第28話

二八


 最後の一行を書き終えると、薫子はパソコンから顔を離し、眼鏡を額の上に持ち上げた。いつのまにか日が高く昇り、窓から明るい光が射し込んでいた。

 しばらく宙を睨んで考えていた薫子は、再び眼鏡をかけ直してパソコンのマウスを繰り、先頭ページをモニター画面に呼び出した。そして新たな一ページを加え、その真ん中に大きめの文字で『ザ・バトル・オブ・プリテン』というタイトルを打ち込んだ。

 あれからもう、二十年以上前になるのか。その年月の長さと、そこに詰まったさまざまな出来事を思いだし、薫子は「ふう」と息を吐いた。

 いろいろな無理がたたって倒れた薫子は、その後スタジオ・クライシスの社長を左文字に譲ってアニメ業界からは身をひいた。社長に就任した左文字は次々に新作を発表し、それらは海外でも評価され「ジャパニメーション」を代表する監督の一人となった。最新作『ナイト・オブ・ザ・スカイ』は、左文字がずっと作りたかった飛行機を主役にした作品だ。

 ふく子と遼太郎はあいかわらずスタジオ・クライシスにいて、左文字をサポートしている。加代子はクライシスを辞め、薫子が紹介した女店主の経営する定食屋を継いだ。出渕は、専業農家になった。

 良太は、結局アニメ業界では身をたてることができずに少女マンガ家に転身し、今ではそこそこ有名なベテラン作家として作品を発表し続けている。

 熊原はスチュワーデスの彼女と結婚したものの、数年で離婚した。だがそれをきっかけに作家に転身し、著名な賞を二つも受賞した。

 そして薫子はスタジオ・クライシスをやめた後、女王様を引退した貴和子と女性向けアダルトグッズの店をやったり、定年退職した父が始めた蕎麦屋を手伝ったりしながらなんとなく生きてきた。だが、ある時熊原とばったりでくわし、その勧めで、ものを書きはじめた。

 最初は雑誌などに小さなコラムなどを書いていたが、しだいにエッセイや書評などの仕事も入るようになり、やがて小説の注文も来るようになった。今書き終えた小説は、薫子が初めて自分の過去を振り返った自伝的作品だった。

 想い出をたどるうちに、薫子はふと思った。小説では、「あたし、アニメが好きなの。いや、そうじゃないな。アニメを作っている人たちの一途さが、好きなの」と書いた。あの時点では確かにそのとおりだったのだが、今になって考えれば、あれは伊東への意地でそう言ったのかもしれない。いや、それよりもスタジオSGTのヤツらに、乗せられやすい性格を見抜かれていたのかもしれない。

 薫子は、急に確かめたくなった。誰に聞いてみようかと考えていると、背後から男の手が伸びて、テーブルの上にマグカップが置かれた。

「コーヒー、いれたよ」

「あ、ありがと」

 ガラス戸から射し込む光が逆光となって、男の表情は見えなかった。

「今日は、遅くなるの?」

「いや、今日は打ち合わせだけだから」

 男は両手で薫子の頬を優しく包み、後ろに傾けると、額にキスした。

「じゃ、行ってくるよ」

「うん」

 出ていこうとする男に、薫子は声をかけた。

「あ、……くん」

「なに?」

「ううん、なんでもない。いってらっしゃい」

 薫子は微笑みながら手を振った。男の振る手が、レースのカーテンを通して射し込む光をオーロラのようにゆらゆらと揺らした。


(了)

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ザ・バトル・オブ・プリテン 加集大輔 @utsuboe1

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