02 同僚の彼女
僕たちは仕事が終わった後、職場から少し離れたところにある居酒屋に二人で来ていた。
「とにかく私は、もうこれっぽっちも働きたくはないんです」
隣の席で彼女は、顔をほのかに赤く染め、いつもは硬く着こなしているスーツの袖を肘まで捲くっている。
彼女は僕の働く半導体工場の同期であり、僕のほとんど唯一といっていい友人だった。僕より何倍も仕事ができるうえに、五歳年下だというだけで敬語を使ってくれている。
「生きるためには働くしかない。それはわかってますよ。けれど働いてばっかりで、まったく、働くために生きているような有様じゃないですか。これじゃアベコベですよう」
酔った彼女の愚痴を聞き流しながら、僕も目の前の酒を呷る。
入社して一年ほどたった頃、社内の打ち上げを断り続けて見事に孤立してしまった僕を、彼女は突然飲みに誘ってきたのだ。それまでは同期というだけで、ほとんど話をしたことはなかった。
彼女は目鼻立ちが整っていて、僕から見てもかなり美人の部類に属する人なのだが、どこか近寄りがたい不思議な空気があり、社内でも浮いている存在だった。当時の僕はそんな彼女がいきなり誘ってきたことへの驚きと、彼女に対するやましい下心もあって、その飲み会に了承してしまったのである。
あれから彼女は頻繁に僕を飲みに誘うようになり、気づけば彼女との付き合いは三年に及んでいる。
「働きたくないですよう。休暇を過ごしているときでさえ、仕事のことが頭に浮かんできて、どうしようもなくなるんです。気持ちが落ち込んでしまって、嫌で嫌で仕方がないんです」
酔った彼女が仕事への不満を口にするのは毎度のことであり、慣れてしまった僕は、彼女が酒を飲み続けるのを尻目に、店員の様子を眺めていた。
平日の夜の居酒屋はそれなりに人であふれていて、店員は注文をとったりレジをしたりと、あわただしく動き続けている。彼らの誰もがいきいきとした表情を浮かべていて、仕事を苦にしているようには見えなかった。本当のところはどうなのか、いくら観察してみても、僕にわかるはずもない。
「本当に私は、何をしているんでしょう。子供の頃はもっとやりたいことが、なりたいものが、たくさんあったはずなんです。あの気持ちはどこへいってしまったんでしょうか? 私は大人になって自由を手に入れたはずなのに、本当はいろいろなものを失っている気がします。長谷川さんはどう思いますか?」
今日の彼女はある程度真剣に悩んでいるようだったので、たまには僕もまともな返答をしようと、少し考えてから口を開く。
「きっと君は日々の生活に退屈してしまってるんだ。特に工場内での作業なんて単調そのものだから仕方ないよ。だから趣味なんかを作ればきっと、日々が潤うんじゃないかな」
そう言いながら彼女の方を見ると、彼女もまた僕の方を見ていて、視線がぶつかる。彼女の透き通った顔立ちに気おされて、僕は目をそらす。
「もう、私が言ってるのはそういうことじゃないんですよう。現実が嫌になったことくらい、長谷川さんにもあるでしょう? あったはずです。そうですよね? だってあなたは……」
そう言った彼女はハッとして、すいません忘れてくださいと続けた。
私立の有名進学校を卒業した僕は、理系の上位私立大学への入学を果たした。大学側は大学院の修士課程まで修了して卒業することを推奨していたが、向学精神のなかった僕は大学院には行かずに就職することを決断した。僕が死を選択したのは、そんな大学生活が終わりに近づいたころだった。
当時の僕は就職するということが嫌で嫌で仕方がなかった。裕福な家庭で育ったせいでアルバイトもろくにしたことはなく、働くということに恐怖心しか抱けなかった。どうやったら逃げられるだろうかと考えて自殺にたどりつき、そして情けないことに失敗してしまった。
後遺症は残らなかった。けれど大学は中退することになり、姉のつてで都内の半導体工場を運営する会社に就職することが決まった。地方に住んでいた両親は僕を一人都内で生活させることに反対したが、同じく都内に職場がある姉と一緒に暮らすという条件付きで認めてもらい、今に至っている。
姉が会社に僕を紹介したときに、そのあたりの話をしたらしく、知らぬうちに社内にまで話が広がっていた。彼女は三年前、もしかしたらそんな噂を耳にして僕に近づいてきたのかもしれない。
彼女はさっきのことを気にした様子もなく酒を呷り続けていて、目の前には空のジョッキがずらりと並べられている。いつも彼女は普通の人の二倍三倍多く飲んで、それでも僕は酔っ払ったところをほとんど見たことがない。それにしたっていくらなんでも、今日は飲みすぎなのではないだろうか?
さらに追加を頼もうとする彼女をとめようかと考えていると、彼女が僕の方を睨んできた。その目は据わっている。
「長谷川さんって、好きな女性とか、いるんですか」
「え?」
唐突な質問に、思わず聞き返してしまった。
「私、思うんです。長谷川さんって無口ですけど、平均より背が高いし、顔もいいし、女性にもてそうだなって」
「そんなこと初めて言われたよ」
僕は内心で動揺したけれど、それを表に出さないように平然と返す。彼女はすっかり酔ってしまっているようだった。
「長谷川さんはもうすぐ三十歳ですよね? それまでに結婚するべきですよ。そうして幸せを手に入れるんです。やっぱり人生の最大のテーマは愛ですよ。それは生物学的にもそうなんです。ピュグマリオンの話はご存知ですか? 私この話が結構好きで、初めて聞いた子供のころからずっと憧れているんです。ご存知ないですか?
ピュグマリオンっていうのはギリシア神話に出てくる王の名前なんですけど、彼は現実の女性に失望していて、自らが彫ったガラテアという彫刻に恋をするんです。一緒に寝たり、プレゼントを贈ったりして、彼はその彫刻につきっきりになってしまって。それでだんだんと衰弱していくんですが、最後には彫刻に生命がやどって、二人は結婚し、幸せな家庭を手に入れるんですよ。
現実ではないことはもちろんわかってます。けれど、愛の力が無機物に生命まで与えてしまうなんて、とても素晴らしい話じゃないですか。だから長谷川さんも、何かを愛してみてはいかがですか? きっと人生が見違えるような素晴らしいものになりますよ。それが生身の人間でも道端の石ころでも、愛の力さえあれば、最後に迎えるのはハッピーエンドなんですから」
***
夜風が頬に当たって心地いい。
酔った彼女を駅のホームまで送ってから、僕はさっきまでいた居酒屋までの道を引き返していた。
繁華街では、これから迎えるクリスマスに向けて気合の入ったデコレーションをしている店が目立つ。
本当は自宅まで彼女を送り届けるべきだったのだろうけど、仮にも大人の男女であるし、近所の人に見られたら彼女に対する悪い噂が立ちかねない。それでも自宅の近くまでは送るつもりだったが、駅に向かっている最中に、僕は自分の財布がどこにもないことに気づいてしまった
おそらく居酒屋に忘れてきたのだろう。
そのことを彼女に告げると「大丈夫です、ちゃんと一人で帰れますから」と言うので、僕はその言葉に甘えることにした。
頭の中心がジンジンと熱をおびていて、平衡感覚が麻痺したような浮遊感がある。僕は酒に強いほうではなく、いつも少量しか飲まないのだが、今日は少し飲みすぎてしまったようだ。
居酒屋につくとすぐに、レジにいた女性店員が「お財布ですか?」と聞いてきた。どうやら財布は店側が見つけて保管してくれていたらしく、誰かに盗られていることも覚悟していた僕は拍子抜けしてしまう。
店員から財布を受け取ると、再び駅に向かって歩き出した。
それにしても、今日は本当に飲みすぎたようだ。彼女の飲みっぷりにつられたせいだろうか。相変わらず頭の中は沸騰したように熱く、そしてだんだんと足取りもおぼつかなくなってくる。まっすぐ歩こうとしているのにやたらとフラフラしてしまう。
転ばないように足元ばかり見ていたら、いつのまにか道を間違えてしまったようで、僕は見慣れぬ路地に立っていた。
引き返そうと振り向くと、そこに怪しげな人物が立っている。その人物は全身をあせた灰色のロングコートで包み、フードを深々とかぶっていた。
まばらな街灯の明りだけでは、フードの陰に隠れた顔をうかがい知ることはできない。おそらく男性なのだろうということだけが、その風貌から読み取れた。
彼は外見に似つかわしくない高めの声で、僕に話しかけてくる。しかし肝心の僕は酔っ払ってしまっていて、頭痛と目眩に悩まされている。彼はふところから小さめの瓶を取り出すと、僕に向かってなにやら喋り続ける。
どうやらその瓶を僕に買ってほしいと言っているようだ。
彼はしつこく話しかけてくる。
悪徳業者かもしれないし、こういうのはきっぱりと断らなければならない。
彼はしつこく話しかけてくる。
しかし浮遊感のせいか、見える光景に現実味がない。
彼はしつこく話しかけてくる。
ひょっとして僕は、夢をみているんじゃないんだろうか。
彼はしつこく話しかけてくる。
ひどい目眩が止まらない。
彼はしつこく話しかけてくる。
そうして気がつくと朝になっていて、僕は自室の床でケツを半分出したまま倒れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます