壁の向こうに憧れて

ザイオンキャピタル

壁の向こうに憧れて

 ぼくは知っている。この壁の向こう、飄々とした風の吹くこの壁のすぐそばには、暖かな部屋があり、談笑があり、テレビの音があるということ。

 たった一枚、せいぜい数十センチの壁があるというだけで、どうしてこんなにも違うんだろう。ぼくはいま、マンションの外にいた。それも中空の、誰もいない、風だけが通り過ぎていくような狭い平面の上に。

 このマンションは他の多くと同じく、階段状に高くなっていた。ぼくは七階の住人の真上にいて、八階の部屋の壁にもたれかかっている。なんにせよ、そういう作りの建物はしばらく前からよくあるようなのだ。ぼくはその階段のちょうど一番上から一つ下の平面、言い換えれば屋上、を住処としていた。

 あたりの街はこのマンションよりも高いところはなく、そのせいで住宅地を抜ける風が夜もずっとここに吹き付け、通り過ぎていった。

 その代わり、見晴らしはよかった。とてもよかった。暗くなると、ぽつぽつと色とりどりの光が住宅から漏れ出す。ときにはシャワーを浴びる音や、なにか大きな声、テレビの音が聞こえてくることもある。それに、本当に深夜になると、雲の隙間から星が見えだすときだってあった。そういうわけで、ずっと吹きさらしであっても、ここが気に入っていたのだ。

 夜、ときどき、中の部屋の温かさが感じ取れる気がして、壁に身体を押し付ける。両手を広げて、抱きしめるようにして壁にすがりつく。壁というのは思ったよりもざらざらしていて硬く、押し付けたほっぺたがひりひりする。

 残念ながら、音はほとんど聞こえない。こちら側には窓も、ベランダもない。ちょうど足場のない、折れ曲がったところにはベランダや窓があり、そこから音や光が回ってくることはあったけれど、それは直接のものではなかった。ぼくは、直接のものを感じ取りたかった。そのために、ぼくはここにいるのだった。

 ある土曜日の午後だった。その日、気温は落ち着いていて、見上げれば白くて重みのある雲があちこちに浮かんでいた。音が消えたかのように、この住宅地全体が静かで落ち着いていた。壁越しの一家は今日はお出かけで誰もいなかった。朝からどたばたと声が聞こえていたからだ。しんと、静かだった。まるで、そう、まるで、この日だけ、今日という一日だけ、ぼくのためにこの世界、いやこの空間を貸してくれたように感じたし、それは感じたなんていうレベルではなく、ぼくはそういうふうに完全に理解してしまった。

 ぼくは依然から、ロープと、鉄のかぎ爪を用意していた。とくに理由があったはずは、きっとない。けれどこの静かな街、静かな部屋がすぐ近くにあっては、ぼくはいまなすべきことをしなけりゃいけないと感じた。

 この屋上の端まで、ロープと、それにくくりつけたかぎ爪を持ってにじり寄る。隣のベランダの手すりまで、一メートル、いやもう少し、隙間があった。中空の隙間。もし、この平面の端から、なんとかベランダまでジャンプしたとして、踏み外せばそれは、八階の高さからまっすぐに落ち、この時の止まったような街でぼくは死を迎える。

 ロープを回して、それからかぎ爪を放り投げる。簡単にかぎ爪はベランダに落ち込んで、ひっぱってみるとアルミ製の柔らかそうな手すりに引っかかった。

 ぼくは身体をよじらせて、飛び出す用意をした。ロープを自身の身体に巻き付け、それから飛んだ。

 足はベランダの角を捉えられず、なんとか手は手すりにしがみつけた。ロープはたゆまず、かぎ爪は引っ張られずに済んだ。

 そうして、ぼくはベランダに立ち、立ちすくんだ。

 ここが、生活のある、ぼくが望み、そして決して手に入らない場所からの景色だった。ベランダの床は陽に温められて暖かく、広がる景色の手前に手すりがあるというのは、なんとも幸せなものだった。ぼくは目をつむり、自分がここの家族の一員だったところを想像した。いまは午前中で、ぼくは朝起きたばかり。みんなもう起きてリビングにいるところを、ぼくは横切ってベランダに出る。この景色を眺める。単調な家並みと聞きなれた街の音。風もそう、たしかに吹いている。背後にはみんなのいるリビングが確かに、確実にある…。

 ぼくは目を開けた。相変わらず風は吹き、そして後ろのリビングには誰もいない。ぼくの生活用具はすべて、この隣の屋上に置いてある。そこに手すりはない。寝ている間にひっくり返っても、脚を滑らせても、それを保護しようとする思いはどこにもない。なんていう違いなんだろう。

 リビングへ続く窓に手を滑らせると、簡単に開いた。そもそも、八階の出っ張ったベランダから誰かやってくるなんて思いもしない。

 リビングには黒茶のソファがL字に並び、大きなテレビが白い壁に埋め込まれていた。この壁の先でぼくが毎日もたれかかっているなんて、思いもしないだろう。

 洗ったばかりのコップがキッチンに裏返しで置かれていて、水滴がまだいくつも残っていた。

 どこに居ればいいのかわからず、しかたなくリビングの、ラグもなにも敷かれていないところに座った。視点が下がり、部屋が大きく、ぼく自身が小さく感じた。

 この部屋はどこまで行っても他人行儀だった。馴染めない。部屋に入れば、なにもかもがひっくり返ると思っていたのに、ぼくは壁の内側に入ってもなお、屋上にいたときと変わらなかった。依然、異物として認識されているような気配があった。

 それからぼくは、この家に用意された様々な部屋を見て回り、トイレに入って、その小さな窓から向こう側の景色を眺め、涙を一滴流し、それでもうこの旅は終わりだった。

 ベランダに出ると、まだぼくの時間は続いているようだった。この一家のお出かけから帰ってくる気配は一切ないし、街は静かで、相変わらず時がぼくのために一時停止してくれているようだった。このベランダはとても気にいった。壁のなかよりも、この手すりで囲まれているここのほうが、まだ居てもいいような気がした。ああ、少なくともここに、家のなかに入れなくてもいいから、このベランダをぼくの場所にして、この一家と一緒に暮らすことができたらなあ。

 ぼくは帰ることにした。

 ロープとかぎ爪を手に持ったところで、身体が硬まった。

  向こう側はベランダもなく、手すりもない…。命綱であるかぎ爪がひっかかるところは一切なかった。一応、試しにかぎ爪を向こう側へと投げてみた。かぎ爪は屋上に乗り、そのままずるずると引っ張っていくと、なんの手ごたえもなく、ベランダと屋上の隙間に落下していった。ロープがピンと張る。ぼくには命綱がない。

 いっそ、このままここに居てしまおうか、と考える。夕方になり空がオレンジになり、西陽が射すなかで一家が帰ってくる。ぼくはベランダから声をかけ、助けを求める。そうするとほんのひとときだけ、ぼくはこの一家と関わりを持つことができる。でもそうすると、二度とここへは戻ってはこれない…。

 手すりに脚をかけて、身体を持ち上げる。ここでは助走もできない。ぼくはかぎ爪を持ったまま、一メートルと少しある中空の隙間をジャンプした。

 足はまったく届かず、ぼくは八階の壁に宙ぶらりんになっていた。風が強く吹き、それから街の音、自動車や子どもの高い声や、もしかしたら話し声、テレビの音だって聞こえたかもしれない。もうぼくの時間は終わったのだ。時は再び動き出した。陽が傾いていた。

 手のひらに力を入れてなんとか、腕までを持ち上げることができた。ずりおちそうになる身体を、何度も脚を蹴って身体を持ち上げようとする。その摩擦で少しずつ身体が持ち上がる。ぼくは必死に生きようとしていた。この時が動き出した街のなかで。それが情けなくって、それでもぼくは壁を蹴り続けて身体を持ち上げよう、持ち上げようと続けた。

 死ぬところだった。屋上に転がったぼくは汗びっしょりで、息があがっていた。俯いてみるとシャツの胸のところがたくさん上がったり下がったりしていた。振り返っても誰もいない。ぼくはぐぐぐと声をこらえて涙を出した。


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