れず〈蟻〉たちが突入、室内の掃討を開始する。

 裏口が開き、数人の男たちが銃を捨てて転げるようにして逃げ出してきた。だがその喉元に、黒い塊が稲光のように飛びかかった。ハンドラーたちに操られた殺犬たちだ。数匹でチームを組み、足に噛みついて逃げられなくした後で喉に食らいつく。武器を捨てた手にすら噛みつき完全に抵抗力を奪う徹底ぶりだ。あいつらに襲われる側でなくてよかった、とディエゴは身震いを禁じ得なかった。

 いつしか戦闘は屋内戦へともつれ込んでいたが、ディエゴたちはリアルタイムで送られてくる映像によってその推移をつぶさに見て取ることができた。突入班の散弾銃でドアごと撃ち抜かれた男が仰向けに倒れる脇へ、2階へ続く階段の踊り場でAKを乱射していた男が無数の銃弾で引き裂かれて階下へ転がり落ちてくる。遮蔽を取ってどうにか応戦しようとする者も、その遮蔽物に殺犬が踊り込み、追い出されたところを蜂の巣にされる。

 送られてくる映像は各〈蟻〉たちからだけではない。上空に浮かぶ偵察用ドローンは、何の電子的防御も施されていないログハウスを丸裸にしていた。

【〈蜻蛉ストリェコーザ〉より各〈蟻〉へ。キッチンに3人、応接間に2人】

【発砲の許可を】

【許可する。撃てアゴイ

 山腹に潜んでいた後方支援チームも攻撃に参加していた。OSV-96対物ライフルによる狙撃である。一発ごとに壁もドアも貫通して内部の人間の頭や腹部を引きちぎり、勢い余って別の人間にも命中する。

【順調だな】コズロフが呟く。満足しているような口調ではない。

「ああ」ディエゴもその意図を察した――あまりにも順調すぎる。

【α班、居間制圧】【β班、2階制圧】【γ班裏口制圧、護衛の死体のみ――対象は見当たらず】

【逃げられたんじゃないのか?】

「まさか。不意打ちだったはずだぞ」言いながらも、ディエゴはありえないとは言い切れない、と思い始めていた。ここはただの囮で、俺たちはまんまとそれに引っかかったんじゃないのか――

【こちらε班――温室にて動体反応】

「僻地へようこそ、兵隊さんたち! どうだね、私の自慢の薔薇を見ていかないかい? 自分でも会心の出来なんだがね」

 温室の中から「自分は味方」と言わんばかりに両手を振りながら、丸顔と同じぐらい丸い鼻、赤いチェック柄シャツを着た小太りの老人が現れた。

【顔紋その他の照合、98%の確率で本人と一致。ミヒャエル・ヘクトナーです】

 油断なく銃口を向ける周囲の〈蟻〉と吠え猛る犬たちに囲まれても、老人は笑みを崩さない。「それにしてもあんたら、大した出で立ちだねえ。一体何と戦うつもりなんだね? クリンゴン星人かい? それとも最後の大隊ラスト・バタリオンかね?」

【余計なことは言わなくていい】あからさまな揶揄に〈蟻〉指揮官は幾分か気を悪くしたらしい。【質問にだけ答えろ――お前は〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスか?】

「そのは私とは無縁だよ。ヨハネスかどうかという問いなら、

【はぐらかすな。はいヤーいいえナインかで答えろ】

「これでも精一杯誠実に答えているんだがね……なあ、本当に私の薔薇を見ていきたくはないのかい?」

 返事の代わりに、数発の擲弾が温室に撃ち込まれた。間の抜けた射出音だったが、焼夷弾による粘っこい炎はたちまち温室に充満し、黒煙と悪臭を上げ始めた。

 老人は悲しげにかぶりを振った。「ひどいことをする。ヴェルサイユ宮殿に巣食う白蟻だって、君たちよりはもう少し礼儀正しいだろうよ」

【長生きしたければ減らず口はほどほどにしろ。お前が本当にヨハネスでなければ、あの銃を持ったごろつきどもは何だ】

「護衛だよ。確かにごろつきでもあるが――こんなご時世だ、自分の身を守りたければ多少は御法に触れることを覚悟しないとね。もっとも彼らには気の毒なことをした。君たちにかかっては野良犬をけしかけられた雛鳥みたいなものだったな」

【それより自分のことを心配するんだな。正直に話すつもりがないなら連行するぞ】

嫌だニェットと言ったら?」

【貴様に拒否権はない】

「だろうね」老人は驚くほどの素早さで傍らに立てかけてあったシャベルを掴み、振りかぶった――しかし〈蟻〉指揮官がホルスターから拳銃を抜き出す方が早かった。

 大口径拳銃弾を額に受け、老人の頭部が半分近く吹き飛んだ。物言わぬ躯が仰向けに倒れる。

【生かして捕らえろと言ったはずだぞ】

〈蟻〉指揮官はばつが悪そうに拳銃をホルスターに収めた。【申し訳ありません、頭目。しかし攻撃されれば、私たちも応戦せざるを得ません】

 その通りだった――命を危険にさらしているのは〈蟻〉たちであってディエゴたちではない。

 とは言え、何とも盛り上がりに欠ける結末であったことは否めない。人里離れた農家に重武装の暗殺部隊を突入させたあげく、ちんぴらに毛が生えた程度の貧弱な火力しか持たない護衛を殲滅し、ほぼ丸腰の老人を射殺しただけなのだから。

【済んだことは仕方がない。手掛かりになりそうなものを回収して、撤収しろ】

【了解】

【だから言っただろう、議長。あの〈白狼〉を信用しすぎだ、と】

 ジャルナハンのせせら笑う声に、ディエゴはよく言うぜ、とつくづく思った。彼の経験則からして、後から「だから言っただろう」と言い出す人間はリーダーの器ではない。同時多発テロを成功させて気が大きくなっているのか、どうも言動がいちいち鼻につくようになってきた。ヨハネスのはこいつだな、と内心で呟く。どうせ最低一人は官憲へ差し出す生贄が必要なのだ。始末した後で一切合切の罪を着せるのも手だ――実際、まったくの無実でもないのだから。

「失敗とは決まったわけでもないだろう。確かにあそこはヨハネスに関わりのある『何か』ではあった――ただ、俺たちの思ったものとは違う形だったってことでな」

【ふん、議長殿は〈白狼〉に甘いな】コズロフまで嘲りを隠せていない声で言う。

【貧弱な抵抗だった。あれじゃ犬たちも食い足りないだろう】ぼそぼそと趙が追随する。

 確かに虎の子の〈蟻〉部隊や、自慢の殺犬たちを動かして何の成果もなかったのだから文句の一つは言いたくなるだろうが、それはないだろう、と思う。お前らだって何も反対しなかったじゃないか。

【まあ、捕虜は取れたんだ。結論は尋問が済んでからでも遅くはないだろう】ドゥドゥが取りなすように言う。案外、こういう機微に気を遣う男ではある。

「そうだな……」気を取り直してディエゴが議長としての言葉を発しようとした時。


【〈連合〉の皆さん、聞こえますか?】

 聞き覚えのない、これといった特徴のない男の声が回線を伝わってきた。


【……誰だ、今のは?】一瞬遅れて、ジャルナハンの気の抜けたような声。【こんな時におかしな声色で


【はい、〈連合〉の皆さん。聞こえてる?】今度は打って変わった、アナウンサーのように淀みのない若い女性の声。【聞こえていないの? それとも聞こえないふりをしているの? もし後者だったら……大変なことになるわよ】


 呆気に取られたような沈黙が電子/物理空間双方に満ちた。

「〈白狼〉」ディエゴは口を開いたが、どれだけ威厳のある声を出せたかは自分でも怪しかった。「どうなっているんだ? 俺たちの会議になぜこんな大馬鹿野郎ベンデホが紛れ込めるんだ? ……おい、〈白狼〉!」

【わ……わからない】性別不明で抑揚に乏しい声でも、動揺だけは隠せていなかった。【監視エージェントは正常に作動している。幾重にも衛星を経由して構築した隠匿回線だ……侵入自体がありえないはずだ……】

 ここぞとばかりにジャルナハンが嘲る。【何がありえない、だ。現にこうして侵入を受けているというのに】

「そうだ、コズロフ。あんたにはこいつの喋りは何語に聞こえている? 俺にはスペイン語に聞こえているんだが……」

【ほう? 私には流暢なロシア語にしか聞こえてないぞ。アクセントにもおかしなところはない】

【私にはインドネシア語だ】とジャルナハン。

【おいおい、リアルタイム翻訳までこなしてるってのか?】ドゥドゥの呆れ声。【たまげたな。そこらの通訳より性能が高いや】

「おい、お前は何だ? ……お前は何だって聞いてるんだよ、このホモ野郎マリコン!」


 一瞬返事は遅れたが、年を経た男の陽気な声が返ってきた。【いったいどうしたってんだい、〈連合〉の諸君? さっきっからの質問にだんまりかい? それとも高い金をふんだくるコンサルタントから、返事しちゃ駄目だって言われてんのかな?】


 怒鳴りつけたディエゴを含め、一同は毒気を抜かれて黙り込んだ。怒ろうにも怒りの持っていきどころがない、という雰囲気だ。

「こいつは何なんだ? まさかヨハネス本人ってことはないだろう?」

【どうも何と言うか……不自然だな。機械的にただ知っている単語を列挙して、それが私たちにはきちんとした文章に聞こえているだけというような……】

【カスタマーサービスじゃないのか? 電話サポートの自動応答プログラムみたいなもんでよ。株式会社プレスビュテル・ヨハネス、お客様相談窓口ってな感じだな】

【悪い冗談だ】と趙。【ただのプログラムが〈白狼〉の防壁を突破できるのか?】

「だが、そっちの方がありそうな話ではあるな。〈犯罪者たちの王〉がPCを直接操作して俺たちの回線に侵入するなんて、どうも想像しにくい」

【そうに決まってらあ。こいつがヨハネスなら、俺たちも含めてどいつもこいつもたった一人の、電話応対すらろくにできねえ呆け爺に脅えてたってことになるぜ】


【もしもし? あー……こちらの声は聞こえていますか、〈連合〉の皆さん? もしかして回線の不調なのかな?】今度は自動車のセールスマンを思わせる若い男性の声。


【聞こえてるか、だってよ。何か話しかけてみろよ、議長】

【待て、迂闊に答えていいのか? 少なくともこいつはヨハネスに関わるなんだぞ】とジャルナハン。自分の言葉が先ほどのディエゴと同じものである皮肉に気づいているのかどうか。

【まずはができたということだろう。こちらに興味を抱いていることは確かだ。聞くだけ聞いてやろう】とコズロフ。

【そうだな。ひょっとしたら命乞いかも知れないしな。手持ちの資産全部、俺たちに引き渡すってんなら考えてやらないこともない】ドゥドゥが頷くのが見える。

 その後で八つ裂きにするかどうかはともかく、とディエゴは胸中で付け加える。

「聞こえているぞ。お前は何者だ? どうして俺たちに呼びかけて


?】


 冷静に考えれば、何一つ脅威に感じる必要はないはずだった。主な戦場は地球の反対側で、NBCI核生物化学・情報災害兵器に対応した堅牢なトレーラーの中にいて、銃を持った無数の屈強な護衛たちに守られている。

 にも関わらず――ディエゴの喉が勝手に鳴った。まるで自分の頭が得体の知れない獣の顎に咥え込まれていることに、たった今気づいたように。

 空調完備の防護服に包まれているのに、背筋を嫌な汗が滑り落ちる。全身の小刻みな震えが止まらない。


【今回の世界同時攻撃は見事でした】若い女性の声。【あの程度で私の導線ライン――ああ、あなたたちは〈Ⅰ〉と呼んでいましたね、悪くない呼称です――を潰し切ることはできませんが、少しは驚きました】

 代わって変声期前の少年の声。【だから次は、こっちが君たちの度肝を抜くことにするよ。そうだな――】

 張りのある老人の声。【今度はこちらが諸君を同時攻撃するというのはどうかね?】

 しわがれた老婆の声が続ける。【? ? ? ? ? ? それに〈〉? 〈?】

 誰も何も言わなかった。何も言えなかった――口にすれば、とてつもない凶運を呼び寄せてしまうように思えて。

 若い声、老いた声、男の声、女の声が唱和する。


 がらがらがら、と奇妙な音が聞こえた。ジャルナハンが喉の奥から発した音だった。


【出ておいでよジャルナハン……出ておいで……でないとお前の大切な家族も財産も、みんなみんな


【わ、わしの家が……一族が……家族が……!】

【おいジャルナハン、まさか真に受けてるんじゃないだろうな? はったりだ! 出るんじゃないぞ!】

【出るな、ジャルナハン! そのトレーラーの中にいれば安全だ! 出るな!】

 遅かった――モニターに映っているのは、とっくに空になった椅子と、出口へ向けて走り出すジャルナハンの防護服の背面だった。


【口ばかり達者な萎びペニス野郎どもが……俺たちの攻撃がいつから始まると思った? 一か月後か? 半年後か? 百年経ってからか? 間抜けめベンデホ


 トレーラーから防護服ごと転がり出たジャルナハンは、声にならない呻きを上げてその場に膝を突いた。彼が財力に物を言わせて築き上げた白亜の宮殿。南国の楽園に相応しくない――ある意味では相応しい――ポストコロニアル様式の洋館。

 その全てが、

 様々な国で、多種多様な殺害方法を目にしてきたジャルナハンですら、その死と破壊の仕方は常軌を逸して見えた。壮麗な屋敷は爆撃でも受けたように壁も天井も粉々に砕けているのに、ある箇所では黒くタールのように融解してぶつぶつと沸騰していた。AKを手に事切れている死体の数々は性別すらわからないほど黒く焼け焦げていたが、その表面にはなぜかびっしりと霜が降りていた。またある死体は内側から膨れ上がって爆ぜ、別の死体は全身の関節を。それ以上は確認したくもなかった。

 どんな道具で、どんな殺され方をされたらこうなるのか見当もつかない。少なくとも銃や刃物、爆発物によるものではない――断じてない。

 広々とした庭園の中で一際目立つ噴水の傍らに、貫頭衣のような純白の衣装を纏った小さな影が2つ、立ち尽くしている。髪は白に近い金髪、目は灰色。肌は生きている人間のものとは思えないほど透き通った白。10歳前後に見える白人の少年少女だ。遠い昔――まだ十代の頃に厳格な父の目を逃れて使用人とともにこっそりと観た、亡霊が住み着くホテルに引っ越してきた管理人が徐々に狂っていく映画の1シーンを思い出した。

 少女の方が口を開く。「ああ、ごめん。


 の接近に気づいたのは、撤収準備を終えてヘリに乗り込む寸前に周囲を警戒していた〈蟻〉部隊の斥候だった。報告するその声は呆然としていた。【隊長、誰かいます】

 半信半疑で振り向いた〈蟻〉部隊員と殺犬のハンドラーたちは、その言葉通りの光景に絶句した。まだ燻る家屋と温室を背景に、宙から湧き出したように立っている影を見た。ほっそりとした肢体は女性のそれだが、2メートル近いかなりの長身だ。

【馬鹿な……あの地点には何の反応もなかったはずだぞ。〈蜻蛉〉の上空からの走査まで騙し果せたのか?】

【この風向きで犬たちの鼻を誤魔化せるはずがない。そもそもあいつ……人か?】

 確かに――先ほどまでは熟練のハンドラーたちですら持て余すほど興奮していた犬たちは、その人影に吠えることさえしていない。中には自信をなくしたように、切なげな鼻声を上げて悲しげにハンドラーの顔を見上げる犬すらいる始末だ。

 夜目にも目立つほど鮮やかな青いドレスが、くるぶし近くまでを覆い隠している。ドレスの裾が夜風に翻り、サンダルすら履いてない華奢な女の裸足を露わにした。

 前が見えているかどうかすら怪しい、伸び放題の振り乱した黒髪が、女の顔をほぼ覆い隠している。

【口元が動いています。何か……喋っています】

【〈蜻蛉〉、口元を拡大しろ。読唇開始、視界内文字表示】



 星明かり一つない曇天の下、女の手にする長大な軍刀サーベルが青白い燐光を放っている。

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Kill The King アイダカズキ @Shadowontheida

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