06 帰省

 数ヶ月がたった。


「そんなに毎日パソコンに向かっていて、飽きないの?」


 ニナはいつも通りベッドに腰掛け、呆れた顔でこちらを見ている。それを尻目に、僕はモニターと向き合い、黙々と敵モンスターを倒していく。

 僕は仕事をやめていた。そして持て余した膨大な時間を、こうしてネットゲームにつぎ込んでいる。

 もう薬は使っていない。使う必要がなくなった。

 あの日、同僚の彼女を駅まで送ってから家まで戻ってくると、自室にニナがいた。まだ薬を飲んでいなかったから、見えるはずなどないのに。その時は偶然だろうとも考えたが、翌日になっても、翌々日になっても、僕にはニナがはっきりと見えていた。どうやら僕は、薬の力に頼らずに、自力でニナを認識することができるようになったらしい。

 そして、その影響かはわからないけれど、ニナの性格はすっかり変わってしまった。今までの無言で僕の悩みを聞いてくれた少女はどこかに消え去り、僕が何かを相談しても、ひどく傷つくようなことばかり言う。その言葉は的確に胸へと突き刺さり、僕を苦しめるのだ。今も変わらずニナを愛しているけれど、僕は悲しくて痛い。愛は悲しい。僕は痛い。


「トモはどうして仕事をやめちゃったの?」


 それは、仕方がなかったんだ。訃報のメールが携帯に送られてきたとき、僕は不思議と悲しくはなかった。もちろん多少の後悔はあった。彼女が家に来たとき、自殺を考えていることを知っていれば、気の利いた言葉の一つや二つ、口にすることが出来たのにとは思う。けれどそれを考えたところで、どうなるわけでもない。だから悲しくはなかった。ただ、体が重くてどうしようもなかったんだ。だから僕は彼女の死を知ってすぐに会社をやめた。

 このことは何度も話しているはずなのに、ニナは毎日のように同じ質問をしてくる。きっと僕に、仕事をやめたことを後悔させたいのだろう。その手には乗るものか。僕はニナの言葉を無視して、目の前のディスプレイで繰り広げられる敵モンスターとの戦いに集中する。


「毎日部屋にこもってゲームばっかり。つまらない生活だわ」


 ニナは僕の後ろに立ち、ディスプレイを覗き込みながらそう吐き捨てる。今ここで振り返れば、ニナはきっと悪意に満ちた笑顔を浮かべているのだろう。それではニナの思う壺だ。だからといって、そこまで言われてしまっては引き下がるわけにもいかない。僕はゲーム画面に視線をとどめたまま、できるだけ無関心を装って言い返す。


「僕はね、ニナ。こうして君といられることが一番の幸せなんだ。仕事を辞めたおかげで、君とずっと一緒にいられる。それだけで満足なんだ。それ以外に望むものなんか、あるわけがないだろう? だから、こうやってゲームをしながら君と他愛のない会話をしているのだって、つまらなくなんかないよ。楽しいっていうのとは違うかもしれないけど、なんだかいい気分なんだ。」

「いい気分?」


 ニナは不思議そうに言う。僕は今の気持ちを的確にあらわす、うまい言葉を持ち合わせてはいなかった。


「うまく表現できないけどさ。だけど君なら言葉にできなくたって、僕の気持ちがわかるんじゃないの?」


 僕の言葉に、ニナは首をかしげる。


「わかるわけないわ。私はあなたが思い描いているものなんだから、あなたがわかってないことまでわかるわけないじゃない」

「僕はわかってるよ。ただうまく言葉にできないだけさ」

「同じことよ」


 そう言うと、ニナはディスプレイを覗き込むのをやめ、ベッドの方に戻っていってしまう。まだ言いたいことがあったけれど、ニナはこれ以上話す気はないようだった。僕は諦めて、目の前のゲーム画面に意識を戻す。静かな部屋の中に、キーボードのタイピング音だけが無機質に響いた。


 ****


 めまいがひどかったのでベッドで横になっていると、壁越しの姉の部屋から、僕の悪口が聞こえてきた。どうやら、誰かと電話をしているようだ。

 僕は今、せっかく姉の紹介してくれた仕事を投げ出し、部屋にこもって、他人に迷惑をかけて生きている。たしかに悪口を言われても仕方ないのかもしれない。

 けれど僕は、すっかり対応に困ってしまった。

 これはどうするべきだろう? 姉は声が部屋の外へもれていることに気が付いていなくて、これはいわゆる陰口というやつなのだろうか。それともわかってやっていて、僕はおうなんだこのやろうと、殴りこみに行くべきなのだろうか。前者だった場合、僕は相当なショックをうけてしまうし、後者だとして、僕にそんな行動力はない。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか電話は終わっていた。

 姉は東京にある有名国立大学を卒業していて、アメリカへの留学経験もある。僕はそのことを誇りに思い、とても尊敬している。僕などにはとうてい真似できないことだ。

 姉は物事をよく考える人で、いつも様々なことを考慮して動いている。僕などは目先のことだけで精一杯だというのに。姉は本当にすごい人なのだ。

 静かになった部屋の中、仰向けになって天井を見つめていると、ニナが顔を覗き込んできた。その透き通った瞳は、僕のことをじっと見つめている。


「羨ましいと思っているんでしょう?」


 何がだい?


「自分も彼女のように頭脳明晰で社交性にあふれていて、この国からも飛び出して行ってしまう程の行動力があればと、願っているんでしょう?」


 そうでもない。パソコンの前で一日中くだらないサイトをめぐっている時のあの感覚は、あるいは一晩中ゲームをして自己嫌悪に陥ってるときのあの感覚は、間違いなく彼女には理解できないものだろう。


「そんなものに価値があるの?」


 行動力があって、常に外へ外へと視線を向けることが、誰にとっても良いこととは限らないんだよ。僕にとってはこの部屋がすべてで、中のものだけでやりくりをしている。これだって本当は、とても素晴らしいことのはずなんだ。


「この社会不適合者め。おまえは一生そうやって狭い部屋から出て来ずに自分の殻に閉じこもり、他人のすねをかじり、人の不幸を喜び、人の幸福を妬み、地獄のような、身の毛もよだつような卑しい生活を続けていくんだろうな。そしてそれが、唯一の自分らしさであり、自分は幸福であると言い張って生きていくんだろうな。なるほど、結構なことだ」


 ニナは張り裂けそうなほど大きく口を開け、下品に笑っている。悪い夢のようだった。


 ****


 その日、目が覚めるといつのまにか部屋のドアが開いていて、入り口にスーツ姿の姉が立っていた。

 何の用だろうか? 時計を見ると朝の九時で、働いていない僕にとってはめったに起きることのない時間帯だった。姉は何やらあせっているようで、息が切れている。その様子を見るに、おそらく職場からあわてて帰ってきたのだろう。だけどどうして?

 僕が怪訝な顔をしていると、姉は深呼吸をしてから、息を整えてこう言った。


「父さんからの電話で、母さんが倒れたって。私は今から母さんのいる病院に向かうから、智也もすぐに来て」


 ****


 母は脳梗塞だった。早朝に玄関口で倒れているのを、偶然近所の人が見つけたそうだ。すでに定年を迎えている父はちょうど近所の囲碁教室に出かけていて、もし倒れたのが玄関口ではなくて家の中だったなら、だれにも発見されずに手遅れになっていたかもしれない。

 その日すぐに、医者から詳しい話を聞かされた。現在集中治療室にいる母は、とりあえず命に別状はないという。けれど右脳にダメージを受けていて、左半身に後遺症が残ると言われた。リハビリによってある程度回復することはできても、今まで通りの生活に戻ることは非常に困難らしい。


 病院からの帰り道、父の運転する車の中で、姉は声をあらげて泣いた。いつも無表情な父も、目を赤くしているようだ。

 僕はなんだか見てはいけないものを見ているような気がして、とても居心地が悪かった。


 その夜三人で話し合った結果、僕と姉は母の容態が安定するまで実家で過ごすということが決まった。その後のことも、近いうちに決めなければならない。

 姉は電話で勤め先に事情を説明しているようだったが、働いていない僕は特にするべきことがない。ただ、しばらくニナと会えないということだけがつらかった。


 面会時間には、三人そろって母に会いに行った。母には意識があり、僕たちが話しかけるとうれしそうな笑みを浮かべてくれる。まだ口をうまく動かせないようだけれど、これからのリハビリで喋れるようになるのだろうか? それとも喋れないままなのだろうか?

 僕は疑問に思ったけれど、父と姉はまったく気にしていない様子だった。二人とも、笑顔で母に話しかけている。今はできるだけ、暗い話題は避けるべきなのだろう。


 集中治療室にいる間は面会時間が限られていて、わずかな時間しか会うことができない。それ以外のほとんどの時間を、実家でテレビを見ながら過ごした。

 はやくニナの待っている、あの部屋に帰りたかった。そして、はやくニナと話がしたい。一人で何もせずにぼーっとしていると、どうしても嫌なことばかり考えてしまう。気持ちが落ち込んでしまっては、未来に向けた建設的な行動だってすることができない。こういうときこそ、僕たちは一緒にいなければいけないのに。

 もうすぐ日が沈むというのに部屋の中はやけに蒸し暑く、ぬれたシャツがねっとりとまとわりつく。テレビ画面では大自然をスクープする番組をやっており、リポーターが真剣な顔でジャングルを歩き回っている。僕はそれを、見るともなしに眺めていた。


 場面が切り替わり、画面いっぱいにイチジクの実が映る。そこでは、なにやら小さな虫が、必死にイチジクの実の中に入り込もうとしているようだった。その様子がとても奇妙で、ついつい見入ってしまう。ナレーションが独特の発声で、映像についての解説を加えている。

 イチジクは実の中に花があり、イチジクコバチと呼ばれる昆虫は、実の中に入り込んで卵を産み付けるらしい。しかし、実の中に通じる唯一の入り口は狭く、イチジクコバチはそこを通るときに羽がもげてしまう。無事に中に入り、卵を産み付けることができたとしても、もう二度と外に出ることはかなわず、実の中で一生を終えるのだという。

 自殺のようだな、と思った。卵を産み付けて種を存続させるために、狭い実の中で一生を終えることを受け入れる。産卵を諦めれば、その短い命が尽きるまで、外の世界を自由に飛び回ることができるというのに。

 彼らは気づいていないだけなんだ。外の世界の素晴らしさに。だって、少しでも無限に広がる空の美しさを知っているのなら、誰だってそっちのほうを選ぶに決まってるんだ。

 彼らはそれを知りえない。種の存続のために死を選ぶ。


 テレビに見入っていた僕は、いつのまにか姉が部屋に来ていたことに気づかなかった。物音で気づいたときには、姉は部屋の入り口に立ち尽くして、何か言いたげに僕のほうを見つめている。その目は赤く、頬には涙の跡が見える。きっとまた泣いていたのだろう。立ったまま何も言わないので僕がうながすと、姉はかすれた声で話し始めた。

 姉の話は、おもに金銭についてだった。母はこれから一般病棟に移り、ある程度回復したらリハビリのできる介護施設に入らなければならない。そして、リハビリによってどれだけ運動機能が回復するかにもよるが、一生施設から出ることができない可能性もある。そうすると、馬鹿にならない金がかかるそうだ。少なくとも数千万は覚悟しなければならない。すでに定年をむかえている父の貯金だけではまかないきれない額だ。だから少し、考えておいてほしいと姉は言う。

 つまり有り体に言って、働けということだ。当たり前のことだと思う。仕事をしていた時の貯金はまだあったけれど、それだって数ヶ月間生活できる程度のもので、いずれはまた職を探さねばならなかった。それが少し前倒しになったということだ。このような事態になってしまっては仕方がないことだし、何より母にはずっと世話になってきた。だから、親孝行というものをするべき時なのだろう。

 そうして僕は改めて職を探すことを決意したのであった。

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