内出血

雷藤和太郎

第1話 ある男の一日

 誰か、僕に愛というものの存することを教えてください。


 僕の一日は、太陽におやすみなさいを言うところから始まる。

 通勤、通学に合わせて品出しをしたコンビニの、眩しい店内。僕は半分眠たい目を擦りながら、精一杯の元気をふりしぼって明るく振る舞う。

「いらっしゃいませ」

 無言で商品をカウンターに置いて、金を置いて、釣り銭を受け取って、客は帰っていく。

「ありがとうございました」

 同じことの繰り返し。まるで自動販売機。

 他のアルバイトが、見えないところで僕を指さして「あのオッサンとだったら、不快にならないだけ自販機の方がマシ」と笑いあっているのを僕は知っている。

 それでも構わない。

 僕は自動販売機とは違って、生きている。意思がある。感情がある。文句も不調も訴えないところから唐突に壊れる機械ではなく、自分で自分をメンテナンスして働き続けることのできる人間だ。

 稼働するのに電気は要らない。パンと水と、ほんの少しの娯楽があればいい。

 午前中の一番忙しい時間帯が過ぎると、僕のアルバイトは終わる。廃棄になった弁当と紙パックの安い緑茶を買ってアパートに帰る。

「ナオキくん、今日も廃棄買ってくれてありがとうね」

 朝の一番忙しい時間帯を避けて出勤した店長が、白々しい笑顔で言った。

 店はコンビニの他にどこも開いてはいなかった。花曇りの空に、太陽は我関せずとでも言いたげな表情。朝日と言うにはあまりに明るく、駅近くの小学校からは始業のチャイムが鳴る。特に重たいわけでもないのに、手提げのビニール袋の方に体を傾けながら、一メートル先のアスファルトを見つめて歩く。


 履き潰したウォーキングシューズの裏から熱されているように感じる。

 ゴルゴダの丘を登り、磔台の階段を上るようにアパートの自室の前に着く。新しく張られたクモの巣を手で払いのけて、日陰になった二〇三号室の玄関を開けると、カビともホコリとも言いがたい独特の臭いが出迎えた。

「ただいま」

 おかえりを言う人がいないのは分かっている。それでも、寂しさを紛らすために言わずにはいられない。

 動物でも飼えば寂しくなくなるのかもしれないが、小学生の時に飼育委員でクラスの金魚を全滅させた苦い思い出がある。

 それ以来、僕は動物が飼えなかった。

 水垢で曇ったコップを持って、テーブル代わりのこたつに廃棄弁当と一緒に置くと、パソコンの電源を入れた。

 パンと水、そして娯楽。

 ブラウザを立ち上げて、動画サイトと巨大匿名掲示板にアクセスする。夜に集中する生放送配信者のアーカイブを物色しつつ、弁当の包みを開けた。

 冷えて固まったご飯と生臭い塩サバを、安物のパック茶で流し込みながら、僕は一つのアーカイブに目を留める。

「ああ、今朝は配信あったんだ……」

 登録者数二千人程の駆け出し配信者。ゲーム実況が中心で、穏やかな声質。顔出し配信をせず、不定期で早朝におはよう配信をする。

 どんな夜の配信より、僕は彼女の朝の配信を楽しみにしていた。

 そうでなくとも、彼女の配信は他によく見る配信者に比べてさらに優先度が高い。穏やかな声質は見る者の心を癒し、リスナー思いの性格は決して他人を傷つけない。

テレビのバラエティーのように笑いと取れ高を気にするのではなく、環境音のような安らぎを提供する、そういう配信だ。

 生活臭とカビや下水の臭いにまみれた僕の部屋で、彼女の配信だけが唯一の清涼剤だった。

「おはようございます。九月最初の月曜日、皆さまどうお過ごしでしょうか。朝の雑談配信、始めていきたいと思います」

 配信画面にはコメントのアーカイブが残っている。よくみる名前、初めて見る名前。コメントに反応する配信者は、面白いコメントや、話題が広げられそうなコメントを見つけては、丁寧に返信していく。

 そんな双方向性のやりとりを見ていると、僕もすっかりその一員になったように思えるのだった。

 アーカイブを見ながら朝ごはんを食べ終えると、いつも猛烈な眠気に襲われる。

 食後に飲んだ強い精神安定剤の副作用なのだが、僕はそれがなければ人間として生きられない。一度飲み忘れてしまえば、僕の心はたちまち虎になり、狼になり、虫けらになる。虎になれば人を噛み殺したくなり、狼になれば月に吠えたくなり、虫けらになれば明日には死んでいるだろうと自暴自棄になる。

 この精神安定剤は彼女の配信によってだいぶ量が減ったものの、それでもまだ継続的に服用を続けなければならなかった。いつか、薬を服用する必要がなくなったとき、僕は彼女の配信にコメントを残そうと思っている。

 遮光カーテンを開けて、太陽が日射しをこれでもかと注ぐ残暑。

「おやすみなさい」

 僕は呟き、カーテンを閉めてごろんと横になると、掛け布団一枚かけることなく、骨だけのこたつに体をねじ込むようにして眠った。


 昼間の寝苦しさにうなされながら、何度ともなく悪夢を見る。

 ジリジリと肌が焼け、あるいは肺胞いっぱいにカビが繁茂して窒息し、かきむしる汗疹からは膿がはじける。

 生死の境を漂うような睡眠から目が覚めると、午後三時。アパートの中は、熱帯を思わせる不快感があった。

「おはようございます」

 生放送アーカイブはすでに再生が終わっており、ただ稼働しているだけのパソコンのファンが唸りをあげて熱を訴えていた。

 僕の脳も熱を訴える。脳だけでなく体全体が不調の叫びをあげる。怠さの抜けない体を持ち上げて、排水溝から悪臭の立つシンクの縁に手をかけ、蛇口をひねって水を出す。頭を傾けて流水に口をつける。

 耳に水が入ってくるのも気にとめず、喉を鳴らして飲み込むと、配水管の錆びた臭いが口いっぱいに広がった。

 咳き込むまでが一セット。僕はそれでようやく悪夢から目覚め、新たに死ななかった一日を始めるのだ。

 天使に会いたい。

 窓という窓を全て開け放って、扇風機をつける。茹で上がるような暑さは続いているものの、喉が焼け付くような渇きはいくぶん癒やされた。

 排熱ファンが悲鳴をあげるパソコンを操作して、彼女の配信アーカイブをラジオ代わりに、人間としての活動を始める。

 寝汗のべっとりついた衣服をカゴに入れ、ガスの止まった浴室のシャワーを浴びる。真水に冷やされると、体の機能が幾分戻ってきて、深い靄の中にあった思考能力は僕に再び哲学を起こすのだった。

 そういう時は、決まってネガティヴな感情に支配される。きっと知性は、ある場所から逃げ出したいと願うときに始まるのだ。僕のこのささやかな哲学こそ、僕を唯一人間たらしめている時間である。

 香りの強いボディーソープは、彼女が愛用していると、かつての放送で言っていたのと同じものだ。

 別にその匂いに包まれているから彼女に抱きしめられているなどと気持ち悪い戯言を言うつもりはない。

 自分が好きな人が好きなものを、同じように好きになった、それだけだ。

 それに、このボディーソープの匂いだけが、僕の棲む埃っぽい洞窟のような一室において、唯一、文化的な人間の匂いを放っている。

 この匂いが無くとも僕は生きていくことができるだろうが、その時は、僕は今よりずっと虎になりやすかっただろうなと思う。

 茹でたての素麺をしめるように全身を冷やしたら、次は洗濯物をしにコインランドリーへ行く。

 何日か分の洗濯物をカゴに入れ、ジリジリと肌を焦がすような太陽光線を浴びながら、最寄りのコインランドリーに入る。容赦のない太陽光によって炎天下のソフトクリームのようにだらしなく溶けきった僕の体を、コインランドリーは冷凍庫のような涼しさで迎え入れた。

「くしゅん」

 くしゃみを一つ。

 体をぶるりと震わせて、僕はテキパキと洗濯物を片付ける。洗濯機に放り込んで、待機していれば良いだけだ。後のことは全て機械がやってくれる。

 コインランドリーは、ひとり暮らしには頼もしい施設だ。洗濯という家事を一手に引き受けてくれる。主婦など必要ない。

 入ったときには冷凍庫のように思われた室内も、洗濯機がゴウンゴウンとうなりをあげる頃にはすっかり心地よい室温に感じられる。

 誰かが置いていったコンビニのワンコイン単行本をおもむろに手にとって、椅子に腰掛けた。大食いの男が大食い大会に出場し、悪の大食い団体と戦う内容だった。

 洗い終わると、それを真上の乾燥機に放り入れる。洗濯物で最も大変な「干す」という作業を省略するその機械は、乾燥した衣類が乾燥機の臭いに染まることを除けば文句のつけようがない。

 我が家のキッチンにも乾燥機があれば良いと、頭からかぶるように水を飲んだときなどは痛切に思う。

 洗濯機から乾燥機に運び終え、再び椅子に腰掛けようとしたところで、膝小僧をテーブルにしたたか打ちつけた。

「っ……!」

 声にならない叫びを上げて、崩れるように椅子に腰掛ける。

 外傷はなかったが、中から鋭い痛みが膨らむように響いた。

 少しして痛みは治まり、500ページの厚さの漫画を読み終えるころには、乾燥機も運転を終える。

 蓋を開けると、機械に熱された独特の臭いがする空気が広がった。

 何度も使われているからか、それまでの使用者の生活臭や好みで投入した大量の柔軟剤等々の臭いがドラムやパイプの中に染み込んでおり、老若男女あらゆる人間の臭いを混ぜ込んで熱したらこうなったという、何かの実験結果のような臭いが充満していた。

 咳き込みたくなるのをこらえて、乾いた洗濯物をカゴに放り込む。

 帰り際、独居老人とした雰囲気のお婆さんと、コインランドリーの入り口ですれ違った。


 自宅に帰ると、室内はいよいよ地獄の釜を思わせる暑さだった。

 悲鳴を上げるパソコンの排熱ファンは、ドライヤーの温風で涼をとろうとしているようなもので、つまり動くだけ損という愚かな働き者だった。

 僕はパソコンの電源を消した。

 いつもこうだ。

 可哀想なのは、愚かな働き者を演じさせられるパソコンの方で、その主人のずぼらさに己を殺されているに過ぎない。

 開け放った窓から入ってくる空気も、他の人間の住まいから室外機から排された空気ばかり。

 いっそ幽霊でも屯してくれた方がまだしも寒さを感じられただろうに。

 周辺住宅におけるあらゆる排熱の集積地である僕の部屋に僕自身すっかり参ってしまって、自分の部屋なのに居心地の悪さは筆舌に尽くしがたい。とはいえ、パソコンが動かずともスマホの通信料を抑えるために部屋にいる必要がある。

 洗濯物を畳の上に放って、パソコンの前に座る。起きたときにかいていた寝汗はすっかり乾き、そこだけ体がスポッと納まるような心地よさがある。

 寝汗の染み込んだ場所だけが、僕の生活のできる場所。

 洗濯機や乾燥機に侵されていない、唯一の場所だ。

「あ……」

 ふと、先ほどコインランドリーでしたたか打った膝を見ると、軽い内出血を起こしている。青タンになったその部分を認めると、脳が途端にジンジンとした痛みを訴えてくるのだった。

 気づかなければ、痛みも無かったのに……。

 WiFiに繋いだスマホで動画を見る。アルバイトが始まるまでの数時間を、僕は彼女の放送を中心とするさまざまな動画や生放送アーカイブを見て過ごす。

 日が傾いてきても気温は一向に下がらないというのに、楽しいひとときはあっという間に過ぎる。

 室内が夕暮れの赤色に染まるころ、僕は放り投げた洗濯物の山を崩してバイトの制服をバッグに詰め込み、バイト先のコンビニに向かう。

 真っ赤に染まる街並みは、誰一人として僕と顔が合わない。下を向き、横を向き、明日の方を向いて、それぞれの帰路につく。

 すれ違う誰も彼もが、僕の持っていない幸せを持っているような気がする。

 ……幸せ?

 僕が持っていない幸せとは何だろう?

 僕がこの生活に慣れ親しんでいる。だとすれば、これこそが僕の幸せだ。

 彼女も言っていたではないか。

「当たり前の日常を当たり前のように過ごせること、それが一番幸せなことだと思うんです」

 身の丈に合わない人生など、苦しいだけだ。だから、きっと僕は今が一番幸せなんだ。

 すれ違う人々の笑顔を、同じように微笑みながらコンビニへと向かう。

 笑顔で通りを人とすれ違うと、時折、後ろから「気持ち悪い」という声が聞こえた。

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