第2話 偏在眼
「
「ああ」執務室で書類に判を押していたディエゴは――ちんぴら時代とは違い、彼の一日はほぼ書類仕事で忙殺される――書類の束を持って近づいてきた警護隊長のマルセロの姿を見て、何となくだがその用件に察しがついた。日頃から勤めて表情を殺しているような男だが、その顔つきがいつにも増して硬い。
「先日、頭目が提出されたこちらの予算に関してご説明いただけますか」
微動だにしない、冷たい青色の目が座したままのディエゴの遥か頭上から見下ろしてくる。マルセロはかつて国軍の特殊部隊で数多くの不正規作戦を指揮し、自らも多くの敵を屠ってきた男だ。その経歴に惚れ込んだディエゴは彼を破格の高給で引き抜き、自らの警護隊長に据えた。軍内部では武勲に反してかなり不遇な扱いを受けていたらしきマルセロもまたディエゴに感謝し、ちんぴらに毛が生えた程度の部下たちを死ぬ寸前までしごいて見事な軍隊に生まれ変わらせた。
ディエゴは良い買い物をしたと言える。マルセロがいなければ、カルテルの躍進はもっと遅れていただろう。
「説明も何も、そこに記した通りだ」
「具体的な説明をいただきたいのです」マルセロの声は抑揚がなかったが、易々とは引き下がりそうにない気配を漂わせていた。「シナロアやソノラの他カルテルへの対応予算の3倍近くが『特別予算』の名目で
「もちろんだ」
「それに加えて」マルセロの声がさらに硬くなった。「採算の取れない部門を切り捨てるのならまだ話はわかります。一定の成果を上げている人事・生産部門を廃止してまでこちらの『特別予算』に注ぎ込む意図がわからないのです。どうしたというのですか?」
ディエゴは言葉に詰まった。室内にいた秘書たちの何事かという視線までもが痛い。
確かにマルセロの指摘はもっともだ――どころか、非の打ち所がないと言っていい。首都メキシコシティを押さえ国内ドラッグルートのシェア40%近くを独占しているとは言え、ディエゴ・カルテルの敵は多い。警護隊長としてはメキシコ統一を目前にして頭痛の種はこれ以上増やしてほしくないといったところだろう。それを自分のボスが意図不明の口座に金を注ぎ込み、敵対カルテル掃討ではなく別のお遊びに熱中しているとあっては、正気を疑いたくなるのも無理はない。
従軍経験のないディエゴにとって、マルセロは確かに感謝の対象ではあるが、同時にどこか劣等感を覚える相手でもあった。出来の悪い弟が全てにおいて優秀な兄に覚えるような。
加えてマルセロは、ディエゴに意見できる(それもかなり耳の痛い意見を)数少ない部下でもあったから、単純に怒鳴りつけて下がらせるにも気が引けた――何しろかつては、調子のいいことしか言わない者すら近くにいなかったのだ。
「……お前の言うことはわかる」ディエゴは慎重に言葉を選びながら切り出した。「俺が、メキシコ統一を目前にして……ああ、
「存じております。お言葉ですが、喫緊の課題とは思えません」マルセロは揺るがない。「私の部下を殺し積荷を奪うソノラやシナロア・カルテルは現実の脅威ではありますが、〈犯罪者たちの王〉は脅威ですらありません。率直に申し上げれば、私はその実在すらも疑っています――世界の犯罪組織を裏から操る〈犯罪者たちの王〉など、都市伝説の
「亡霊なんぞに予算を注ぎ込むのは馬鹿げてるって言いたいのか」
「いえ……
ディエゴは大きく首を振る。「都市伝説なんかじゃないぞ、マルセロ。都市伝説なんかじゃ。なあマルセロ、俺の警護隊長殿。メキシコを統一したら、俺たちのビジネスはそれで終わりか? プレスビュテル・ヨハネスの皺っ首を掲げるのは、シナロアやソノラの
「……シ、パトロン」
「お前の提言は聞き入れた。予算に関しては再考する。今、俺から言えるのは以上だ」
「シ、パトロン。お時間を割いていただき、感謝いたします」
マルセロはそれ以上何も言わなかったが、どう見ても納得したという顔ではなかった。ディエゴの顔を立てて我慢した、というところだろう。
長身の彼が一礼して退室すると、室内にディエゴのものとも秘書たちのものともつかない安堵の溜め息が溢れた。
しかしまずいことになった、と思う。マルセロの危惧もわからなくはない――他カルテルの脅威は決して軽視できるものではない。早いところ〈犯罪者たちの王〉への対処を切り上げてそちらにも手をつけなければ、カルテルそのものが揺らぎかねない。警護隊長マルセロがあそこまで忌憚のない意見を具申してくるのだ。何も言わなくとも不満を溜め込んでいる部下は無数にいるだろう。
冗談じゃないぞ、とディエゴはひそかに憤懣を押し殺した――ようやく楽しくなってきたってのに。
屈強な護衛たちによる金属探知機での厳重なボディチェックを、ディエゴは神のごとき鷹揚さで受け入れた。これから入る車両にはこの手順を踏まない者は一歩たりとも入ることはできない、と決めたのはディエゴ本人だ。
そもそも、こんなものはまだオードブルだ。
ボディチェックが終わり護衛たちが一礼して退くと、圧縮空気の漏れる鋭い音とともに銀行の大金庫並みの堅牢さを誇る「車両」の後部扉が開いた。外装こそ民間のトレーラーに偽装されているものの、元は軍が核・生物・化学・情報兵器による汚染地帯での指揮管制用に開発した特別車両だった。
車内に入ってもそれで終わりではない。電話ボックスのように狭い更衣室で強烈なエアシャワーにひとしきり全身をさらされた後は、青白い紫外線ライトを浴びながらひどくかさばる上に不格好な防護服へと着替えなければならない。ループタイと肩幅の細いジャケット、裾を絞ったスラックスからなる一張羅という自分なりに決めた格好もこれを着ていては台無しだ。腕時計やスマートフォンも完全電子シールドの収納ボックスに入れる。それらを再び手にできるのは車を出る時のみ。
戦争には馬鹿馬鹿しい程の金がかかる。〈犯罪者たちの王〉相手の戦争ともなれば、このくらいの用心はして然るべきだろう。
何しろこれと同じ車が、世界には最低5輌存在しているのだから。
トレーラーのコンテナ内に入ると、ディエゴはコンテナ内に置いてあるリクライニングチェアに座り、真正面のモニターを見据えた。ロールスロイスの中で世界各地の大物と電子会議をしていた頃が懐かしい。だがそうも言っていられなかった。何しろ、ヨハネスの目と耳がどこで光っているのかわからないのだから。
「そろったようだな。始めるぞ。……全員に俺からのクリスマスプレゼントは行き渡ったな?」
【大したプレゼントだったよ。私もベンガル虎の剥製だの、生きた家具だのはいくつも寄越されたが、こうもかさばる代物は初めてだ】嫌味を隠そうともしていない口調で吐き捨てたのは、やはり防護服とヘルメットで全身を覆っているが、〈鋼の虎〉リーダーのジャルナハンだ。【大きすぎてガレージに入りきれないから、別荘の裏庭に停めてある。部下たちに説明するのが一苦労だった】
【しかも中に入る前に、こんなふざけた服に着替えなきゃなんねえ】南アフリカの武器商人ドゥドゥも同意して肩をすくめた――らしいが、防護服を着てでは肩を少し揺らしたようにしか見えない。【絶対に子分どもからはアホと思われてるぜ。しかも遊園地のアルバイトと違って金をもらえるわけでもねえ】
【お前は馬鹿とは程遠い男だと思っていたがな、
ディエゴは頷いた――が、他の者からは表情が見えないことを思い出した。「こんな格好をする必要があるかと言えば、あるんだ。だが、俺が説明するよりも〈
【まずはこれを見てほしい】前口上も惜しい、とばかりに本題へ入るのが〈白狼〉らしいところだ。【私は前々から〈犯罪者たちの王〉傘下の企業群には共通してある特徴があると睨んでいた。金の流れや人脈とはまた違う、説明しづらいが……ある種の『流れ』のようなものだ。それを突き止めるためにかなりの金や人を使ったが、その苦労に見合う成果はあった】
車両内の一番大きなモニターに、何かの断面図らしきものが映し出される。
【……何だ、こりゃ?】とドゥドゥ。
【私は捕らえた〈ヘルメス流通〉〈ミーメットワーク〉の社員を徹底的に調べてみた。彼らの身元には何ら不自然な点はなかったが、衣服の断面や皮膚の一部から
一瞬、何とも言えない空気が(モニターと)車内に漂った。ディエゴと〈白狼〉以外はどう反応したらわからない、という雰囲気だ。
【エネルギーは宿主の体内から電解質を取り込んで半永久的に作動する。少なくとも皮膚をこすった程度では落ちないし、壊れない。しかも自壊システムが組まれているらしく、宿主が死ぬと同時に溶解して体組織と同化してしまう。『生きた』こいつを手に入れるのは時間がかかった。宿主の身体の一部を『強引に生かす』という荒業でだが。どうやらこれが、何らかの観測情報を集めているらしい】
淡々とした口調は変わらなかったが、ディエゴはこいつもまた犯罪者なのだ、という認識を新たにした。『強引に生かす』ためにどんな手を使ったのやら。
【『生きた』サンプルを入手してからがまた大変でな。量子通信で情報をやり取りしている可能性があることがわかってからは、さらに慎重に進める必要があった。内部の情報を読み取ろうとしても、安全装置が働いて肝心の情報を変質させてしまう可能性が……】
【すまないが〈白狼〉。結論から言ってくれないか】我慢できなくなったらしいコズロフが口を挟んだ。【ただでさえこっちはこのかさばる道化服にうんざりしているんだ】
【……わかった】これからがいいところなのに、という口調で〈白狼〉。万事につけそつのない奴だと思っていたが、何だかまた別の一面を見た気がする。【こいつは――呼び名がわからないから便宜上〈
【何だと……】ヘルメットの奥でジャナルハンが目を見開く。【それでは、私たちの知っている人間にも取りついている可能性があるということではないか!】
【その通りだ。一度でもヨハネス配下の者と接触した可能性があるもの――部下だけじゃない。家族、親族、親兄弟。その全員だ】
予め〈白狼〉から聞かされていたディエゴですら、戦慄を禁じ得ない内容だった。周りの奴が知らないうちにヨハネスの目あるいは耳になっているなんて、まるで古臭い侵略SFのようだ。
【前にも言ったはずだが、監視衛星やドローンは万能とは言い切れない。天候や大気の状態に左右されるし、定期的なメンテナンスも必要になる。何より、対象が地下に潜られてはどうしようもない。〈Ⅰ〉はこれらの問題をほぼ完璧に解決している。監視対象の近くに移植された人間が近づくだけでいい。眠らず休まず、文句も言わず情報を集め続ける。あなたたちが食事している間、寝ている間、セックスしている間にも】
「残念ながら〈連合〉の中にも色濃く『汚染』された者が少なからずいたため、彼らは除外せざるをえなかった。ここにいるのは〈ヘルメス流通〉や〈ミーメットワーク〉に関わる度合いが低かった者だけだ」
【理屈はわかったが、議長】やや立ち直ったらしいジャルナハンが質問する。【金と人脈は組織経営の要だ。一度でもヨハネスの『融資』を受けなかった者などいるのか】
ディエゴは重々しく頷いて見せた――どの程度見えたかはわからないが。「……その通りだ。だからこの俺も、〈Ⅰ〉に汚染された構成員が多い部門をカルテルの中心部から外さなければならなかった。発見したのは〈白狼〉だが、言い出したのは俺だからな」
【身内を疑えってのか……】愕然とした口調でドゥドゥが呟く。【そこまでやれってのかよ、議長】
「そうだ。本当にヨハネスに勝つつもりがあるんならな。もちろん、即座に殺せとは言わない。注意深く、徐々に関係を疎遠にしていくのが一番だ」
ディエゴは〈白狼〉がもたらした衝撃が一同の間に浸透するのを注意深く待ってから口を開いた。
「もちろん、この場で〈連合〉を脱退するのも自由だ。諸君を選んだのは俺だが――強制はできない。組織の上がりそのものを切り詰めるってのは、並みの覚悟じゃできない。俺たちの生業がまさに生き血を啜るものであることを考えれば尚更だ。5分待つ。その間によく考えてくれ」
じっとりとした沈黙が流れた。誰も微動だにしなかった。
「5分経った。では、今日の議題に入ろう。――〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスをどう殺すかについてだ」
【肝心な問題がある。奴はどこだ】
それまで沈黙を保っていた男が口を開いた。声を荒げたわけでもないのに、何となくその場の全員が押し黙った。その男もやはりヘルメットに防護服姿で、表情すら見えないのにモニターを通して陰気な風が吹きつけてくるような印象がある。
中国と旧北朝鮮――現在の高麗統一連邦の国境近くで麻薬取引と人身売買、血統書付き高給犬の繁殖と調教も兼業している
【現在、それを確定する作業に入っている。具体的な地点の測定はもう少し時間をもらいたい】と〈白狼〉。【ただ〈Ⅰ〉は先ほども言った通り妨害も傍受も困難だが、最低限他の個体を中継して情報を送信している都合上、同一空間内に一定数以上の個体が存在している必要があることがわかっている。つまり、完全に人里離れた場所では役に立たないということだ。たとえば北極あるいは南極、またはチベットの山奥などは除外していいだろう】
【わかった。それはそちらで引き続き進めてくれ】
【兵隊は私が手配する】とコズロフ。【〈
【一山いくらの虫けらの兵隊か。俺の犬の方がよほど確実にヨハネスを八つ裂きにできるぞ】
【言ったな? お前のところの
「やめろ2人とも。取っ組み合いならトレーラーを出た後で……いや、ヨハネスの皺っ首を取った後にしてもらうからな」
【そんなら、武器弾薬は俺が提供しようか】とドゥドウ。【本来なら商売なんだが、ま、サービスだ。
【モルモットにされているようで気に食わんが……火力はいくらあっても困らない。引き受けよう】
一時はどうなることかと思ったが、ディエゴはようやく手ごたえらしきものを感じ始めていた。ただでさえ少ない〈連合〉のメンバーが激減したのは確かに痛いが、少人数化したことでかえって各々の役割が上手く噛み合い始めたとも言える。
【もう一つ、重要なことがある……愉快なことではないが】ディエゴは〈白狼〉が若干口が重くなったような気がした。【〈犯罪者たちの王〉の拠点が判明すると同時に、世界各地の――業界最大手の〈ヘルメス流通〉の物資集積センターに同時攻撃を行ってもらいたい。強襲に先駆けて彼の目と耳を完全に麻痺させる。ヨハネスがどんな方法でそれらを受け取っているかはまだ不明だが、無意味ではないだろう】
「テロか」ディエゴはわずかにひやりとしたものを感じるが、同時にこれは俺がいつも手下にやらせていることだ、と思い直す。しかしこれは先進諸国の正規軍にはとてもできない手だ。最初から陽動のためだけに無辜の市民を標的にするのだから。確かにこれは、俺たち犯罪者にしかできないやり口だ。
【では、それは私が引き受けよう】ジャルナハンが口を開く。【『聖戦』を口実にすれば同時攻撃は容易い。あの異教徒どもを滅ぼせ、と私が呼びかけるだけで、具体的な方法などは彼らが勝手に考えてくれるからな】
表情こそ見えなかったが、ディエゴは彼の目つきと口調にどこか嗜虐的なものを感じて口元を歪めそうになった。確かにそれは自分からは引き受けにくい役割であり、願ったりではあるのだが――元来、米国をはじめとする西欧諸国に対し病的なまでの恨みを抱いている男である。この爺い、自分の望む方向に計画を引っ張りやしないか、という危惧が脳裏をかすめたのだ。
ええい、今さら俺は何を迷っているんだ。ディエゴは自分に言い聞かせる――俺たちのうち誰かがヨハネスの喉首を掻っ切るか、そろって地獄に落ちるかだ。
「――例のラインに食いついた者がいます」
若い女の声による報告に、老いた男の声はどこか楽しそうに笑う。「食いつかせるために構築したラインとは言え……久しくなかったケースだな。対処は?」
「既に〈
「戦力的には申し分ないが、そういう愛すべき馬鹿者どもを歓迎するには少しばかり不十分だ」
「では……」
「〈四騎士〉を励起させろ。死を撒きなさい」
「御心のままに、陛下。16時間以内に〈四騎士〉を鏖殺可能状態にまで覚醒させます」
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