08 行き止まり

 夏が終わり、秋が来て、あっという間に冬になる。

 窓の外は雪が降り始めていた。天気予報によると、これから全国的な大雪となるらしい。まだ正午を過ぎたばかりだが、あまりゆっくりしていると都内まで戻れなくなってしまう。帰りの足がなくなる前に、早くここを出るべきだろう。

 僕は実家近くの介護施設に来ていた。数週間前、母が病院から移された場所だ。

 母はリハビリの最中で、僕はそれを一人で見学してる。というのも、見舞いにきたら運悪く、ちょうどリハビリの時間と鉢合わせてしまったのだ。邪魔をするのも悪く、終わるまで母の様子を見守ることにした。

 目の前では、僕より少し背が低いくらいの青年が、母の体をうまい具合に支えながら、車椅子に移る作業を手伝っている。彼は僕より一回り年下だが、礼儀のしっかりした好青年で、ジャージ姿の全身からは若々しい活力を感じる。

 彼は母のリハビリを担当しており、今まで病室で何度か話す機会があった。主には母の容態についてだったが、それとは別に彼自身のことも聞いた。高校時代は警察官を目指していたそうだが、福祉の現場が人手不足であるということを知って福祉系の短大に入り、数ヶ月前にやっと、きちんとした資格を取ったのだという。

 そして、目をきらきらと輝かせて僕にこう語ってくれた。


「人の役に立つ仕事をすることが、子供の頃からの夢だったんです」


 彼は目標を実現するための行動力を持っているだけでなく、野心的だ。きっとこういう青年が、これからの社会を支えていくのだろう。本当にすごいことだと思う。彼は社会に必要な人材だ。

 一方、僕はまだ再就職先を見つけられないでいた。ニナがいなくなってしばらくは、そのことばかりが僕の思考を占有してしまって、ほかの事を考えることが出来なかった。数ヶ月して、ある程度立ち直ってきた頃に、何社か挑戦してみたのだけれど、そう簡単にはうまくいかない。大学を中退しているうえに、前の仕事をやめた理由もぱっとしないようであれば、そんな男を採用するような会社もなかなかないのだろう。

 しかし、そんなのんきなことをいつまでも言っているわけにもいかない。そろそろ働いていた時の貯金が尽きる頃だし、そうなれば母の資金を工面する以前の問題で、自分の生活費すら払えなくなってしまう。それは最悪だ。だから、まずはアルバイトを始めて、その合間に就職活動をしようと考えている。


「すいません、お待たせしてしまって」


 青年は僕にそう言うと、一礼をして病室を出て行った。どうやらリハビリが終わったらしい。僕は一呼吸置いてから、母に近づく。

 母は寝間着姿でベッドに横になったまま、薄い目を開けて僕のほうを見ていた。その髪はぼさぼさで、肌は乾燥しきっている。倒れる前の、外出時に化粧を欠かさなかった母を知っている僕は、入院している母の姿を見るたびに、複雑な気持ちにさせられた。


「わるいわねぇ」


 そう言って母は笑う。その滑舌は、前回来た時よりも聞き取りやすくなっているように感じた。きっと、徐々に回復はしているのだろう。


「車椅子、乗れた?」


 僕はできるだけ明るい声で話しかける。


「まだね、だめなのよ」

「そう」


 母はいまだに、人の手を借りずに自力で車椅子に移ることができない。医者には、今の状態からそこまで回復するのは、かなり難しいと言われていた。

 母は家に戻れるだろうか。それが最近の僕の悩みだった。車椅子に自力で移れないということは、常に誰かが傍についていなければならないということだ。トイレに行こうと思ったって、誰かの助けを借りなければならない。定期的に寝返りを打たせてあげないと、床ずれを起こしてしまう。リハビリを続けないと、やがて今動かせる場所ですら満足に動かせなくなってしまう。


 僕の前ではいつも笑顔を見せてくれて、少しも弱みを見せない母だが、父や姉の前では違う。姉が見舞いに来ると、同室の病人がうるさいといった愚痴や、下の世話を若い男性にされてしまうことへの不満などを口にするそうだ。父と二人きりの時は、早く家に帰りたいと顔をひきつらせ、時には、もう死んでしまいたいと泣き出すこともあったらしい。


 やっぱり今のままじゃいけない。少しでも早く就職して、安定した収入を得るべきだ。一人でも安定した生活を送れるようになって、母を安心させたい。そうすれば母だって、僕に対して愚痴の一つや二つ言えるようになるだろう。

 母のためだけじゃない。いつかまたニナが見えるようになって、一緒に暮らすことができるようになったとしても、僕がちゃんとした生活を送れていなかったら、彼女を不幸にしてしまう。そんなことにはしたくなかった。

 とにかく、できるだけ早く仕事を見つけるべきだ。

 母を安心させるために。ニナが帰ってきたら、胸を張って会えるように。僕はきちんと就職して、妥当な賃金を得て、人並みの生活を送っていこう。他人に誇れるような人間になろう。どんなに悲しくてつらいことがあったとしても、立ち止まらずに、未来への建設的な行動を続けていこう。

 きっとそれが、生きるということだ。真っ当な人間の、するべきことだ。


 ****


 都内のマンションに戻る頃には大雪になっていて、風も強く、駅からマンションまで歩いて帰ってくるのも一苦労なほどだった。

 傘は差していたけれど、コートは水気をおびてぐっしょりとしている。髪の毛も湿り、体は冷え切っている。このままだと風邪を引いてしまうだろう。一度、風呂に入って温まろう。そんなことを考えながら、コートをハンガーにつるし、体についた雪を払う。

 リビングには姉がいた。床に座り込み、目の前に雑誌を広げながら、ぼーっとテレビを眺めている。


「ただいま」


 僕はそう言ってみたのだけど、しかし姉からの反応はない。テレビの音で聞こえなかったのだろうか?


 着替えの用意をするために自分の部屋に向かう。僕はそこで、言葉を失った。

 部屋の扉が開いている。

 僕はニナと出会ってから、部屋の扉を閉めることを徹底していた。それは半ば習慣のようになっていて、今日だって出かける前に、きちんと扉を閉めたはずだ。それが開いているとはどういうことなのか。単に閉め忘れただけなのか。

 漠然とした不安感に耐えながら、おそるおそる部屋の中をのぞく。


 見られた。


 部屋の様子を見た僕がまず思ったのは、そんなことだった。そして次の瞬間には、言いようもない感情が自分の中に湧き上がってくる。震える手を押さえながら、なんとか冷静さを取り戻そうと試みる。ゆっくりと部屋の中に入り、開け放たれている、クローゼットの中を確認した。


 そこに本来あるはずのものが、どこにもない。それはドレスから始まり、ネックレス、指輪、サンダル、ハンドバッグ、ウエストポーチ。僕からニナに送った、様々なプレゼント。僕たちの親愛の証。僕とニナを最後に繋ぎとめていたものが、きれいさっぱりなくなってしまっていた。

 目の前の光景に頭がくらくらとして、思うように考えることができない。胸がひどく苦しい。全身から、力が抜け落ちる。心臓が跳ね上がって、うまく呼吸ができない。酸素が足りずに、脳がじわじわと熱を帯び始める。犯人は明白だった。すぐに部屋を出る。廊下をできるだけゆっくりと歩いて戻り、リビングへ。

 姉は相変わらず僕に背を向けたまま、ぼーっとテレビを眺めている。馬鹿にしやがって。その姿を見た瞬間、僕の中に渦巻いていた言いようもない感情は、明確に怒りへと変わった。こちらの方を見ようともしない姉を振り向かせようと、その肩をつかむ。


 思ったよりも力が入り、爪が肩に食い込む。

 姉は驚きもせずに、僕のほうを振り返る。

 目と目が合う。

 姉は泣いていた。

 姉の涙に、僕は少しの疑問も持たない。僕はもう、そんなことをまったく気にできなかった。自分の中から無限に湧き出てくる怒りが、僕の意識とは無関係に、僕の体を勝手に操る。止めることなどできなかった。

 僕は、硬く握りこんだ右の拳で、姉の顔面を殴りつけた。


 我に返ったときには、すでに手遅れで。

 姉はうずくまり、顔を押さえ込んで、目を見開いている。

 肩を揺らして、僕のほうを見上げている。

 怯えているのだろうか? 僕のような人間を?


 ああ、やってしまった。僕は今まで、暴力を振るうなんていうのは最低の人間のすることだと思っていたのに。生まれて初めて、暴力を振るってしまった。僕は、自分の理解の及ばない、何者かになってしまった。もう何もする気はないというのに、姉は微動だにしない。恐怖に震えながら、何も言わずに、ただ僕のことを見続ける。顔を抑えている手の隙間から、血が滴っているのが見えた。

 やめてほしい。僕を見ないでほしい。僕は誰かに見られるのが、ひどく嫌いなんだ。放っておいてほしい。一人にしてほしい。傷つきたくない。傷つけたくない。

 けれど喉からは空気が漏れるばかりで、うまく言葉にならない。それで呼吸のタイミングをのがして、息がつまる。頭が苦しい。硬く握り締めたままの拳が、ずきずきと痛む。目の前の女は、まだ僕のことを見続ける。その見開いた目で、僕のことを見続ける。


 僕はもう、一秒だってその場にとどまることはできなかった。今すぐ自分の存在を消してしまいたかった。もう、やめにしてほしかった。僕は逃げるようにマンションを飛び出した。


 ****


 電車に揺られて、どこか見覚えのある駅で降りる。


 あたりは一面が白く覆われているというのに、雪は相変わらずやむ気配を見せない。むしろその勢いはさらに増しているようだ。このまま永遠にふり続けたら、この世のすべてのものを美しく包み隠してしまうのだろうか。

 転ばないように足元を気にしながら、僕は歩みを進める。

 雪が周囲の雑音を消し去ってしまって、僕の耳には何も届かない。あんなことがあった後なのに、僕の心は不思議と静寂に満たされていた。


 ふと足に違和感を感じる。それで初めて、自分が靴をはいていないことに気づいた。どおりでさっきから、妙に歩きづらいと思っていたんだ。出てくるときに履き忘れてしまったらしい。靴下は水分を含んで重く、冷たい。

 その場で靴下を脱ぎ捨てると、足の指先は、醜く紫色になっていた。そういえば僕は、靴のことに気づかずにここまできた。ということは、僕は靴も履かずに電車に乗っていたのだろうか? きっとそうなんだろう。他の客の目には、さぞ滑稽に映っていたに違いない。

 裸足になり、軽くなった足取りで進み続ける。


 気が付くと、僕は見覚えのある居酒屋の前に立っていた。この場所はたしか、かつで同僚だったはずの女性と、よく来ていたんだ。それで、彼女は酔っ払って、僕に仕事の愚痴をもらす。僕はそれを聞き流しながら、店員の働く様子を観察する。それはとても楽しくて、魅力的な時間だったように思う。あのときの僕は、そう思っていなかったっけ?

 当時の記憶をうまく思い起こすことはできないけれど、今になってはどうでもいいだろう。もうとっくに、昔の話になってしまった。僕は前を向き、また歩みを進める。


 気が付くと、見慣れぬ路地に立っていた。そうだ、あの日もこんな感じだった。それで、確かこの辺りで、あの怪しい男に出会ったのだ。

 もう一度あの男に会えるだろうか?

 そうすればまたニナに会えるような気がする。


 僕は男を探そうと辺りを見回す。しかしそこで、あたりが真っ白なことに気が付いた。いつのまにか吹雪になっていたようだ。とにかくすべてが白い。目の前の景色すらまともに見えなくて、自分がどこに進んでいるのかもわからない。体が冷え切ってしまって、なんだかやけに眠たい。

 僕はもうくたびれてしまった。このまま心地よい眠気を受け入れて、眠ってしまおうか。僕は背中を地面にくっつけて、雪の降り続ける空を見上げる。

 さまよったすえの凍死なら、自殺とは呼ばないだろう。そろそろすべてに嫌気がさしていたところなんだ。身の回りではつらいことばかりしか起きないし、たまに幸せを見つけたって、それらはすべて僕自身の手で、僕の傍から離れていってしまう。必死に捕まえようとしても疲れるだけなんだ。


 風の音だけが僕の耳に響く。

 頭の中には自然と、少女の姿が浮かんでいた。

 少女は純白のドレスをまとっていて、太陽のようにまぶしい姿で、僕のほうを見てくれている。少女は口を動かして、僕に何か言っているようだ。

 風がうるさくて、その声はよく聞き取れない。


 僕はひたすらに耳を澄まし続けたけれど、聞こえてきたのは最後まで風の音だけだった。

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