次は音だけで聞き分けて

元真ヒサキ

言葉選びも楽じゃない

 この海が私の目の前で二つに割れたなら、少しは心も踊るのかしら。

 小屋の中でぼんやりと海を眺めること二時間。これで海が綺麗だったら楽しめたのかもしれないけれど、天気は生憎の曇り空。もうじき雨が降るのではないかしら。外の木が強く揺れる。風が吹いているのね。

 風が強くなり、肌寒さに震えたところで、やはり雨は降りだした。窓を青い粒がコツコツと叩き出す。私はカーテンを閉めてから、珈琲を入れに席を立った。

 この海に来たのは、傷心旅行の為だった。何に傷ついたのかと言われると、会社だったり、家族だったり、恋人……だったり。つまるところ、全てを投げ出して私のことを知る人がいない場所に行きたかったの。……なんて、少女漫画みたいなセリフね。

 時刻はまだ、本来ならば太陽が真上にいるくらい。今日から暫くはこの小屋にいるのだし、時間は沢山あった。今すぐ何か行動をしなくてもよいという、余裕のある生活を前に肩の力が抜ける。ずっと気を張っていたから、疲れてしまったのね。

 ……あら、雨も強くなったのかしら。これは……雨の音なのかしら? それにしてはからころと可愛く鳴くのね。

 カーテンを閉めてしまったから外の様子はわからないけれど、木造の小屋を叩く音は決して耳障りではなかった。

 珈琲の香りが部屋中に漂うのに気分を良くし、もう一度席に着いたところで、ブロンドヘアの少年がじぃとこちらを見ていることに気づいた。

 なにかしら? 少年は私の元までくると、緋色の瞳をくりりとさせながら愛らしい唇を開いた。

「お姉さんは一人ですか? 良ければご一緒させてください」

 あら。こんな若いのにナンパだなんて。可愛らしいこと。

 その時の私は一人という寂しさからか、彼の誘いに乗ることにしたの。大人の余裕、といえば響きはいいかもしれないわね。

「ボウヤいくつ?」

「七歳です」

「……二年生?」

「いえ、一年生です」

 まだ幼いというのにしっかりとした受け答えをする少年に、持っていた覚えのない母性が胸中で広がってくる。

 自分の腰よりも高い椅子にぴょこんと座ると、少年は優しげに目元を細める。まだ小学生なのに、こんな表情ができるのね。

「お姉さん、海は好きですか?」

「……ええ。山よりは好きよ」

「でも、カーテンを閉めているのですね」

「寒いからよ。そうだ、ボウヤにも飲み物を持ってきてあげる。何が良い?」

「ありがとうございます。では、りんごジュースを」

 ここで同じ珈琲を、なんて言われたら腰を抜かすところだったわ。彼のチョイスに子供らしさが残っていて本当に良かった。

 もう一度席を立ち、カウンターに向かう。冷蔵庫の中には新品のりんごジュースが一パック。グラスに注ぐと、シャンパンのように光るそれに、思わず喉が鳴ってしまったのは聞かれていない筈。小屋には相変わらず雨音が響いている。

 からころ、ころ、からら。

 グラスを持って少年のところへと戻ると、お行儀よく彼は座っていた。ありがとうございます、と丁寧に言ってから、彼は静かにグラスに口付ける。

「お姉さんも旅行ですか?」

「ええ。暫くこちらにいるわ。……ちょっとしたご褒美、ね」

「それにしては、あまり楽しめていないみたいですね」

「雨の、せいかしら」

 少年は緋色をきょろりと窓側に向ける。少し黙っていたけれど、彼はまた話し出した。

「可愛いチョーカーですね」

「ありがとう。……気に入っているの」

 せっかくあの人から貰ったこの貝殻の付いたチョーカーも、どうせなら海辺で日の目を見せたかったの。きっと残念がっているわ。

 蒼い装飾のされた貝殻。昔誰かが首輪みたいだと言ったのは、あながち間違いではないのかもしれない。

 少年はじぃっとチョーカーを見つめてから、私の顔へ視線を移す。目と目が合い、反射的に微笑めば、彼も微笑み返してくれたわ。


**


 彼との時間は楽しかった。何も難しい事は考えず、聞かれた事を答えるだけ。彼はめいいっぱい私を褒めてくれたわ。本当に口説かれるなら、こんな方に口説かれたいわね。

 雨は歌うように降り続けている。

 ぽろん、ぽろ、ころろ。

 時計の針が三周したところで、少年はまた、と手を振って去って行ってしまった。また、と言うのだから、また明日にでも来てくれるのかしら。何故だかそんな気がして、嬉しくなってしまったわ。二回り以上年の離れた少年に、いっそ恋でもしているのかしら。

 雨は ―――――― 。


**


 翌日、雨はまだ降っており、私は小屋の中の同じ席に座っていた。今日はりんごジュースを入れてきた。昨日、思ったから。鞄の奥で眠っていた香水まで付けて。

「こんにちは。お姉さん」

「こんにちは、ボウヤ」

 昨日と同じ、ブロンドヘアの少年は、今日はお土産を持ってきたらしい。

「お姉さんに渡したいものがあって。ピアスの穴はないようなので、イヤリングにしました」

 彼の瞳と同じ、緋色の宝石が付いたイヤリング、雫の形に切り取られ、電球に反射して手の中で淡く光っているみたい。

 さっそく付けてみると、少年は用意していたのか鏡を渡してくれた。両の耳で輝くそれに、思わず感嘆の息を漏らす。

「嬉しいわ。まるでボウヤの瞳みたい。綺麗だわ」

「ええ。とてもよく似合っています。良かった、気に入っていただけたようで」

「ええ、ええ。こんなに嬉しいプレゼントは初めてだわ」

 耳に残る重みが、確かに存在を証明してくれる。なんだか見守ってくれているみたいじゃない? 首輪を付けて飼われるより、胸が踊るわ。

「お姉さんは、あおよりあかの方が、似合っています」

「そう、そうなの? なら、今度からは赤を選ぼうかしら」

「でしたら是非僕に選ばせてください。お姉さんに最もふさわしいものを選んで見せますから」

 あら。本当に小学生なのかしら。私が喜ぶ事ばかり言ってくれるじゃない。

 まるで生娘にでも戻ったみたいに、私は喜んだわ。少年は愛らしい姿で、私を愛でてくれる。そこにはもう、母性ではなく恋慕の気持ちでもあったのかしら。定かではないけれど、似たなにかはあったと思うの。

 例え晴れてもこのまま小屋の中で時間を過ごしてもいいかもしれない。海に出てもいいけれど、そんな気分ではなくなってしまっている。

 ……そういえば、雨音が聞こえないわね。

 昨日から閉められていたカーテンを徐ろに開けてみる。

 あら。あら。あら!

 窓の外に広がっていたのは、数多の宝石の雨だった。青、緑、黄、紫……。ああ、凄い。海は宝石によって埋め尽くされ、七色、いえ、それ以上の色できらきらと輝いているの。

「お姉さんは、きっと海で泳ぐつもりはなかったでしょうから」

 不意に少年が口を開いた。私は窓の外に目を向けながら、話を聞いたわ。

「海で泳ぐなら、イヤリングは外れてしまう可能性があります。だけど、お姉さんはそうではなかった。それに、そのチョーカーはあまり気に入っていなかったみたいですし」

 とても驚いたわ。彼の言っている事は正しかった。

 私は海辺を歩くだけで、泳ぐつもりは一度もなかった。それに、このチョーカーだって、可愛いけれど、いい思い出ではなかったの。

「山より好きなのは本当だろうけど、きっと、海もそんなに好きじゃないんじゃないですか」

「そう。よく、わかったわね。泳ぐつもりはなかったわ。だって、水着を見せる相手もいないじゃない」

 チョーカーは、あの人がくれたものだけれど、蒼い瞳のあの人はいつだって、その瞳で私を飲み込んでしまうもの。海のように、深く、どこまでも。だから私、青は好きじゃないの。

「カーテン」

「え?」

「お姉さんがカーテンを閉めた時から、実は見ていたんです。ずっと」

「気づかなかったわ。ごめんなさいね」

「いえ。それで、カーテンを閉めた時、外は青く光っていました」

 言われてから、思い出したの。てっきり寒かったからと思い込んでいたけれど、私はきっと、青い粒の雨が嫌でカーテンを閉めたのね。無意識の行動なのだわ。

「ここの海はエメラルドグリーンです。一般的な海の、コバルトブルーではありません。最も、今は違いますが」

 ブロンドの髪を揺らしながら、少年が私の隣に立つ。椅子に座っている私と比べると、顔の位置が少し下になるくらいね。彼は窓の外より、私を見ているらしい。時折視線が耳元のイヤリングに移るのが感じられた。

「どうして、私が嘘を言っているとわかったの」

「会って間もない僕が言うのも変ですが、お姉さんは思っている事と異なる事を言う際、少し間があるんです」

 これも無意識ね。彼は私の知らない私を知っている。私のことを知る人がいない場所に来たのに、私以上に知っているなんて、なんだか、不思議な話だわ。

 少年は続ける。その愛らしい唇から、まだ知らぬ事実を教えてくれるの。

「旅行という話でしたね。どうですか、ご褒美になりましたか?」

「ご褒美。そんな事も言ったわね。ええ、ボウヤのおかげで、最高の思い出になったわ」

 広がる宝石の海は光を反射させている。ああ、でも、何かが足りないわ。何かしら。青、緑、黄、紫。黒や白も見えるわ。ピンクも、オレンジもある。でも、足りないわ。

「……赤。あか。あかが足りないのだわ!」

 私は一目散に駆け出して小屋を出る。雨はいつの間にか止んでいて、太陽がひょっこり顔を出している。緋を求めて海辺まで来たけれど、やっぱりこの中に緋はなかった。

「どうして、どうしてないのかしら。これだけ色があると言うのに」

 小屋で履いていたスリッパを浜辺に履き捨てて海沿いを歩く。時折指先に当たる宝石はどれも青い。私はそれらを蹴とばしながら、緋色を探したわ。けれど、どこにもないの。

「どうしてかしら。きっとある。あるに決まっているわ!」

 チョーカーに付いた貝殻を無意識に触る。確か、この色は蒼だったわ。青ならこの海に沢山あるというのに!

「そうだわ、……イヤリング」

 左手でころりと外すと、緋色の雫は掌で相変わらず輝いていた。ああ、綺麗。私が望んでいたのはこの色なのよ。もっと、緋色アナタが欲しい!

「お姉さん」

 後ろから、少年の声がする。ゆっくり振り向いて、思わず息を呑んだ。少年の瞳は、ええ。知っていたけれど、緋色だった。

「良ければ、ご一緒させてください」

 太陽に照らされたブロンドはあのりんごジュースよりも黄金。きっとこの世界のどの宝石を掻き集めても、彼以上に美しいものはないでしょうね。

 からころ、からら、ころろ。

 海の宝石は可愛らしく鳴くと、波が引くのと同じように水平線に向かって去っていく。

 からら、から、からころろ。

 少年が私に手を伸ばす。意図はわからなかったけれど、私は無意識にしゃがんだわ。彼の手が、私に届くように。

 少年の手は真っ直ぐ私の首元へ。そして、貝殻の付いたチョーカーを外すと、それを海へ投げ捨ててしまった。宝石の海と共に、チョーカーは水平線の向こうへ、……消えてしまった。代わりに私の掌のイヤリングを取ると、もう一度左耳に付けてくれた。

「やっぱり、お姉さんには緋色が似合います」

 にっこり笑った少年に、私はここに来てから初めて声を出して笑ったわ。ちゃっかりナンパに成功していたのね。


 だって、彼は最初から、緋色じぶんが似合うと言っていたんですもの!

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次は音だけで聞き分けて 元真ヒサキ @moto_ma0400

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