05 同僚の訪問

 ニナと過ごすようになってから、昔の夢を見ることが増えた。時間はバラバラで、大学時代の出来事を見ることもあれば、幼稚園時代の、ほとんど忘れかけていたような出来事を見ることもあった。


 僕は車の後部座席に座り、運転している母と言葉を交わしている。これはたしか、中学受験が間近に迫っている頃の、塾から自宅への帰り道だったはずだ。あたりは暗く、日はすっかり落ちきっていて、歩道を歩く人影は少ない。

 この頃の僕には何人か友達がいて、僕は塾であったことなどを楽しそうに母に話している。母はそれを聞いて笑ったり、気になった点を質問したりしている。

 しかしそこに、具体的な誰かの名前が出てくることはない。

 そうだった。僕は昔から、人の名前を呼ぶことがひどく苦手だったのだ。

 名前を口にするだけで、まるでその人のすべてを占有してしまっているような気がして、罪悪感を覚える。名前を呼ぶという行為は、自分の知らない他人の内面からその奥深くに隠している大切な感情まで、何もかもを白日の下に晒してしまうような、そんな嫌な気分にさせた。

 このことは当時それなりに深刻な悩みの種だったが、その理由はおよそ他人の理解が得られるとは思えないものであり、ニナと出会うまでは誰にも話したことはなかった。そしてニナは、別にそんなに気にすることではないと言ってくれた。僕も、ニナと一緒の今ならそう思える。


 ****


 けたたましい目覚まし時計の音で目が覚める。時刻はまだ朝の五時半だったが、カーテンの外はすでに明るい。窓を明けると心地よい春風が頬をなでた。世間はいわゆるゴールデンウィークであり、姉は実家に帰省していて、僕は相変わらず部屋でニナと過ごしていた。

 連休に入ってからずっと、朝日が昇ってから就寝し、昼を過ぎてから目が覚めるという不規則な生活を送っていたせいで、やけに体がだるい。いつもならこういうとき、ニナと話をして気を紛らわすのだけど、今日に限ってはそういうわけにもいかなかった。

 もうすぐ、同僚の彼女が家に来るのだ。


 彼女は年が明けてからも、頻繁に僕を飲みに誘ってきたのだけど、僕はそれを断り続けていた。彼女と話すよりも、ニナと一緒にいるほうが、僕にとって大切なことに思えたからだ。

 そのせいだろうか。先日、僕が工場に入る前の伝票作業を行っていると、彼女が突然話しかけてきて、家に来たいと言い出したのだ。

 当然断ろうと思ったが、僕は彼女の誘いを断り続けていることにわずかながらの罪悪感を感じていたし、彼女は僕に期待のまなざしを投げかけてきている。ここで拒絶するのも気が引けて、結局僕は、それを了承した。


 洗面所で顔を洗って無精ひげを剃り、久しぶりにリビングで朝食をとっていると、インターホンがなった。


「長谷川さん、こんにちは」


 玄関の戸を開けると、いつもと変わらずスーツ姿の彼女が立っている。彼女はにこやかな笑みを浮かべており、やけに楽しそうな様子だった。

 僕は軽く挨拶を返すと、彼女をリビングに招き入れ、椅子に座らせた。彼女はあたりを隅々まで見渡してから「意外と綺麗にしてるんですね」と呟いた。


「というより、散らかる物がないんだよ」


 リビングに僕の私物はほとんどない。そういうものはすべて自分の部屋においてある。それは姉も同じなようで、普通の家庭なら生活の中心となるはずのこの部屋からは、まるで生活感というものが感じられない。テーブルの上に姉が読み散らかした雑誌が数冊ある程度だ。


「長谷川さんはお姉さんと二人暮らしでしたよね。今はどちらに?」

「ゴールデンウィークを利用して、実家に帰省してるんだ。僕も帰るように言われたんだけど、断ったよ。たまの連休くらい、どこにも出かけないでのんびりしたいからね」


 まさか彼女にニナのことを話すわけにもいかないので、僕はそう言ってごまかす。


「そうですね、連休くらいのんびりするのがいいですよ」


 彼女は明るい声で、僕のいいかげんな理由に同意してくれる。

 そこで僕は、彼女が家に来たときからずっと気になっていた事を質問することにした。


「どうして君は、スーツ姿なの? いつも仕事への愚痴をこぼしているんだから、休の日くらい、仕事のことを思い出すような服装はよせばいいのに」


 僕の質問に、彼女はまるで思い掛けないことを聞かれたかのような反応をする。


「ああ、これはだって、他に着てこれるような服がなかったんですよ。私、自宅ではいつもパジャマで過ごしてるんです。それ以外の服は、通勤用のスーツくらいしかなくて」

「なるほど、それなら仕方ないね」


 僕は内心で驚いたけれど、それをできるだけ表情に出さないように答える。


「ええ、そうなんです」


 確かに僕もニナと一日中部屋にこもっているときは、パジャマのままということがよくある。けれど外出用の私服くらい持っているし、女性というのは身なりに過剰に気を使うのではなかったか? それは僕の偏見だったのだろうか? だとしても、外出用の服をスーツしか持っていないというのは、だいぶ変人の部類に入るのではないか?

 いろいろ疑問はあったけれど、四六時中妄想を見ているような僕が他人のことを変人などと言える筈もなく、とりあえず納得しておくことにした。彼女の持つ独特な空気感というものは、もしかしたらこの辺に起因しているのかもしれない。

 彼女はどこか楽しそうな表情で、僕の出したお茶を飲んでいる。僕はさっきから彼女の妙に明るい雰囲気に違和感を感じていた。酔っているのかとも思ったが、どうもそういう感じでもない。

 僕が怪訝な顔をしていると、彼女は僕の部屋を見てみたいと言ってきた。

 散らかってはいるが、特に隠すつもりもない。クローゼットの中だけは絶対に開けないということを条件に、彼女を自室に案内することにした。


 リビングと違い、僕の部屋は生活感であふれている。脱ぎっぱなしの衣類、日焼けした文庫本、買い置きのカップラーメン。それらの合間をぬって、彼女は部屋の中心に進むと、いつもならニナの居場所である、ベッドの端に腰をかけた。そして何も言わずに、黙々と部屋を見渡している。

 僕はそんな彼女を観察しながら、それとなくクローゼットの前に立つ。

 クローゼットだけは、彼女に見られるわけにいかなかった。この中にはニナへのプレゼントがぎっしり詰まっている。それはドレスから始まり、ネックレス、指輪、サンダル、ハンドバッグ、ウエストポーチ。僕は、年が明けてから定期的に、女性向けの店にいっては、ニナに似合いそうなものを買い溜めていた。たとえ身に着けることはできないのだとしても、それらは僕のニナを美しく飾り立ててくれるように思えたし、ニナは贈り物をするたびに飛び跳ねるように喜んでくれた。それがうれしくて、僕は生活費を除いた給料のほぼすべてを、ニナへのプレゼントに当ててきた。


 僕の警戒をよそに、彼女はなにやら足元を気にしている。なんだろうと思い覗いてみると、そこにはあの、薬の入った瓶が落ちていた。

 僕は心臓が止まりそうだった。いつも机の引き出しにしまっていたはずなのに、どうやら今日に限ってほったらかしにしていたらしい。よりにもよって、彼女が部屋にきた今日この日に。

 ほとんど毎日飲んでいたせいで、瓶の中の薬はもうほとんど残っていなかったが、とにかく彼女に怪しいものだと思われるわけにはいかない。何かごまかそうと言葉を探していると、彼女は瓶を手に取り、思い掛けない言葉を口にした。


「長谷川さんにあげたこの薬、ずいぶんと使ってくれてるみたいですね」

「え?」


 僕には彼女の言葉の意味がわからなかった。思わず間の抜けた声が出てしまう。


「なんですか、その反応は」


 彼女は心底おかしそうに笑う。


「この薬は、私が長谷川さんにあげたものですよね」


 彼女は何かと勘違いしているのだろうか? そう思って話を聞いてみると、どうやら僕は居酒屋で、彼女から差し出されたこの薬を受け取ったのだという。それはおかしい。だってこれは居酒屋からの帰り道、怪しい男に押し売りされたはずなんだ。


「本当に忘れてしまったんですか?」


 僕が何度もその日のことを質問していると、彼女は心配そうな顔をした。

 彼女の話が本当なら、僕はどうやら彼女から薬を受け取ったようだ。まったく心当たりはなかったが、彼女が嘘をついているようにも思えなかった。

 間違っているのは、僕のほうなのだろうか?

 そういえば僕はどうして、悪徳業者に押し売られたのだと思ったんだったっけ。あの日のことは、ひどく酔っていたせいで、うまく思い出すことができない。たしか家に帰ってきて、財布の中身を確認したら、万札が数枚なくなっていたのだ。それに、見るからに怪しい男が僕に話しかけてきたのを覚えている。あれは、ただの夢だったのだろうか?

 そういえばあの日、居酒屋に財布を忘れてしまったんだっけな。店員から財布を受け取った時、僕ははたして、財布の中身をきちんと確認しただろうか? もしかしたら店員が見つける前に、誰かに中身を盗まれていたのかもしれない。だとするならば、僕はひどい思い違いをしていたことになる。


 すべてが唐突で、頭が痛くなってしまった。自分の記憶に自信が持てないせいで、ひどく不安になる。すぐにでもニナに会いたいが、今はそういうわけにもいかない。ゆっくりと深呼吸をしてから、僕は一番疑問に思っていたことを彼女に聞いてみる。


「それはいったい、何の薬なんだい?」


 彼女は僕の質問に怪訝な顔をする。僕も口にしてから、おかしな質問をしてしまったことに気づく。瓶の中の薬はもう残り少ない。僕がニナと会うために、毎日のように飲んでいたせいだ。得たいの知れない薬を飲み続けていたなんて、普通の神経ではないだろう。


「ただの睡眠薬ですよ。私、それまでどうしても深い眠りにつくことができなくって、布団に入っても全然仕事の疲れがとれなかったんです。でも、この薬を服用するようになってからぐっすりです。あまりにも清々しく目を覚ますことができるので、長谷川さんにもどうかと思って。それで、空き瓶に移しておすそわけしたんですよ」


 なるほど、だから瓶にはラベルがなかったのか。

 彼女はただの睡眠薬だという。僕は飲んでもちっとも眠くならなかったが、睡眠薬の効果には多かれ少なかれ個人差があるし、まったく考えられない話というわけでもないのだろう。

 そうすると、ニナのことはどう説明できる? 副作用なのだとしても、それは大量摂取をしたときの話でしょう。僕は一日に一錠しか服用していない。さっぱりわからない。

 そしてもう一つわからないのは、彼女がどうやって睡眠薬を手に入れたかだ。僕は昔、睡眠薬というものに興味を持って、自分でいろいろ調べたことがある。入手方法は主に、病院での処方と、ネットでの通販だ。けれど大部分はパッケージに入っていて、処方の規制もあり、大量に入手するのはかなり困難なはずだ。

 そのことを、僕は素直に聞いてみる。


「そんなたくさんの睡眠薬をどこで? 僕が最初に見たときは、瓶いっぱいまで入っていたよ」


 僕の質問に、彼女はたいしたことではないと笑う。


「海外メーカーからの個人輸入ですよ。安くてたくさん手に入るんです。たしかに日本では認可されていない薬ですから、ある種の冒険性は伴うのかもしれませんが、それ以上に魅力的だと思いませんか?」


 彼女はキラキラした目で僕に同意をもとめてくるけれど、僕はそれがいいことだとは思わない。

 有効性や安全性の確認がとれず日本の薬局に置いていないような薬を、海外のメーカーから直接購入している。本来は友人として、やめさせるべき危険な行為だろう。けれど気がつくと、僕は彼女から薬の名前とメーカー名を聞き出していた。


 僕は胸のそこからあふれ出してくる歓喜を隠しきれず、顔を歪ませた。今の分がなくなっても、これでいくらでも買い足すことが出来る。ニナと出会ってから今まで、意識的に考えないようにしていたけれど、本当はずっと、薬の残量が気がかりだったんだ。僕とニナをつなぎとめてくれるものがなくなってしまったらどうなるのか、ずっと不安だった。けれど思わぬところでその心配はなくなった。入手困難な怪しい薬かと思っていたものが、本当はただの睡眠薬だった。そしてたった今、その名前まで聞き出すことができた。予想外の幸運だ。これで僕らは永遠に共に生きていける。


「大丈夫ですか? 顔色が悪いです」


 彼女の心配そうな声で、我に返る。笑っているつもりだったのに、そんなにひどい顔をしていたのだろうか。部屋には鏡がなく、自分が今どんな表情をしているのか、確かめることはできなかった。


 結局その日は、それで彼女が帰ると言い出し、僕は彼女を駅まで送った。彼女は最後まで妙に明るい雰囲気のまま、改札の奥に消えていった。


 彼女の自殺が知らされたのは、それから一週間後のことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る