09 終着点
春の陽気が心地よい。風はおだやかで、あちこちから騒がしい小鳥のさえずりが聞こえてくる。
あの大雪の日から、十年あまりがたった。
僕はこうして、しぶとく生き残っている。
母は、脳梗塞で倒れてからちょうど一年後に、再び脳梗塞を再発した。そばに人がいて、すぐに病院に運び込まれたが、もうそのときには手遅れだったようだ。僕たち家族がかけつけたときには、すでに息をひきとっていた。母の葬式では、父も姉も泣いていた。二人が肩を揺らして涙を流す姿を、僕は鮮明に記憶している。
そんな父も翌年、母の後を追うようにして亡くなった。父は医者に肺炎と診断され、二週間ほど病院に入院していた。その日、喉に痰をつまらせてナースコールをしたそうだ。真夜中だったが、父を診察した医者の判断で、僕と姉も病室に呼ばれた。そのときにはすでに父の意識はなかったから、父の苦しむ姿を見なくてすんだのは、僕にとっても、姉にとっても、幸運なことだったと思う。最後まで意識が戻らないまま、眠るように息を引き取った。
母の一年間の入院生活にくらべて、父は二週間前まで、普通に生活をすることができていた。それはきっと幸運なことだっただろう。そんな風に、泣き止まない姉の背中を励ましたのを覚えている。
数年前、姉は結婚した。姉はすでに四十歳を過ぎていたけれど、とても幸せそうな顔をしていた。結婚式には唯一の身内として、僕も呼ばれた。姉の満面の笑みに、少しも傷はない。いつか、僕が姉の顔を殴ってしまったのを思い出す。あのことで、傷が残らなくて本当によかった。けして許されることではないということはわかっているけれど、姉の晴れ舞台を台無しにすることは避けれたようだ。
そんな僕も、去年の春先に余命宣告一年をうけた。それまで働いていた仕事はやめて、この一年は入退院を繰り返しながら、一人でのんびりと過ごした。
僕が今向かっているのは、かつて姉と一緒に住んでいたマンション。建物の老朽化が原因で取り壊されることが決まっている。もう住人は全員引っ越して、誰もいないそうだ。大家さんに、部屋の中を見せてほしいと頼んだら、最初は渋い顔をしたけれど、事情を話すとすんなりと了承してくれた。
なつかしい玄関のドア。金属のきしむ音を聞きながら、中に入る。わずかな湿気の匂い。
記憶をたどりながら、かつて自室として使っていた、その部屋に入る。カーテンのはずされた窓からは、春のほのぼのとした光が差し込み、部屋全体を明るく照らしていた。この部屋にはいろいろな思い出がある。楽しかったこともあれば、苦しかったこともあった。すべてが、遠い日の出来事だ。
ふと視界のすみに何かが映る。
見上げると、窓際に彼女が立っていた。
肩までたれた銀色の髪は、あたたかな日差しを反射してキラキラと輝いており、まばゆいほどの白い肌はこの世のものとは思えぬほど美しい。顔立ちは整っているがどこか幼さを残していて、その透き通った瞳でじっと僕のことを見つめている。
その表情は窓から入った日光に遮られ、うまく読み取ることはできない。きっと昔のように、この世の何よりも愛おしい笑顔で、僕のことを見つめてくれているのだろう。
「久しぶりね、トモ」
部屋に響くのは、可憐な少女の声。
「ああ、久しぶり」
「驚かないのね」
ニナは僕の反応に、少し不満そうだ。
「きみは僕の夢だからね」
「違うわよ。本当はこっちが現実で、むこうが夢の世界。あなたはそれに気づいていないだけ」
彼女はそう言って笑う。
「そうかな」
「そうよ」
しばしの沈黙。
心地よい静寂の中、僕たちは二人で見つめ合う。
「ねぇ」
彼女は少し迷ってから、こう言った。
「幸せだった?」
幸せだっただろうか? 僕は自分に問うてみる。
人並みに幸せを感じて、人並みに不幸を背負って、やがて他の誰もがそうであるように過去の存在となる。他の人よりも少し短い人生ではあったけれど、終わりに向かってがむしゃらに走るのはなかなか爽快で、悪い気はしなかった。けれど、それは本当の幸せと呼べるものなのか。
「わからないな」
僕は率直な気持ちを、彼女に伝える。
「そう」
彼女は少し残念そうだけれど、きっとそれは、仕方のないことなのだ。
僕はせめて彼女に触れようと、自分の右手を伸ばす。
当然のようにその手は空をかすめてしまうけれど、それでも僕は手を伸ばし続ける。
とたんに目の前がまぶしくなる。まるで、光の中に意識が吸い込まれるようだった。
しばらくすると光は収まって、もう彼女はどこにもいない。
僕はまた、一人取り残される。
振り返るとマンションを出て、もと来た道を引き返した。
了
僕とニナ。 ころん @bokunina
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