異食晩餐会
枩葉松@書籍発売中
週末の夜は海神のステーキ
01
「ふぅー、終わった」
大きく息をつきながら、パソコンの右下に視線をやった。
あと少しで、金曜ロードショーが終わってしまう。今日は何の映画だったかな、と考えながら天井を仰ぎ照明に目を細める。
「今日もご苦労だった。どれ、褒美をくれてやろう。吾輩は部下を労わる、いい上司だからな」
ワイン色の燕尾服とシルクハット。コスプレかと見紛うほどの悪趣味な衣服に身を包む、トカゲ頭の化け物。異界の住人、私が務める異界雑貨輸入会社の社長である。
社長は裂けた口で笑みを作り、長い爪の目立つ手をポケットに入れた。そこから一つ飴玉を取り出し、私の手のひらに落とす。
「……ど、どうも」
正直、飴玉を貰ったところで一ミリも嬉しくないが、わざわざ邪険にするのも面倒だ。
「って、何ですかそれ。その妙な杖は」
「ああ、これか。営業のついでに、ドンキで購入したのだ。また一つ、吾輩の貴族らしさが上がってしまったな」
この化け物、異界では名の知れた貴族らしい。
――異界の貴族による、異界のちょっぴり不思議な雑貨。
そんな触れ込みで最近話題になっているこの会社は、社長そのものが広告塔だ。それ故に、社長は日々貴族っぽさを追求している。
「よく見ろ。この鳥の焼き印、実に貴族っぽいではないか。色もいい、漆黒は男を美しく飾る。吾輩の赤い肌にもよく馴染む」
「ああ、はい。そうですね」
社長が抱く地球の貴族へのイメージは、どこかみょうちきりんである。そんなダサい格好でオフィスをうろつき、営業や接待を行う貴族など見たことがない。いや、そもそも本物の貴族を見たことがないのだが。
ともあれ、そのみょうちきりんさが地球人には受ける。地球の貴族っぽさが、奇しくも異界っぽさを演出しているのだ。
「ところで、これから予定はあるか」
「いえ、ありませんけど。しいて言うなら、仕事が忙しくて彼氏も出来ませんし、実家に帰るのも億劫なので、寂しい夜を予定しています」
そう軽口を叩くと、社長はギラリと牙を覗かせながら高らかに笑って見せた。狭いことだけが取り柄のオフィスには、社長の低い声がよく響く。
「アットホームな職場では、定期的に強制参加の飲み会が行われると聞いた。ならば、我が社でも飲み会を開催するべきではないか」
「ただでさえブラックな会社を、より黒く染めるつもりですか。大体、うちは社長と私だけの会社ですよ。今更飲みニケーションなんて嫌ですよ」
パソコンの電源を落とし、手早く荷物をまとめる。
社長は諦めの悪い人だ。このまま、大人しく家に帰すとは思えない。
何があろうと、私は絶対に付き合わない。社長との飲み会など、疲れるに決まっている。
「それは残念だ。貴君が行きたいと言っていた、あの五年先まで予約が満杯の店、実は二席取ってあるのだが。ふむふむ、どうしても帰りたいのならば仕方ない」
「はぁ⁉ えっ、まさか、シグルズのことですか⁉」
ここ数年で、異界の食を提供する店は少しずつ増えてきている。
その中でドラゴンの肉を取り扱う店は、今のところ世界でただ一店舗だけ。それこそ、ガストロパブ・シグルズである。
「吾輩を誰だと思っている。予約をねじ込むなど造作もない。しかし、貴君は大人しく五年待つのだろう? 日本人は何かと列を好む。貴君も列の一部となり、五年後まで前倣えを磨くといい。吾輩は、そんな庶民共を肴に週末を楽しむとする」
見上げるには高過ぎるほどの上から目線、加えて高圧的な声色。社長は杖を振り回しながら、ブラインド越しに夜の街を見つめる。
この化け物、貴族っぽさのために紳士感を身に纏っているが、その皮は煮え過ぎた水餃子よりも脆い。身近な者に対しては、大体この調子である。
とはいえ、今回に関しては私も悪い。
私は精一杯の誠意を込めて、「ご一緒させてください」と頭を下げた。
「吾輩はこの国に来て学習したぞ」
社長は振り返り、どす黒い笑みを作った。
「最高の懇願とは……四つ足で行うものだそうだ」
何でこんな仕事に就いたんだろ、と改めて思いつつ。
私は、社会人としての矜持を見せつけた。
02
私が務める会社のビルは、世界でも指折りの活気を誇る異界タウンに位置している。
人外が当たり前のようにアスファルトを踏みしめ、ドラッグストアのお兄さんが向こうの世界の言葉で呼び込みをし、魔術や超能力がコバエのように飛び交う。そんな街だ。
「どうした。早く行くぞ」
「あ、はいっ」
社長の自家用車……ならぬ、自家用絨毯に乗りシグルズへ向かう。
おかしな格好のトカゲと女の二人が、駐車場に敷かれた絨毯の上に座る。小学生の頃の私ならば、腹を抱えて笑ってしまうような光景だが、今はポルシェが絨毯を製造する時代だ。
「おい。一昨日のように故障でも起こそうものなら、明日にはスクラップ工場送りだぞ」
その言葉に、グワンと絨毯全体が波打ち、細かい毛が逆立った。こんな文字通りの人でなしに買われて、何だか同情してしまう。
「さあ、飛べ」
社長の一声で、絨毯は夜空へ飛び立った。
相当高価な絨毯なのだろう。揺れはなく、風も感じない。それどころは、心地いい暖かさにまぶたが重くなる。
「十分ほどで着く。適当にくつろぐといい」
「はい。ありがとうございます」
眠気覚ましにと思い、絨毯の外へ軽く身を乗り出した。
『ハーッハッハッ! きてます! きてます!』
ショーをやっているのだろう。Mr.マ○ックの声が、こんなところまで聞こえてきた。
異界の登場以降、社会の片隅でくすぶっていた超能力者たちは、その力を一切隠さなくなった。マジシャンとして有名だったマリ○クも、そんな超能力者の一人。彼のマジックの全てが、タネなど無い超能力によるものだと話しているのを見た時のことは忘れられない。
「うわぁ⁉」
マ○ックの声が聞こえてくる方向に注目していると、すぐ真下のビルが爆散した。
私の悲鳴に苛立ったのだろう。社長は前を向いたまま、忌々しさたっぷりに舌打ちした。それは、地上の喧騒よりもハッキリと聞こえる。
「す、すみません」
通常、街中で爆発事件が起きれば大混乱だろう。
だが、この街では命に半額シールが貼られている。生きるも死ぬも日常の一コマ、爆発事件など扉絵にすらならない。
まったく最低最悪の街だが、事件に対する関心を捨てて社長に怯えている私も、すっかりこの街の一部なのだろう。
「シグルズが見えてきたぞ。ふふっ、これはいい光景だ。あの長蛇の列、まるで金魚のフンではないか」
「微妙に言葉選びが間違っていますけど、キャンセル待ちにしては異常な行列ですね」
「隙があれば押し入ってやろうという考えだろう。まったく、礼儀を知らんバカ共だ」
「……まあ、五年も予約待ちなら、強硬手段に出たくもなりますよ」
ましてやここは、そういう手段しか知らない生き物が多い街だ。
行列を蹴散らして、店内の客を殺戮して、無理矢理に料理を出させようとする、とびきりのバカがいてもおかしくない。
03
チョコレート色の扉を開くと、店内の凄まじい血気に目を見張った。
テーブルとテーブルの隙間をステップでも踏むように移動する、異形のホールスタッフたち。客も客で異形ばかり。角や牙、複数の頭部や手足を持つ者、ここでは五体で満足している人間が奇妙に映る。
「お待ちしておりました。ささっ、こちらへどうぞ」
身体は屈強な人間そのもの、しかし頭部はハムスターのウェイターが、社長の前で深々と腰を折った。
案内されたのは、カウンター席でもホール席でもなく、騒音から少し離れた唯一の半個室だった。あからさまなVIP待遇、流石は異界の貴族である。
「料理は向こうに一任しているが、ドリンクは来てから選ぼうと思ってな」
言いながら、社長はメニュー表をテーブルの中央に広げた。私は身を乗り出して、ドリンクの欄に目を通す。
流石は異界の食材を取り扱う店だ。ビールやチューハイなどの王道メニューにまぎれて、見たこともないお酒が記載されている。
「せっかくなので異界のお酒を飲みたいんですけど、何かオススメとかありますか?」
「それならば、サラマンダー酒がいいだろう。運が良ければ、火を吹く能力が身に付くぞ」
「あ、あの……せめて、普通に飲めるものをお願いします」
すると、社長は面倒くさそうに息をついた。いや、その反応はおかしい。
「マンドラゴラ酒のオレンジジュース割りはどうだ。飲みやすく、味もクセがない。人間にはちょうどいいだろう」
「……でも、運が良いと何かあるんですよね?」
質問に答えることなく、社長は通りがかったウェイトレスを呼び止めてドリンクを注文した。社長をジッと半眼で睨みつけるが、まるで気にする素振りを見せない。どこから取り出したのか、気取った装飾が施された煙管をふかして、すっかりリラックスモードである。
私はメニュー表や店内の様相を眺めながら、適当に時間を潰す。程なくして、
「失礼します。お待たせしました、コーラフロートとマンドラゴラ酒のオレンジジュース割りです」
ウェイトレスはドリンクをテーブルに置くと、早々と一礼し踵を返した。
マンドラゴラ酒のオレンジジュース割り。見た目はただのオレンジジュースだが、ほんわりとアルコール臭が漂う。別段変わったところない。
「ふふっ。ふふふっ。人間の発想は、時として悪魔的だ。コーラにアイスを加えるなど、一体誰がこんなことを……っ!」
地球の飲み物の中で、何よりもコーラを崇拝する社長。コーラフロートという子供のヒーローのような味覚にご満悦である。
多少の不安はあるが、私もコップに口をつけた。
オレンジジュース特有の酸味、抜けるような甘味。マンドラゴラ酒によるものか、爽やかな苦味も感じる。何だろう、これは。オレンジ・ブロッサムのような、ジン系のカクテルによく似ている。
「異界のお酒なので、もっとエグイものを想像していましたけど、これは全然まともですね」
「飲みやすいと最初に言っただろう。マンドラゴラは疲労によく効く。今日までの疲れを癒し、週明けからも頑張ってくれ」
そうやわらかな笑みを浮かべ、社長は自分のグラスを持ち乾杯を求めた。
少々順序が違うような気はするが、そんなことはどうでもいい。どうやら私は、社長を少し誤解していたようだ。
「は、はいっ」
グラスとグラスが触れ合い、カランと心地いい音が鳴った。
一瞬、社長と視線が絡む。私は妙な恥ずかしさを覚え、その瞳から逃れるようにグラスの中身を飲み干した。
「ああ、言い忘れたが――」
と、社長は不気味に口角を上げて、
「マンドラゴラ酒を飲むと、運が良ければ身体からマンドラゴラが生えてくるそうだ」
悪びれる様子もなく、むしろ嬉々として話す化け物。
もう社長のオススメには頼らないと、私は堅く心に誓った。
04
何だこれ、と上手く反応出来なかった。
ビールと共に届いた小鉢の中には、青黒い物体が収まっていた。スライムのバター醤油炒めらしい。
「どうした、食べないのか。これは絶品だぞ」
「い、いや……大丈夫です、食べます……っ」
アメリカの悪趣味なお菓子のような見た目をしておきながら、生意気にも匂いだけは達者だ。流石はバターと醤油、この二つのおかげで好奇心までは死んでいない
箸で摘まみ持ち上げる。ぷるぷると揺れる、青黒いそれ。ホルモンや牛スジだと思えば、何てことはないのだが。
「……っ、あむっ」
スライムを舌の上に放る。
味は……うん、悪くない。バターと醤油の味しかしないのだから、当然なのだが。
「ぅっ……んっ、っ」
気持ちを固め、噛み締めた。
予想していた通り、食感はホルモンのようだ。ただ、コリコリというわけではなく、マルチョウのようなジューシーさを感じる。
スライム自体の味は、ホタテによく似ている。噛めば噛むほど海の香りが広がり、バター醤油がそれを引き立てる。
「こ、こふぇ、おいひいれふっ」
不気味だと思っていた物体が、途端に最高の肴に見えてきた。これはいい、ビールの苦味とよく合う。
ふと、社長に目をやった。社長はスライムに七味唐辛子をかけて食べている。
物は試し。私も七味唐辛子をかけてみると、青と黒に鮮やかな赤が加わり、これまた異様な色彩が完成した。
「んっ、ぅ、っん。ほぉ、こへもなはなはっ」
鋭い辛味が甘じょっぱさを締め付け、キレのある味わいに変わった。
この方が肴としての精度は高い。ビールが水のように喉を通る。
「失礼ですけど……何か、意外です。異界の食べ物が、こんなに美味しいなんて」
「いや、それは少し違う。この世界の調理法、特に調味料がなければ、スライムを酒のあてになど出来ない。悲しいことに、異界の食材はどれも個性的なのだ」
個性という言葉で誤魔化しているが、それほど美味しくないと言いたいのだろう。
何かの番組で、異界では地球産の冷凍食品がよく売れると聞いた。現地の食べ物ではなく、ほかほかのレンチン料理が食卓に並ぶ様を想像すると、言いようのない物悲しさを感じる。
「……ん? ということは、ドラゴンってそんなに美味しくないんですか?」
そう尋ねると、社長は不敵な笑みを浮かべて、三杯目のコーラフロートを掻っ食らった。
05
「お待たせしました。こちら、ドラゴンのテールスープです。お肉の方が大変お熱くなっておりますので、お気をつけてお召し上がりください」
ドシン、と中華鍋のような器がテーブルの中心に置かれた。
既視感のある白濁色のスープ。器のど真ん中に座り込む巨大な肉の塊。あまりの迫力に、眠っていた子供心が再燃する。
「ドラゴンなど中々味わえるものではない。さあ、遠慮などせず――」
社長の言葉を途中でシャットアウトし、私は念願のドラゴン料理に意識を向けた。
まずは匂い。……うん、何だろう。生臭いというか、獣臭いというか。
ともあれ、大切なのは味だ。
「ふぅ、ふぅー。……ずずっ」
スープを取り皿によそい、早速一口すすった。
瞬間、今まで抱いていたドラゴンへの幻想が崩落した。
べっとりと脂が口内を占拠し、形容し難い獣臭さが鼻腔を這いずり回る。美味しいとか不味いとか、そういう次元の話ではない。
「こ、これが、ドラゴンですか? 人々を五年も待たせる……あのドラゴン?」
「そうだ。言っただろう、異界の食材はどれも個性的なのだ」
個性的どころの話ではない。
「確かに酷い味だが……この肉は、食べることそのものに意味があるのだ。決して味わうものではない」
そう言って、社長はフォークで肉塊を丸ごと持ち上げると、ガパリと大きく開いた口で頬張った。ゴリュゴリュと、豪快な音が響く。骨まで噛み砕いているらしい。
「ドラゴンとはすなわち、悪の象徴であり力の権化だ。それを食すことは、その両方を制したということ。貴君には理解出来ないと思うが、吾輩たちにとってこれは一年の無病息災を願う、まあ儀式のようなものなのだ」
改めて、店内を見回す。
なるほど。これで、客が異界人ばかりの理由が分かった。
「……ね、ねえ、これ」
「うん……ちょっと、これは……」
そんな会話を交わしていたのか、視線の先の人間のカップルは苦い表情を浮かべ、静かに席を立った。看板商品であるところのドラゴンが美味しくないため、人間の客は早々に退散してしまうのだろう。
「しかし、気を落とすことはない」
社長は残ったスープ全てを飲み干し、口の周りを手の甲で拭い言った。
「誰も彼もがドラゴンに惹かれて盲目的になっているが、この店の名物は他にある。シグルズがこの土地に出店したのは、その食材を扱うためと言っても過言ではない」
「そ、その食材というのは……?」
けふっと満足そうに曖気を漏らし、背もたれに体重を預ける社長。
コーラフロートにテールスープ。もう社長の胃袋はたぷたぷのはずだが、それでもなお食べたいものがある。まだ見ぬ異界の食に、私の胃袋は好奇心に鳴く。
「――貴君は、神を喰ったことはあるか?」
06
ガタガタ。ガタガタ。禍々しい漆黒のクロッシュが、一定の間隔で揺れ動く。中の料理を抑えつけているように。
「あの、これ……?」
「「「クラーケンのステーキです」」」
私の問いに、三つ首のウェイトレスは口を揃えて言った。
「「「暴れ出す恐れがありますので、お気をつけください」」」
「あ、暴れ、出す?」
そう聞き返すも、ウェイトレスは忙しそうに踵を返し、パタパタと次の仕事へ向かった。
「どうした。開けないのか」
「しゃ、社長から開けてくださいよ。私はほら、部下ですし、年下なので。年功序列に従うべきです」
「なるほど。悪しき文化を今なお守り通すとは典型的な虫けらだな。仕方がない。文化の守り人たる貴君のため、ここは吾輩から――」
「ちょ、待ってください。私から開けます。開けますからっ」
「ん、そうか? それならば仕方ない。上司を差し置いて、先にメインディッシュに手を付けるがいい。この世間知らずめ」
いつか殺してやる、と心の中で何度も唱えながら。
特に警戒することなく、料理と対面した。
「……た、タコ?」
真っ白な皿の中央には、手のひらサイズほどのタコ足が鎮座していた。
しかも、ただのタコ足ではない。ほうれん草のソースに三日三晩浸したかのような、奇妙なほど真緑なのだ。
匂いは……うん、悪くない。海鮮のような、それでいて肉のような、とにかく食欲を煽る匂いだ。カビているわけではないらしい。
「――ッ⁉」
瞬間、タコ足の先端が勢いよく伸びた。私を貫き殺すように。
不思議と時間の流れが遅い。迫り来るタコ足、それでも身体は動かない。
どうすることも出来ず、ただ針のように尖った先端を見つめた。あれに刺されたら痛いだろうな、と自分でも驚くほど呑気なことを夢想していると、
「うわっ!」
右足を何かに取られ、もの凄い力でテーブルの下へ引きずり込まれた。一瞬遅れ、タコ足が私の頭上を通過し、後ろの壁に突き刺さる。
床に尻もちをついた私は、自分の右足を取ったのが社長の尻尾だと気づいた。真っ赤な尻尾は右足首に跡を残し、するすると社長の元へ帰ってゆく。
「あ……ありがとう、ございます」
席に戻りながら言うと、社長はいつもの声音で「気にするな」と返した。
「それよりも、ほら、早く食え。これだけ活きのいいクラーケンだ。さぞかし美味であろう」
私は壁に刺さったタコ足を抜き、そっと皿に戻した。
もう動く様子はないが、だからといって、食べたいという気力も湧かない。胃の中で暴れ回らないかと、恐怖ばかりが表情に出る。
「どうした。これは貴重なのだぞ。この一皿だけで、十万円以上するのだからな」
「じゅ、十万円⁉ この、た、タコ足が、ですかっ⁉」
見たところ、二百グラムもないだろう。
大体一五〇グラムだとして、十万円をそれで割ったら……う、うわぁ、急にお金の塊に見えてきた。いつも食べている、ブラジル産の鶏肉とは大違いである。
そもそも、ここは価格設定が庶民向きのガストロパブではなかったのか。
これではまるで、高級レストランのコースメニューである。
「クラーケンとは、スライムやドラゴンのような化け物共の王の一角だ。それを神と崇める者は多く、調理して食べようものなら信者の怒りを買うことになる。だからこそ、この場でしか食すことが許されないのだ」
「信仰の対象なら、そっちで食べようとこっちで食べようと、たいして変わらないと思いますけど……」
「奴らが信じる神の目は、この地まで届かないそうだ。吾輩にも理解し難いが、そういうことなのだから仕方ない」
それ以前に、食用のために獲ることは大丈夫なのだろうか。
いや、これにもきっと、何かカラクリがあるのだろう。ドラゴンを狩る上で事故が起こり、とか、そういう類の胡散臭いカラクリが。
「……で、どういう神様なんですか? タコの神様、とか?」
「海の神……まあ吾輩から言わせればただの不細工ダコでしかないのだが、人魚やシーサーペント共を束ねているらしい。見てくれはアレだが、味は保証するぞ」
正直、まだ食べる気は回復し切っていないが、弱虫な胃袋に鞭を打ってナイフとフォークを取った。震える手で一口大に切り、目線の高さまで持ち上げる。
「……っ」
息を飲む。
こころなしか、まだ少し動いているような。
まだ全ての不安を払拭し切れていないが、私はクトゥルフのステーキに食らいついた。
「んぅうッ!」
噛み締めた途端、景色が変わった。
蒼い。少し寒い。泡の音、波の音まで。
な、何だこれ。ここはまだ、店の中のはず。目の前を魚の群れが横切るわけがない。
見上げると、そこには天の川のような、光の大群が輝きを放っていた。それはとても綺麗で、いつまで見ていても飽きることなく――。
「はっ⁉」
気がつくと、私は店の天井を仰いでいた。
視界は良好。寒さもなく、おかしな音も聞こえない。
「どうだ、感想は」
「感想って……あの、今のは幻覚ですか? 海の中にいたような、そんな気がして」
「幻覚とは、少しばかり違う。クラーケンの血肉に刻まれた、海の記憶だ」
「海の記憶?」と聞き返す。
社長は自分の皿のクロッシュを開け、豪快に半分に切り分けると、フォークに刺した方を持ち上げた。
「巻貝に耳を当てると、波の音が聞こえるというだろう。これは、その上位互換のようなもの。海の色彩、温度、音、そこに暮らす生物……あらゆるものを再現する」
社長は大口を開け、クトゥルフのステーキを頬張った。憎たらしい表情が、によぉんと溶けた餅のように緩む。
「視覚や触覚だけに惑わされるな。海を味わうのだ、海を」
海を、味わう。
グルメ番組で何万回と聞いた台詞だが、海の記憶とやらを前にして言われると、どことなく重みがある。
「……わ、分かりました」
胡散臭さこそあるが、あの社長の顔がここまでだらしなくなるのだから、単純に美味しいだけでは済まないのだろう。
贅沢に、少し大き目に切って、口へ運ぶ。
「はむっ。んむ、ぅぐ……」
目に映るのは、暗闇。
心静まる、蒼海の一節。
ぐー、ぱー。ぐー、ぱー。両手の指を動かすと、水を掴む感触がよく分かる。
そして、舌の上にじわぁと広がる、白身魚を食べているような、さっぱりとした旨味。数秒もすると、トロによく似たこってり系の味に変わり、間髪入れずに甘海老に近いまろやかな甘味が口内を満たす。
「んふぅう……!!」
社長の言葉の意味が分かった。
そうか。そういうことか。
これ一口が海鮮の盛り合わせに相当し、それでいて一波の波であり、一掬いの海水でもある。あらゆる海の味覚を内包しているからこそ、海の記憶。それは一秒たりとも、私の舌を飽きさせることがない。
「お、おいひぃ! しゃひょー、こへっ」
かなりごたごたしており、落ち着いて味わっていられないのが玉に瑕だが、こんなに美味しいものは初めて食べた。
「とっても、おいひいですっ!」
まぶたを開けると、そこは既に海の中ではなく、騒がしい店内に戻っていた。
社長は満足げな笑みを浮かべ、煙管をふかして煙を燻らす。
「うむ。それならば、よいのだ」
そう煙混じりに言った社長の表情には、不思議と優し気な色が沁みていた。
07
「今日はご馳走様でした」
私だけで十万円以上は飲み食いしたはずだが、一円も支払うことはなかった。社長曰く、富裕層の余裕だそうだ。
「よい飲み会であった。吾輩はこれから飲み直すが、貴君はどうする」
「あ、私はこれで失礼します。明日は友人と出かけるので」
「そうか。ならば……ほら、持って行け」
私の手に一万円札を握らせ、社長は颯爽と去って行った。
「あ、ありがとうございますっ」
そう言うと、社長はなぜか肩を震わせた。クククと喉を鳴らして、不気味な笑みを浮かべている。
何かの悪巧みをしているのだと思うが、こうして別れた今、気にしたところで仕方がない。早く帰って、早く寝よう。
「さて……っと」
未だ列を作る人々を尻目に、私は店の前でタクシーを拾った。
シートに背を預け、大きく息をついた。実際、社長のことは嫌いではないが、一緒にいると疲労が溜まる。
「お客さん、どちらまで」
「ああ、えっと――」
行き先を伝えると、タクシーはゆっくりと動き出した。
眠らない異界タウン。流れる景色を眺めながら、帰宅後のことを思い見る。
ふと、ルームミラーに視線をやった。運転手さんと目が合い、言いようのない微妙な空気が生まれる。
「な、何か?」
「すみません。お客さんの頭のものが気になって、つい。もしかして、異界の方ですか?」
「はい? いや、普通の人間ですけど」
「はあ、そうですか。失礼しました」
頭に何かついているのだろうかと、右手で旋毛のあたりを撫でた。
ふさっ、と何かが手のひらに当たった。
嫌な予感が全身を駆け巡り、ぶわぁと背中から冷たい汗が噴き出す。
「あっ、あ、ああ、ああああぁ……っ!」
窓に映る自分の顔。マンドラゴラ……と思しき葉の生えた頭。
今になって社長の不気味な笑みの理由を理解し、私は狭い車内を絶叫で満たした。
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