第2話


 安宿の木を組んだ天井に、蝋燭の光が揺れた。

 かつてはそこに女を何人も連れ込み、朝まで情事をむさぼったシュルクッフも、もはやその若さを失っていた。だが、さらに若い少年時代のようなときめきをもって、ベッドの上の若者を見つめていた。

 すっと通った鼻筋の影が、青白い顔を無表情に見せた。男娼にしては、清廉な美しさ。触れるのが恐ろしいほどだった。

 エトワールは、真っ赤なヴァンのグラスをとり、まずは飲むようにすすめた。一口飲めば上着をとり、もう一口飲めば靴を抜いた。そして、シュルクッフが三口目を飲むと、やっと環に手を掛けた。

 銀色の星が輝いた。


「おお……」


 と、シュルクッフは声を上げた。そして、恐る恐る手を伸ばした。

 美しいというよりも痛々しかった。

 額に刺さったその球体は、既に皮膚と一体になり、触れるとややひんやりとした。額には引き攣ったような傷が走り、まるで星の煌めきのようだった。

 何者かが、彼の額をかち割って、そこに銀の玉を埋め込んだに違いない。


「いったいなぜ、そのような……」


 エトワールの上に体を乗せながらも、シュルクッフは、その体以上に星の理由に興味を引かれた。


「知りたいですか?」


 海の青い目が、シュルクッフの心を荒波のように逆立てた。


「知りたい」


「……それは、長い話になります」


 エトワールは、シュルクッフを引き寄せるようにして抱きしめ、耳元で話し始めた。



 アングルテールの小さな村に、かつて黄金の髪を持つ美しい女がいた。海を移したような青い瞳で、多くの男を魅了した。

 だが、彼女が不幸だったのは、南からやってきた盗賊の首領に、その美貌を気に入られてしまったことだ。もしも、興味が薄ければ、男はその場で女を犯し、打ち捨てるか、殺すかして、去っただろう。

 男は船で渡ってきた。そして船で女を連れ去り、小さな島に幽閉した。やはり気まぐれで連れてきた中年女に世話をさせ、時々思い出したように島にやってきては、好き勝手放題にもてあそんだ。

 男がずっと海で生きたなら、風のように渡って行き、何に執着することもなく、その日のままに生きたのだろう。女も適当に生かしておいたかも知れない。

 だが、男はやがて公の権力を身につけ始めた。すると金や女への欲よりも栄誉のほうが惜しくなり、盗んだ物を恥じるようになった。

 女に子供ができると、その存在が世に知られるのを恐れた。そして、女が出産を間近にした頃、妻にすべてが知られる恐怖から、拳銃で女を撃ち殺した。

 結局、それが男の最後の悪事となった。

 男はその後、島に行く事も、船に乗る事もなくなり、マクロウ・ド・リルの良き人間として、現在に至っている。


「その子供が私なのです」


 そして、その男こそ……。

 シュルクッフは、耳元の吐息のような声に、震えた。

 思えば、このエトワールは、あまりにアングルテールの女に似ていた。だから、惹かれたとも言えたのだが……。

 慌てて体を起こそうとしたが、エトワールの白い腕が首に絡み付き、離れなかった。いくら老いたとはいえ、この細腕を振り払えないほどではないのに。

 悪寒をおぼえて、シュルクッフは呟いた。


「だが、女は死んだ」


「ええ、女は死にました。でも、子供は生き残ったのです」


 世話役は、腹に一発の銃弾を受けて苦しんでいる女の姿に気が動転した。どういうわけか、弾さえ腹から抜けば女が生き返ると信じ、ナイフで女の腹を裂いた。

 すると、腹の中から子供が産声を上げて出てきたという。


 神の奇跡か、悪魔の業か――。

 世話役の女も他の者も、その奇跡に驚き、思わず神に祈ったのだった。


「あなたが撃ち込んだ弾は、私の額に食い込んで止まりました。このような奇跡がありましょうか?」


 最後の悪事の証拠が、白い滑らかな額を割って、目の前で輝いている。

 青い瞳は、今や荒れ狂う波のように、シュルクッフを飲み込もうとしていた。

 心臓が止まるような衝撃。シュルクッフの体は震え、重たくなって、エトワールの上で硬くなっていた。額からは冷たい汗が滴り落ち、呼吸は激しく、苦しくなった。


「毒のせいです」


 エトワールは冷たく言うと、硬くなりつつあるシュルクッフの体を弾き飛ばし、立ち上がった。

 ヴァンを三口。

 息子は父親の邪な愛の餌食になるつもりはなかった。殺される側の父親は、息子への愛を感じる間も与えられなかった。


「悪魔だ。……そんな、奇跡が起きるわけ……な」


 死んだ母親から生まれるのも、額を撃たれて生きているのも、ありえない話。それぞ、悪魔との取引で命をつないだにちがいない。


「悪魔の仕業? あなたのような悪人が、この世で平穏な晩年を迎えること、それがはたして神のご意志でしょうか?」


 エトワールは服を整えながら、ベッドの上でのたうち回るシュルクッフを窓硝子に映し見た。

 悪に正義の刃を与えるために……。


「私が生き残ったのは、神の思し召しです」


 ベッドがガタガタと揺れる。痙攣し、泡を吹きながら、シュルクッフはもだえ続けた。

 そして、エトワールが靴を履き終わる頃、ベッドの揺れは静かになった。

 目をむき、口を大きく広げ、土色になった父親の顔を、エトワールは最後に下目で見つめた。

 そして、剣をとり、悪人の額に正義の十字の星を刻んだ。



 これほど悲惨な死に方だったのに、シュルクッフは病死とされ、英雄扱いで葬られた。

 大聖堂の鐘が鳴り、石畳の細い道を黒を纏った人々が重い足を引きずって歩いた。彼の墓には『アングルテールとの戦いで栄光を得、その後、マクロウ・ド・リルのために貢献した』と刻まれた。

 かつてこの地は、修道僧が開いた祈りの地。彼は天に召されるであろう、と人々は彼の死を悼み、口々に言った。

 城塞の上のシュルクッフの銅像には、白い花が掛けられた。その像が指差した北に向け、何発も弔砲が撃たれた。


 ちょうどその頃、像が指差した海の上、エトワールは潮風を受けていた。アングルテールへ向かう船旅の途中だった。

 空に響く音は、大砲ではなく雷だ。嵐が迫っている。

 だが、彼はしばらく甲板に留まり、雨が落ちるまでそこにいた。


 ――星を読まなくなったコルセールの死は、神の思し召しか、悪魔の仕業か?


 エトワールにもわからない。

 極悪人の死と英雄の死が、あまり変わらないように、違いはないのかも知れない。

 銀の環を外し、額の星に触れると、ひんやりとした。


「愚かなだな。この星が……鉛の弾丸であるはずがない」


 エトワールは呟いた。

 彼を取り上げた養母は狂っていた。彼女は、死者から生まれた赤子を恐れ、額に魔除けの銀の玉を埋め込んだのだ。

 だが、エトワールは、それを長年、本当に父が撃ち込んだ銃弾だと信じた。そして、父を憎み続け、復讐を誓って大人になった。

 長じて彼が真っ先に殺したのは、養母だった。

 真実を知ったとたん、エトワールは剣を抜いた。そして、たったの一突きで彼女の命を奪うと、ふくれた白い腹の上に、正義の十字の星を描いた。


 彼女が狂ってさえいなければ、母は死なずに済んだだろう。

 エトワールも死者からは生まれなかった。


 シュルクッフは、女を撃ち殺すには、すでに善人過ぎたのだ。

 あれほど悪行を重ね、人の命を何とも思わなかった男が……である。震える手で撃った銃弾は、女の脇腹をかすめて壁に食い込み、彼は悲鳴を上げてその場を逃げ出した。

 その鉛の弾は、つぶれて星の形となり、今はエトワールの手の中にある。


 ――真実なんてどうでもいい。


 人は誰しも、死によってしかあがなえない罪を犯して生きているのだから。

 そして、ただ……正義のために、死の星を刻むこと。それだけが、死者から生まれた自身の使命――命の奇跡だと。

 アングルテールの刺客となった今、エトワールの向かう先には、常に死の星が煌めいている。




 マクロウ・ド・リルは、その後もアングルテールの国を脅かした。そして、フランスとアングルテールの間で条約が結ばれてからは、東方貿易に手を伸ばし、富を蓄積した。

 さて、我々が彼の地を行けば、今もマクロウ・ド・リル繁栄の面影を見る事ができる。北の海に面した城塞には、英雄シュルクッフの像が北を指差して立ち続けている。

 だが、その指の先――エトワールと呼ばれた若者が、その後、どのような人生を歩んだのか、誰も知らない。



=Fin=

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エトワール わたなべ りえ @riehime

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