第27話

二七


 出船の突然の心変わりに、ロイヤル・レコード映像企画部のスタッフは耳を疑った。

「部長、本気で言ってるんですか?」

 多くの部下が難色を示すなかで、入舩は出船を支持した。

「部長のご判断なんだ。ここは僕らがとやかく言うべきではない」

 入舩は、出船に課長昇進を約束されていた。この一言で、部内には表立って文句を言う人間はいなくなった。『プリシャス・テンプテーション』の製作中止は撤回され、新会社スタジオ・クライシスもロイヤルの一〇〇パーセント出資で立ち上がった。代表取締役社長に薫子、代表取締役専務に左文字、常務取締役にお目付役を兼ねた入舩が任命された。もとSGTのスタッフたちも、新会社に雇用された。

 制作はすぐに再開されたが、薫子たちはすぐにトラブルに直面することになった。第三巻の脚本を読んだ声優の一部が、「こんなに内容が変わるんだったら参加したくない」という意向を伝えてきたのだ。薫子たちは、困惑した。

 すると、予想もしなかったところから助け舟が出た。ジュヌヴィエーヴ佐藤だった。

「あんたの作る作品だったら、協力してあげる」

 そう言って佐藤は、不参加を表明した声優の説得にあたってくれた。人気も実力も屈指の声優からの説得を受けては、参加しないわけにはいかない。数日間の遅れを出しただけで、アフレコもほぼ順調に仕上がった。

 制作は順調だったが、売れ行きはあまり順調ではなかった。第三巻の注文数は、第一巻、第二巻と比べても、それほど伸びなかった。しかしスタジオ・クライシスのスタッフは、『プリシャス・テンプテーション』が完成にこぎつけただけで達成感を味わい、満足した。

 薫子を含めたスタッフたちは、虚脱状態に陥った。次の企画を考えるというでもなく、机に座ってぼうっとしていることが多くなった。もともとスタジオ・クライシスは、『プリシャス・テンプテーション』を完成させるためだけに作られたような会社だった。薫子は「これで解散かな」と、漠然と考えた。


 しかし事態は、第三巻の発売直後に急転する。一部のコアなアニメ・ファンからの口コミがじょじょに広がり、最初はさざ波程度だった波が、いつの間にか大きなウェーブとなって一大ブームとなっていった。ビデオソフト店店頭では売り切れが続出、レンタル店では二週間、三週間待ちが当たり前の状態となった。売上は毎日右肩上がりで伸び、三巻トータルで一〇〇万本に近いスーパーヒットとなった。

 第三巻の脚本の展開に疑問を持っていた薫子と左文字は、この突然の人気沸騰に納得がいかなかったが、作品が売れるにこしたことはない。苦笑しつつも、喜びが隠せなかった。

 気をよくしたロイヤル・レコードでは、追加映像を加えた劇場版の製作を決定。当然、その仕事もスタジオ・クライシスにまかされることになった。ふたたび映像製作に追われる日々が始まった。薫子にはそうした現場の仕事の他に、マスコミへの対応という仕事も新たに加わった。

 さらにスタジオ・クライシスは『プリシャス・テンプテーション』の版権を持っていたため、玩具メーカーや雑貨メーカーなどから商品化希望のオファーが殺到した。薫子は、そちらの対応でも目の廻る忙しさとなった。家に帰れる日はせいぜい週に二日、睡眠時間は、一日二時間ほどになった。


 劇場版の公開初日は、薫子の心配をよそに、大入り満員となった。関係者に、大入り袋が配られた。赤地に「大入」と白く抜かれたポチ袋を開けると、なかに五〇〇円硬貨が一枚、入っていた。薫子は、初めて見る大入袋を大事そうにバッグにしまった。

 今日の夜は、下請けなど全スタッフを集めた慰労パーティーがある。幹事役のふく子は、ここ数日それにかかりっきりで、今日も朝から会場のホテルに行ったきりだ。薫子は、昨日ふく子からパーティーの案内状を渡されたことを思い出した。バッグからそれを取り出して読むと、「出席者は仮装をすること」と書いてある。

 仮装? 薫子は困惑した。忙しくて、そんな用意はぜんぜんしていない。どうしよう、時間もないし。あれこれ考えていると、机の下に押し込んでいた紙袋を思い出した。この際しかたたがない。時間もないし、あれで行こう。薫子は、急いで事務所に向かった。


 パーティーの会場入り口に、スタジオ・クライシスのスタッフが仮装して並んでいた。そのなかでもひときわ目を引くのは、皮製のハイレグ・レオタードを身に着け、ムチをふるう薫子の姿だった。出船の一件の後で、貴和子が「記念に」と言ってくれたものだった。家に持って帰るわけにもいかず、紙袋に入れて机の下に押し込んでおいたのだ。

「薫子さん、そういう趣味があったんですか?」

 ふく子が、呆れたように薫子を見つめた。左文字は大きく目を見開いたまま硬直している。遼太郎は怯えて物陰に隠れたままだ。

 やがて招待者たちが、集まりはじめた。思い思いの仮装をした作画や音響のスタッフは、入り口で出迎える薫子の姿を見て、一様に驚きの声をあげた。

 良太も、あすなろプロの人たちといっしょにやってきた。良太は、『東京サイボーグ・ポリス』のヒロインのコスプレをしていた。あれ以来、女装にはまってしまったようだ。

 ジュヌヴィエーヴ佐藤は、もちろん『プリシャス・テンプテーション』の主人公・はるかのコスプレだ。

「あんた。一皮、剥けたわね」

 佐藤は、薫子の恰好を見てニヤリと笑った。

 日之出興業の二人も、やってきた。この先どんな場面でお世話になるかわからないので、薫子が招待者リストに入れておいたのだ。この二人は仮装をしていなかったが、会場の人間は、二人がヤクザの仮装をしていると信じて疑わなかった。

 最後に、ロイヤルの出船と入舩がやってきた。出船は薫子の恰好を見て、「ひっ」と短い悲鳴のような声をあげた。恥ずかしさをこらえてこんな恰好をしたのは、出船に「あの写真は、まだあたしの手許にあるぞ」というプレッシャーをかける目的もあったのだが、それは十分に達せられたようだ。薫子は、意味ありげに出船に向かってウィンクした。

「いやあ、僕はこの企画、ぜったいヒットすると思ったましたよ」

 入舩は、ともなってきた日出生の元愛人の腰に手をまわしながら、無責任なことを言った。


 パーティーは、なごやかな雰囲気で始まった。だが料理が出されると、そこはあっという間に戦場となった。皿を持った招待者たちは、目を血走らせながら料理に向かって殺到した。あちこちで、料理の奪い合いが始まった。山盛りに持った人の皿から料理を奪う者や、テーブルに戻らずにその場でかき込んでは料理を皿に盛り足している者もいる。どう見ても、味わって食べているとは思えなかった。質よりも、量が大切だった。

 用意した料理は、ものの十分できれいさっぱりなくなった。

「どうしましょう? 私、まだ何も食べてないんです」

 泣きそうな顔で、ふく子が相談してきた。

「しょうがないわね。みんなふだん、ちゃんと食べてないからね」

 薫子は苦笑しながら、料理を追加するように言った。

 やがて、会場が少し暗くなった。

「ではここで、株式会社スタジオ・クライシス社長、無量小路薫子から、皆様にご挨拶を申し上げます」

 司会者の言葉に促されて、薫子はスポットライトに照らされた壇上にあがった。

「みなさん、本日はようこそ、『プリシャス・テンプテーション』完成記念慰労パーティーにお越しくださいました。皆様のおかげをもちまして、『プリシャス・テンプテーション』三巻は無事完成して大ヒットを記録し、さらに本日、『劇場版』も無事公開にこぎつけました。これもひとえに……」

 そこまでは静かに聞いていた招待者たちが、いきなり「うぉー」という声をあげた。薫子の挨拶に感動したのではなかった。料理の追加が出されたのだ。

 一言も聞いていない聴衆に向かって、薫子はしゃべりつづけた。

「いろいろな困難がありましたが、ここまで続けてこられたのは、やはり、皆様の情熱と……」

 そこまでしゃべって、薫子は異変に気づいた。あれ? 会場が回転している。ぐるぐると、自分の視界にある全てのものが左方向に回転しはじめた。さらに、床が急速に頭のほうに近づいてくる。そして衝撃を感じ、その後すぐに意識が遠くなりかけた。体を動かそうとしたが、意志どおりには動かなかった。

 会場では料理の取り合いが続いており、薫子の昏倒に気づいた者はわずかだった。そのなかの一人が悲鳴をあげた。

「きゃー!」

 その声に、会場が一瞬静まり返り、すぐに大騒ぎになった。

「救急車を呼べ!」

 お願いだから、こんな恰好で救急車に乗せないで。薫子は薄れゆく意識のなかで、叫んだ。

「どけ! 俺が運ぶ!」

 鬼の諒二は両手で薫子をすくいあげるように抱くと、玄関に向かって走った。

 諒二の腕に抱えられながら、薫子は夢を見ていた。巨大ロボット・ヨランのコクピットに乗り、宇宙を飛んでいく夢だった。

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