第31話

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 手燭の火をもち、伍仁はゆっくりと酒楽に歩調をあわせた。頭の中では、まだどうすべきかと考えていた。


(聞きたくない。だが聞くなら、今しかない)


 前方に白く光る出口が見えてきた。伍仁は意を決し、口を開いた。


「本当に、よいのですか?」

「なにがだ……?」


 ぼんやりと少年は腫れた目を瞬かせる。その顔に後宮を脱することへの後悔や悲しみは見受けられない。そのように見える。そう願いたいだけかもしれない。伍仁はついと視線を伏せた。


「柘榴帝のことです。宮に一度戻ったとき、酒楽さまがその……柘榴帝のことを、お好きになられたのでは、ないのですか?」

「見ていたのか」


 その言葉に胸がきしんだ。あれが嘘であればいいと、どこかで願ってもいたらしい。


「もし、……酒楽さまが後宮に留まりたいなら。柘榴帝が助けてくださるのではないでしょうか。なにも逃げなくても、帝の力をもってすれば、今回の件にしたって」


 このまま酒楽が「引き返す」と言ったら、伍仁はついていくだろう。彼の地位が安定するまでその側にいて、それから――酒楽が安泰になったと分かったら、そのときには。


(どうすればいいのか分からない。けれど私は、まだ酒楽さまにとって、それなりの価値があるようだから)


 あれだけの涙を流してくれたのだ。つくも神が消えたと思い、悲しんでくれた。その想いがあるうちは、側に仕えてもいいのかもしれない。すこしずつその情が、柘榴帝へ流れていくとしたら、それを見続けるのは耐え難い苦痛ではあるが。離されると思っていた手を、酒楽は強く握りしめた。


「後宮へ留まるつもりはない。もう出て行くと決めたんだ。……それにお前、あのとき見ていたなら、どうして来てくれなかった。私のことはどうでもよかったのか?」

「っ、そんなわけないじゃないですか! 私は酒楽さまのことをこれほど思っているのに。それに、止めに入れるわけないですよ。あんな──」

「ふん、どうだか。お前は、私がどうなってもいいと考えていたんだろう」


 むすりとそっぽを向く酒楽に、信じられないと伍仁は言葉をもらしていた。深く考えることもなく。


「な、なんてこと仰るんですか! 私がどれだけあいつを殺したかったか! 酒楽さまの一番は私のはずなのに。誰かがあなたを抱くというなら、それは私でも――ぁ」


 びっくりと丸くなる酒楽の瞳に、伍仁は口を閉じる。気まずい沈黙が落ちた。握りしめる酒楽と自分の手に、汗が滲んでくる。どちらのものかはわからない。


「宮に戻って、どこまで見た?」


 目を眇めた少年に問われ、責められた気分になった。伍仁は目をふせ、すべてを告白した。柘榴帝と睦みあう酒楽の姿を見て、すぐに逃げてしまったこと。自分の翡翠飾りが外されているのを見つけ、悲しかったことも。


「もう必要とされていないと思って。それで私は……」


 しばらく黙りこんでいた酒楽は、本当に何気ない調子で聞いてきた。


「お前、私を抱きたいか?」

「え」

「どうなんだ」


 じっと見上げてくる瞳は、澄みきり大きい。ごまかしても無駄だ。仄明かりに照らされた、白くまろい頬に視線を落とした。何度も触れたことがある、ふっくらとした柔らかさを伍仁は知っている。そこに柘榴帝は触れたのだ。伍仁以外の者の手が、その頬に。頬だけではない。うすく色づく唇や、白く並びの良い歯、愛らしく細い首筋、それから、いつも憎らしいほど雄弁な、その小さな舌にも。あの舌は、甘いのだろうか。ごくりと、喉がなる。はじめて、欲を持ち触れてみたいと思った。他の人間が触れていいなら、伍仁にだって許されるべきだ。酒楽のことを一番に想い、考えているのは伍仁なのだから。


 伍仁の両手は塞がっていた。手燭の明かりと、酒楽と繋いでいる左手。しかたなく見下ろせば、少年の輪郭がかすかな炎に照らされている。細部までが目に飛びこんでくる。

 長い睫の影、愛らしい鼻梁。

 少年にしてはふっくらとした口もとに思わず目がいく。そこから目が離せなくなる。じっとりと、つい見つめてしまった。視線を感じたのだろう、酒楽が笑った。吐息だけで小馬鹿にするように、「ほら無理だろう?」と、あさっての方を見ながら、検討違いなことを述べている。とうに分かりきっていたと、笑みを浮かべるのが憎らしく、伍仁は本心から言葉をぶつけていた。


「よいのですか?」

「は……」

「望めば、ゆるして下さるのですか?」


 その瞬間こそ、酒楽は固まった。伍仁の目の色に、幼い顔はみるみる赤くなる。伍仁はその反応に驚いていた。酒楽は、そうしたことにまったく関心がないと思っていた。後宮で、えぐみある春画を平気で描いていたくらいだ。柘榴帝の薫香に惑わされていたときならともかく、たったひと言でそれほど反応が得られるとは──。


「ば、馬鹿か。聞いただけだ」

「……柘榴帝には、許していたではありませんか」

「あ、あれは、無理やり……だ、だいたい、お前はつくも神だろう」

「つくも神にも、人と同じ欲はあります」

「は、なにを言って」

「嫌ですか? 私では」

「そ、そうじゃなくて、私の意志を確認してから……じゃない! お前は、その……」


 酒楽は、「あー」とか「うー」とか言って、ついに黙りこんでしまった。いつもは雄弁な口は閉ざされ、赤くなった顔で目をそらしている。伍仁は静かに笑っていた。己の感情にはっきりとした名を見つけ出すことは、難しい。恋というには大きすぎるし、愛と言い切るには苛烈だった。歪んでいて、なにか醜いものだ。酒楽の一番でありたい。そのために、理由や快楽が必要だというなら、いくらでも与えてやれる。欲するのは、酒楽という人間を独占する権利だった。髪の一本からつま先まで、心の隅々にまで伍仁の存在が刻まれていれば、それでいい。

 白く光る出口の前に近づいたとき、ふたりの黒官が立ち塞がっているのが見えた。伍仁はとっさに、酒楽をかばい前へ出ようとした。


「酒楽さま、ここは私が──」

「大丈夫だ」


 酒楽が静かに呟き、袖内から黒瑪瑙の飾りを取り出してみせた。伍仁が見たこともない代物だった。そのまま出口へ歩いていった酒楽は、それを黒官たちへ見せる。黒官たちは驚きの表情でこうべを垂れ、道を譲ってくれた。


「どうしたんです? それ」

「もらったんだ」

「……」


 ついじと目を送ってしまう。誰にとは聞かなくてもわかる。そんなものを贈れるのは、柘榴帝しかいない。


「なんだその目は。ほら、伍仁。外だぞ!」


 暗闇を抜けた先は、真夜中なのに明るい城下街だった。賑やかな街は寝静まることなく、繁華な赤ちょうちんや屋台、出店の列がずらりと並び、人でごった返している。春の夜、城下の人々は夜通し飲み騒ぐことが多い。浮かれた空気と、久しぶりに嗅ぐ外の雑多な匂いに、酒楽はすぅと息を吸った。


「さあ、どこへ行くにも自由だ。まずはあの屋台から回ろう!」

「いや駄目ですよ。早く遠くへ逃げないと」


 まずは着物を代えさせて、いや一刻もはやくこの街を去らなければ。嬉々とはしゃぐ酒楽は滅多に見られるものではなく、伍仁の表情もつい緩んでしまう。艶やかな満月はまだ天高く、陽が登る気配は遠い。赤提灯とごった返す人影のなかに、飛ぶような足取りの酒楽と伍仁の姿は、あっという間に紛れていった。




◆エピローグ◆


 うす青にかすむ山の稜線と、水色の澄みきった空。

 小高い丘からは、遠くの美しい景観と眼下の街並みがよく見わたせる。茶色につらなる家々の屋根に、通りを歩く町人の姿。その中に、黒服の一行が現れるのを目にし、伍仁は双眼鏡から目を離した。見晴らしのよい丘の上で立ち上がり、隣を見る。さらに一段高い位置に灰色の巨石があり、平たい石の上で酒楽が、遠くの山並みの画を描いていた。


「酒楽さま、来ました」

「ん……」

「酒楽さま!」

「うるさいなあ、もう!」


 伍仁が巨石の上によじ登ると、少年は画材を片づけていた。どうやら画は完成間近だったようだ。すこし日焼けした顔は、名残惜しそうに歪んでいる。


「さっさとしてください。捕吏が来てしまいます!」

「まだ距離があるんだろ? 落ちつけ。お前の声で居場所がばれそうだ」


 伍仁はげんなりと口をつぐむ。

 後宮を脱しすぐに気づいたことだが、伍仁の姿は誰にでも見えるようになってしまった。対だった翡翠の耳飾りの片方が壊れたせいだろう。そう酒楽は言っていた。


(一見無傷に見える私の体も、相応の瑕疵を負ったということか)


 伍仁の魂が多く宿っている翡翠飾りは、無傷のままだ。今も、酒楽の耳元で揺れている。酒楽が言うには、おそらくそちらが意識や五感などを司り、もう一方の壊されてしまったほうが、目には見えない部分を――つまり、つくも神としての本質的な部分を担っていたのではないか、ということらしい。誰にでも姿が見えるようになったということは、付喪神としての性質が揺らいでいるということだ。そう説明した酒楽があまりにも心配そうだったので、伍仁は、人に見えるなら好都合ではないかと言葉を濁した。けれどその実、それがどういうことなのかは正確に理解していた。


(ただびとに近くなっている。寿命が短くなったのだ)


 これまでは多少の怪我ならすぐに癒え、飲まず食わずでも問題なかったが、今はもう違う。人間と同じように疲れるようになったし、体の傷も癒えなくなった。酒楽に比べればまだ身軽だが、それもいつまでもつかわからない。けれど、構わなかった。寿命が八十年ほどあればいい。酒楽が死ぬのを見届けるくらいの余命は残されているはずで、それで十分だった。


「ほら、坊ちゃま急いで。捕吏が来ます!」

「慌てるな。旅行商にしか見えないだろうさ。まだ距離もある」

「坊ちゃまの歩みは遅いんですよ。よく転ぶでしょう?」

「坊ちゃまはやめろ。それに失礼な。人にはできることとできないことがある。まったく、私は今や万両を稼ぐ大家だぞ」


 失礼な、と酒楽はもう一度繰り返した。岩場から危なっかしく降り立ち、生意気な顔でため息をついている。

 酒楽の画はよく売れた。描く片端から高値が付くのは、後宮にいた天才画聖・廿野酒楽の名が、すでに国中に知れわたっていたからだ。それを熟知していた酒楽は、自らの画に必ず署名を残し、売りさばいた。おかげで顎が外れるほどの値で画は売れ、路銀には困らないが、すぐに捕吏が駆けつけてきて、こうして逃げまわるはめになる。署名のせいでどれだけ隠れていても、居場所が人づてにばれてしまうのだ。


(幸いなことに、世間での酒楽さまの人気は高い)


 後宮を逃げ出した天才画聖――その噂がひとり歩きし、老獪な老人だとか美少女であるとか、様々に噂されている。物好きな商人たちが、画と交換に自分たちを匿ってくれることもある。行く先々で援助してくれた人々は、「後宮の天才画聖」がまだ年若い少年であることにもれなく驚いた。そのたびに伍仁は、「後宮から逃げた理由はお前か、彼と駆け落ちしたのか」と、微妙な視線を投げられ、複雑な思いを味わった。向けられる問いを一笑にふすべきか、頷けばいいのか。いまだに対処の仕方を決めかねている。


「急いでくださいよ。園楊えんようの街はまだ遠い。川を渡らないといけませんから」

「わかってる、わかったから――っ、そう急かすな!」


 荷を奪い、その手を掴み引くと、酒楽は怒っているのか照れているのかわからない顔をする。最近の酒楽は、怒りっぽくなった。こうして手を繋いだり、触れようとすると怒るので、時々は離れようとするのだが、離れてもまた怒られてしまう。よくわからない。

 きっと決めかね、持て余している。

 これまでに築いてきた関係が、すこしずつ形を変えつつあることに、酒楽も伍仁もまだすこし戸惑っている。変化はいつも微々たる恐怖と、尻込みをもたらすものだ。

 繋いだ手を握りしめると、困惑と照れを半々にした酒楽の顔が、さらに怒りを形づくろうとする。百面相で実におもしろい。そう伝えればまた怒られるだろうから、伍仁は必死に無表情を装った。握り返してきた酒楽の指は、細くて頼りない。伍仁は冬がくるまでに厚手の手袋を探しておこうと決意する。この指を、自分が守らなければならない。


 次に訪れる街は、広大な大河に挟まれた土地だった。季節は初夏、生命力にあふれた木々の青葉を仰ぎ見れば、次の街が休むのにちょうどいい場所なのだとよくわかる。水際の園楊の街は避暑地としても有名だから、きっと目にも涼しく、心地よいだろう。

 きらきらした陽ざしが、遮るものなく進む先を照らしている。ともに駆けてゆく少年の瞳には混じりけのない、未来への期待があった。

 喜びと好奇心、自信と満足だ。

 酒楽の笑顔は生命力に満ちている。

 そのことが、伍仁をこの上なく満たし、力づけてくれた。

 行楽にでも行くような足取りで、伍仁は捕吏の手を逃れるために、酒楽の手を引いた。夏の日差しの向こうの、うつくしい河岸の街と、輝かしい明日を思い描いた。制限のない希望が、眼前にどこまでも広がっていた。



                              ――End.

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廿野些事―春画 冷世伊世 @seki_kusyami

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