最終話「たったひとつの秘密」
家の門を出ると、そこに遥介の姿があった。
佐里は驚いて足を止めた。
二階の窓を見上げていた遥介は、少し遅れて佐里に気づき、振り向いた。
「遥介……。なんで、こんな、朝早くに」
「ああ、いや……なんとなく」
遥介は、自分でも不思議そうに首をかしげた。
舞百乃の仕業なのだろうか、と佐里は思う。
なるほど、無駄になってしまった「用意」とは、このことだったのか。
遥介は、体の正面を佐里のほうへ向けて、一歩前に踏み出した。
「昨日は、悪かった」
そう言ってから、遥介は、佐里に向かって右手を伸ばした。
その手の上には、佐里の新しい音楽プレイヤーがあった。
「昨日、教室に忘れて帰ってたから……」
遥介は、佐里と目を合わせづらそうにうつむく。
佐里はプレイヤーに指を近づけた。
しかし、思い直して、プレイヤーに触れることなくその手を下ろした。
「佐里?」
遥介は顔を上げた。
そして、そこで初めて佐里の背負っているリュックに目を留め、怪訝な表情になった。
「ずいぶん大きな荷物だな。これから、どこに行くんだ?」
「……旅に出る。もう、この町に戻ってくるつもりはない」
嘘はつけないから。仕方なく、佐里は答えた。
案の定、遥介は声を失って立ちすくんだ。
「だって、私には、集団生活なんて無理だもん。学校も、家庭も、私みたいな人間がいていい場所じゃない。学校を卒業したって、私が就職とかできるとは思えないし……。
だから、人と長く関わらないようにするために、旅に出るんだ。私は自分を変えることはできないけど、その代わり、これまで迷惑かけてきた人たちには、もう二度と会わない」
聞かれる前に、佐里は全部答えた。
それから、遥介の手の上のプレイヤーを見て、
「そのプレイヤーは、遥介が持っててよ。私には、古いプレイヤーがあるからさ」
それだけ告げて、佐里は、遥介の横を通り過ぎようとした。
そのとき、遥介が、佐里の手首を掴んだ。
「佐里……どうしてだ? 自分を変えることはできないって、なんで、そう思うんだ?」
何年かぶりに触れる、遥介の体温。
佐里は、掴まれた片手を握りしめた。
「変われないはずないだろう? だって、昔のおまえは……」
声を詰まらせて、遥介は、手首を握る指に力を込める。
「おまえは、変わった。昔のおまえとは、まるで別人だ。おまえが、そんなふうに『正直者』になったのには……何か、どうしようもない理由があるんじゃないのか?
もしそうなら、話してくれ。そうしたら……。
もし、おまえ自身が、もう一度変わりたいって思ってるなら……俺は、なんでも、できる限りのことを……!」
遥介は、佐里の目をじっと見つめる。
その瞳を、少し見つめ返したあと、佐里は目を閉じた。
「ごめん、遥介」
佐里は、そっと遥介の手を振り払い、遥介に背を向けた。
そして、一度だけ、振り返って笑った。
「それだけは秘密なんだ」
* * *
誰にも開けられない部屋がある。
その部屋の窓には、薄いオレンジ色のカーテンが掛かっている。
その部屋の床には、色とりどりのしぼんだ風船が散らばっている。
くしゃくしゃに広げられた、やわらかな毛布のそばで。
カーテンの半分開いた窓から差し込む、ガラス越しの陽射しを浴びて。
陽に焼けて色褪せた洋服をその身に纏って。
もう人の姿をしていない、幼い少女は、横たわっている。
-終-
あかずの部屋の約束と秘密 ジュウジロウ @10-jiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます