03 ニナとの出会い
どうやら僕は酔っ払ったままマンションの自室まで戻り、風呂に入ろうとズボンを脱ぎかけたところで力尽きたらしい。
なんとも間抜けな姿だったが、自分の部屋までたどりつけていたのは不幸中の幸いであった。もしここがリビングだったなら、姉にこの醜態を晒すはめになっていただろう。
しかし僕はどうやって、この場所に辿りついたのか? 昨日、財布を取りに戻ったあたりからいろいろと記憶が欠落していて、うまく思い出すことができない。帰り道に怪しげな男に話しかけられて、いくらか言葉を交わした気がするのだが、肝心の内容はさっぱりだった。
カーテンを開けると、朝日のまぶしい日差しが寝起きの脳を刺激する。覚えていないのは不安だったが、それよりもなによりもまず、今は朝だ。仕事に向かわねばならない。家を出るまでにはまだ一時間程度の余裕があるようだったので、入浴をしようと脱衣所に向かう。
おかしな寝方でしわくちゃになったスーツを脱ごうとすると、ポケットにゴツゴツとした違和感を感じた。なんだろうかと思いまさぐると、見慣れぬ褐色の瓶が入っている。握りこぶし程の大きさの瓶の中に、白いカプセルが無数に詰まっているようだった。
嫌な予感がした。
すぐさま財布を取り出して中身を確認すると、万札が数枚なくなっている。疑いようもなかった。
どうやらみっともないことに、悪徳商法というやつに引っかかってしまったらしい。おそらく相手からしてみれば、僕のような酔っ払いは格好の餌食だったのだろう。汗水たらして献身的に働いて得たお金が、血のにじむような努力で稼いだお金が、こんな得たいの知れない物に変わってしまった。
しばらく呆然と立ち尽くしてから、我に返る。
こんなことで諦めるわけにはいかない。ようするに僕が、この薬のようなものに数万円の価値を見出せばいいのでしょう。そう思って瓶のまわりを注意深く観察してみたけれど、どのようなたぐいの薬でどのような効用があるのか、何も書いていない。いや、それどころかなんの表記も見つけることができない。それはまさしくただの瓶だった。しかし中には謎の白いカプセルが詰まっている。
ひょっとしてこれは、違法ドラッグと呼ばれるものではないだろうか? だとすればこれを飲むのは非常に危険だ。万が一本当に違法ドラッグだとしたら、持っているだけで逮捕されかねない。とにかくこれは僕の部屋に永久に保管して、誰にも見つからないようにするべきではないか。違法ドラッグでないにしても、得たいの知れない薬を飲むことには抵抗がある。身体に深刻な影響を及ぼす可能性もあるぞ。
それらのことを僕はすぐさまに考えついたのだけど、しかしこの薬に多大なお金が掛かっていると考えると、他のことはどうでもいいように思えた。とにかく僕は、数万円の元をとらなければならない。それに、わずかな好奇心もあった。
結局、一錠だけ服用してみることを決めた。もしこれで体に不調をきたしたならこれでやめよう。存外に、とても素晴らしい効果を発揮するかもしれない。
そう意気込んで飲んでみる。しかしそれから数分たっても、実感できる効果は得られなかった。
しょせん酔っ払いから金を巻き上げるための道具であるし、市販の適当な薬を詰め込んだだけだったのかもしれない。僕はがっかりしてしまった。数万円は無慈悲にも、僕の手から跡形もなく失われた。
しばらくその場で途方にくれていると、仕事に行く時間が迫ってきた。僕は止むなく動き出すと、手短に風呂を済ませ、スーツを新しいものに替え、身なりを整える。
そういえばもう二日間もゲームをやっていない。これだけ間があくのは久しぶりだった。僕にもう少し度胸があれば、今日の仕事をサボってゲームにログインできるのだけど、肝の小さい僕にはそれが叶わない。
薬の件でも気が滅入っており、これっぽっちも行きたくはなかったが、働かなければならぬ。なぜなら、そうしなければ金を稼ぐことができないからだ。金がなければ家を追い出され、食事もままならず、生活できなくなってしまうからだ。
そう自分に言い聞かせると、しぶしぶと家を後にした。
****
仕事場は自宅からそれほど遠くない場所にある。まず通勤ラッシュ帯の満員電車に三十分ほど揺られ、そこからバスに十分ほど乗ると、僕の働いている半導体工場に到着する。
片道四十分程度であるが、仕事以外はゲーム漬けで体力のない僕にとって、それはつらい道のりだった。
本当はもう少し近くに住むこともできたのだけど、そうすると今度は姉の仕事場が遠くなってしまう。姉と二人で生活するということが決まった後、いろいろと相談し、二人の職場のだいたい中間地点あたりにあるマンションを借りることを決めたのだった。
職場に着いた僕は、建物入り口の機械にタイムカードを通し、その横のコルクボードに吊るされた名札の中から『長谷川 智也』と書かれた名札をひっくり返す。
午前中はミーティングに参加し、それが終わったら自分の机で伝票整理などをする。午後は実際に工場内に入って、作業を行う。工場内には僕の身長よりも大きな機械が大量にならんでいて、そのどれもがせわしなく作業を続けている。精密さを要求される半導体の製造は大部分を機械が自動で行っていて、僕はその工程が問題なく進んでいることを監視しながら、トラブルが起きたら対応していく。退屈ではあるが、誰にでもできるような、簡単な仕事だった。
その日は特に目立ったトラブルもなく、上司から定時で帰るように言われたので、行きとは逆方向のバスに乗り、帰宅ラッシュ帯の満員電車に揺られ、自宅のあるマンションに戻る。
夕食は時々姉が手料理を振舞ってくれるけれど、基本的にはそれぞれが好き勝手にするということになっていて、その日も僕は帰りがけにコンビニで買った弁当を、ひとりリビングで食べた。
食事が済んだので自室に戻ろうと、扉に手をかける。
冬だけあって、朝から暖房を入れていなかった部屋の中は冷え切っており、シンとした空気が肌にささった。
部屋の電気をつけ、暖房を入れようと中に入ると、視界のすみに何か白いものが映る。
よく見ると、部屋のすみに少女が立っていた。
なぜ自室に見知らぬ少女がいるのかという疑念よりも先に、僕はその少女の美しさに言葉を失う。肩までたれた銀色の髪は、部屋の蛍光灯を反射してキラキラと輝いており、色素の抜けた白い肌はこの世のものとは思えぬほど美しい。顔立ちは整っているがどこか幼さを残していて、その透き通った瞳でじっと僕のことを見つめている。彼女は夏に着るような、白い薄手のワンピースを身につけているが、しかし寒がる様子もない。全身が純白の彼女は、この狭く薄暗い室内で、どこか異様な存在感をはなっていた。
そうして気づいたのだけど、彼女はどうやら、僕の見ている幻覚のようだった。彼女は無表情のまま僕の反応を見守っている。
彼女と少しでも話がしたいと、自然にそう思った。
「きみの名前は?」
僕はおそるおそる、そう尋ねる。
「名前はないの。あなたは、ハセガワトモヤ」
可憐な少女の声に、僕の動機はより激しさを増す。
「トモって呼んでもいい?」
彼女は確認するように上目遣いで僕を見上げる。僕はうなずきを返す。
「いいよ」
自分の名前が呼ばれたことに、僕はすっかり舞い上がってしまった。心臓がばくばくと波打って、うまく冷静さを保つことが出来ない。
彼女は名前がないという。それならば、僕が名前をつけてあげるというのはどうだろう? どうせ僕の妄想なのだし、それくらいの権利はあるはずだ。
しばらく考えた後、僕は彼女に『ニナ』という名前をプレゼントした。
「何か話してよ、トモ」
ニナはゆっくりと部屋の中を歩き、僕のベッドに腰掛けると、ひざに頬杖をついて僕のほうを見る。
僕は何か面白い話をしたかったのだけど、テレビや新聞に関心がないせいで、ニナが喜びそうな話題が思いつかない。
そんな僕のことを見透かしたかのように、ニナは「あなたのことを、聞かせて」と言う。
出会ったばかりの少女に自分の話をする。不思議とそのことに、抵抗を感じない。僕はニナに、実家で暮らす両親や同居している姉の話、仕事の話、やりこんでいるネットゲームの話などを、出来るだけ面白おかしく伝えた。ニナは僕の話をずっと笑顔で聞いてくれた。ニナが喜ぶ顔を見るたびに、胸の中に渦巻いていた空虚がだんだんと埋まっていく気がした。それは非常に心地よかった。
ついさっき出会って、たった数分会話しただけのはずなのに、その時間は僕にとって何倍も長く感じられた。気持ちは高ぶり、心臓は苦しいほどに波打っている。
気がつくと僕は、日々の不満や仕事に対しての愚痴までニナに打ち明けていた。退屈な毎日しか送れないこと、趣味がネットゲームくらいしかないこと、向上心が持てずに何に対してもやる気がわかないこと。今まで誰にも相談できなかったことが、ニナには自然と言えることが不思議だった。それらの悩みは他人からしてみればきっと取るに足らないことで、だから僕は誰にも言うまいと思っていたのに、喉の奥から次々にあふれだしてくる。ニナはそれらをひとつひとつ、真剣に聞いてくれているようだった。こうして悩みを打ち明けられる存在を、僕はどれだけ待ちわびていたことか。
今までの日々を思い出す。親の言うとおりに塾に通いつめた小学校時代、部活動にも所属せず友人も作らないでネットゲームに明け暮れた中学高校時代、就職に挫折して人生を諦めかけた大学時代。気づいたら大人になっていて、いくら後悔しても、もうあの頃はやり直せない。ニナがいたなら、もっと前向きにいろいろなことに挑戦できた気がする。僕はニナともっと早く出会うべきだった。そうすればたとえ進む道を間違えていたのだとしても、ひどく惨めな思いをすることはなかったというのに。
それらのことも、すべてニナに話した。
僕の願望が生み出したものなら、すぐに消えてなくなってしまうかもしれない。とにかくその前に、自分の中にたまったものを、今まで誰にも口にできなかった恥ずべき思想を、すべて吐き出してしまいたかった。
ニナは慈愛に満ちた笑顔で僕のことを受け入れてくれた。突き放すのではなく、歩み寄ってくれた。哀れむのではなく、同情してくれた。僕が泣きそうになると、ニナも涙を浮かべてくれた。それはとても暖かく、幸せな時間だった。大人になった今では到底手に入らないような、夢のような、素晴らしい時間だった。
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