第1話 人獣群
「
あまり腹は立たなかった――本当のことだったからだ。ディエゴが嫌だったのは、にたにた笑いながら彼をそう呼んでくる近所の悪餓鬼どもが、次に必ず小突いたり尻を蹴飛ばしたり、なけなしの小遣いを取り上げたりしてきたからだった。
今では誰もそうは呼ばない。
それが彼の、畏敬とともに呼ばれる、現在の仇名だ。
大仰な名ではあった。メキシコ有数の
ただし、そう呼ばれるに相応しい努力と成果は重ねてきた、という自負もある。
今やディエゴは、無数の豪邸とセーフハウスと自家用機を保有し、何千人もの使用人と何万人もの「
彼はこの国で最高のヒーローだ――比喩ではない。彼を題材にした小説や映画は国中に溢れ、歌手たちは病院や孤児院に麻薬で稼いだ金を惜しみなく注ぎ込んで残虐な他のカルテルや卑劣な
彼をさんざん小突き回したかつての悪餓鬼どもは、今頃は麻薬漬けになって死んでいるか、みかじめ料をけちって穴だらけにされて死んでいるか、さもなければ貧しさで飢えて死んでいるか、とにかく死んでいるはずである。
「
しかし。
心のどこかで呟く声は消えない。それがどうした、と。
【スマトラ経由の人身売買ルートが摘発で潰された。それも買収してあったはずの役人たちまで一網打尽にだ。復旧の目途はまるでついていない……『融資』を断たれた途端にこれだ!】
【仮想通貨に換えて保管してあったポートフォリオがハッキングで残らず奪われた。〈顧客〉たちのリストまでウィルスで汚染されて使い物にならなくなった。
【ポーランドを拠点とした兵器密売グループと連絡が取れません。メーカー内部にいるはずの『協力者』たちは沈黙を続けています。来月までに自体が好転しなければ、我々は使いようのない大量の在庫を抱えて破産します】
【上海での取引現場が襲撃を受けた。交換予定の現金とコカイン両方が持ち去られた上、俺たちが全部の犯人だってことになっている。損失の穴埋めどころか、明日の朝日を拝めるかどうかさえ怪しくなってきた】
【どうするんだ、
「要するに」
〈議長〉としての役目以上に、会議の進行にまるで寄与しない愚痴の言い合いになってきた顔ぶれを黙らせたくてディエゴは口を開いた。「日頃から『
沈黙が訪れた。モニターと回線越しにでも、ディエゴの苛立ちは充分に伝わったらしい。
ディエゴは鼻から大きく息を吐いた。侮蔑のためではなく、これでも「奴」に立ち向かう気概があるというだけでもこいつらは見所がある、と自分に言い聞かせるためだった。俺たちの一物をさんざんしゃぶっておきながら「奴」にもケツを差し出していた官憲の比ではない。
「こんがらがった時にこそ、基本に立ち返ろう。結論から言うぞ、俺たちに共通する厄介事は一つだけ……〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの首だ。そうだろう」
その名をディエゴが口にした瞬間、場の空気が引き締まった。そうだ、と彼は思い直す。この〈
【もっともだが、議長。実際問題としてどうする】アメリカ東海岸のロシア人コミュニティを拠点としている
【俺たちは〈連合〉としてつるんでいるからまだましな方なんだ。ここにも加われなかった弱小の組織は各個撃破されるだけなんだぞ。『融資』を受け入れるか、それとも銃弾を受け取るか。まさにあんたの国で言う〈
【守りの冬将軍どころかドイツ電撃作戦だ】東南アジア系イスラム原理主義テロ組織〈鋼の虎〉のリーダー、ジャルナハンが口を挟む。インドネシア・カリマンタン東方海上に位置する油田の保有主でもある彼はアジア一帯のイスラム教圏に絶大な発言力を持ち、物理/電子双方に開設した自爆要員の訓練センターを使って複数のテロ組織に「殉教者たち」を提供している。
【お前やディエゴのカルテルのようにある程度自主独立でやっていけるなら良いが、それだけ『融資』は魅力的なビジネスなのだ。笑っていると、足元から切り崩されるぞ】
その通りだった。犯罪者の世界がホワイトカラーの理屈で動くものかよ、と、ディエゴをはじめとする裏社会の実力者たちは最初笑って見ていたのだ。
犯罪の
突如として現れた犯罪コンサルティング企業群はそのような世界に、まさに軍事革命ならぬ犯罪革命をもたらしたのだった。最初は遠慮がちな営業用の笑顔を顔面に貼り付けながら……そして、次第に我が物顔に。
武器・麻薬・人身売買、全般に対するご相談承ります――ヘルメス
人的資産に関するあらゆるものを提供いたします――コッペリオン人材派遣サービス。
マスコミ対策から国家による大規模掃討作戦にまで対応する広告代理業――ミーメットワーク。
敵対企業やマフィアに対する実行力をお望みですか? ――傭兵部隊〈
そのような犯罪支援企業群がガラクタと生ゴミに満ちた裏路地のようだった暗黒街を片っ端から整地し、次々と小奇麗なショッピングモールに変えていったのだった。歯並びの綺麗な受付嬢が微笑みながら「いらっしゃいませ、お客様。本日はどのような犯罪をご希望でしょうか?」と聞いてくるような場所に。
麻薬栽培のための土地がない? 大麻の栽培に有効な土地の選定でしたらお値段に応じて私どもがご相談に乗ります。土壌が貧弱で大麻が育たない? AIを応用したシミュレーションと土壌改良技術で、どんな痩せこけた土地でも芥子の花で埋め尽くせますよ。賄賂の効かない警察幹部がいる? ご心配なく、金と女と人脈で堕ちない官憲などこの世にはおりません。見せしめが必要ですか? そのための装備と人員ならレンタルいたしますよ。何と、ご家族が敵対組織に誘拐された? ただちに人質救出のスペシャリストを向かわせましょう。いえいえ、お値段を半分にはできませんよ――お嬢様も半分になってしまいますから。
――そして、それら犯罪支援企業群の遥か頂上に君臨する唯一人の男の名が、いつしか遠くから響いてくる潮騒のように、犯罪者たちの間で囁かれるようになったのだった。
〈犯罪者たちの王〉、あるいは〈どこにもない国の王〉――
プレスビュテル・ヨハネスと名乗る、唯一人の男。
【下っ端の社員を何人かとっ捕まえて拷問するってのはできないのか? あんなワイシャツ野郎ども、指を2、3本ちょん切ってやればすぐ吐くだろ】南アフリカ出身の武器商人ドゥドゥが苛立たしげに吐き捨てる。南アの兵器メーカー群と密接な関係を持つ彼は、過酷な環境を背景に開発された新兵器や最先端技術の横流しだけでなく、核物質の密輸も行っていると噂されているが定かではない。
「同じことをヨハネスが考えていないと思うか? あのヤッピーどもは何も知らん。ある一定のライン以上には無害なダミー企業が噛まされていて、それ以上は手繰れない。しかもそれを試した組織は、例外なく潰されている」
単純な奴だ、とディエゴは内心嘆息するが、軽蔑はしない。問題点を洗い出すという意味ではこういった単純極まりないアイデアでも惜しみなく出してほしいとは思っている。
〈犯罪者たちの王〉がくしゃみをすれば、裏社会の大半に深刻な恐慌がもたらされる。
ならず者や特殊部隊上がりの殺し屋を送るまでもない。サービスの提供を止めただけで、致命的な制裁となるのだから。
それに危惧を覚える者は少なくなかった――あるカルテルの大物が溜め息交じりに吐き捨てた言葉をディエゴは覚えている。ヨハネスの奴は俺たちの世界を大衆向けファストフード店にしちまった、と。
それもあながち愚痴とばかりは言えない――気がつけば大小を問わず、ほとんどの組織が至れり尽くせりの犯罪コンサルティング企業群という麻薬組織さえ骨抜きにする猛毒入りの蜜なしでは済まなくなっていた。
下手をすると、絵空事でしかなかった「世界征服」が実現されてしまうのだ。それも「表」の世界より先に。
だが溜め息ばかり吐いてもいられない。何しろ
ただし――とディエゴは口元が歪まないようにするのを堪えなければならなかった。万事そつのないヨハネス傘下の企業群に比べ、〈連合〉は事実上の寄り合い所帯であり、実にお寒い規模であることは認めざるを得ない。ただディエゴのカルテル単独で、巨大で不定形な〈犯罪者たちの王〉に立ち向かうよりはましというだけだ。戦争には兵隊や後方支援、あるいはもっと単純な肉の盾も必要なのだから。
【それにしても、奴はどうやって俺たちの動きをこうも先読みできるんだろうな。くそ
「もっともな疑問だ」ディエゴはモニター群に向け頷いて見せた。事実、ヨハネスへの反旗を公然と掲げた幾多の組織が、一夜にして消滅するか、あるいは不気味なまでに早々と屈しているのだ。それも警察や軍隊までをも味方につけた、決して小さいとは言えない規模の組織ばかりがだ。
まるで〈犯罪者たちの王〉は怪しげな、魔術とでも呼ぶべき不可思議な力が味方しているのではないか――そのように囁かれるほど。
【あれは映画で思われているほどには万能ではない】明らかに
【天候や衛星の位置によって制限がある。それにヨハネスの組織がどれほど大きくとも、個人で衛星を保有できるとは考えにくい】
ディエゴは頷く。それも「ヨハネスの『魔法』」の一つにカウントしておく必要がある、と思いながら。
そろそろ締めだ、タイミングを見計らってディエゴはモニター群に向けて声を張り上げた。「資金を出すのが難しければ人員を。人員を出すのが難しければ資金を。それさえも難しいのであれば、銃器でも施設でも構わない。とにかく、〈連合〉に属する者たちには何らかの協力をお願いしたい。これは全面戦争だ――〈犯罪者たちの王〉と我々の。もし一矢も報いることなく奴の軍門に下るという者がいれば、止めはしないからすぐに帰って商売名を
世界各地からの別れの挨拶を残し、目の前でモニターが一つ一つ消えていった。車――ロールスロイス社に特注で作らせた防弾仕様車の後部座席で、ディエゴは強く目頭を揉んだ。疲労感が急に襲ってきた。
ウィンドウの外で夜景が後方へ流れ去っていく。それを眺めていると、面白くもない過去が思い出されてきた。沼地でじくじくと音もなく湧いてくる汚水のように。思い出しただけで口元が曲がるような、しかし決して忘れられない過去の数々が。
運転手兼ボディガードのカルロスがバックミラーでこちらを気遣わしげに見たが、結局何も言わなかった。実際、ディエゴも同情などしてほしくはなかった。
「着いたら起こせ」ディエゴは吐き捨てて、腕組みをしながら目を閉じた。
ディエゴが20歳の時、弟が死んだ。殺されたのだった。
本当に俺の弟かと疑いたくなるほど、真面目で利発な少年だった。麻薬の売買に手を染め始めたディエゴを「兄さんは頭悪くないんだから、勉強して大学へ行ってまともな仕事に就きなよ」と毎日たしなめていた。
その弟が殺された。カルテルの抗争とは関係ないただの通り魔に。考えてみれば、抗争がなくとも人は死ぬのだ。
汚水でふやけて見る影もなくなった弟の死体が側溝から引き揚げられた時、ディエゴは自分の中にあったなけなしの信頼やら信念やら、およそ世間で美徳とされているもの全てに汚水をぶちまけられたような気分になったものだった。
母は麻薬の
自分と同じ血の流れる者が一人もいないのに、何のために生きればいいんだ?
後はもう自分のために生きるしかないじゃないか。
思い出したくもないような惨めで泥を舐めるような幾つもの仕事の結果、ディエゴはゆっくりと力を蓄えていった。欲をかいた密売人仲間が喉をかっ切られ、組織内での地位を自分の実力と勘違いした上役が足元をすくわれて地獄へ落ちる中で、ディエゴはそれらを回避する術に長けていた。誰よりも臆病で用心深いがゆえに。
いつ何時も、変わり果てた弟の姿が瞼から消えなかった――しくじれば、自分もああなるのだ。それも自分の時は死体が残るかどうかさえ怪しいものだろう。
ディエゴの組織に匹敵するカルテルは皆無ではないが、プロの兵士を軍から大量に引き抜き、ドラッグビジネスで得た金をふんだんに装備に注ぎ込んだディエゴの私兵に敵う組織は片手の指で足りるほどしかいなかった。
組織が膨れ上がるにつれ、それに付随する問題も数限りなく増えていったが、即座に組織の命取りとなるものは何もない。
ディエゴ・カルテルに匹敵する麻薬カルテルは同国内に3つほど現存する。いずれも油断できる相手ではないが――つい先週、ドラッグの輸送隊が襲われて運転手や護衛を含む十数名が殺されたばかりだった――ディエゴ・カルテルを一撃で屠り得るほど強大な組織は、存在しない。数多くの政治家・実業家の「囲い込み」に成功し、数個連隊規模の兵士と暗殺者を有するカルテルには、そう易々と手は出せないのだ。
全てが順調だった。
彼自身がそれに倦むほどに。
「……それで私に何て言ってほしいの、エル・パトロン?」
ソファに横たわったまま、ラウラは読んでいた『ヴォーグ』を傍らに置くと、丁寧に整えた眉毛の片方だけを釣り上げた。
カルテルの中で出世し羽振りが良くなった途端、今までディエゴに鼻も引っかけなかったような別世界の女たちが、頼みもしないのにすり寄ってくるようになった。ガールフレンドもいないような惨めったらしい思春期の復讐をするように、ディエゴは片っ端から女たちを抱いて回った。だが、すぐに飽きた。どいつも話がつまらないのだ。女たちにしてみれば最初から話を合わせるつもりもなく身体を求めてくるディエゴに辟易していたのだが(ただしそれに類することを指摘した女は、前歯が折れるほど顔を殴られる羽目になった)そう自分を省みるにはディエゴは生来奥手すぎ、異性に接した時期が遅すぎた。
この俺が、まさか女にうんざりするなんてなあ。
ラウラに会ったのはそんな業の深い感慨に襲われ始めた時だった。ディエゴ行きつけの喫茶店でウェイトレスをしていた彼女は、女優やモデル出身の愛人たちに比べると華やかさという点ではずいぶん水をあけられてはいるが、接客業をしていたせいもあってか快活さや話の上手さではまるで劣らなかった。頭の回転も速い。
ネクタイを緩めて放り投げたディエゴは彼女に物憂げな視線を向ける。「お前はどう思っているんだ」
「私の意見が聞きたい?」
「聞きたいね」
子供の稚拙な嘘を聞かされた母親のように、ラウラはわざとらしく首を振ってみせる。「〈犯罪者たちの王〉のおかげで、あなたたちは商売がやりやすくなったんでしょう? 以前よりずっと」
「ああ。それは認める」
「だったらそれでいいじゃない。スーパーで買い物するのと同じよ。だいたい、何なの〈犯罪者たちの王〉って? いつの間にそんなのが即位したの? 誰がそんな王様なんて認めたの? 『裸の王様』が勝手に名乗るこけおどしの名前なんて笑っておけばいいのよ」
「〈連合〉議長だって、充分なこけおどしさ」
「役には立つわ。名前は笑う、サービスはありがたく使わせてもらう。それでいいじゃない」
ディエゴはゆっくりとラウラが横たわるソファに歩み寄り、背もたれに手をかけて彼女の顔を覗き込んだ。ラウラは慎み深く視線を上げたが、その眼差しにはどこか面白がるような色がある。
「俺たちの商売はわかっているよな? ヨハネスとやらが何様だろうと、黙ってケツを掘られっ放しじゃ示しがつかねえ」
「その言い方に倣うと、あなただって誰かのケツを掘ってるのよ」
ヨハネスにケツを掘られながらもね、とまではラウラは言わなかったが、その目つきが言っていた。ディエゴは唇を歪めた。不愉快だったからではない。全てラウラの言う通りだからだ。
頭の良い女だけに、ラウラは部下たちの前でディエゴをこき下ろすような言動は注意深く避けていた――この高級マンションや自分の今着ているドレスが、ディエゴの懐から出たものであることを自覚すればなおさらだ。反面、人目のないところでは実に容赦ない。
ラウラが身を起こしてソファに座り直し、ディエゴはできたスペースに腰を下ろした。わずかな逡巡の後、彼はぽつりと言った。
「……退屈なんだよ」
ラウラはまじまじと彼の横顔を見つめた。「退屈? エル・パトロンが? ファミリーを維持するのも、そのために戦うのも、やりがいがあるでしょう?」
「やりがいはある。でも退屈なんだ」
各地のラボや精製工場を視察し、政治家や実業家の誕生パーティに足しげく通い、自分が寄付した学校や病院に顔を出し、手下たちと
全てはカルテルの維持のため。
敵対するカルテルの家族を壁際に立たせて蜂の巣にし、裏切り者をドラム缶に満たした灯油で煮殺し、売り上げを持ち逃げした男の女房をバットで殴り殺し、その子供たちを橋から突き落とした。
気がつけば、ディエゴの人生にはプライベートというものがなくなっていた。何年も前から、自分そっくりの男が演じる人生を俯瞰しているような、冷めた眼差しを日々の生活に向けるようになっていた。
この即興劇はいつ終わるのだろう。終わった時、自分はどうなるのだろう。
ラウラの傍らにいる時だけ、それが和らぐ。ほんの少しだけ。
ただの殺し合いは飽きた。陰惨な上に、つまらない。
メキシコ全土の制覇が何だというのだろう? 所詮は時間をかければ解決する問題だ。それが終わったら何をすればいい? アメリカ統一か?
死に物狂いで手に入れたはずの成功に、ディエゴはいつしか飽きていた。
何かもっと、毛色の変わった奴とやり合いたい――そう思っていた矢先に現れたのが〈犯罪者たちの王〉だった。〈連合〉議長などという、労多くして身少ない立場を引き受けたのも、そのあたりの心境があるとは言えるかも知れない。
しょうがないわね、と言いたげな顔でラウラは頭を振った。「結局、あなたは惹かれているのね。プレスビュテル・ヨハネスに。それもどうしようもなく」
「……俺が今考えているのは、お前のおっぱいとあそこのことだけだ」
ディエゴはラウラの髪に指を絡め、彼女もまんざらではなさそうな顔でディエゴの腰に腕を回す。しかし頭の片隅で、俺はこの女のことも腹の底から信じていないんだろうな、ともう一人の自分が呟く。それはディエゴが冷静さを失っていない証拠なのだが、嬉しくはない。
そのまま一泊したいところだったが、明日の予定を考えるとそうもいかなかった。できれば日付が変わる前に自宅へと戻りたかった。幸い、ラウラのマンションは政治家や映画女優、その家族らが住む関係もあってセキュリティに申し分はない。よほどのことがないかぎり彼女をどこかへ移動させる必要はないだろう。
ラウラに送り出されて迎えの車に乗り込んだ瞬間、懐のスマートフォンが振動した。
【……こんな時間にすまない、議長】
ディエゴは聞き覚えのある――ただし変調された――声に少なからず驚いた。「〈白狼〉か? この回線にはかけるなと言ってあったはずだぞ」
【他に相談できる者がいない。これから指定する場所に来てもらえるか?】
〈白狼〉の声は相変わらず抑揚がなかったが、ディエゴはその奥にあるかなしかの狼狽を感じ取った。珍しい、と思う。「こんな時間にか? この回線で話すんじゃ駄目か?」
【盗聴の可能性は否定しきれない。今すぐ、身一つで来てほしい】
「正直、俺も疲れてる。よほど重要な用件でないと行きたくはないな」
【ヨハネスの『魔法』の正体がわかった。あなたの口から〈連合〉の皆に伝えてほしい――それも、本当に信頼できる者にのみ、大至急で】
一瞬だが、ディエゴは確かに呼吸を止めた。
「……わかった」悩んだ末、ディエゴはそう答えた。彼ないし彼女がここまで言うからには、従ってみる価値が充分にあると判断したのだ。
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