第3話 愛させてください

「あなたの愛を受け止めてくれる人がいるわ。ここに来れば熱心に話を……」


 無料で食べ放題と言う名の、規格外になった菓子パンを飲み込んだ僕は、小さな黒いウェストポーチから処方薬の入った袋を取り出して、シートのアルミからプチプチと錠剤を机の上に並べていく。

 隣に座って僕に話しかけた中年の女性は、その服用量を見て一瞬目を見開いて、それから「あら、私ちょっとお手洗いに行ってくるわね」と、言わなくてもいい言い訳を言ってどこかへ去っていった。

 熱心に話を聞いてくれるのは、きっと神さまだろう。

 でも僕に必要なのは、神様などという偶像ではなく、もっとずっと現実的な目の前に広げた錠剤の山だ。

 僕はその錠剤の山を手のひらで弄び、それからザラザラと口の中に詰め込んでボリボリと噛む。

 錠剤は、そのままだとそんなに味がしないのに、どうして噛み砕くと頭痛がするほどに苦いのだろうか。そんなことを思いながら、ペットボトルに入れた自宅の水道水で流し込む。

 ぬるい水は、鉄の味がした。浄水器なんて高級なものはアパートの水道にはついていない。カルキと錆びで味付けられると、僕はまるで機械に油を注されているような気分になった。

 でも、僕は人間だ。

 パンと水、それからほんのわずかな娯楽で生きる人間だ。

 神さまでは、僕の娯楽になり得ない。口いっぱいに広がる錠剤の苦味もまた娯楽ではないのだが。

 コンビニをクビになって働き口を失った僕に声をかけたのは、同じシフトに入っていた若者だった。

 大学生の彼が言うには、とある工場のライン工が、いつでも日雇いのバイトを募集しており、そこだったらいくらでも働き口があるのではないかということだった。

 連絡先を教わって辿り着いた工場は、総菜パンのライン工だ。

 数時間を立ちっぱなしで、目の前を流れるパンに異物が入っていたり、量目が正しくない、いわば商品にならないものを弾いていく仕事である。

 とうとう僕は、機械になってしまった。

 服用量の増えた精神安定剤によってドロドロに溶かされた僕の脳みそが正常な判断のできるはずもなく、また喫緊で稼ぎが必要だと思った僕は、そこに毎日のように通うようになる。

 意識の半分以上を睡魔に侵された僕の脳みそは、それでも機械的な動きならできるくらいには生きていた。

「オーケー、オーケー、オーケー、オーケー、ノー、オーケー……」

 ラインの上をマスクとキャップを被った頭で覆って、目の前を流れていく総菜パンのコーンの数とマヨネーズの折り返しの回数が正しいかを確認していく。

 ダメなものは外せばよい。

 外したものは、僕や、他に働いている人の腹の中に収まる。収まりきらなかったものは、カビが生えることも腐ることもなく、ただゴミ袋の中に放り込まれて、半月に一度、まとめて捨てられるだけだ。

 三十分の昼休憩の時、僕はときどき、その袋をジッと見つめた。

 カビも腐敗も起こらず、衛生のために一匹の羽虫もゴキブリもいない。そんな場所に捨てられたパンが入っている。

 誰のものにもならなかったパン……。

「あなた、本当にいつもいるのね」

 さきほど僕から逃げた中年の女性が戻ってきた。

「あなたみたいに熱心に働く人こそ来世で幸せになるべきだと、私は思うのよ」

 幾分、顔が強張っているのがわかった。

 それはきっと僕の姿が気持ち悪いからだろう。


 彼女の本性が白日の下に晒され――いや、もともと彼女はそれを隠してなどはおらず、ただ配信者としての彼女と、プライベートの彼女がいただけだ。とにかく、二人の彼女が繋がったあの日からほどなくして、彼女はインターネットから姿を消した。

 あらゆる彼女の配信アーカイブと、マイクロブログのアカウントと、それまで活動してきた彼女のあらゆる足跡を消して、彼女は消えた。

 僕の目の前から、彼女は消えた。

 あれから二ヶ月が経ち、僕の精神安定剤の服用量は如実に増えた。食事はこのライン工で働いているときに自由に食べて良いと言われる菓子パンばかり。

 一日のほとんどをライン工の立ち仕事で過ごし、夕方、家に帰ると精神安定剤の副作用に負けて気絶するように眠る。

 初日こそ日の高いうちに帰って来られたが、季節が秋に向かうにつれて、日も短くなり、今では帰るころにはすっかり暗くなっている。

 菓子パンをむさぼり、精神安定剤をボリボリとスナック菓子のように齧る僕の身体は、不健康を形にしたように下腹ばかりが膨らんで、頬はこけ、顎から肉が垂れ落ち、目の周りは落ち窪んだ。

 白目の濁った僕の目を、僕は一度だけ自分で確認したことがある。

 しまむらに下着を買いに行ったとき、そのショーウィンドウに映った僕の顔を見てしまったのだ。

 まるで、亡霊だった。

 僕は驚き、それからゆっくりとショーウィンドウに近づき、ガラスに映る自分の姿を見た。通りをいく人は、秋物の服を着た女性のマネキンをジッと見つめる不審な男性姿に映っただろうが、そんなことも気にせず、僕はただ亡霊となった自身の姿を、内心唖然としながら眺めつづけた。

 これが、誠実に働き続けた男の顔か?

 これが、見知らぬ女性に憧れを抱いた男の顔か?

 ああ、僕は醜い。なんと醜い。

「愛を……」

 いや。

「誰か……愛させてください……」

 初秋に突然現れた、一際寒い日だった。

 僕の言葉は、ショーウィンドウのガラスをわずかに曇らせた。


 フラッシュバックする僕の記憶から、現実に引き戻される。目の前には、引きつった笑顔を浮かべる中年の女性。

 なぜか、コンビニの店長の脂下がった笑顔を思い出した。

「来世などいらないので、今幸せにしてくれる神さまはいませんか?」

 僕の言葉に、中年の女性は見開いた目をさらに大きくさせた。

 まるで、反応のないはずのテレビが画面に突然砂嵐を映したような驚きぶりだった。

「大丈夫、神さまはあなたを愛しておりますよ」

 引きつった笑顔。

 精神安定剤が効いてきた。僕の脳みそはドロドロに溶けて、目の前の中年の女性の顔さえも、ダリの描いた時計のようにグニャリと溶けていく。

「話が通じていません。僕は愛したいのではなく、愛させて欲しいのです」

「いやだからね、そうじゃなくって……」

「もう、休憩時間が終わってしまうので、これで」

 僕は妊婦のように大きく膨れ上がった下腹を抱えるように持ち上げて、ラインにつくための準備を始めた。

「何か困ったことがあったらいつでも言ってね!」

 負け犬の遠吠えのように、中年の女性は僕の背中に言葉を貼りつけた。

「困ったことなどありません。何が困ったことなのか、僕には分かりませんから」

 ふいに、足にジワリとした痛みが広がった。

「……?」

 ズボンをまくりあげると、そこには大きく広がった内出血がある。

 内出血は、腫れ上がることも、熱を持つこともなく、しかしなぜか一向に治る気配もなく、ずっと内出血であり続けている。

 コインランドリーで机にぶつけたあの日から……。

「ああ、あの時の」

 まくりあげたズボンを戻して、僕は仕事に戻った。

 きっと今日も、愛すべき誰かを見つけることもなく眠りにつくだろう。

 いつか、起きることができなくなるその日まで。



 誰か僕に、誰かを愛するということを教えてください。

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内出血 雷藤和太郎 @lay_do69

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