07 悪夢の中で

 2週間ほどたって、母は集中治療室から一般病棟へと移された。いよいよこれで、簡単なリハビリを始められるそうだ。すでになんとか聞き取れる程度まで口を動かせるようにはなっていたが、これ以上回復するためにはリハビリが欠かせない。そして、もしリハビリがうまくいったならば、きっと自分の力で歩くことができるようになるだろう。自力で歩けるということは、今までとほとんど変わらずに生活ができるということだ。だから、母には出来る限りリハビリを頑張ってほしい。

  姉はいつまでも仕事を休むわけには行かないということで、昨日すでに帰っており、今日は父と僕の二人で見舞いに来ていた。一般病棟になり面会可能時間は増えたけれど、父と僕が無口なせいでまったく会話は弾まなかった。


 帰り際に、しばらく見舞いにこれなくなるということを母に告げた。あらかじめ父には、一般病棟に移ったら仕事を探すために一度都内に戻るという話をしており、了承も得ている。

 母はそれを聞くと、精一杯に口を動かしながら、がんばってねと僕にささやいてくれた。職を探すためというのもあったが、何よりも早くニナに会うことが目的だった僕は、その言葉に、胸が痛くなるのを感じた。


 ****


 数週間ぶりに戻ってきたマンション。夏の日差しが照りつける中、駅から徒歩で歩いてきたせいで喉はからからに渇いている。姉は仕事に行っているようで、静かなリビングに、微かな蝉の音だけが響いていた。


 自分の部屋の扉を開けると、むわっとした熱気と湿気の香りが漂う。たまらず、部屋の中に入って、机の上にあったエアコンのスイッチを入れる。そこで、妙な違和感。

 そう、ニナだ。ニナがどこにもいないのだ。


「ニナ?」


 その呼びかけに、返事はない。

 いったいどうしてしまったんだろう? どんなことがあっても、どんなに頼んでも、絶対にこの部屋から出ることのなかった少女が、勝手にどこかに行ってしまうとは思えない。

 最悪の予感が頭をよぎる。

 僕は、全身から血の気が引いていることに気づく。乾いた汗が、やけに冷たい。胃がきりきりと痛む。喉がからからに渇いて、呼吸が苦しい。

 僕を脅かそうと隠れているのか? そう思って、クローゼットを開いてみたけれど、そこには相変わらずニナヘのプレゼントが詰まっているだけで、本人の姿はない。僕は呆然として、しばらくその場で立ち尽くしていた。しかしニナは現れない。


 日が沈み始めて、部屋の中が徐々に暗くなっていく。

 しかしニナは現れない。


 ああそうだった、そうだった。僕としたことが、すっかり忘れていたよ。そういえばニナは、あの薬を飲まなければ現れなかったでしょう? まったく、あせっていたせいで、肝心なことを忘れてしまっていたよ、ばかだなぁ、なんて、ヘラヘラと笑いながら、机にしまってあった残りわずかのカプセルをひとつつまんで、口にほうり込む。そしてその場で阿呆のようにぼーっとして、ニナがあらわれるのを待ったけれど、しかしニナは現れない。


 ああ、薬の効きがわるいのかもしれない。そうに違いない。それならば、物量作戦だ。僕は瓶のふちに口をつけて、残りのカプセルをいっきに飲み込んだ! さぁ! これで文句はないだろう。もう、これでだめだったら、僕にできることなどないのだ。これっぽっちも、打つ手がなくなってしまう。こういうときは、後がないときは、ずっしりと構えていないといけない。気持ちが落ち込んでしまっては、成功することだって成功しなくなってしまうからね。それで、またしばらく待ってみたのだけれど、薬が効くのを待ってみたのだけれど、しかしニナは現れない。


 これはどうしたことだろう? まさか数日部屋を空けていたせいで、今までニナを探り当てていた感覚が、僕の鋭い感性が、すっかり狂ってしまったのか。僕は頭がおかしくなってしまったのか。

 こんなことならば部屋から離れるんじゃなかった。ずっと閉じこもっておくべきだったんだ。たしかに母のことは心配だったけれど、それは仕方ないことだったんだ。我慢しなくちゃいけないことだった。

 ああ、僕のニナ。君がいなければ僕は何もできないよ。君がいない生活に、意味なんてないんだよ。ひっそりと隠れて、僕のことを驚かそうとしているのだったら、僕はとびきりの演技で度肝を抜かれてみせるから、だから、お願いだから今すぐに、僕の前に出て来ておくれよ。その可憐な容姿を、その白銀に輝く髪を、その太陽のように暖かい笑顔を、再び僕に見せておくれよ。ねえ、お願いさ……。

  君がいなくなってしまったら、この人生のいったいどこに、幸福を見出せばいいんだい……。


 しかしニナは現れない。


 ****


 気が付くと僕は居酒屋にいた。となりの席には、かつて同僚だった女性が、何かをつぶやきながら酒を呷っている。僕も少し飲みすぎてしまったようだった。地面はくらくらと揺れるし、どうも意識がはっきりしない。


「ちょっと、長谷川さん。聞いてます?」


 その声だけが妙に響いて、僕の心の中にしみこんでいく。

 彼女は僕に向かって話しかけているようだけれど、その視線は僕ではなく、どこか虚空に向いている。


「どうせ死んでしまうなら、最後まで生き抜くことにどれほどの意味があるんでしょう」


 彼女の言ってることがわからない。僕には最後まで、彼女の言葉を理解することはできなかった。彼女が何を考えているのかわからなかった。


「きっとこのまま、ただでさえ短い人生をいたずらに浪費していくんです」


 そんなことを言っているから、君はいなくなってしまったんだ。それは良くないことじゃないか……。


「ふふ。長谷川さんは優しいんですね。でも大丈夫です、後悔なんてしていませんよ」


 違う、君はまだ気づけていないだけなんだ。幸福かどうか、退屈かどうか、そんなことは関係ない。生きることに理由はいらない。とりあえず生きて、できるだけ生きて、そして可能な限り長い時間を過ごすべきだ。いつか駄目になってしまうその日まで、生きるべきだ。


「私思うんですけど、きっとみんな、死という現象が怖いんです。体験したことがないから、怖くて、嫌悪するんです。そうして悪者に仕立て上げてしまう。

 だけどそんなのもったいないと思いませんか? それは、みんなが嫌悪しているせいで、悪役になっているだけじゃないですか? ただ単に、周りに流されているだけなんじゃないですか?」


 もう、居酒屋の風景は消えうせてしまって、ただ真っ暗闇の空間だけが残っている。僕はその暗い空間に、一人取り残されてしまったようだった。


「死っていうのは、本当にそんなに怖いものなんですか? 嫌悪しなくちゃならないものなんですか?

 本当は、思ったよりも良いものかもしれませんよ」


 その言葉を最後に、彼女の声は聞こえなくなった。



 気づくと僕は自分の部屋にいた。そして目の前には、全身をあせた灰色のロングコートで包み、フードを深々とかぶった怪しげな男が立っている。僕はその容姿を、しっかりと記憶していた。あの夜、あの薄暗い夜道で、僕に薬を押し売りしてきた男だ。


「やぁ、ずいぶんと惨めな顔をしているじゃないか」


 そういって男は、外見に似つかわしくない高めの声で話しかけてくる。


「アハハ。見たところ、君はひどく落ち込んでいるようだ。そして俺は、そんな君を慰めてやろうと思ってね。だって俺たちは、まったく赤の他人ってわけでもないだろう?」


 男は肩を揺すって高笑いをする。フードの隙間から一瞬見えたその顔は、たしかに僕の顔だった。


「君がどれだけ悩んだってね、仕方ないことだぜ? まったく無駄なことさ。いつだって俺たちにとって大切なことは、すべて周りが決めてしまうんだ。」


 僕は少しも聞きたくなかったが、男は滝のように喋り続ける。


「そうだな、考えてみてくれよ。もし君が死んでしまったって、そのことがずっと周りに影響を与え続けるなら、生きていることと死んでいることの間に、どれほどの違いがある? かくの如き。俺たちはいつも外野さ」


 僕には、男の言葉が少しも理解できない。


「そう! 誰も君のことなんて理解してくれない。君が誰のことも理解できないようにね。いいかい? 自分のことが他人に理解されてしまったら、もうそれはおしまいだぜ。それはつまり、誰でも抱くような陳腐な感情だったということなんだからな! 君のまったく知らない赤の他人が、君と同じように考え悩む様を想像してみろよ。それで、そこにいったいどれだけの価値がある? つまり、そういうことなのさ。わかるかい? それともわからないかい?」


 そう言って、男は心底おかしそうに笑う。

 どうしてこの男は、こんなに馴れ馴れしいのか。なんでも知っているような口を利くのか。いくらなんでも、傲慢すぎるんじゃないか。


「なんだ? 不満そうだな。まあいい。俺はそれだけいいにきたんだ。本当にそれだけさ。君が望んだから、わざわざ言いにきてやった。君が望んだんだぜ? でなければわざわざ、君の前にあらわれるわけがない。こっちまで参ってしまうからね! 君はいつだって、自分に重圧がかかると苦しそうな悲鳴を上げるくせに、自分を重圧で押しつぶすことには、これっぽっちも抵抗がないもんな。まったく、そういう奴を見ていると反吐が出るんだ。アハハハ!」


 男はひとしきり笑うと、闇の中に消えていく。僕は、また一人取り残されてしまったようだった。

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