エトワール

わたなべ りえ

第1話


 マクロウ・ド・リルの地は、遥か昔に異国の修道僧が開いたという。北海の荒波と歴史に翻弄され、その様相を変えていった。

 海に突き出した半島は、当初、敬虔な祈りの地だった。だが、利益を生むとわかれば、集まるのが人の常。人々がこの地形の利を放っておくことなく、やがて修道の場から港町へと変貌した。そして、海を挿んで敵国アングルテールと隣り合っていることから、堅固な城塞が張り巡らされた。

 さらに時代がすすむと、悪党がはびこる地と化した。海賊どもが街を占拠し、居を構えたのだ。そして、近くを航行する船を怯えさせるようになった。


 だが、その顔も、やがて時代とともに変化することになる。



 北海の風が吹き付ける城塞の上に、人々が集まっていた。

 華やかな衣装をまとった人々が、一人の男に声をかけ、賛辞していた。シャンパンが注がれたグラスがあちらこちらで持ちあげられ、「乾杯!」の声がここそこであがる。声は潮風に乗って、海を渡った。

 シュルクッフは満足していた。人々の声に応え、自らのグラスも高々と上げた。そのグラスの背後には、建造されたばかりの彼の銅像が、威風堂々と立っていた。

 五十歳にして、いまやシュルクッフはこの都市の支配者だった。

 彼の銅像が指差す向こうは北――北極星。いや、アングルテールの方向だ。

 像はまだ三十代の猛々しいシュルクッフであり、敵国に恐れられた頃の勇者の姿である。誰もが尊敬し、崇拝する、今の穏やかな彼ではない。

 だが、この像にはほんの少しの偽りがある。誇り高い銅像の顔は、確かにそっくりそのままであったが、当時の彼の心までは表していない。彼は、傲慢で乱暴で、心根の腐った男だった。


 若かりし頃、シュルクッフは海賊だった。

 冷たい海の上で星を読み、商船を襲い、強奪の限りを尽くした。時に、対岸の村を襲い、女を奪い、火をつけた。金のためなら何でもやった。

 が、時代は、シュルクッフを英雄にしたのだ。

 北海を荒し回った海賊どもの悪行は、やがて少しずつ変わってゆく。彼らはフランス王と密約を交わし、金を取って航行の安全を保障するようになったのだ。

 そして、ついには公認の海賊・コルセールとなる。

 フランス籍の船を守り、アングルテールの船を襲う。積荷はコルセールを豊かにし、敵国を経済的に追い込んだ。すべての悪行は勇ましい戦いとすり替えられ、最も獰猛な男・シュルクッフは栄誉を得た。

 不思議なもので、栄誉を得ると、人間も地も、がらりと生まれ変わってしまう。

 やがて、シュルクッフは、英雄にふさわしい品位を身につけた。

 マクロウ・ド・リルは、フランスから自治権までもぎ取り、コルセールの都として繁栄した。

 かつては荒くれ者たちの巣窟であったこの街も、今やパリでも見られぬような豪奢な建物が建ち、品の良い金持ちの街と変わったのだった。



 見慣れぬ若者が流れてきたのは、つい最近のことだった。

 港街とはいえ、元々は泥棒家業に明け暮れた城塞の都市である。美貌のよそ者は目を引いた。

 二十歳そこそこ、黄金の髪と青い瞳を持ち、額に幅広の銀の環をはめていた。黒い被り物を外すことがあっても、彼は銀の環を外すことがなかった。似合うとはいえ、何か儀礼の香りがする銀の輪は妙に異質な感じがした。

 丈の短めの上着や先の尖った革靴は、彼を金持ちの商人のようにも見せた。だが、華奢な体ではあったが、腰に差した剣は飾りではなく実用的なものであり、それなりの剣士ではないか、とも思われた。

 若者は、昼間は宿に居座り、夜は酒場に入り浸り、ただ、人を観察するだけだった。仕事も何もなさそうなのに、いつもそれなりの衣装を身につけ、宿代も飲み代もつけることなく支払った。

 どのようににぎわっても、彼はたった一人で部屋の片隅で酒を飲み、誰とも口を利かなかった。からかう者がいても相手にせず、それでいて、誰かを待っているかのように、辺りを見渡したりもした。

 やがて、この若者が男娼であるという噂が、影で囁かれるようになる。

 衣装や飲み食い代を考えても、昼に働きもしない若者が支払えるものではない。誰か、パトロンがいるのだと。しかも無口な若者は、それを否定しなかったので、噂はますます真実味を帯びて広がった。

 名乗ることのない若者は、いつしか『エトワール(星)』と呼ばれていた。

 なぜなら、銀の環で隠された額に、星が輝いているという噂がたったからだ。だが、誰が最初に彼をそう呼んだのか、その額を確認したのは誰なのか、知る者はいなかった。

 おそらく、彼と寝た者だけが、その秘密を知りえたはずである。


 シュルクッフは、別に男色趣味があったわけではない。

 彼をここまでのし上げた貴族の妻との間には、すでに三人の子を持っていた。さらに孫すらいた。剣ひとつで女子供の命を奪ってきた男も、今や家族を愛する男に変わっていたのだ。

 品格のなかった彼に、金と栄誉が、音楽や美術をたしなむことをおぼえさせた。かつて海図と睨んで過ごした彼も、今や多くの有識者と交流を結び、時に茶会やパーティーを開いて、日々を過ごしていた。

 日曜日には、街中の大聖堂に足を運び、若き日々の悪行を悔い、神に祈った。恵まれない者には施しもした。

 過去を海峡に捨て去ったように、善人となっていたのである。


 そんな彼が『エトワール』に興味を抱いたのは、額の星に興味を抱いたからかも知れない。酒場で彼を見かけてから、あの環の下にあるものが何なのか、気になって仕方がなかった。

 若者の瞳は青く、シュルクッフが若い頃に挑んだ海を思わせた。黄金の髪は、異国の血を思わせ、かつて陵辱の限りを尽くした美貌の女を思い出させた。

 そして、若者はまるでその気持ちを知っているかのように、時に熱く、時に冷たい視線で、シュルクッフをじっと見つめるのだった。それは、他の者を見るのとは全く違ったのだ。

 誘惑されている……と言ってよかった。

 シュルクッフの胸は、奇妙な不安とともに抑えがたい興味が湧きあがり、激しい鼓動となって上下した。


 ――星とは、いったいどのような物なのだろう?


 かつて潮風に乗って船を渡り、欲しい物をすべて手にしたように、彼は若者の星を欲した。

 日に日にその想いは募った。

 ついに彼は耐えきれなくなり、酒場から出てきた若者を石畳の細い路地に引き込んだ。それぐらいの遊びならば許されるだろうと、自身にいいわけして。

 月の光のない夜。

 やや白い花崗岩でできた壁は、青白く星明りで浮き上がっていた。だが、若者の表情を見るには暗すぎた。誘う女のように妖しげにも見え、また、清楚な少女のようにも見えた。

 シュルクッフは、無我夢中で若者の唇を奪い、額の環に手を掛けた。若き頃の猛々しい血が騒ぎ、一気にそれを奪おうとした。

 だが、若者の手がそれを押しとどめた。

「金」

 男娼である若者は、初めて口をきいた。

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