恋とブラスと回り道 8

 大変なことになってしまった。吹奏楽部が活動停止処分に陥った。倫太郎から紛れもなく自業自得だ、と送られてくる。這ってでも化学講義室に来い、とメッセージが続いた。

 とりあえず化学講義室まで行くと、その前で倫太郎に足止めされた。

「どうしたのよ」

「とりあえず作戦会議だ」

 こんなところで、と肩をすくめる。階段下のトイレの脇だ。うす暗くて埃っぽい。

「こんなところだがこんなところで昼飯を食うしかなかったんだよ、俺たちは」

 ああ、そりゃあ香取先生も心配しますわ。

「何を話していたの?」

「世間話だ」

「どんな感じ?」

「音楽のリコーダー上手だね、いやいや倫太郎君こそ、みたいな」

 あなたが言うんだ? と吹き出しそうになるのをぐっとこらえる。

「――上手いんだ。っていうかリコーダーは吹けるんだ」

 音楽が嫌いになったとか、実は楽器を演奏できないほどの病気とか、そういう訳でないのにはほっとした。

「いいところに気付いたな。音楽の授業では立派にリコーダーを吹いていた。技術面は秀でている。少なくとも音楽をやりたいという意思はあるんだ。吹奏楽部の中で必要とされていたのは明白で、表立っていじめだとか色恋沙汰だとか、人間関係から逃れようなんてものではないことは確かだ。きつい練習にも耐えられるほどのタフさもどうやらあるようだしな。加えて経済的な問題も成績の問題でもない」

「やっぱりそうなの?」

 家族とはうまくいっているみたいだし、吹奏楽部の人間関係については黒村さんとの態度から何となくないとは思っていたけれど、他の問題はどう説明するのだろう。

「あそこまで1年が千谷を追っかけまわし、俺の体験入部をしぶしぶ受け入れてくれるんだ、千谷には好意的だよ。女特有のギスギスした感じもなかった。家庭の事情とやらもほとんどない。その証拠が香取先生の対応だ。千谷と面談したいがために1年とは別に動いていたんだ。千谷の家に電話をかけているところも見た。おそらく彼女ですら理由が分からなかったんだろう、少なくとも成績の問題なら知っているはずだ。現に今日の昼休み俺たちのところに来たのも、今やっている面談をやりたかったためだ。

 そもそも経済的な問題を抱えているなら水野とも財布を買いに行けないだろう。やけに新しい財布を眺めているから聞いた」

 まさかそんなばれ方するとは。少しバツが悪い。でも確かに彼は高校生にしてはあの日結構な散財をしたはずだ。お金がなければおごろうと思わない。

「黒村さんたちに語った理由も嘘だよね」

 寂しい思いはないとは言わないけど、心底安心した。ちゃんと話せば、千谷君の帰る場所はある。

「そういったありきたりな理由ではないとするならば?

 気になるのが急に家での練習量が増え、楽器を持ち帰って部活に出なくなった直後、楽器を置いて部活に出なくなった。これは裏を返せば一人で練習したかった、だが途中でその練習さえもできなくなったと考えれば説明がつかないか? 重度のプレッシャーに押しつぶされそうってならコソ練では音を出せるだろうが、できないから楽器を手放そうとした。スランプか? そんなんじゃないだろう」

「うん、きっと千谷君は何とか乗り越えようと必死できっと練習する」

 倫太郎は腕時計をちらりと見る。化学講義室から誰かが出てきた。

「もういいよ」

 香取先生はこちらを一瞥すると、ばつが悪いと思ったのかツカツカと音を立ててどこかへ行ってしまった。

 入れ替わるように私たちが化学講義室に入る。

「例のものは持ってきたな?」

 倫太郎に言われて千谷君は持っていた黒いケースを机に置き、鍵を開けた。中から年季の入っていそうなトランペットが出てきた。

「こんなのだっけ?」

「学年が上がるごとに状態のいい楽器を使えるようになっているんだ。吹けるから問題ないよ。一菜ちゃんたち客席からはあんまり見えないでしょ?」

 全校集会なんかで吹奏楽部の演奏を聞く時には、私たち1年生は後ろで聞いているから最前列の人たちですら小さく見える。ましてや後ろの楽器の様子はよく分からない。

「楽器として見るなら音が出れば問題ないだろう。ただし、真鍮の塊として見るなら話は別だ。特に楽器の内側を覗いてみるといい」

 千谷君はマウスピースを外した状態で私に手渡した。中は黒ずんでいて、結構錆びている。

「これって元々は楽器店で売ってたものみたいにピカピカだったんだよね?」

「そのはずだ。ところで水野はわざわざ楽器店まで行って調べたのか?」

「ショッピングのついでに」

 少しだけ目を背けながら答える。お構いなく倫太郎は続けた。

「ところでなぜこうやって中が錆びついてしまうか分かるか?」

「ちゃんとお手入れしないから?」

「そうじゃないかな。人間の息には水分が含まれているでしょ。ちょくちょく唾抜きするし」

 千谷君は管についているふたを押して見せた。

「リコーダーだって唾がたまっておかしな音がする時があっただろう」

 倫太郎に指摘されて記憶をたどる。そういえば掃除用の棒があったような。

「中まで掃除するの?」

「いや。息を吹きかけてたまった唾をハンカチに押し出すくらいかな」

 千谷君はケースから布を取り出した。結構汚れている。

「そのハンカチは楽器専用なのか?」

「そうだよ。暗黙の了解みたいなものでね」

「そりゃそうだろうな」

 倫太郎は言った。

「そのハンカチには金属イオンが染みついているのだから」

 言われて気が付いた。当り前よね。金属の管の中を通ってきた水分がしみ込んでいるのだから。現に楽器の中がさび付いている。楽器の中で唾液に金属イオンが溶けだしていても不思議じゃない。

「へえ。じゃあ真鍮の成分は銅と亜鉛だから銅イオンと亜鉛イオンが染みついている。……それを素手で触っている」

「それだけじゃない。真鍮を鋳造する過程でスズ、鉛、ニッケルを添加しているからそれらが混ざり合っても不思議でもない」

「そういえば唇に直に触れるマウスピースって洋銀、だよね。あれは銅やニッケルの合金。マウスピースからも銅イオンやニッケルイオンが溶けだす」

「そうだ。そして人間はどうしても皮膚から汗が出る。これらは金属と反応を起こしやすいから楽器に付着した汗にも金属イオンが溶けだす」

「それって金属イオンを浴びているってことだよね」

「ああ。皮膚の浸透圧は高い」

「それって体への影響とかないの?」

「あるさ。その金属イオンに皮膚が過剰反応して皮膚炎を起こすことがある。所謂金属アレルギーだよ」

 倫太郎はそう言って千谷君の方を向いた。千谷君は、呆然と私たちを見つめている。

「金属アレルギーって、ピアスをつけていたりするとなるんじゃないの?」

 倫太郎は私の方を見てため息をつく。

「おしゃれ障害の1つと括って紹介されるからいけないんだが、特定の金属イオンに触れることによって何でもあり得る。アクセサリーはもちろん腕時計やベルトでもなる人はいる。メガネだって金属アレルギー対応のものが出ているほどだ。

 汗をかいた手で硬貨を触る機会が多い人や硬貨を直接ポケットに入れる人も注意しなければならない。硬貨は金属アレルギーを起こしやすいニッケルやスズで作られているからな。場合によってはそれらが含まれる食品を食べただけでも症状を起こす人はいる。

 千谷の場合、トランペットを吹くと唇が腫れたり、場合によっては触るだけで発疹ができたりしたんだろう?」

 千谷君の体がこわばっていくのが見て取れた。

「心当たりがあるようだな。吹奏楽をあきらめたくないから、ここに来たんだろう? 吹奏楽や音楽をやりたいという意思はあるじゃないか。

 スランプ? そんなんじゃないから俺たちに助けを求めようと思ったんだろう? となれば練習の副作用くらいしか思いつかんからな。

 サッカー、野球、テニス、その他スポーツなら分かりやすくケガと言う形になって現れてくれる。でも、吹奏楽をやって金属アレルギー、絵画や書道で腱鞘炎、もちろん俺たち化学部も薬品に対する中毒といったリスクを抱えている。文化部だって練習方法や量によってはそういった危険にさらされることはある、もっと早く気付くべきだった」

 トランペットの上達は目標じゃなくなったんだよ。

 ほの悲しい声がよみがえってくる。スランプとか本番に弱いとか、そんなものじゃない、楽器に拒否されてしまった。仲間には相談どころか一切見せられなかった。きっと誰よりも練習するひたむきな千谷君を受け入れたと思い込んでいるから。裏を返せば練習のできない千谷君に用はないってことかもしれない。絶対にそんなことないけれど。

 トランペットを諦めるしかなかったんだ。

「病院に行け。パッチテストを受けて原因物質を特定しろ。それに触れない生活をすれば多少は改善される」

 倫太郎は千谷君の肩を軽くたたいた。突然、釈然としなかったものがつながってきた気がした。

「金、銀、ステンレス、これってもしかしてイオンになりにくい金属?」

 千谷君ははっと息をのむ。やはり気付いたようだ。

「金や銀はイオンになりにくい。ステンレスは錆びない、つまり水と反応しにくい」

 千谷君の方に向き合った。

「めっきをすれば中の金属と直接触れ合わなくて済む。マウスピースのめっき、考えてみたら? 応援するよ。やっぱり千谷君の演奏、聞いてみたい」

 千谷君の顔がぱっと明るくなり、目を輝かせた。すぐにトランペットをケースにしまう。

「お世話になりました」

 深々と頭を下げて千谷君は化学講義室から出ていく。 

 楽器店の店員さんの言葉の意味に、すぐに気づいていれば。私化学部なのに。そばにいたはずなのに。

「よく知ってるね、ほんとに」

 ぽろっとつぶやいた。

「そうか? 解決したのはほとんど水野だけれど」

「え?」

 目をぱちくりさせる。

「まず理由はともかくとしても、財布を持たせたのが大きい。少なくとも財布の中に入れておけば硬貨と汗が反応することはあるまい。見たところほとんど金属を使っていない財布だったからそこも心配しなくていい。

 それに肝心の吹奏楽を続ける方法についてだが、そこまでは俺も頭が回らなかった。めっきと言う方法があったか。中の金属を守るためではなく、外と触れないようにするために」

 なんだか励まされている。

「部員集めはまたにしようか」

「ああ」

 研究ノートを広げる。さあ、今までできなかった分の実験を始めようか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

化学部の探偵 平野真咲 @HiranoShinnsaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ