第2話 本性
ある日のことだ。
僕はいつもと同じように、コンビニのバイトを朝に上がり、店長の脂下がった笑顔に見送られて自宅に戻った。
いつものようにパソコンを立ち上げ、動画サイトと巨大匿名掲示板を開く。
掲示板には彼女の名前がついたスレッドがいくつもあった。
スレッドとはその掲示板独特の用語で、言わば一枚のルーズリーフのようなものだ。いっぱいになるとそれ以上書き込むことはできず、別のスレッドという新しいルーズリーフが必要になる。
スレッドがいくつもあるということは、それだけ掲示板内が彼女に関する話題で持ちきりということだ。
何か良からぬことがあったのだろうか。
彼女に悪い噂など立つはずもない、という気持ちと、常に清廉潔白な彼女だからこそ、些細なあらぬ噂が人々の熱狂を引き起こすのだろうという二つの感情が僕の心を撫でていく。
買って帰ってきた廃棄の弁当とパックのお茶を、ほとんど落とすように床に置いた。それから、わざとらしくもったいつけるようにゆっくり座って、スレッドに鷹揚に目を通すと、そこには信じられないことが書かれていた。
「キモいリスナーに媚びて金を吸い上げるのクッソ楽チン、チョロ過ぎ」
「どうせあいつらはヒキニート、アタシの養分になれるだけマシ」
「はー、イケメンとパコってイケメンの遺伝子持った最強に可愛い子を育てたい」
「金払わずにアタシの配信を聞いてるゴミは死んで保険金から払え」
同じ文句が繰り返し書かれている。
サバサバした女性口調のその文章は、リンクと共に書かれていた。有名なマイクロブログのアドレスだ。
接客業に疲れた脳みそに、直接、炭酸飲料を注がれたような気持だった。
心臓が一回大きく鳴り、それからキュッと縮んだ。縮んでしまった心臓は、ゆるやかな血流を忘れてしまったかのように、心拍数を上げていく。
人間の体にネズミの心臓がついてしまったのではないかと錯覚するほどに、僕の心拍数は上がった。
「ハァ、ハァ、ハァ」
息もあがる。
それ以上は見たくない。それ以上を見たくない。
でも、僕の指先は、勝手にそのリンクをクリックし、マイクロブログを開いてしまう。マイクロブログの先のリンクを次々と開いてしまう。
それは、彼女の裏アカウントだった。
彼女が配信用に用意したマイクロブログのアカウントとは別の、おそらくプライベート用に使っているアカウントだ。
彼女とそのアカウントが同一人物だという証拠は、プライベート用のアカウントがフォローしている友人と思われるアカウントの写真から判明した。
その写真には、誕生日パーティーのために用意した手作りのケーキが写っていた。彼女は、過去の配信で友人と一緒に誕生日パーティーをしたときに、手作りのケーキを作ってもらったことを語っている。そして、別の写真ではあるが、ケーキの写った写真を配信に流していたのだ。
写真から、そのケーキが同一のものだと判明し、またその下に敷かれていたテーブルクロス、ナイフ、フォークまで完全に一致し、フォロワーから友人である彼女のプライベートアカウントが発掘されたのだった。
判明してしまえば何てことはない話だが、ケーキの写真からアカウントの特定に至るまでのプロセスを彼女の配信から行うのは限りなく不可能に近い。リスナー側からではなく、彼女の友人達側からのリークではないかという見方がスレッドの大勢だった。
しかし僕にとって重要なのは、彼女のプライベートアカウントが特定されたことではない。
僕は食い入るように画面を見続けた。その頻繁に更新されるマイクロブログを過去に遡るように見ていくうちに、配信では表れていなかった彼女の本性が露わになっていく。
「女子高出身なので、男の人と話すのはちょっと苦手なんです。でも、こうやってコメントで男の人と話すのは、ちょっと楽しいかも」
いつかの配信で彼女は言っていたが、今年の夏に男友達四人と女友達三人で沖縄の海へと泊りがけで行った写真が載っていた。
「女子高時代の友達と、横浜に旅行に行くんです」
彼女は確かそう言っていた。その後の配信で、彼女は横浜中華街やみなとみらいの思い出を語っていたが、何のことはない、彼女は神奈川県に住んでいるのだ。
行こうと思えば一時間もかからずに行ける距離らしい。
「大学に行くために引っ越しをするので、配信頻度が下がりそうです」
生まれも育ちも神奈川県の彼女は、大学進学に失敗し、専門学校に通うようになった。その専門学校も家から通える距離。彼女自身の引っ越しは嘘で、真実は、高校時代から付き合っている彼氏の引っ越しの手伝いと、その新居で「遊んでいた」という事らしかった。
マイクロブログに肩まで裸の二人の写真がコメント付きで載っている。
「風呂あがりー!ナオくんのアパート住み心地サイコー!」
彼女の裏アカウントであるマイクロブログを遡る手が止まらなかった。マウスのホイールはカラカラとハムスターの回し車のようにせわしなく回っている。彼女ではない彼女の軌跡を巡っていくうちに、徐々に目は滑り、意識は朦朧とする。
人差し指だけが、ガリガリと、かさぶたを剥がすようにホイールを動かしていた。もはや彼女のマイクロブログを読むこともできなかった。
鼓動も、呼吸も、浅く短くなっていた。
夏の暑さが、茹で上がるような室内が、汗をかかせていると分かったのは、まぶたの上から汗が一筋、目に入ってきたからだった。
頭を振ると、汗が飛び散った。液晶モニタにかかった汗は、そのまま画面の上を滑っていく。
口を大きく開けると、咳が出た。
カラカラになった喉に、僕は急いでパックのお茶を開けて口をつけた。普段なら、水垢で曇ったコップに移すはずが、それもせずにラッパ飲みだった。
口の端から、首筋を通ってお茶がこぼれていく。
勢い傾けすぎたお茶が乾いた喉を刺激して、僕はさらに咳き込んだ。
「ゴボッ……!」
口の中のお茶は咳によって噴き出し、鼻に入り、顔に塗れ、汚れたキーボードの上に散乱する。
ビシャッ……。
咳き込みながらお茶を飲み、ほんの少し落ち着いた僕の身体が、ヒュッと短く息を吸い込んだ。
「アアアアアアアァァァァッッ!!!!!」
吠えた。
月に吠えるように、何度も僕は吠えた。
そしてそのまま気絶するように眠った。
悪夢は見なかった。ただ、真っ暗な視界のずっと向こうで、彼女がほんの一瞬だけ、片方の口の端を歪につり上げて、遠くへ去っていく姿だけが、わずかに見えた。
次の日、僕は初めて無断でバイトを欠勤し、さらにその次の日にクビを宣告された。
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