04 夢の生活

 その夜、僕はとても不思議な夢をみた。夢というよりも、昔に起きた出来事をそのまま見返しているといったほうが正しいような、そんな奇妙なものだった。


 小学生の僕と姉は、自宅までの道を急いでいる。姉は両手で透明の瓶を持ち、それを落とさないように慎重に走っていた。手ぶらの僕はそんな姉を急かしながら、少し前を走っている。

 瓶には、いっぱいまで砂が詰まっている。僕たちは近所の公園の砂場でアリを捕まえて自宅に帰る最中だった。瓶の中のアリを、早く母に自慢して、そして褒めてほしかった。母の驚く顔を想像して、僕たちの口元は自然と緩む。

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら夢中で走っていた僕は、ガチャンという音に後ろを振り返った。中に入っていた砂はガラスの破片と共に道路に散りばめられており、姉はその横で泣いている。これだけ散らばってしまえば、もう、アリを回収することはできない。僕は夢中で走っていた自分が許せなかった。急ぐことはなかったのだ。ゆっくりと慎重に運ぶべきだった。急がなくたって、母は僕たちを褒めてくれただろう。姉は泣いているけれど、泣くことはないんだ。もう一度とりに戻ればいい。姉はそれに気づかないのか、泣き続けている。

 さっきまでうれしそうに笑っていた姉が号泣していることに、僕の胸は締め付けられた。


 目覚めると目に涙がたまっていて、寝間着の袖でまぶたをこすり体を起こす。部屋を見回したが、ニナの姿はどこにも見当たらない。昨日の夜の出来事を思い出す。あれはなんだったのだろう? 僕は今まで幻覚の類を見たことはなかった。

 寝起きの頭で少し考えを巡らせてから、昨日はひとつ、今までとは違うことをしていたことに気づく。机の引き出しにしまってあった褐色の瓶を取り出し、眺めてみると、そこには相変わらず、白いカプセルが無数に詰まっていた。

 おそらく、この薬のせいだろう。

 これは服用者に幻覚を見せる類の薬なのだ。


 ****


 ニナと出会ってからの僕の日常は、次のようになった。

 まず、目が覚めると薬を服用する。それから一時間ほど、落ち着かない気持ちでニナを待つ。


「おはよう、トモ」

「うん、おはよう」


 ニナが現れると、僕たちは軽く挨拶を交わし、それから僕は自室で朝食をとる。

 考えてみれば、姉と同居するようになってからまともに「おはよう」を言ったことはなかった。ニナとの挨拶は、朝の陰鬱な気分を一瞬で明るいものに変えてくれた。今までおろそかにしていたけれど、こういう基本的な朝の習慣は、気持ちを清潔に保つうえで重要な役割を担っているのだろう。

 心地よい朝の営みを終えると、仕事のある日はニナを部屋において出勤し、仕事のない休日はずっと二人でいる。

 ニナは部屋の外に出ることを極端に嫌がり、だから僕たちは部屋の中で一日を過ごす。ニナは定位置となった僕のベッドに腰をかけ、僕は向かいの壁に背中をもたれて床に座り込む。ニナと過ごす時間の大半はお互い無言だったが、それは心地よい沈黙だった。

 そうして夜になると、僕は買い置きのインスタントラーメンで夕食をすませる。食事をとってしばらくすると眠気が襲い、気がつくと朝になっていて、ニナの姿はどこにもない。

 ふたたび薬を摂取して、ニナが現れるを待つ。そうしてまた、僕とニナの新たな一日が始まっていく。


 ニナと出会ってから、僕の中でも様々な変化があった。まず何よりも、一番大きな変化は労働に対する意欲だ。最低限生活を送るための資金は必要だし、だから働かなければならないという事実に代わりはないのだけれど、仕事が終わって家に帰ればニナに会うことができるというだけで、僕は仕事を精一杯頑張る気持ちになれた。ニナと出会うまでは誰にでも出来る簡単な仕事だと内心で馬鹿にしていたことでも、真剣に取り組めるようになった。そうして一生懸命働くと、労働に対して充実感を得られるようにもなってきた。

 また、ネットゲームの習慣はすっかりなくなった。僕にとって、ネットゲームに時間を費やすより、ニナと時間を共有することのほうが、よほど重要に思えたからだ。だから、今まで夢中になっていたのはなんだったのだろうかと思えるほどに、完全に冷めてしまった。新しく組み立てられたパソコンは部屋のすみで埃をかぶっている。結局のところ、他にやるべきことがあったのなら、僕はいつだってやめられたのだろう。


 裕福な家庭に生まれ、善良な両親を持ち、早期から十分な教育を受け、名のある大学に入学もできた。そんな何もかもが満たされたはずの人生でさえ、僕は挫折をしてしまい、押し流されるままに自殺を図り、しかもそれに失敗した。情けなく生き残ってしまった僕に対しても、家族は普通に接してくれてた。姉は僕に仕事まで与えてくれた。

 この人生が幸せだと思えないのなら、僕は他のどんな恵まれた人生であっても、幸福を感じることはできないだろう。数年前、そう思って僕は、この人生を最後まで行き抜くことを決めた。もう二度と、死のうなどという馬鹿なことを考えないと誓った。

 しかし一方で不安もあった。こんな恵まれた環境が長続きするとは思えない。両親はいつまでも生きていてはくれず、やがて死んでしまうだろう。時間がたてば、僕の周りの環境もどんどん変化していくだろう。今が最高点で、これ以上はもうないのだろう。それがわかっているのに、無味乾燥な毎日しか送れない自分が恥ずかしかった。

 人生を楽しむためには、愛が必要なんだと、同僚に言われたのを思い出す。けれど人付き合いが嫌いな僕には、それは無理なことだった。だから心のどこかで、諦めてしまっていたんだ。

 けれどそれらはもう、すべて過去の話だ。何も心配することはない。僕はニナと出会ったのだ。仕事が終わり家に帰って、ニナと共に満たされた時間を過ごす。幸福とはきっと、こんなものに違いなかった。


 ****


 ついこの間クリスマスが終わったと思ったら、いつのまにか年が明けていて、新年の初出勤は明日にまで迫っていた。毎年、年末年始は姉と実家に帰省することになっていたのだが、僕はニナと一緒にいたくてそれを断った。

 一度はニナを実家につれていこうと説得を試みたけれど、相変わらずニナは僕の部屋を出ようとはしない。母の作るおせち料理はなかなか手が込んでいて、毎年家族そろって食卓を囲むのが習慣だったのだが、やむなく諦めた。


 僕は、自宅から少し離れたところにある、大きなショッピングモールに向かって歩いていた。屋外は思っていたよりも寒く、そして風が強い。羽織っている秋用の薄いコートだけでは寒気を防ぎきることができずに、冬の冷たい空気が身にしみる。

 昔から使い古していた厚手のロングコートがあったのだが、去年穴が開いて処分して以来、代わりになるものを買っていなかったのだ。そして、ずっと暖房の効いた部屋にこもっていた僕は、今が冬だということすら忘れかけていたので、コートのことをすっかり失念していた。

 このままだと、僕は毎日寒さに震えながら、嫌な気持ちで通勤をしなければならなくなってしまうだろう。そんな悲惨な未来を避けるために、ニナには留守番を頼んで、こうして買いに来たのだった。


 ショッピングモールの中は暖房が効いており、ポケットから出した手を軽く揉む。年の初めだけあって、モール内には親子連れが目立ち、ところどころで子供のはしゃぐ声が聞こえる。僕はあたりを見回すと、衣服を取り扱ってそうな適当な店に入って、平均的な価格の中で一番高級そうな、茶色のロングコートを購入した。

 そうして僕は目的を達成してしまったのだけど、腕時計を見るとまだ十一時を過ぎたところで、ここに来てからほとんど時間がたっていない。本来の目的は果たしたのだし、このまま帰ってもよかったが、せっかく寒い中わざわざ部屋を出てきたのだから、もう少し何か時間をつぶしたい。

 そう思ってモール内を眺めていると、ちょうど通路を挟んで向かいのショーウィンドウの中にある、きれいな純白のドレスが目に入った。飾られているだけかとも思ったが、近づいてよく見ると、下に値札が貼られており、どうやら売り物のようだった。

 スカート部分はレースが幾重にも重ねられ、胴体には華やかな刺繍があしらわれている。値段は僕が今買ったロングコートの倍ほどするらしい。

 ニナがこれを身に着けたところを想像してみる。きっとこの世のすべてが眩んで見えるほど、まぶしく輝くのだろう。僕はショーウィンドウを前に、にやりと隠し切れない笑みを浮かべた。


 ****


 僕がプレゼント用に包装された箱からドレスを取り出すと、ニナは驚いたような顔をする。


「これを私に?」

「うん、君に。きっと似合うと思うんだ」


 僕は興奮で荒くなった動悸をさとられないように、勤めて冷静な声をよそおう。


「とってもうれしい! わざわざ私のために買ってきてくれたのね」


 ニナはベッドの上に立ちあがると、その人形のような顔立ちで、僕に笑みを投げかけてくる。

 その反応を見て、僕は安堵のため息をついた。ドレスを購入し、プレゼント用に包装してもらっているときから、ニナが気に入ってくれなかったらどうしようかと心配していたのだ。彼女が喜んでくれて、僕もうれしい。


「トモ、あなたはやさしい人ね」


 ニナは的確にほしい言葉をくれたので、僕の気持ちは有頂天になり、胸が苦しくて呼吸が荒くなる。誰かに何かをプレゼントするのは初めてだったが、とてもいい気分だった。

 そして、ニナの喜んだ顔をまじまじと見ていた僕は、その顔に一瞬だけ浮かべた、困ったような表情を見逃すこともしなかった。

 僕は深呼吸をしてから、あらかじめ用意しておいた、ニナへの言葉を伝える。


「いいかい? こういうのは持っていることが大切なんだ。僕だって、君がこれを身につけることができないのは十分に知っているし、だから別にそういうつもりで買ってきたんじゃない。君は繊細で気配りができるから、僕の贈り物が無駄になってしまうんじゃないかって、そう考えているんだろ?

 だけどそんなのは、ちっとも気にすることじゃない。なんてったって、これは僕と君との親愛の証だからね。僕たちが幸せを感じることができたなら、後のことはささいな問題なんだよ。だから、気に病まないでほしい。このドレスはクローゼットの中に大切にしまっておくから、見たくなったらいつでも言ってくれよ!  そうしていつか、このドレスを見ながら、二人で今日のことを話すんだ。僕から君への初めてのプレゼント。きっとこれをきっかけに、思い出話に花が咲くよ。ああ本当に、君にこれを買ってこれてよかったよ。その日がやって来るのが、今から楽しみだ」


 僕が早口にそう言うと、ニナは僕の耳元で「ありがとう」とささやき、心底うれしそうに笑うのだった。

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