第11話「望み」
そうして、佐里はこの世界に戻ってきた。
それ以来、この部屋は、ドアも窓も一度も開かれたことはない。
佐里は今も死んでいる。
その死体は、あのときのまま、まだこの部屋の中にある。
もう骨になっているか、そうでなければミイラにでもなっているだろう。
でも、『佐里が死んだこと』は、秘密なのだ。
だから佐里は、生きていた頃の佐里とは別のモノになって、けれど、生きている人間とまったく同じように、食事をして、歳を取って、家族と話をしたり、学校に行ったりしている。
ただ、佐里には、舞百乃と交わした「約束」があった。
「約束」と引き換えにしたものの重み。
それを佐里が思い知ったのは、この世界に戻ってきてからのことだった。
「あなたは遥介くんを守るために約束を交わした。でも、その約束のせいで、あなたは遥介くんにとって『軽蔑すべき人間』になった。自分が助けた大好きな相手に、その恩を教えることもできず疎まれ続けるなんて、さぞかしつらかったでしょうね、佐里?」
楽しくてたまらないという表情の舞百乃を、佐里は軽く睨みつける。
その視線を気にも留めず、舞百乃は笑った。
「ふふ、切ない話だわ。まるで、あれね。童話の人魚姫のよう」
「そんな少女趣味なこと言うくらいなら、せめて『振られたら泡になる』くらいのオプションは付けといてよ。そうすりゃ、こんな面倒なことしなくてもすむのにさ……」
小声で話しながら、佐里と舞百乃は、その部屋の前を離れた。
「まあ、童話と一緒にしたら、人魚姫に失礼か。あのお姫さまはたまたま運が悪かっただけだけど、私が遥介に軽蔑されて、きらわれるのは、仕方のないことだもん」
平然とそう言って、佐里は、浅い溜め息をついた。
「心の中をさらけ出して、それでも人に好かれるのは、心の中まできれいな人間だけなんだ。私は、そうじゃない。私が舞百乃との約束を守って『正直に』生きてると、どうしても、周りの人を傷つけることになる。クラスメートだって、私の家族だって、もう、いいかげん限界。私みたいなやつは、同じ場所に長くいないほうがいい」
早朝なので家族はまだ眠っている。
彼らを起こさないように、佐里は、足音を忍ばせて階段を下りていく。
「こんな自分がいやで、もっと、優しい人間になろうって、がんばったこともあったけど……。私には無理だった。
もともと性根が悪いんだろうね。自分でも情けなくなるよ。人のために優しくなるよりも、自分のために強くなりたいって、そう思って、あきらめて、逃げたんだから。
舞百乃との『約束』がある限り、人の気持ちなんて、汲み取れても無駄だって。
相手の気持ちを考えても、つらくなるだけだからって。
人の心にも、自分の心にも、鈍感でいようって決めてさ。
その結果が、今の私。
――人を傷つけても気にしない、自分もたいていのことじゃ傷つかない、そんな『嫌われ者』のできあがりだ」
家族が起きてくる気配はないか、注意深く耳をすませながら、佐里は玄関に向かう。
「嘘がつけるって、大切なことなんだね」
ぽつりと、佐里はそう言った。
「遥介は、いつそれを知ったのかな。昔は、嘘ついたり隠し事したりするのが下手くそなやつだったのに……」
懐かしいその頃を思い出して、佐里は、ほんの少し、口元をほころばせた。
「今の遥介は、自分の本心を上手に隠せるから。私と違って、人にいやな思いをさせることなんてない。そばにいる人を傷つけることなんてない。だから、遥介はみんなから好かれてる。
私は……そんな遥介のことが、うらやましくて……。
何も知らずに、あのことを忘れて、幸せに生きてる遥介が……。
ずっと、ずっと、憎らしかった」
うつむいて、かすれた声で、佐里は吐き出した。
そんな佐里の耳元に顔を寄せて、舞百乃は囁く。
「ねえ、佐里。あなたは、遥介くんの運命を、ずっと自分の手に握っているのよ。今までも、これからもね」
舞百乃の黒い瞳が、佐里の目を、その暗い色の中に映し取って見据えた。
「こんな結果は、理不尽だとは思わないの? 後悔はしていないの? もとはといえば、何もかも遥介くんのせいなのに。遥介くんに、報いは必要ないのかしら?」
舞百乃は、にやりと意地悪く笑った。
「あなたには、いつでも遥介くんの幸せな人生を奪うことができる。
とても簡単なことよ。
何かたったひとつ、嘘をつくか、私との『約束』のこと以外で、隠し事を持てばいい。
あなたが私との『約束』を破れば、あの部屋の扉は開かれて、あなたの死体はたちまち見つかって、遥介くんの記憶もよみがえる。もしそうなったら、自分の罪を思い出した遥介くんは、きっと罪悪感と恐怖で心が壊れてしまうわ」
舞百乃の言葉に、佐里はうなずいた。
「何度もそうしようと思った。私には、その権利があるって……」
でも、と、佐里は目を細め、舞百乃と繋いだ視線を断ち切るように、ゆっくりと瞬きした。
「遥介はさ、ちょっと、周りに気を遣いすぎなところがあるかもしれないけど……。遥介みたいな生き方は、それはそれで、考えようによっては、卑怯で情けないのかもしれないけど……」
佐里は、もう一度舞百乃の瞳を見つめ返して、言った。
「でも、遥介は、いつだって一生懸命なんだ。遥介は、自分のそばにいる人たちのこと、本当に大切にしてる。だからその人たちのために、一生懸命、上手に嘘をついて、一生懸命、余計な自分を隠して。そうやって、一生懸命、自分もみんなも一緒に幸せになろうとしてるんだ。
そんな遥介を見てると……やっぱり、遥介には、死ぬまで何も知らずにいてほしい。一生懸命がんばってるぶん、たくさん幸せになって生きていってほしい」
それが、紛れもない、佐里の本心だった。
舞百乃はしらけた顔で溜め息をついた。
「なあんだ、つまらない。もっと面白いものが見えるかと思ったのに。せっかくの用意も無駄になっちゃったわ。これじゃあ、なんのためにあのときあなたに声をかけたんだか、わかりゃしない」
「そりゃあ悪かったね。いい気味だ。ざまあみろ。もう、あんたの顔を見なくてすむと思うとせいせいする」
心置きなく本音を浴びせて、佐里は笑った。
舞百乃は悔しそうに眉を歪めた。
玄関で靴を履いて、佐里は舞百乃と向かい合った。
「遥介くんが死んだら、知らせに行くわ。それまでが約束の有効期限だから」
「うん。ありがとう、舞百乃。また会ったときに、あらためてお礼を言わせてもらうね」
「そう。じゃあ、そのときまで……」
舞百乃は薄く微笑んで、佐里に小指を差し出した。
白く細いその指に、佐里は自分の小指を絡める。
あの暗い道に立ち込める闇の匂いが、一瞬、胸の中によみがえった。
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