第10話「約束」

 私は嘘をつかないし、隠し事もしない。

 誰が相手でも。

 どんな状況でも。


 だって私には、どうしても守りたい、たったひとつの秘密があるから。


 それが、私の交わした約束だから。





「ふう。こんなもんかなあ……」


 佐里は、ぱんぱんに膨らんだリュックの中身を確認して、ファスナーを閉じた。

 昨夜、押入れの奥から引っぱり出した、家じゅうでいちばん大きなリュックサック。

 その中に一晩かけて詰め込んだのは、預金をすべて下ろしてきたありったけの現金と、必要最低限の着替え、雨具、それから、いろいろ考えて、持っていけば役立ちそうだと思った、こまごました道具類だった。


「本当に行くの? 佐里」


 その声に振り向くと、いつの間に入ってきたのか、部屋の隅に、薄い笑みを浮かべて立っている舞百乃の姿があった。

 舞百乃は、くすりと笑って言った。


「あなたみたいな子でも、昨日のことは、よっぽどショックだったのかしら?」

「昨日のことって……どこで見てたの」

「どこからでも。佐里のことなら、佐里がどこにいたって、なんだってわかるのよ」


 目を細め、その笑みを深めた舞百乃は、右手の小指を、そっと自分の唇に触れさせた。


「ねえ、佐里、質問に答えなさい。あなたが出ていこうとしてるのは、昨日、遥介くんに言われたことのせい?」

「それは……」

「正直に、ね。約束でしょ? それとも……」

「はいはい、わかってますよ」


 佐里は溜め息をついて、いかにも面倒くさそうに顔をしかめてみせた。


「別に……遥介に振られたからってわけじゃないよ。まあ、それもないわけじゃないけどさ。でも、どっちみち、そろそろそういう時期かなって、思ってたんだ」


 言いながら、佐里はリュックを背負った。

 大きなリュックの重みで、少し足元がふらついた。


「よし、行くか」


 呟いて、佐里は部屋のドアを開けた。

 廊下に出た佐里は、階段に向かう途中、一つの部屋の前で足を止めた。

 オレンジ色のカーテンの部屋。

 八年前まで、そこは佐里の子ども部屋だった。



 あの日――。


 佐里は、この部屋で遥介と遊んでいた。

 色とりどりの風船を、いくつも膨らませて。

 それを手の平で打ち合って遊んでいた。

 落としては拾い、拾っては打ち、赤、青、緑、黄色を、休むことなく部屋の中に飛び交わせて。


 そのうち打ち合いに飽きると、二人はベッドから毛布を引きずり出して、広げた毛布の上に全部の風船を乗せた。

 二人は、それぞれ毛布の反対側の端を持って、毛布を大きく上下にはためかせた。

 波打つ毛布の上で、たくさんの風船が一斉に弾んで、きれいだった。


 やがてその遊びにも飽きた二人は、毛布を足元に敷いて、その上で再び風船の打ち合いを始めた。

 そこで、遥介は、ちょっと悪戯してやろうと思ったのだろう。

 佐里が、飛んできた風船を打ち返そうと上を向いたとき。

 遥介は、佐里が踏んでいる毛布の端を、力いっぱい引っ張った。


 毛布の反対側の端に両足を乗せていた佐里は、バランスを崩して、後ろに転んだ。

 佐里の後ろには、ベッドの柱があった。

 丸く削られた柱のてっぺんに、佐里は後頭部をぶつけて倒れた。


 そして、よほど打ち所が悪かったのだろう。

 佐里の体は、それきり動かなかった。

 二度と、動くことはなかった。



 そのことを、遥介は誰にも言わなかった。

 遥介は、動かなくなった佐里の体をそのままにして、部屋を出た。

 それから、佐里の家の者に気づかれないように玄関を出て、自分の家に帰った。

 遥介の顔は、表情もなく、血の気を失って真っ白になっていた。


 それは、佐里にはもう見えるはずのない光景だった。

 だが、佐里はどこからかそれを眺めていたのだ。


 遥介の姿が見えるだけでなく、遥介の心臓の音も聞こえていた。

 激しく鳴り響くその音は、遥介の部屋の外で何かわずかな物音がするたびに、ひときわ大きく打ち鳴らされて、そのあとに一瞬の空白を作るのだった。



 しばらくすると、遥介の姿も、遥介の鼓動も、ぼやけて、かすんで、佐里のそばから遠ざかっていった。





 気がついたとき、佐里は知らない道を歩いていた。

 どこに続いているのかわからない、暗い暗い道だった。


 佐里は泣きながら歩いていた。

 どうしよう。このままでは、遥介が殺人犯になってしまう。

 佐里にはそのことが何より恐ろしかった。


 こんなことになるなんて、遥介だってほんの少しも思っていなかったことは、わかっている。

 遥介は、ただちょっとふざけただけだったのだ。

 あのあと、すぐにまた二人で笑い合えるものだと、遥介は信じていたのだ。


 だから、私は遥介を恨んでなんかいない。

 私が恨んでいないのだから、他の誰も、遥介のことを責めないで。

 誰か、遥介を助けてあげて。


 そう呟きながら、佐里はあてもなく歩き続けた。



 そのとき、闇の中から声がした。


「秘密にしてあげようか?」


 涙を拭って目を開けると、いつの間にか、目の前に一人の少女が立っていた。

 少女を見上げ、誰、と佐里は尋ねた。


「私? 私はね、変なものよ」

「ヘンナモノ?」

「そう。人間には、悪魔とか、神様とか、鬼とか、魔法使いとか、いろんな名前で呼ばれるわ」


 少女は佐里の前にしゃがみ込んで、佐里の目を見つめた。

 少女の瞳は、その暗い道に立ち込める闇よりも深い、見たこともない黒色をしていた。


「ねえ、おじょうちゃん。あなた、たったひとつの秘密を守るために、他のすべての秘密を犠牲にできるかしら?」


 少女は、佐里の顔の前で、白く細い小指を伸ばした。


「もし、あなたがこれから先、何ひとつ嘘をついたり、隠し事をしたりしないと約束するのなら。あなたがその約束を守っている限り、その約束と引き換えに


――私の力で『あなたが死んだこと』を秘密にしてあげる」


 少女の言葉に、佐里は驚いて聞き返した。


「そんなことができるの?」

「ええ、できるわよ。私はヘンナモノだもの」


 少女はにっこり笑ってうなずいた。


 佐里は思った。

 自分が死んだことを秘密にできるなら、自分を殺した遥介が人殺しになることもない。


 遥介を守りたかった。遥介が苦しむのはいやだった。

 佐里にとって、遥介はいちばん仲の良い友達で、この世の中でいちばん大切な人間だった。


 佐里は、迷うことなく、少女の小指に自分の小指を絡めた。

 ゆびきりげんまん、うそついたら……。

 少女の楽しげな歌声に合わせて、二つの小指が闇の中で揺れた。

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